歴史巡り」カテゴリーアーカイブ

史跡探訪や展示会観覧の覚書

伏見口の激戦地跡と会津藩駐屯地跡

鳥羽伏見の戦い伏見市街戦の戦況図

伏見口の戦い激戦地跡の碑 伏見口の戦い激戦地跡の解説板

伏見口の戦い激戦地跡の碑
慶應4(1868)年1月2日、鳥羽(とば)伏見(ふしみ)の戦いが始まる前日夕刻、会津藩の先鋒隊約200名が大坂から船で伏見京橋に上陸。ここ伏見御堂を宿陣として戦いました。
伏見奉行所に陣を置いた幕府軍や新撰組が民家に火を放ちながら淀方面へ敗走したので、このあたりの多くの民家が焼かれ、大きな被害を受けました。※案内板をそのまま引用

会津藩駐屯跡の碑伏見御堂 会津藩駐屯地跡の解説

会津藩駐屯地跡の碑(伏見御堂/ふしみみどう。東本願寺の別院)
上の伏見の戦いの図の卍東御堂。攻め入られにくい場所にある。

1月2日伏見御堂に宿陣した会津藩は、翌3日、薩摩藩との間で小競り合いをしている最中の午後4時頃、鳥羽方面から聞こえる一発の砲声に触発され、御香宮(ごこうのみや)の東の高台に据えた薩摩藩の大砲が火を噴き、伏見奉行所を攻撃したことから伏見の町でも戦いが始まりました。
本堂の畳を楯に鉄砲の撃ち合いがあったともいわれ、建物は大きな損害を受けたと伝えられています。そのため、創立当初建物は東向きにつくられましたが、明治18(1885)年に南向きに縮小して建て替えられました。平成2(1990)年に建物は老朽化のため取り壊され、現在は大銀杏・鐘楼・山門が残されています。
※案内板から引用

現代の伏見と重ね

▲新撰組が白兵戦に出た京町通りにある魚三楼等の位置関係

「伏見口の戦い激戦地跡の碑」所在地:京都府京都市伏見区 府道115号線にある京橋の東袂
「会津藩駐屯地跡」所在地:京都府京都市伏見区大阪町609 東本願寺伏見別院前

魚三楼の鳥羽伏見戦の弾痕

京料理魚三楼 京町通魚三楼の弾痕跡

京都伏見の老舗料亭「魚三楼」は江戸時代の明和元年(1764)創業。
薩摩藩の炊事方も務めたという。

慶応4年(1868)正月に勃発した鳥羽・伏見の戦いで、伏見の町の南半分が戦災で焼け野原になったが、幸いこの建物は弾痕のみの被害で消失を免れた。

京町通りに面した表の格子に銃撃戦の弾痕が数筋、一大市街戦が展開された当時のまま残っている。
新撰組も奮戦した京町通りにある魚三楼の弾痕 魚三楼の鳥羽伏見戦解説版

京料理「魚三楼」
所在地:京都府京都市伏見区京町3丁目187番地(京阪本線「伏見桃山駅」そば)
魚三楼HP:http://www.uosaburo.com/

御香宮神社[2]伏見の戦跡

伏見の戦跡の碑 伏見の戦跡の解説

明治維新伏見の戰跡
御香宮境内。内閣総理大臣佐藤栄作の書。

■御香宮神社と鳥羽伏見の役
慶應3年(1867)12月9日に王政復古の詔が発令されると、京洛の内外は緊張し、朝幕の間に一触触発の険悪な空気が漲った。
17日の明け方に御香宮の表大門に「徳川陣営」と書かれた大きな木札が掲げられたため、御香宮の祠官の三木善郷は御所へ渡辺蔵人頭を経て注進すると、翌日薩摩藩士吉田考助(後の宮内大臣吉井友実/ともざね。歌人吉井勇の祖父)が来て札を外し、21日に薩摩兵が駐屯した。

慶應4年(1868)正月2日に徳川慶喜が大阪から上洛しようとし、先鋒軍が3日午後に伏見京橋に着いた。
幕府方の入京を遮る薩摩兵との間に小競り合いが生じたその時、鳥羽方面から聞こえた砲声を契機に、御香宮の東の高台に位置する龍雲寺に砲兵陣地を布いていた薩摩藩士大山弥助(後の元帥大山巌)が、眼下の伏見奉行所(御香宮の南に位置し、幕府側の新撰組らが布陣)に砲撃を開始した。

