史蹟・伝説」カテゴリーアーカイブ

安房・上総(千葉県南部)に残る古墳や史跡、伝説の地など

享保の打ちこわしに遭った高間伝兵衛

高間橋西向き 高間屋敷方面

▲周淮郡常代村(君津市常代)に屋敷を構えた高間傳兵衛(伝兵衛)に因む高間橋
高間橋がかかる宮下川の西、右写真方面に12町歩(発掘調査では屋敷全体は1586坪)もある高間屋敷があった。
俗謡「あんば常代高間どんすぎなりお笠で紙鳶揚げるお雪さんに見せよと紙鳶揚げる」は敷地内の4反歩もの大きな池に屋根船を浮かべて愛妻(もしくは妾)を乗せ、舟から紙鳶(たこ)を揚げて喜ばせたという豪勢な様子を歌ったものと伝わる。
※上総国(かずさ、千葉県)周淮(すえ)郡周南(すなみ)村は明治22年の町村制施行で常代(とこしろ)村等周辺の村々が合併。その後周淮郡は君津(きみつ)郡となる

 

高間伝兵衛は、米将軍と呼ばれ享保の改革を行った第8代将軍徳川吉宗、将軍を支え江戸の町から米価引下げの懇願を引受ける町奉行大岡越前守忠相らのもとで米方役に任命され米価調整を担った豪商である。
※米方は御蔵渡り米を領査し、札旦那御入米拂米を定め、請取方賈方に取り扱わせ指図し、米代金を領収する。
米価が上がれば手持ちの米を安く売り、米価が下がれば大量に買い入れることで相場を安定させた。
武士の役人だけでは捌けず、伝兵衛のような商才ある町人を抜擢したのだろう

元禄16年(1703)6月付けで周淮郡(君津市)の猪原村と市場村の名主が伝兵衛に宛てた請求書が残されていることから、初代から数代の間の伝兵衛(代々「伝兵衛」を名乗っていた)は周淮で米穀を扱い、年貢・俸禄米を担保にした貸付やを行っていたと推測されている。
享保(1716~)初期には江戸に出店し、日本橋伊勢町(東京都中央区日本橋本町1丁目。橋の日本橋の東)に24棟の米蔵(出入口が1棟に2つ有り、いろはの48組の符号がついていたためか48棟の記述も多い)を持ち、側の本船町に「高間河岸」を設け、て大いに繁盛した。

江戸橋 木更津河岸と高間河岸

高間河岸の位置と現在の江戸橋
日本橋と下手の本船町にかかる江戸橋との間の南岸の土手倉(防火のため東西二町半に、石を畳揚げて屋根で覆った封疆蔵が置かれていた)が並ぶ四日市の西側に幕府に認められた木更津河岸があり、廻船の五大力船(ごだいりき。木更津船)が行き交っていた。上総との運送が盛んな所である。
※現在の江戸橋は昭和2年の昭和通り開設で90m程上流に移っている

 

享保15年(1730)9月12日、豊年が続き米価の下落を止めるため幕府は伝兵衛他8人の米殻商に上方米(かみがたまい)の独占取引権を与え買入れされる。

享保16年(1731)に幕府は米殻商へ安売りを禁じる。
7月に幕府は米方役の伝兵衛を大坂に派遣し買米(かいまい。幕府の買い上げ)、二付銀子を被下。

享保17年(1732)享保の大飢饉。夏に西日本が冷害に見舞われ蝗が大発生し、翌年まで餓死者が相次ぐ。
幕府が昨年買入れた米や東国産の米を西国に送り救援したため江戸でも米不足となって米価が上がり、庶民が困窮した。

