保科家に関わる人々」カテゴリーアーカイブ

飯野藩や保科氏の関連人物を紹介するブログ記事です。
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広徳寺開基保科正利の墓と会津藩による保科家譜査定

 

保科家紋の並九曜紋を掲げる広徳寺本堂保科正利公の墓と頌徳碑
創建時は西山根の上下村境付近(高下地区)に在ったとされ、現在の広徳寺は観音山南斜面の保科氏の館跡に建つ。
本堂は天明4年(1784)12月16日の火災で焼け、翌年再建された。

墓塔は本堂裏の弾正塚にあったもので、江戸時代の『保科村絵図』には広徳寺の裏手に「保科先祖塚」が描かれている。
天明4年(1784)の火災により墳墓は改葬され、その後墓域は竹が生い茂っていたが文政8年(1825)に頌徳碑が掘り出された。

円覚山広徳寺由緒
保科村の地頭保科氏の存在は断片的に諸史料に見られるが、大名保科家の先祖は戦乱で移住し館や菩提寺は焼けて当時の遺物は失われている。
文政の頃、広徳寺16世住職の楚賢は先代から語り継がれた寺伝を手がかりに保科家の歴史を調べ、保科村地頭の保科丹後守光利の嫡男正知(院号光善院)を正利と同一とみなし系譜をまとめた。

延徳元年(1489)に保科正利(まさとし)開基、越後州赤田荘洞福院の前住持松庵寿栄禅師を開祖として佛神山広徳寺を創建したとされる。
永正3年(1506)8月17日に正利が亡くなり正利の子の正則が跡を継ぐ。
永正10年(1513)3月、村上頼衡(よりひら)が高井郡に侵攻し広徳寺と須釜の保科氏の館が焼失。正則は子の正俊を連れて藤沢へ移ったとされる。
正則の弟左近将監正保は村上氏に降って保科の地に残る。保科郷五百貫の地頭となり、滝崎の館に居住した。
天文2年(1533)須釜の保科館跡に正保と3世住職の玉山春洞師により広徳寺が再建され、保科館の焼け残った裏門が現在の寺の総門として移築されたという。
江戸時代に山号を円覚山に改めた。

 
▲石祠に納められた位牌の「廣徳院…」「廣林院…」が見える
廣善院殿鈍牛芳鐵大居士」永正3年8月17日薨「保科正知
廣林院殿揩妥芳級大姉」 明応5年3月12日薨「保科正知 室
先に述べた通り楚賢は正知=正利とし、後述の経緯で位牌を作るにあたり院号の光善院を広善院とし、広徳寺開基者として広徳院殿を正利の院殿号にしたのであろう。
他の保科氏諸系図に正利の名は見られず、外部の記録では広徳寺開基者「保科弾正忠の弟の保科兵部」の法名とする古史料もある。
なお寺伝では弾正忠正則の弟で広徳寺を再建した左近将監正保とその妻の法名は「豪山院殿義雄居士」「劫外殿梅林芳蘂大姉」である。

開基頌徳碑文
公惟信東巨家當時英雄也延徳巳酉創廣
徳禪林請先師松菴壽永和尚爲始祖公咨
詢禪要師示石霜七去話公晝夜提撕一朝
聞過牛吼聲脱然契悟乃呈師於所見師曰
鐵牛不喫三春草吼破寒潭月一輪公與師
於一掌師曰如蒿枝拂著相似公曰尾巳己
露師曰鈍鐵放光公欣然曰謝師印可乃襗
拜覓法名於是號鈍牛放鐵大居士後永正
丙寅八月十七日公以病卒世子正則君遵
遣命使住持春永記其事時九月十二日也

大名保科家の祖として諸系譜に記される保科正則の父君の顕彰碑である。磨耗か故意的に削られたのか題字が判読できず、残る本文中には正利の名は刻まれていない。

 