伏見奉行所では療養中の近藤勇の代わって土方歳三が率いる新撰組が応戦し、久保田備中守率いる伝習隊が官軍の前衛部隊を攻撃して墨染めまで撃退する。

4日に軍事総裁の仁和寺宮嘉彰(よしあきら)親王が錦の御旗を翻して陣頭に立たれたので官軍は奮い立ち、突如賊軍となった伏見方面の幕府側の兵たちは戸惑い、淀へ撤退。
一時は押していた鳥羽方面の幕府軍も橋本まで撃退され、共々大坂城へ敗走した。
この地で勃発した鳥羽・伏見の戦いは明治維新に至る黎明といえる。

戦の間、古御香宮に移って郷の安全を祷っていた祠官の三木は、5日に復座した。

京都/御香宮神社[1]伏見義民碑

伏見義民碑 伏見義民事績

伏見義民之碑伏見義民事蹟
御香宮境内に明治19年(1886)12月に建立。篆額(題字)は内大臣三條實美(三条実美/さねみ。内閣総理大臣兼任)書、碑文は海舟散人(勝海舟)撰。

天明5年(1785)当時の伏見奉行(ふしみぶぎょう)小堀政方(こぼりまさみち)の悪政を幕府に天下の禁を破って直訴して伏見町民の苦難を救い、自らは悲惨な最期を遂げた7人の町人が伏見義民(ふしみぎみん)と呼ばれる。

 

■伏見奉行に対する直訴の経緯
安永7年11月8日に小室藩第6代藩主の小堀和泉守政方が37歳で伏見奉行に任じられる。翌年2月27日に伏見に着任。
小堀家の利益を裂いて町民のために善政を行うが、財政は窮乏し、伏見の裕福な町人に御用金(ごようきん。財政難を補うための臨時の徴収金)を課すなどをして怨嗟を生んだ。
御用金は6月に町人枡屋源兵衛に銀四貫目を命じたのに始まり各所に渡るが、還元の様子も無く、政方が目にかけた商人や御用金徴収人の異例の贔屓が行われ、政方やその腹心の着服が疑われた。

天明元年(1781)5月28日、政方の妾芳子が宴の席で魚の骨を喉を詰まらせ、小堀家お抱え医の水島甲庵(幸庵)が癒した褒美として何を求めるか政方から聞かれると、甲庵は竹の柱に瓦屋根の家が欲しいと答えた。これは崩壊寸前の小堀家を喩えであり涙ながらに諫言するが、言葉では政方達の心が動かせないと分かり、甲庵は身をもって諌めようと帰宅後自刃した。
心を動かされたのは町民達で、甲庵の遺骸は町民達の手で密かに水島家の墓に葬られた。

凶作が続く中で米穀の価格高騰が収まらず(町人の訴えは米価についても多く、調整や救済指示は町奉行所の仕事でもある)町民の苦悩を見かねて、町年寄役(町の自治長)である文殊九助丸屋九兵衛等同志達が両替町の受泉寺、深草間眞宗院の山室で密議し、もはや越訴(訴訟は奉行所を通す決まりだが、その段階を飛び越えて民衆が処罰覚悟で直接将軍や閣僚等に訴状を渡す直訴)しかないと捨て身の決意を固めた。

天明5年(1785)5月に九兵衛が代表として伏見を出て江戸に向かうが同志達に呼び戻され、深草善福寺の後室で議論を重ね、江戸行きは九助・九兵衛・麹屋伝兵衛の3人に決まる。
7月21日に3人が出発し江戸に入った翌月、同志であった中村靭負がこの計画を伏見奉行に密告したため奉行側は関係者達を幽閉し、3人を捜索する。
捕史が3人が宿泊する白河屋を襲撃するが伝兵衛が大いに奮闘し、深川陽岳寺に入り事なきを得たが、伝兵衛は傷を負ってしまう。

9月16日ついに政方一味の暴政を寺社奉行(勘定奉行・町奉行と並ぶ三奉行の筆頭角ともいわれる)松平伯耆守資承(すけつぐ)邸前で籠訴(かごそ。竹の先に訴状を挟み、外出時の駕籠に駆け寄り閣僚等に訴状を渡す越訴)し、11月に追書を提出した。11日に伝兵衛が傷が元で病死し、陽岳寺に葬る。