享保18年(1733)1月23日、伝兵衛は高騰した米価を下げるため幕府に安価で備蓄米二万石を府下に売りに出すことを願い出て、許される。

しかし江戸市人は「米価が昂騰したのは、幕府と癒着した米商の高間傳兵衛が府内の米を大量に買占めて蓄えているせいだ」と噂を立てた。

世相を伝兵衛と大岡越前にかけた狂歌

「米高間 壱升貮合で粥にたき
 大岡食はぬ たった越前」

米が高く(高間)て銭百文では一升二合しか買えないのでお粥にしたが
多く(大岡)食べられず、たった一膳(越前)だけだ

実際は伝兵衛の備蓄は米価調整のためであり、23日の行動からすると私欲で溜め込んでいたわけではなかったが、米方役として米価を左右し江戸吉原を3日間貸切るという豪遊も伝わる富んだ伝兵衛に対して庶民は「私欲で米穀を買占め高値で売っている」と疑っていたようだ。

そして26日の夜、町民達が1700人あまり(4千人と記すものもある)集まり党を結び、伝兵衛の本船町の店(たな)を襲撃して打ちこわしを決行。家財は砕かれて前の川へ捨てられた。

町奉行が属吏等を出動させてようやく騒動を鎮め、打ちこわしを先導した首魁を捕らえた。
首魁4人のうち1人を重遠島、3人を重追放とした。

この日、高間一家は母の住む上総周南の高間屋敷に居たため暴動に直面するのを免れた。
伝兵衛は打ち壊しに遭いながらも翌月には、米二万石を五升安で売却することを上申している。

…この高間騒動は江戸で初めての打ちこわしともいわれる。打ちこわしは幕府権力への反抗と悪徳商人の摘発を目的にしたため、現代の時代劇などでは伝兵衛が噂通りの悪い商人として描かれることが多い。
また講談「姐妃の於百」歌舞伎「善悪両面児手柏」等で毒婦として着色されたお百は『秋田杉直物語』で、お百=おりつは宝暦7年(1758)の秋田騒動で夫が仕置きとなった後に、高間伝兵衛の甥の高間磯右衛門の妾になったとする。

 

享保20年(1735)7月19に伝兵衛が病死。代替わり上申。
11月に新しい代の高間伝兵衛が米方役に任命される。※以降の記事は跡を継いだ伝兵衛の事

延享元年(1744)米価が下落し、米価引上げのため107人の米殻商に買米を10等級に分けて割り当てた。伝兵衛は最高等級の5万石である。

延享4年(1747)播磨明石藩蔵元となる。

この頃財政難の播磨姫路藩の松平家は「姫路藩の大坂廻米の売却を許す」条件で伝兵衛に融資させていたが、松平家が条件を一方的に破り、伝兵衛の姫路藩蔵元役を罷免し蔵元制度(専売制度)そのものを廃止するに至ったとされる。

寛延2年(1749)11月12日、伝兵衛は米方役辞任。

その後、天保3年(1832)から嘉永(1848~)頃、伝兵衛と分家の伝右衛門(江戸小網町一丁目に店を構えていた。小網町の河岸も房州への海運が盛んだった)は武州川越藩松平家の御用高として仕えた。伝兵衛は20人扶持があてがわれた。

 

しかし明治になって諸大名へ貸付けていた分が回収できなくなり経営不振に陥り、高間屋敷は親族の松本氏の名義となり母屋は青堀(富津市)方面の人に売却。
表の平治門は大正3年頃に周南村(君津市大山野)の渡辺由太郎氏に払い下げ、長屋門も改築となった。

 

高間家の菩提寺は貞元字八幡所の豊山派満隆寺(過去帳に伝右衛門等記載)
墓は常代の共同墓地。墓には丸に葉柏の家紋が刻まれている。

参考図書
・『享保撰要類集』
・『東京市史稿 産業篇第17
・『国史大辞典7』土肥鑑高「江戸の米屋」「正米商」
・『君津郡誌
・『コンサイス日本人名事典
・幸田成友『日本経済史研究
・『列侯深秘録
・『有徳院殿御実紀』
・古屋野正伍『都市居住における適応技術の展開』
・君津市文化協会『呦々4』
・西上総文化会『西上総文化会会報53』
・君津郡市文化財センター『年報11』
・『会報21』菱田忠義「豪商高間伝兵衛関係の文書」
・『房総文化18』『常代遺跡群』『すなみふるさと誌』
・『江戸名所図会』