『保科世家畧』刊行顛末
大名保科家の系図は複数の書簡や記録が残る高遠城主「保科正直」とその父「保科筑前守(正俊)」の代より前は伝説の域である。
楚賢は広徳寺開基が保科家の先祖であることを会津松平家(德川秀忠落胤保科正之から続く大名家)に伝えた。

江戸当時の保科家譜に、武田晴信(信玄)配下となった「正俊・正直親子」が藤沢に移る以前は保科郷に居り、移住の際の保科家当主は「保科正則」であると散見している。
ここに広徳寺開基を加えると、開基は正俊の祖父として移住の数年前まで保科家当主であったこととなる。
保科正知(=正利)──正則──正俊──正直─…

しかし会津藩役所から系図の矛盾点を指摘されてしまう。正則と正俊の年齢差が縮まり、親子では有り得ない。
楚賢は従来の保科家譜に正利を綜合するため、正則と正俊を年代近い正知と正利のように同一人物視はせず、保科縁の方々から史料を取り寄せて系図の整合性を探求し続けた。
文政4年(1822)江戸で会津藩7代藩主松平容衆との謁見が叶い、文政5年には奥方から戸帖と水引を拝領した。
楚賢提唱の保科氏系図は不採用で終わったが、既存家譜の内の保科郷保科氏所縁の寺としての待遇を得ることが叶ったといえる。

住職である務めとして楚賢は開基正利をまつる御霊屋(霊廟)建立を立案する。
広徳寺の位牌や過去帳は焼失しており、新たに御霊屋の位牌を作るにあたり、保科村保科氏の菩提寺として保科家の先祖を遡りそれぞれ法名をつけた。
そして幾度か飯野藩保科家・会津松平家に許可を願い出たが、両家とも正式な法名として認めなかった。

楚賢は隠居後も御霊屋建立の資金集めに奔走し、20町程離れた積石塚(古墳)の巨石を寺まで運ばせ石垣にして御霊屋建立の準備を進めた。
文政11年(1828)6月楚賢は広徳寺の由緒と保科氏祖先の頌徳を石に刻み形にする願いを込めて、保科郷保科氏から繋がる大名保科家の系譜を『保科世家畧』に記す。

天保11年(1840)楚賢示寂。御霊屋計画は18世住職の全光が引き継いだ。
天保12年(1841)3月、住職代替わり挨拶を機に、江戸芝新堀飯野藩邸飯野藩主のお目見えが許された。楚賢が数十年かけて叶えられなかった会津藩主・飯野藩主・旗本保科氏の謁見が全光の代で実現された。

 

──以上が広徳寺所蔵の書簡と記録、飯野藩主子孫所蔵の『御霊屋造営絵図面并御門絵図面仕様帳』等から辿れる概略である。
その後も御霊屋造営は会津・飯野両藩共に正式な許可が得られず、計画は潰えた。
寺伝では高遠保科家(高遠地域に在った保科氏支族か詳細不明)からの反対にあい、寺社奉行の命令で工事途中の御霊屋も取壊しとなったという。

高遠発祥の大名家という系譜を他地域に遡ることに反感があったとも憶測されている事件であるが、大規模な御霊屋の建立に問題があったのではなかろうか。
当時の大名家は細かな作法に則って法事を営んでおり、新たに菩提寺を増やすような願書は聞き入れ難いだろう。徳川将軍家との繋がりが深い保科家の祖霊と謳っては尚更である。

また、享保5年(1720)幕府は御霊屋建立禁止令を出している。世に言う享保の改革の倹約政策だが、全光の代もまた天保の改革の倹約令下で、藩が多額の造営許可と出資に応じる訳にはいかなかっただろう。
そして天保の改革では松代藩主真田幸貫が幕府老中に登用され手腕を振るい、名家臣の山寺常山が松代藩の寺社奉行となっている。保科村は松代藩領である。
弘化4年(1847)3月24日に善光寺地震と呼ばれる北信大震災に見舞われ、嘉永2年(1849)松代藩主の領内巡視しており、嘉永の御霊屋取壊しの頃の時代要因も関係するのかもしれない。