12月5日に龍ノ口評定所(幕府の評定所。現東京都大手町)で2人の帰郷が命じられ、願いが受け容れられて、政方が江戸に呼び出された。
27日に政方は伏見奉行職を解任となる。

天明6年(1786)1月14日に九助・九兵衛が伏見に帰り、21日に久留島信濃守通祐が伏見奉行に着任する。
23日に久留島信濃守は京の東町奉行所へ行き、25日に伏見奉行所の与力・同心と共に九助・九兵衛を呼び出し、続いて200名近い関係者が吟味(調査)のため東町奉行所に預けられた。
久留島信濃守は京町奉行丸毛和泉守政良と共に直々に吟味し、九助ら7人の町人が獄に入った。大人数の処置は年末までかかり、その間に病死する者も少なくなかった。

12月15日に事件に関わった小堀家臣と奉行与力・同心、町人達が江戸へ護送され28日に到着し、29日から龍ノ口評定所で各奉行の審問を受ける。
天明7年(1787)5月6日にようやく獄が定まったほどで小堀側も町人側も次々に病死している。

 

■7人の伏見義民
・文殊九助
直訴の中心人物で、町の年寄役。板橋二丁目に住む。
文殊(もんじゅ)の家は文禄年間の豊臣秀吉の伏見築城にあたり城閤に必要な金物の鋳造をするため南部から伏見へ移住した文殊四郎三郎包守清左衛門より出て、代々刃物鍛冶を営み薩摩藩御用達となる。
九助は七代目で包光宗兵衛と称し、家業を子の宗兵衛に譲り隠居していた。
江戸での詮議の最中の天明8年正月3日に獄死し、陽岳寺に葬られた。
一族は薩摩藩のとりなしで没落を免れた。

・丸屋九兵衛
寛永年間から伏見に住む松村忠兵衛の家筋の分家で京町北八丁目に住む。
力強く義に厚く「雉の子」と呼ばれる人望から町年寄となった。
江戸での詮議は病に苛まれながらも弁を振るったが、天明8年1月23日に力尽きて獄死し、陽岳寺に葬られる。
その後の九兵衛の一族は、総本家忠兵衛・分家伊兵衛・別家六兵衛以外は皆離散してしまった。

・麹屋伝兵衛
大文字町で麹(こうじ)製造を営む3代目。南山城久世村の福富勘兵衛の弟庄助。同家の養子となる。
直訴のため九助・九兵衛と共に江戸に向かうが、追手の捕史により傷を受けて天明5年11月11日に病死し陽岳寺に葬られた。
伝兵衛の遺族は生家の久世村に戻ったが、迫害を受けて血族は絶えた。

・柴屋伊兵衛
京町南八町目の薪炭商。良妻と、家業に精進していた弟に後を託して九助らの支援を決意し、九助らが江戸に向かった時は伏見の情勢を伝えて道中の危機から救う。
処罰を覚悟しており、勝念寺境内の土地を買い父母の墓碑を建立し永代供養料を納めておく(自分に代わって寺院に子孫代々まで両親を供養してもらうための支払)などをして予め身辺整理を済ませていた。
事件後に東町奉行所の糺問を受け、家は差押となり、天明7年8月1日から入牢。9月23日に獄死した。
生前の用意の甲斐あって遺族は落剥を耐えたが、文政年間に伊兵衛の血統は途絶えた。

・板屋市右衛門
寛文年間に山城相楽郡和束郷から伏見に移住し板類を商う板屋(屋号)の二代目三右衛門の長男市右衛門が家を起こして、その二代目。推薦されて町年寄役となる。
伊兵衛と同様に予め堀詰新町の顕正寺に一家の碑を建てて、後で自分の戒名を刻めるようにするほどの決意で同志達を助けた。
事件後に家は差押となり東町奉行所に呼び出されて入牢。天明7年10月20日に獄死した。
生前の準備と本家の支えのお陰で遺族への迫害は抑えられたが、間もなく血統は途絶えた。

・伏見屋清左衛門
両替町十三丁目で塩の販売を兼ねた醤油醸造を営む。塩屋仲間の年寄となり、町年寄役も勤める。
息子の清兵衛に家業を託して同志達を助けた。
事件後に東町奉行所の糺問を受けるが天明6年1月20日に再び拘置される。天明7年8月11日に家が差押となり、入牢。
9月9日に獄死し、死後8ヶ月後の天明8年5月21日にようやく遺骸を京の役所から受取り土葬を終えた。
遺族は京都へ逃れて文政年間に再び伏見に帰り、油掛木津屋筋南角で紙商を営む。