幕末の佐貫藩

佐貫城址 佐貫城跡案内板

佐貫城跡の入口
上総国天羽郡佐貫(現在の千葉県富津市)の地は康正2年(1456)に真里谷武田氏が領有し、城(亀城)を文亀・永正年間(1501~21)に築城したとされます。※文安年間に長尾氏、応永年間に武田氏の築城説有
天文年間(1532~55)に里見氏の居城となり、一時は対岸の北条氏に勢力を後退させられますが、永禄10年(1567)の三舟山合戦で里見義弘方が勝利して子梅王丸が入城します。

天正18年(1590)徳川の支配地となってからは徳川家臣の内藤家長が城主となります。
政長忠興と続いて内藤家は元和8年(1622)に陸奥国磐城平藩(いわきたいら。福島県)へ転封となります。

10月に松平忠重(桜井松平氏)が入りますが寛永10年(1633)に駿河田中城へ転封となり、翌年から佐貫領は幕府天領として幕府代官熊沢佐衛門佐が支配します。

寛永16年(1639)より能見(のみ)松平氏の松平勝隆(寺社奉行兼奏者番)が城主となり、次の重治が貞享元年(1684)に会津若松に幽閉され改易となり、会津藩預かりとなります。領地は代官池田新兵衛、次に平岡三郎佐衛門が支配しました。

元禄3年(1690)に柳沢吉保(よしやす。第5代将軍徳川綱吉に重用され宝永3年に大老格にまで昇進)が佐貫領を与えられ、元禄7年(1694)正月7日に武蔵国川越に移った後は廃城となり、領地は代官川孫右衛門、樋口又兵衛が支配しました。

その後、阿部家初代佐貫藩主となる阿部正鎮(まさたね、因幡守のち民部少輔)が宝永7年(1710)5月に三河国刈谷(かりや。1万6千石)より上総国佐貫へ移封となり、天羽・長柄郡内に1万6千石を領して8月に移り、正徳4年(1714)佐貫城を再興します。
少年藩主であった正鎮は移動の行列には加わらず享保4年(1719)4月4日に佐貫城に入りました。
享保9年(1724)2月に大坂加番となり宝暦元年(1751)11月4日に52歳で逝去。浅草東光院に葬られました。法名は了義院殿即峯玄性大居士。

 

幕末の最後の藩主は、阿部家第8代佐貫藩主の正恒(まさつね、幼名倫三郎)です。
天保10年(1839)9月29日に江戸で阿部家第7代佐貫藩主正身(まさみ、駿河守)の子として出生しました。
※余談ですが佐貫の宮醤油店は天保5年創業です。
正身は天保13年(1842)に池之台大坪山に砲台を築いて海防にも努めました。弘化4年(1847)5月22日に大砲の試放も行っています。

安政元年(1854)7月3日に妾腹の正恒を嫡子とする届出をし、25日に父正身が病気を理由に隠居(元治元年7月3日に「菊山」と号します)、正恒は27日に家督を相続、12月16日に諸大夫・因幡守となりました。
安政2年(1853)5月佐貫へ始めて入部します。
安政6年(1859)8月16日に竹橋御門番、12月1日に江戸城本丸普請に金八百両上納。
文久元年(1861)2月5日に大岡越前守代として大坂加番を仰せつけられ、翌年帰り屋敷替。
文久3年(1863)9月2日に日光御祭礼奉行代を務めました。11月3日には新徴組の1人を佐貫藩が預かっています。
元治元年(1864)7月3日に駿河守に改めました。12月2日に佐貫藩で天狗党の水戸浪士の一部を預かり、負傷者の治療にもあたっています。獄中の水戸浪士の博学な講釈では佐貫藩の藩校「誠道館」にも影響を与えたといいます。