封建の世は過ぎ 長らく埋もれていた開基の墓と頌徳碑が建て直され、拝むことができるようになった。

 
▲楚賢の識語(文化13年)と積石

曹洞宗圓覚山廣徳寺 所在地:長野県長野市若穂保科1752

※無断転載を禁じます

* * * *

本件は御霊屋計画にのみ注目されがちだが、江戸時代の当時から大名家直々に保科家の系図の矛盾点について討論されていたことも興味深い。
追補として系図に関する所見は次の更新記事にて。

笹塚観音堂の飯野藩士寄進御手洗

 

笹塚観音堂御手洗
旧観音堂から移設した欄間の竜の彫刻は文政年間(1818~29)安房国分村の後藤喜三郎義信の作

 飯野藩主が建立したとの伝承があります。近年改築しました。
 堂前に元禄四年(1691)に寄進した御手洗が在ります。表に飯野藩の重臣15名の氏名が列記してあり、この観音堂が飯野藩とかかわりがあったことは確かであると思われます。
 元禄四年の四の字は亖と書いてあります(四は音が死に通ずるので、きらって亖または二をふたつ横に並べて書くことが行われました)

 藩主が江戸城へ伺候する時は、大手橋を通り観音堂に拝礼して小糸川に出て船で江戸に上りました。堂前の道路は枡形になっていますが、万一の時に敵の隊列を乱し防禦する為です。
(飯野地域活性化推進協議会案内板より飯野藩関連の箇所を抜粋)

 

奉竒進
大須賀氏 定久
多田氏 政次
八田氏 勝長
大出氏 政長
鷲見氏 将重
樋口氏 吉任
松井氏 安利
越村氏 利久
澤田氏 種重
箕崎氏 之信
髙須氏 素仲(?)
澤田氏 種春
和氣氏 重尚
中根氏 宗清(?)
中西氏 吉勝

側面は隠れているが『富津市史』によると
 上総国周淮郡笹塚観音堂 / 元禄四年辛末年九月十八日 敬□
とのこと(淮は異字)

当時の藩主は保科正賢(正祥)で元禄年間は大坂城加番、日光祭礼奉行に就き、この元禄4年(1691)には江戸城奥詰として江戸に在った。
そして飯野には先代保科正景が隠居しており、当地での神仏の信仰も厚かった。
飯野藩の家老職も勤めた大須賀三郎右衛門定久は、正景が再建した浄信寺の御手洗(手水鉢)も元禄9年に寄進している。
 

笹塚観音堂
所在地:千葉県富津市二間塚字北笹塚

麹町教授所学頭・元飯野藩の儒者服部栗斎

服部栗斎(はっとりりっさい)
名は保命、字は佑甫、通称は善蔵
享保21年(1736)4月27日飯野藩領摂津国豊島(てしま)郡浜村で飯野藩上方領代官の服部梅圃の四男として生まれる。母は上月(こうづき)氏。※頼春水『師友志』では小曽根の人とする
寛延2年(1749)14歳の頃に懐徳書院(懐徳堂)の五井蘭洲(ごいらんしゅう)に儒学を学び、特に中井履軒(なかいりけん。中井竹山の弟)と親交を深めた。

 
▲懐徳堂(かいとくどう)跡地と懐徳堂舊址碑

宝暦5年(1755)11月12日に父梅圃が70歳で死去。父の跡は兄が継ぐが、善蔵は兄とは別に俸を受けて飯野藩江戸藩邸に在り、飯野侯(保科正富)世子(保科秀太郎、後の正率であろう)の伴讀(伴読。貴人に書を読み聞かせる教師)役に抜擢される。
後に病で役を辞して、浪人儒者として静養の傍ら学を深めた。

江戸では村士玉水(すぐりぎょくすい。名は宗章、号は一斎。通称行蔵または幸蔵)に学ぶ。玉水の家塾「信古堂」は駿河台下の水道橋の辺に在った。
玉水によると佑甫(善蔵)は善く崎門(きもん。山崎闇斎の学統)を学んだという。
師弟の名は「西に久米訂斎と西依成斎あり、東に村士一斎と服部栗斎あり」と言われる程に高まっており、善蔵は尾張侯に招かれ講じて十口糧を由優賜されるなど厚遇を受けた。

