▲興徳寺本堂
興徳寺は戊辰戦争中に元桑名藩主松平定敬(さだあき。容保の弟)・旧幕府筆頭老中板倉勝静(かつきよ)等の宿舎となり、新撰組副長土方歳三も往来した。
宇都宮城攻防戦での戦死者追悼の為、旧幕府軍衝鋒隊が当時の本堂で慰霊の法要を参列者六百名のもとで営んだ。
会津藩士秋月登之助
天保12年(1841)頃生まれる。本名は、江上太郎種明。父は田島代官の江戸又八、16石3人扶持。
江戸で幕府や他藩要人と親交を結び会津のために尽したが結ばず、フランス式の調練を受け幕軍に入り、歩兵第七連隊に転入する。
江戸城開城の際には幕軍陸軍奉行の大鳥圭介らと江戸城に立て籠もり、義兵を挙げて江戸から西軍を退去させようとしたが、大鳥は登之助の志に反して幕軍を率いて会津へ向かうことを決めた。
大鳥に推されて伝習第一大隊長となり、土方歳三が参謀として常に登之助を謙譲しながら補佐したという。
宇都宮城奪回戦にて破裂弾の散丸で脇腹を負傷し、同じく負傷した土方と今市方面に護送された。
会津領内の田島陣屋(福島県南会津)に到着した秋月は、田島代官の父のもとに残る。
その後若松に入り、松平容保と共に滝沢本陣へ赴く。
再出陣した母成峠の戦いで敗戦し鶴ヶ城に入る。女子たちを城内に誘導し、二の丸辺りの馬上で抜身の大刀を振りながら「君に奉ずるのはこの時だ。婦人は内へ男は出て戦え」と叫びつつ西軍兵に打って出たと伝聞されるが、その後の消息は絶えた。
登之助は背が高く色白、巨眼好箇の偉丈夫で、濃紺の上着に緋絨のズボンを履き、胸間に紐長く呼笛を吊るして、部下の兵達に認められるようにと容姿を顕著にしていたという。
▲秋月家・原田家・三原家合祀の墓
墓誌には「秋月登之助 明治十八年一月六日 行年四十四才」と刻まれているので、戊辰戦争当時は26~27歳位か。戒名は大心院義翁宗鉄居士。
臨済宗妙心寺派瑞雲山興徳寺(こうとくじ)
弘安10年(1288)鏡堂覚円大和尚が芦名盛宗に招かれ開山。
所在地:福島県会津若松市栄町2-12
■■伝習隊と新撰組■■
※蒲生氏郷の墓はいずれ記事にします