 

慶応4年(1868)の戊辰戦争時には徳川譜代の阿部家家臣は佐幕に傾いていましたが、文久の頃に京・大坂へ赴き情勢を知っていた勤王派の歌人相場助右衛門の説得で藩主は尊王を採りました。
佐幕派の家臣たちは相場の行動を専権犯上の行為と見て相場の排除を企てます。
4月28日午後3時頃、大手下馬先の林藪中に潜んで、清水坂を下って帰宅中の相場を狙撃。胸に被弾した相場は屈せずに傷口を押さえながら抜刀して応戦しますが、手負いの上に多勢が相手、遂に斃れました。
相場の墓は花香谷の安楽寺にあり、近年顕彰碑が建てられました。
加害者の佐幕派藩士31人はその後、忠義からの行いとしてお咎めはありませんでしたが、相場は阿部家からの養子を戻されてお家断絶・一家追放という重い処分を受けました。つらい仕打ちに相場の妻の寿美子は二年後の明治3年に48歳で自害したようです。

続いて佐幕派の家臣達は、木更津に駐屯していた旧幕府脱走の撒兵隊(さっぺい、さんぺいたい。房州では自ら義軍府と名乗りました)に数十人の援兵を出しました。

閏4月3日に請西藩藩主林忠崇の請西兵と旧幕府親衛隊の遊撃隊が真武根陣屋を出陣し、富津陣屋に協力を強談した際にも、撒兵隊(第四・第五大隊が真里谷駐屯)と佐貫藩兵41人が参加し、共に包囲しています。
佐貫藩でも、その後南下した請西・遊撃隊が訪れた折に金三百両と兵器若干を提供しました。

その頃撒兵隊第一・第二大隊は3・4日に下総国の市川・船橋等で東海道先鋒総督府の軍(新政府側の軍)に敗退し、総督府軍は5月に東の佐倉そして7日には沿岸の上総国に進み五井・姉ヶ崎の撒兵隊第三大隊を破って南下します。
撒兵隊も敗走して士気が落ちた木更津・真里谷駐屯中の佐貫藩兵は8日には撤退しますが、既に林請西兵と遊撃隊軍は6日に佐貫を去った後でした。
もぬけの殻となった木更津を出発した総督府軍が迫ると、佐貫藩は佐貫城を放棄して恭順の意を示します。
14日に入城した総督府軍参謀渡辺清左衛門(大村藩士)は、佐貫藩による富津陣屋襲撃と、先に新政府が佐貫藩に官軍を援け賊徒の警戒を命じていたにも関わらず主従が城を放棄し空にしたことを咎めます。
午後に藩主正恒は城郭と武器弾薬を明け渡し自らは花ヶ谷村(花香谷)の勝隆寺に籠居となりました。
翌日総督府軍は引き揚げ、城郭と領土は佐倉藩の管理下に置かれました。

5月18日に貫義隊が佐貫城を夜襲し、佐倉藩士の小谷金十郎・三浦蔵司が戦死しました。三宝寺に二人の墓があります。
25日に正恒は佐倉藩と協力して賊徒を追討することを贖罪として総督府へ願い出ますが、聞き入れられませんでした。
7月11日に花ヶ谷村の円龍寺で謹慎中の父が50歳で死去。同村の勝隆寺に葬られました。法名は大成院殿光誉正身菊山大居士。

10月7日に藩主正恒の謹慎が許され、明治2年(1869)6月17日に版籍奉還、22日に正恒は佐貫藩知事に任じられます。
明治4年(1871年)5月に佐貫城は廃城となりました。6月22日に東京の外桜田邸の引渡しを命じられ8月8日に引渡。7月15日に正恒は廃藩置県で藩知事を免職され、華族令によって子爵に叙せられました。
明治32年(1899)に従三位に叙されますが、10月6日に死去。享年61歳。勝隆寺に葬られました。