安永5年(1776)1月4日、病に罹った玉水は善蔵に後を託し48歳にして死去。
遺言通りに善蔵が信古堂を継ぎ、築地に移る。

天明4年(1784)愛宕下の三斎小路(現在の港区虎ノ門1丁目。三斎は細川忠興のことで細川邸に通じる路から由来)に転居。
高山彦九郎(正之、仲縄)や頼春水ら学者・思想家の日記にも善蔵との交友がみられる。
以下例として寛政元年の高山彦九郎江戸日記より抜粋
十月三日…(略)…赤坂田町壱丁目を出て 愛宕の下三齋小路服部善藏所へ寄りて 子錦中風のことを告ぐ ※佐藤子錦(尚綗)が中風に罹った話をする
六日…(略)…服部善藏今朝予を尋ね来りしよし 出でゝ新大橋を渡りて濱町秋元侯の邸 水心子正秀所に寄る
十一日…(略)…三齋小路服部善藏所に入りて黒沢東蒙を□訪ふ語りて ※11月
二十五日…(略)…服部善藏所へ寄りし時に壹分を借りる事あり ※12月。彦九郎が金銭を借用

寛政3年(1791)10月、陸奥白河藩藩主松平定信の支援もあり、幕府により麹町善國寺谷の服部織之助の地590坪の内250坪を貸渡され麹町教授所を設立。善蔵が学頭となった。
『御府内往還其外沿革図書』の「寛政四子年之形」には善国寺跡傍、善国寺谷通東側2軒目に「服部善蔵拝借地」が書かれている。※それ以前は小川左兵衛。
麹渓書院(郷土史では麹渓塾、麹渓精舎などもある)を称し、昌平坂学問所の付属の役割をし学生を広く受け入れ進学生徒を排出する。麹は麹町、渓は善國寺谷の谷であろう。

 
▲善国寺谷・麹町教授所跡を望む

寛政4年(1792)7月21日巳刻(午前10時頃)麻布笄橋より出火した火災の飛火により学問所借地が類焼。
9月に林大学頭(林羅山から続く儒家当主。幕府儒官)・柴野彦助(栗山)・岡田清助(寒泉)ら昌平黌の教授達により善蔵が火事の手当金50両を受取ることが勘定奉行に認められた。(『御触書』)

 
名刹鎮護山善国寺碑と善国寺坂上
坂の上に鎮護山善国寺があったことから善国寺坂と名付けられ、坂の下は善国寺谷や鈴振坂と呼ばれた。善国寺は寛政10年(1798)の火事で焼失して牛込神楽坂替地に移転。跡地は火除地に召上られた。

寛政5年(1793)10月、病死した兄の住む借地を返納。12月永続手当として平河町に165坪の町屋舗を賜り、その税を学校の費用に充てたという。

 
▲中坂から町屋敷跡を望む。案内板の古地図の現在地の箇所に「教授所附町屋敷

寛政8年(1796)5月に善蔵は病を患い、12月に教授を辞した。
善蔵の正妻(大橋氏)に子はなく、庶子のうち男子は順に長太郎、順ニ郎、彌三郎。
長太郎は夭折し、教授を継がせる子の順次郎は幼年(この時8才)であったため門人に托した。
文化5年の絵図には「服部順次郎拝借地」となっている。

寛政12年(1800)5月11日善蔵死去。65歳(66とも)。麻布山善福寺に葬る。
善成院喜道居士
(現在、磨耗の進んだ「栗齋服部先生之墓」は立替により墓前灯篭の先に置かれ、中央に新しく関係者子孫の方により栗齋服部先生之墓が建立されている。墓所は撮影不可)
善蔵の門下として頼春水、頼杏坪(らいきょうへい。芸藩)、櫻田虎門、秦新村、都ツ築訓次、宮原龍山、宮原桐月、池田貞助、集堂三五郎ら多くの学者を輩出した。