・焼塩屋権兵衛
深草に住む。平田姓。
平田家は文禄2年に播州赤穂から伏見田町に移って瓦製造を営み、豊臣秀吉の伏見築城の際は天守閣用の瓦を造る。瓦町から寛永年間の二代目権兵衛の時に間直違橋九丁目に移る。三代目権兵衛の次男が家を起こして初代平右衛門とする。
元禄年間に瓦屋の副業として始めた焼塩が伏見名物になる程の評判で、屋号が焼塩屋になった。
この権兵衛は七代目で、推薦されて町年寄となる。
義民の中では作戦立案を担当し、権兵衛が密議の場に深草瓦町の眞宗寺を選んだのも瓦町が伏見奉行の管轄外であり、眞宗寺住職香山和尚と親交があったため。
事件後に東町奉行所の糺問を受け、家は差押となり、再び呼ばれ天明7年8月25日に入牢し、11月4日に獄死。伏見街道筋塗り込め地蔵堂後の墓地に葬られる(寳塔寺共同墓地に改葬)
遺族は分家の平右衛門の援助があったが、奉行の圧力が甚だしく、権兵衛の子の佐吉は平右衛門に迷惑がかからぬよう瓦屋を廃業。佐吉は他の同業者に雇われて一生を終え、その子孫は長く続き、明治21年に系統が途絶えた。

 

御香宮神社
主祭神は神功皇后。
秀吉の伏見城築城の折に鬼門鎮護として深草大亀谷(古御香宮の位置)に移り、慶長10年(1605)家康は現在の位置に社殿(本殿)を建てて戻す。
表門は薬医門で元和8年(1622)徳川頼房(水戸光圀の父)が旧伏見城の大手門を寄進したといわれる。拝殿は寛永2年(1625)徳川頼宣の寄進。

御香宮神社鳥居 御香宮神社表門

▲御香宮神社の現在の鳥居と表門

所在地:京都市伏見区御香宮門前町
御香宮サイト:http://www.kyoto.zaq.ne.jp/gokounomiya/

ちば遺産100選「利根運河」

利根運河 利根運河の歴史と現況

▲利根運河(とねうんが)
明治23年、利根川と江戸川を結ぶ全長8.4Km・海底幅18m・平均水深1.6mの利根運河が利根運河株式会社の資本により完成しました。
前回の記事の通り「土木県令」と呼ばれた人見寧(勝太郎)が利根運河会社の初代社長です。

利根川口の船戸と江戸川口の深井新田に通航料を徴収する収入所が置かれ、50年間で約100万艘、年平均2万余艘が航行しました。
利根川河口の千葉県銚子から遡り、それまで3日かかった関宿・宝珠花経由での輸送路を1日に短縮できるようになり、運河の観光地化推進も手伝って付近一帯は船頭や船客相手の料理屋、食料品店、雑貨屋、回船問屋などが立ち並び賑わいをみせました。

大正時代の利根運河略図

■利根運河年表
明治12年(1879)オランダ人一等工師A.T.L.ローウェン・ホルスト・ムルデル来日。
明治14年(1881)春に茨城県議会議員の広瀬誠一郎秋場庸が、茨城県令(現在の知事)人見寧に利根運河開削を具申する。
明治15年(1882)2月広瀬が北相馬郡長となる。
明治16年(1883)1月御雇オランダ人4等工師ヨハネス・デ・レーケが内務省から利根運河の実地調査を命じられ、人見らも同行。

明治17年(1884)5月 人見は内務・大蔵・農商務の三卿に『茨城県五工事起業提言』を提出。利根運河建設案も含み、この時は千葉県南相馬郡三ツ堀(野田市)~江戸川左岸の加村(流山市)間で「三ツ堀運河」の名称であった。
明治18年(1885)2月からデ・レイケの後任としてムルデルが測量実地し内務省土木局三島通庸へ、船戸村(ふなと。柏市)と深井新田(流山市)を結ぶ掘削を最小限に留めたルートで構想された「江戸利根両川間三ケ尾運河計画書」を提出。
6月17日、人見と千葉県令船越衛が江戸利根運河協議書に調印。
7月8日人見が茨城県令を非職となり、島惟精(これただ)が後任となる。