勝隆寺佐貫藩主阿部家の墓所 佐貫城主阿部家累代の墓側面

勝隆寺佐貫城主阿部家累代の墓(八代阿部正身・九代正恒・十代正敬家族)
※奥の正身・正恒の墓は別途紹介します

佐貫城址の様子

佐貫城跡の名標には阿部家の家紋、丸の内右重鷹羽(丸に違い鷹羽)
戦国(里見・北条)時代~の佐貫城は後々別途記事にします。
幕末についても、もう少し佐貫藩側に立った視点で調べてみたいところです。

所在地:千葉県富津市佐貫字城跡1217-1他

富津陣屋

富津陣屋跡 富津陣屋跡周辺

富津陣屋跡の碑と白井宣左衛門・小河原多宮自刃之地
陣屋の敷地と推定される場所(現在は宅地)の脇、西側に小さな碑が建つ

文化7年(1810)2月26日、幕府は3万2千石を異国船に対する房州沿岸警備に割り当てて、白河藩に安房・上総、会津藩に相模の浦賀周辺に砲台の築造を命じた。

富津陣屋・台場(上総国周淮郡/千葉県富津市)担当は
◆文化7年(1810)~【奥州白河藩/藩主松平越中守定信】
※文化8年に富津他が白河藩の所領となる。名君定信は房総も善く治めた。
※『遊房總記』では富津陣屋について、竹ヶ岡(竹岡陣屋)の友軍出張の場所であったのを文政5年に房州の防備を富津に移したとある。
『富津村助郷争』では砲台は文化8年、陣屋は文政4年の造立。
※波佐間陣屋の廃材を転用したためか規模・構造の類似が見られる

◆文政6年(1823)~【幕府代官/森覚蔵】(天保11年6月27日~羽倉用九(外記)、天保13年に篠田藤四郎)
※10月19日より白河藩が転封となった後は幕府代官が入り、規模縮小したと思われる。
天保10年には配下43名のうち10名を富津に充てた。翌年からの代官羽倉外記は儒者として名高い。
※要請に応じて上総久留里藩・下総佐倉藩から警衛が動員される。

◆天保13年(1842)~【武州忍藩/藩主松平下総守忠国】
※12月に命じられる。富津陣屋の長屋を増築。忠国は後に「下総草」と呼ばれる草を植えて富津海岸の砂塵を防ぎ感謝された。
※弘化4年より大房崎~洲崎の担当になる

◆弘化4年(1847)【奥州会津藩/藩主松平肥後守容敬】
※2月15日富津~竹岡警備を命じられる
※陣屋詰人数は、香・番頭各1・組頭2・物頭3・郡奉行1・目付2以下藩士170名。武器は17貫300目筒1亭挺・1貫筒以上12挺・200~300目玉筒25挺・200目以下筒221挺の他に弓・長柄があった。火薬蔵、早船繋があり台場も兼ねていたと見える。
※嘉永5年閏2月3日に容敬が没し、25日容保が会津藩藩主となる

◆嘉永6年(1853)~【筑後柳川藩/藩主立花飛騨守鑑寛】
※4月7日に巡検、11月14日より。

◆安政5年(1858)~【奥州二本松藩/藩主丹羽左京太夫長国】
※9月22日に丹羽長富が任を受け、11月に子の長国が継ぎ藩主となる。長国は房総の地を善く治め、歓迎した領民達は仁政を後世に伝えようと「懐恵碑」を建立したという。
※部将1・隊長5・兵300・大砲隊50・軍艦2・糧食方11人、大砲10挺が配される。富津番兵は毎年9月に交代させた。