 

■その後の麹町教授所
文化4年(1807)2月、順次郎が教授を継いだ。
文化9年(1812)6月、順次郎は周囲の期待に沿わず禁固罪を蒙り、町屋敷を取上げ年々金30両ずつ地代金の内より被下とした。
文化12年(1815)順次郎が病死。弟もこの時既に亡くなっており、順次郎の子も幼く病弱であったため養子を願うが叶わず麹町教授所の後継が途絶えてしまった。
文化13年(1816)12月に教授地は学問所(昌平黌)の持地となる。

天保13年(1842)2月に林大学頭が摂津守へ教授所再設を進達。(麹町教授所御再建一件帳)
5月15日に松平謹次郎を教授方に任命し、6月6日麹町教授所の再開を布令。
松平謹次郎は、御所院番本多日向守組松平兵庫助の弟。この時38歳。
文久元年の絵図には「松平謹次郎 学問所持地」とあり、謹次郎は元治元年(1864)まで教授を勤めた。

その後も御牧又一郎、大島文二郎、大久保祐介(敢斎)他一人を順に教授とし継続。
明治元年7月20日に鎮守府により接収される。その後敢斎に預けられ8月23日教授再開を東京府に命じられ11月10日敢斎は大得業生となる。12月27日学制改革により免職。

尚、信古堂は玉水の同門下で善蔵の親友である岡田恕が善蔵の意志を継いで経営に努めた。

 
▲平河天満宮と麻布山善福寺(墓所は撮影禁止)
平河天満宮(平河天神)
 江戸平河城主太田道灌公が城内の北梅林坂上に文明十年(一四七八年)江戸の守護神として創祀された(梅花無尽蔵に依る)
 慶長十二年(一六〇七年)二代将軍秀忠に依り、貝塚(現在地)に奉還されて地名を平河天満宮にちなみ平河町と名付けられた。
 徳川幕府を始め紀州、尾張両德川井伊家等の祈願所となり、新年の賀礼に宮司は将軍に単独で拝謁できる格式の待遇を受けていた。
 また学問に心を寄せる人々古来深く信仰し、名高い盲学者塙保己一蘭学者高野長英の逸話は今日にも伝えられている。
 現在も学問特に医学芸能商売繁盛等の信仰厚く合格の祈願等も多い。(境内の御由緒書より)

・「平河天満宮」所在地:東京都千代田区平河町1-7-5
・「懐徳堂旧址の碑」所在地:大阪府大阪市中央区今橋3丁目5-12 日本生命本店

飯野藩上方領代官服部梅圃と上月氏の墓

服部梅圃(ばいほ。篤叟)
名は行命、通称は與右衛門、号は梅圃。
服部氏は播磨国加東郡穂積村(兵庫県加東市)の名族で、與右衛門の父である服部道存飯野藩領の浜村(大阪府豊中市)に移住したとされる。母は前川氏。

父を継いだ與右衛門は飯野藩上方領代官となり、40年勤続。
また京の三宅尚齋(みやけしょうさい)の門下となり儒学を修めた。
梅圃は職務・学問共に徳高く、摂州内で令名をはせたという。
宝暦5年(1755)11月12日に死去。觀音寺の服部家の墓所に葬る。70歳。

 

 

貞粛媪上月氏之墓
服部梅圃の妻の墓。
上月(こうづき)氏の娘で、子は四男三女を生む。長男與一郎は若くして亡くなる。次男の藤五郎、三男の源八郎、末子善蔵共に学問に秀で、善蔵こと服部栗齋は江戸の麹町教授所の学長となった。
明和7年(1770)に亡くなり、梅圃の墓の側に手厚く葬られる。

 

 

上月氏も服部氏と同じく播磨の出で、飯野藩上方領の代官を勤めた。
現在の大阪府豊能(とよの)地域の上月氏は、赤松氏遺臣の中村氏らと共に播磨(兵庫県)から旧岡山村(大阪府豊中市)に移住したとされる。

