▲数寄屋橋門内の南町奉行所跡のパネル
東京都指定旧跡。JR有楽町駅中央口の正面、マルイと交通会館の間のエスカレーターの裏面に有ります。
南町奉行所は東(数寄屋橋側)に表門があり、正面玄関に向かって右に三十三畳の上番所(与力の詰所)と隣に同心番所、左に白洲、裁許場や書院等が続き、敷地の西側には長屋建てとなって裏門や厩が置かれていたようです。石組下水溝の一部が再現されています。
名奉行大岡越前守忠相が享保2年(1717)~元文元年(1736)までの20年間、南町奉行としてここで執務をしていました。平成17年の発掘調査では「大岡越前守御屋敷」と墨書きされた荷札も出土しています。
■南町奉行所
慶長9年(1604)に町奉行の職制を布き、北は呉服橋門内にて米津勘兵衛田政、南は八代洲河岸に土屋権右衛門重成を吏務に就かせました。
慶長18年(1613)からは島田次兵衛利正が一人で奉行に就きます。
町奉行の役宅は「番所」と呼ばれていたようです。
寛永8年(1631)9月22日に再び分かれて北町奉行は堀式部少輔直之、南町奉行は加々爪民部少輔忠澄になります。
明暦3年(1657)の大火で八代洲河岸の番所を停止して町奉行が1人となった後、寛文2年(1662)に常盤橋門内に新設して2人に戻りました。
※ややこしいですが常盤橋門内の奉行所は位置の関係で北になります(後に北町奉行所は呉服橋に移転)
元禄11年(1698)10月5日頃に南町奉行所を呉服橋門内より鍛冶橋門内に移し、元禄15年(1702)8月からは更に鍛冶橋内に中町奉行所を増設して3奉行となります。※享保4年(1719)4月14日廃止
宝永4年(1707)4月に常盤橋門内から数寄屋橋門内に移転、南町奉行所は幕末まで当地にありました。
南北の奉行所はそれぞれ二千五~六百坪の広大な敷地に千坪余りの町奉行屋敷が建っていたようです。
幕末の南町奉行所で与力であった原胤昭(はらたねあき。嘉永6/1853年2月2日八丁堀生まれ。維新後は東京府職員となり築地にキリスト教会を設置、錦絵問屋を営みキリスト教書出版社十字屋を開業。兵庫仮留監や釧路集治監を勤め、出獄人や被虐待児童等の更生保護事業を広く行った)の談話として……表門は黒い澁塗りに白漆喰のナマコ壁の白黒くっきりと凜とした、それでいて他の武家屋敷よりは優しげな長屋門が立ち、玄関まで真っ直ぐに石畳が伸び、那智黒の小砂利が敷き詰められていて左右に磨かれた天水桶(雨水を貯める桶)が山形に積んである。
濠は深く掘の石垣も几帳面に組み上げられ、土堤の上には品良く黒松がしたたれ堀の水に写り綺麗な景色であり、この寛大な佇まいと行きかう市民の心を引き締めるような設計は大岡越前守の趣向で、火災で改築されても引き継がれてきたと記されています。
■大岡越前守忠相(おおおか えちぜんのかみ ただすけ)
延宝5年(1677)元旦?に江戸で大岡美濃守忠高の四男(七子)として生まれる。母は北条出羽守氏重の娘。幼名は求馬。後に市十郎、通名は忠右衛門。はじめ忠義、のち忠相。
貞享3年(1687)12月10日、10歳の時に大岡忠右衛門忠真の養子となる。忠相の妻は忠真の娘。
貞享4年(1688)9月6日に初めて5代目将軍徳川綱吉に謁見。
元禄9年(1696)2月5日に従兄大岡五郎左衛門忠英が番頭高力伊予守忠弘を殺傷し連座として閉門。4月20日に閉門を許される。
元禄13年(1700)7月11日に家督を相続し寄合に列せられる。
元禄15年(1702)5月10日、26歳で御書院番となる。翌年10月22日に大地震があり、11月29日震災復興の普請奉行となる。
宝永元年(1704)10月9日に御徒士頭に進み12月11日に布衣(狩衣)の着衣を許される。
宝永4年(1707)8月12日に御使番に移り翌年7月25日に御目付に進む。
正徳元年(1711)7月18日、35歳で評定所(幕府時代の裁判所)に出仕。翌年正月11日に山田奉行となる。3月15日に従五位下に叙し能登守に任ぜられる。
享保元年(1716)2月12日、40歳で普請奉行となる。※この年徳川吉宗が8代目将軍となる
享保2年(1717)2月3日に江戸町奉行となり、越前守に改める。※江戸町奉行は通常三千石役得千俵
此年人参蕃薯その他薬草を栽培・船税の賦課を始める
3年7月 江戸米延売人を定める
4年 砂糖の栽培を命じる・3月に火消いろは組を設ける
5年4月20日 江戸町中普請の制を定める
6年 目安箱を置く
7年6月 新田取立の高札を掲げる
享保8年(1723)関東筋地方御用係となり代官を指揮する命を承る。
9年 札差人数を定める
享保10年(1725)9月11日武蔵国比企・幡羅、上総国市原三郡内に二千石加増。
12年8月6日 酒匂川を検視
14年4月3日 並河五一郎に五畿内志編纂を命じる
18年7月 度量衡考の出版を命じる。11月6日町火消へ褒美を下す
19年 青木文蔵(昆陽)に薩摩の島津氏から取り寄せた蕃薯(ばんしょ。甘藷、現在のサツマイモ)を小石川療養所に試作させる
元文元年(1736)5月12日金銀改鑄の事を命じられる。8月12日、60歳で寺社奉行となり評定所の出仕を兼ねる。上野・下野国内に二千石が加わり役料と合わせて万石以上の格となり12月28日に雁間(高家衆等登場の節の詰所、譜代大名の詰所)の末席に列することを許された。
延享2年(1745)3月26日に法華八講執行用掛となる。5月3日に関東筋地方御用係を解かれ、翌年6月18日に随性院殿葬儀用掛となる。
寛延元年(1748)閏10月1日に奏者番となる。三河国内で四千八十石が加わり一万石を領して三河国額田郡西太平に治所を定める。
翌年2月に先代所領千七百石と武蔵・上野・下野内の所領を下総国内に移換え。
宝暦元年(1751)11月2日に病気のため辞職を願うと寺社奉行のみ許されるが奏者番は続けて務めることを命じられる。
12月19日、75歳で在職のまま死去。浄見寺に葬られる。法名興誉崇義松運院。子の忠宣が嗣ぐ。
後の大正元年(1912)11月19日に従四位を贈られた。
▲江戸時代中期の南町奉行所内に掘られた地下室「穴蔵」
エスカレーターを下った前方に穴蔵の板枠が壁に立てて展示されています。周辺のベンチの素材に木樋(もくひ。江戸時代の水道管)や石組材を再利用しているそうです。
穴蔵は厚い板材を舟釘で留め、隠し釘となるように端材を埋め、板材の間に槇肌(木の皮)を詰めて防水処理をしており、壁板の一辺に開けた水抜き穴から竹管がのびて桶に水が溜まる構造です。
この穴蔵の中から伊勢神宮の神官が大岡忠相の家臣に宛てた木札が出土しています。
所在地:東京都千代田区有楽町二丁目
参考図書
・大熊喜邦『江戸建築叢話』
・江戸幕府普請方『御府内往還其外沿革図書』
・東京市『東京市史稿』
・松平太郎『江戸時代制度の研究』
・沼田頼輔『大岡越前守』
・小山松吉『名判官物語』