土方歳三と宇都宮城の攻防

宇都宮城址 宇都宮城址公園案内板

宇都宮城富士見櫓(うつのみやじょうふじみやぐら)
宇都宮城址公園は清明台・富士見櫓の櫓2基、高さ10mの土塁が復元されている

 

慶応4年(1868)4月12日伝習第一大隊の隊長秋月登之助(あきづき のぼりのすけ。本名は江上太郎)・参謀土方歳三率いる旧幕軍先鋒隊が、東照大権現の旗を掲げ鴻の台(千葉県市川市国府台)から北関東に出陣。
4月13日布施宿、15日水海道宿に宿営。
4月16日宗道宿に泊まり、下妻陣屋(下妻藩)を下す。
4月17日下館城を降伏させ、城下に宿陣。18日蓼沼に泊まる。

4月19日朝に宇都宮入りし、宇都宮城(新政府に恭順)を攻撃。先鋒は土方率いる桑名士官隊、他に回天隊の少数名。土方は激しい戦いの最中に逃げ腰になった自軍の兵を刀で斬り捨て士気を鼓舞したという。砲撃をあびせ城下に火を放った結果、夕刻までに城を落した。

20日、鹿沼方面から大鳥圭介軍も入城。前軍の秋月・中軍の大鳥・後軍の御料兵隊長加藤平内で席順を争う場面もあったという。
この日、徳川陸軍隊・秋月と内藤隼人(土方)の連名で笠間藩に重役の出頭を求める書簡を記している。

しかし21日に新政府軍の増援部隊が南方の壬生城(栃木県下都賀郡壬生町)に入り、翌22日に侵攻開始し安塚(やすづか)で両軍激突、弾薬等の補給が困難な旧幕軍が敗走。

23日新政府軍は宇都宮市街に突入。土方は城北の二荒山に布陣し防戦。
要請を受け松ヶ峰門の守備につくが小銃で右足(指か甲)を撃たれて今市方面に護送された。
同じく破裂弾の散丸でわき腹を負傷した秋月と日光口今市で落ち合う。

24日再起を図るため日光街道を会津に向かう。従う新撰組隊士は島田魁、漢一郎、中嶋登、畠山芳次郎、沢忠助、松沢乙造らわずか6人だった。
この時土方は、東照宮を警備していた天然理心流の同門の八王子同心・土方勇太郎を呼び、歳三が斬り殺した歩兵の為の供養と墓の建立を頼んでいる。
26日会津領内の田島陣屋に到着。秋月と別れる。
27日土方は会津城下七日町の清水屋に到着。

 

松が峰門跡 松が峰門跡案内板

▲秋月が指揮していた松ヶ峰門(まつがみねもん)跡
門の両側には城を守るための土塁が南北に続き、東側は城内武家屋敷の中では一番の高台になっていた。
南門付近で戦っていたとされる土方歳三も負傷した。

宇都宮城址公園
所在地:宇都宮市本丸町旭1丁目

■■伝習隊と新撰組■■