◆慶応3年(1867)~明治元(1868)【上州前橋藩/藩主松平大和守直克】
※3月13日に命じられ、5月26日から引継ぐ。

会津藩の頃には富津陣屋の広さは古い図面によると総坪数は7875坪。
堀や土塁で囲まれ、周辺の村から隔絶された中に町が形成かれていたとみられる。

 

富津陣屋跡の碑石

▲左から「小河原多宮自刃の地」「白井宣左衛門自刃之地」「富津陣屋跡」

富津陣屋・台場は慶応3年(1867)3月13日より前橋藩(上野国郡馬郡厩橋/群馬県前橋市・17万石・藩主松平直克)の担当となる。
初期には町奉行兼勘定奉行の白井宣左衛門以下 遊隊9名・徒士目付2名・砲隊格20名・銃隊19名・町在組浮組20名・台場付足軽(二本松藩から引継か)20名の計113名程が配置されていた。

慶応4(1868)正月の鳥羽・伏見の戦以降、江戸の情勢が不安になり江戸に居た藩士が続々と富津に避難し、人数は六百余に達した。
房州の情勢も気遣って、4月8日に家老の小河原政徳(おがわらまさのり。左宮/さみや・多宮。三弥の説あり。字は子辰)と大目付服部助左衛門を富津に派遣する。
10日に根付銈次郎が23人を率いて、12日には年寄水野主水も富津へ向かう。
小河原は4月18日に到着している。藩主は京に在った。

4月8日から旧幕府脱走軍・撒兵隊が総州諸藩に協力を要請し、危ういやり取りが有ったが前橋藩は新政府に恭順しており、白井は要求を飲まなかった。

閏4月3日、真武根陣屋を出陣した林忠崇率いる請西藩士らと遊撃隊は、撒兵隊らと挟撃する形で富津陣屋を取り囲む。
応対した小河原は主命がなければ引き渡しは応じられないと拒否した。
それでも引き下がらず、強談判に対し、数百人の家族が居らす場で戦となるのを避けて(陣屋跡からは化粧道具や玩具の出土もあり、駐留した家臣が家族と生活していたことがわかる)席を外した小河原は隣室で接収の責任を取って自刃した。51歳。

前橋藩士は陣屋を明け渡し、脱走扱いで歩卒20名を提供し、大砲六門・小銃50挺(10)、遊撃隊に金千両(内500両は返金)・撒兵隊に糧米若干を贈る。
陣屋の者は分散し付近の在家に仮寓した。

6月に筑前藩の援軍が到着し前橋藩は陣屋を取り戻すが、遊撃隊に兵を与えた罪を総督府から問われる。
小河原から陣屋と郷士を託されていた白井は、藩主に罪が及ばないように全て自らの責任であると答えた。
6月12日に割腹申付られ、富津陣屋で白井は養子の茂八郎に介錯させて潔く切腹したという。
群馬県前橋市の源英寺に小河原左官・白井宣左衛門の墓がある。

富津陣屋は9月に取り壊され、10月には敷地も払い下げられて畑地となった。

・富津陣屋跡地
所在地:千葉県富津市富津字陣屋跡

参考図書
・富津市史編さん委員会『富津市史
・君津郡教育会『君津郡誌
・東京市役所『東京市史稿 市街篇・港湾篇』
・小野正端『遊房總記』-改訂房総叢書収録
・筑紫敏夫『前橋藩房総分領と富津陣屋の終焉』
・・山形紘『房総の幕末海防始末
・朝倉毅彦『江戸・東京坂道物語

選擇寺[2]「切られ与三郎」蝙蝠安の墓

選擇寺 蝙蝠安案内板

嘉永6年(1853)江戸三座の一つ、中村座(この時は浅草にあった)で初演された「切られ与三郎」の呼び名でお馴染み、歌舞伎「伎与話情浮名横櫛/よわなさけうきなのよこぐし」主人公与三郎の相棒「こうもり安」のお墓が、以前紹介した選擇寺(せんちゃくじ)にあります。