明治19年(1886)5月8日島が茨城県令を辞任、11日死去。安田定則が後任となる。
7月に千葉県令・茨城県令・東京府知事三者合意で内務大臣山縣有朋に「運河開鑿之義ニ付上申」を提出し開削を建議。6月12日ムルデル一時帰国。
8月10日に広瀬が北相馬郡長を辞任し、下旬に麻布の人見邸に訪れる。

明治20年(1887)内務省から中止を命じられ、広瀬は民間企業での開削をめざす。
4月1日浅草の名倉屋で事業計画の打合せ会を開催。メンバーは●人見寧●広瀬誠一郎■秋場庸●色川誠一(創立メンバーが解離する中で長く運河事業に携わる。後に富士製紙常務取締役)●池田栄亮(千葉県会議長)●森隆介(茨城県会議員)■椎名半・関口八兵衛・笹目八郎兵衛。
人見・広瀬・色川は併せて利根運河の「三狂生」と呼ばることとなる。
10日発起人会を東京向島枕橋の八百松楼で開催。70名余りが集まり、来賓には内務次官、東京・茨城・千葉の知事等。
11日に広瀬は東京の京橋の木挽町商工会クラブで「利根運河創立協議会」を開催。
●人見●広瀬●色川●池田●森■高島嘉右衛門(大株主。後に高島易断で有名)、の6名が創立委員選出。
12日に日本橋蛎殻町三丁目の醤油会社内に仮創立事務所を置き、株式一株50円で株式申込受付開始。
13日に早くも目標の8千株40万円を集めて締切。
30日に創立事務所を日本橋区浜町2丁目11番地に移す。
5月9日に千葉県知事船越へ「利根運河開鑿願」を提出。ムルデルが再来日し、6月21日付でデレイケとの連盟で洪水を配慮した運河計画訂正書を西村捨三土木局長へ提出。

11月10日千葉県の「利根江戸両川間運河開削免許許可書」が交付される。特許の許可と国の保護と援助と共に、工期を24ヶ月に限定する等の規制が打ち出された。
20日、木挽町の貿易商会で株主総会を開き、役員を選挙。社長に●人見、筆頭理事に●広瀬、理事に●色川●池田●森(12月に辞任)、協議委員に■秋場■高島■椎名▲安田善次郎・秋元三左衛門・岡野寛・伊能茂左衛門・川村唯助・岩崎重太郎・茂木左平次が就任。
12月13日「利根運河会社」事務所を日本橋区浜町に設ける。

明治21年(1888)3月17日利根運河会社本社が建築落成を千葉県に上申。
3月29日利根運河会社支社設立を東京府に届け出(浜町事務所の住所)
5月9日工事着手。ムルデルは西深井村の矢口伊之助(征治。株主)宅の離れを宿舎に工事現場を監督した。内務省技師の近藤仙太郎が工事を監修。
三区に分けた工事のうち、第一工区はの化土(けど。腐葉土を含む)が多く土捨場まで廃棄運搬しなければならなかった。
土の運搬はモッコ等による手動と、木製レールを敷いたトロッコ、土を運搬する土船を使用。
第二工区内では湧水が阻み、アバ(小さな堤)で区切り湧水を汲みだしながら工事が進められた。
第三工区は地盤沈下のため修繕しながらの工事となり遅延した。

7月14日運河開削起工式を本社にて挙行(内務大臣、東京都・千葉・茨城県知事等来賓)
30日に会計検査委員を設置。委員は▲安田・志摩万次郎(池田に代わりに理事。筆頭株主)・笠野吉次郎。

明治22年(1889)1月15日ムルデルはの功績に対し勲4等が贈られた。
1月に悪水溝(あくすいみぞ。排水路)の「今上(いまがみ)落とし」伏せ越し(運河を横断させる)工事着手。
5月13日人見が病のため社長を辞任。23日に志摩が2代目社長に改選。11月28日広瀬が理事を辞任。
12月に6ヶ所の狭窄部(洪水対策のための補強箇所)工事開始。利根川河口に近い第五狭窄部には石積みの「水堤(すいせき)」を設置。