 

本名は山口瀧蔵。
文化元年木更津五平町(本町)の大きな鬢付け油屋「紀の国屋」の次男として生まれ、素晴らしい美音の持ち主で特に常盤律が上手く、金まわりも良く、花柳界の寵児と言われたほどの男ぶりだったそうです。
夕方になるとふらふら出歩くことから蝙蝠(こうもり)安と呼ばれました。

芝居の登場人物としての蝙蝠安のようにゆすりを働くような人柄ではなく、芝居中に右頬にある蝙蝠の刺青も、実際は左の太ももに蟹の刺青があったようです。

選擇寺の紀の国屋代々の墓碑銘に「進岳浄精信士 慶応四年四月五日」と戒名が刻まれています。

 

伎与話情浮名横櫛あらすじ

江戸の大店伊豆屋の若旦那の与三郎はあまりの美男だったためか木更津の親戚に預けられていた。
与三郎が春の潮干狩りに出かけた際に、お富を見そめ、一目ぼれし合った美男美女の二人は浜辺で密かに逢瀬を楽しんだ。

しかしお富は地元の親分赤間源左衛門の妾であったため幸せは長く続かず、与三郎は親分の手下に襲われ全身三十四カ所を切られ、お富は海に身を投げてしまう。

逃げ延びた与三郎は勘当され、三年後、傷だらけの容姿になって周囲に恐れられた与三郎はごろつきとなっていた。
そして仲間の蝙蝠安に連れられたゆすり先の家に囲われていた、死んだはずのお富と再会する…

 

蝙蝠安の墓 与話情浮名横櫛こうもり安

▲「こうもり安」の墓
浮世絵は歌川豊国(歌川国貞)『与話情浮名横櫛』のこうもり安 ※まちごと浮世絵ミュージアムパネルより

選擇寺 所在地:木更津市中央1-5-6

 

与三郎の供養墓(実際のお墓ではありません)は木更津駅西口を出てすぐの光明寺に、与三郎とお富が初めて出会った場所「見染めの松」が木更津港の鳥居崎海浜公園に、二人で密会した旅籠屋の鶴田屋経営者の墓が成就寺にあります。

作中は当時の江戸で木更津が舞台になっていますが、実在のモデルは木更津の他に東金・大網辺りや東京品川等の説があります。
いずれこのブログでも紹介するかも?

参考図書
・『木更津市史』他案内板等

三条塚古墳

三条塚古墳三条塚古墳案内板

 三条塚古墳飯野神社の裏手に位置する前方後円墳で、墳丘長122m・後円部径57m・墳丘長122m・後円部径6.0m、前方部幅7.2mを測り、内裏塚古墳に次いで古墳群中第二位の大きさである。

 埴輪は出土せず六世紀末頃の築造と見られ、この時期に前方後円墳としては東日本最大の規模である。
 古墳の周囲には全長193mの盾形二重周溝がめぐり、外集溝は江戸時代に飯野陣屋の外濠に再利用されていたが、今も一部原型を留めている。
 後円部の東側は江戸時代末期に飯野藩の藩校(明新館)が建てられてコ字型に削られている。

三条塚古墳周溝三条塚古墳の案内板

 後円部の墳丘中腹に横穴式石室(長さ8.5m以上・幅1.5m前後)は平成元年に手前側部分の調査が行われ、人骨三体と副葬品の乳文鏡(にゅうもんきょう)・金銅製中空耳環(じかん)・馬具類(金銅製鞍金具・鞍・壺鐙金具。素環雲珠)・直刀(ちょくとう)・鉄釘・銀製算盤型空玉(うつろだま)・ガラス玉・土製漆塗小玉・須恵器(高杯蓋・高杯身・壺蓋)などが出土した。
 富津市指定史跡。

三条塚古墳の天井石 三条塚の天井石

▲現在一部露出している天井石