明治23年(1890)1月末に木桶組の今上落とし工事完了。
1年10ヶ月にわたる工事の従事者は延べ220万人にものぼり40万円の予算を超える57万円近くを費やした。
2月25日ムルデル立会いの元、江戸川・利根川間の水を通水。
3月18日広瀬が東京浜町事務所で病死。享年54。
25日に運河営業を開始し、通船。
5月11日ムルデルが任期満了で横浜からオランダに帰国。
6月18日に深井新田の本社で総理大臣山縣有明、内務大臣西郷従道他政府関係者らが臨席する盛大な竣工式を開催した。

利根運河碑 利根運河のいわれ

▲利根運河碑
明治41年深井新田の利根運河会社に建立。題額は竣工当時総理大臣山縣有明、撰文は起工当時千葉県知事船越衛。運河駅近くに移動したの現在は流山市立運河水辺公園に移設されている。

ムルデルの碑と利根運河 ムルデルの碑

▲ムルデル顕彰碑
昭和60年にムルデルの碑が建立された。碑と同じく公園の運河沿いに佇んでいる。

 

■その後の利根運河
明治29年(1896)4月に河川法により洪水対策を重視した高水工事により、運河に不向きな河川が作られ、33年(1900)からの利根川改修工事が利根川水運に大打撃を与えた。
鉄道や自動車の輸送も盛んになり、衰退していく。
渇水や台風による増水等の自然災害にも悩まされ、昭和16年(1941)7月の大洪水により水被櫃端が崩壊。応急処置で利根川口に土手を築いで流れを閉め切り、航路機能が停止。

昭和17年(1942)1月25日に利根運河会社の内務省への売渡しが決まり、2月23日に利根運河会社は解散。利根運河は約50年の舟航路としての運河の役割を終えた。

国は運河としてではなく利根川の洪水分派を目的として買収し
昭和18年(1943)1月22日に派川(ばせん。分流)として認定され「派川利根川」となり、「利根運河」は行政上消滅した。

昭和23年(1948)に利根運河復旧促進同盟会が結成され、27年(1952)利根運河の改修工事が済み通水を待つだけになったが、ついに利根川口は開かれず、池の様な状態だった。

東京オリンピック(昭和36年)を契機に東京の都市再開発が進み、利根川下流印西市発作(ほっさく)から松戸市主水新田(もんどしんでん)で江戸川に合流する「北千葉導水路」建設が始まるが工事に時間がかかり、水不足の解消のため利根運河が「暫定水路」として利用され、再び通水する運びとなった。
昭和48年(1973)に市用水の補給を目的とする「流況調整河川」として野田緊急暫定導水路事業が開始。
昭和50年(1975)に、34年ぶりに利根川の水が運河に流れ込んだ。
現在の利根運河とほぼ同じ姿になったが、流水量は少なく、周囲から流れ込む生活雑排水により汚濁は改善されず、名称も「野田緊急暫定導水路」となった。

平成2年(1990)の利根川運河通水100年記念の祝祭の開催を契機に派川利根川から「利根運河」に改称。
平成12年(1990)3月に況調整河川の北千葉導水事業が完成し、暫定導水路ではなくなり、洪水分派河川の役割に戻る。
平成18年(2006)に社団法人土木学会が「推奨土木遺産」に指定。
平成19年(2007)経済産業省が「近代化産業遺産」に指定。下水道工事・景観整備が進み、財団法人古都保存財団の「美しい日本の歴史的風土準100選」にも選ばれる。
平成20年(2008)には千葉県教育委員会より「ちば遺産100選」に指定された。

運河橋 料亭新川と盛土 利根運河の水鳥

▲運河橋、運河堀削土の盛土
運河橋は開削時に唯一架かっていた橋(昭和時代に架替え)。奥のアーチは右手のすぐ先にある運河駅に通じる東武鉄道野田線(東武アーバンパークライン)の陸橋。
明治44年に千葉県営鉄道野田線が開通した。大正11年に北総鉄道となる。
老舗・割烹新川の脇の土手は運河堀削土の盛土のようです。

参考図書
・田村 哲三『志摩万次郎伝
・山本鉱太郎『江戸川図志
・川名 晴雄『利根運河誌
・北野道彦『利根運河
・『流山市史別巻 利根運河資料集
・新保往國弘『水の道・サシバの道
・流山市教育委員会『利根運河120年の記録』
・根岸門蔵『利根川治水考
・日本工学会『明治工業史2明治工業史2』
・鈴木為三『志摩万次郎君略伝』
他、利根運河交流館、関宿城博物館、流山市立博物館案内・展示資料等