 

応頂山西琳寺中村重直之墓
浄土真宗西本願寺末。本尊阿弥陀仏。
中村治右衛門重直は本願寺第12代宗主准如(じゅんにょ。顕如上人の3男)の弟子となり、宗善と法名し寛永5年(1628)に岡山村辻野に西琳(さいりん)寺を創立した。

中村家の墓域には上月氏の墓碑も点在している。

上月元右衛門範存の墓碑
岡山村の出で保科侯に仕え、濱村で安永9年(1780)に55歳で病没、郷里岡山村に葬った旨が刻まれている。

 

上月氏は村上源氏流赤松氏の支族で、『上月系図』では赤松頼則の三男の赤松右馬充則景から起きる。則景は建久2年(1191)7月4日に西播磨の佐用荘園の地頭となった。
則景の子の上月刑部少輔景盛(上月次郎)が上月荘(佐用郡上月村)に住む。
建武元年(1334)上月山城築城。景盛の子の上月刑部少輔景忠が居城としたとする。
※建武3年(1336)11月築城、景盛の子上月三郎盛忠の居城、他異説あり。
嘉永年間に上月氏の宗家は絶え、永禄年間に傍流上月十郎が浮田の家臣として上月城を守る。

中村氏も上月氏と同様に赤松氏族で、赤松三十六家のうち御一族衆に上月氏、當方御年寄に中村氏。
『播磨鑑』では加東郡の服部氏祖の郷里近くに在る金鑵城(金釣瓶城、かなつるべ)城主の孫中村六郎左衛門尉景長を祖とする。
景長は赤松侍従季房の六世の孫。左馬助光景、弾正少弼正景と子孫が続く。

同じく加東郡の堀殿城(河合城の支城小堀城)は、上月伊予守盛時(系図の盛忠と異なるが、景盛の嫡子とする)の居城として「上月城」と呼ばれた。

観応3年(1352)の光明寺合戦で大将赤松刑部少輔正資の侍として上月四郎、上月五郎、中村駿河守らが集った。
嘉吉元年(1441)8月に赤松兵部少輔祐則(祐之)の岩屋城が、兄の赤松満祐の反逆により細川勢に襲われ、上月・中村氏が岩屋城防衛に加わり勝利した。
長禄元年(1457)12月2日夜に中村弾正忠貞友ら中村一族や上月左近将監満吉ほか赤松家の遺臣達が吉野の南方両宮を襲撃し、中村貞友と上月満吉は二宮の首級を討ち取った件(長禄の変)の注進状(文明10年8月)が『上月記』に記されている。

────摂播にはいくつかの上月、中村氏(清和源氏多田氏族等)が存在する中、碑文等から推測すると共に岡山村に移ったのは上記の服部氏の故郷近辺を領していた東播磨の上月、中村氏ではないかと思われる。
※浜村陣屋の飯野藩士については模索中。時間をかけて調べていきます

 

▲西琳寺門前の天保2年(1831)建立のおかげ燈篭に「岡山村」
岡山村は寛永年間船越駿河守から明治まで代々旗本船越氏が領した。

西琳寺所在地:大阪府豊中市曽根東町5-4-5

下総国多古藩の多古陣屋跡

多古藩陣屋跡 多古陣屋鳥瞰図

多古陣屋跡と『千葉県多古町鳥瞰図』
多古(たこ)陣屋の南西、古峰神社のある多古台に多古城があったとされる。
天正18年(1590)8月徳川家康の関東入封に従い、信濃国(長野県)高遠城保科正直(まさなお)が下総国多胡(千葉県香取郡多古町)1万石を与えられ、慶長5年(1600)関ヶ原の合戦の勝利により徳川家臣の旧領が復活し、子の正光(まさみつ。飯野藩正貞の兄。会津藩主保科正之の養父)が高遠2万5千石で元の封地に戻るまでの約10年間保科家が統治した。

江戸時代は寛永12年(1635)駿河国(静岡県)の旗本久松(松平)勝義(かつよし)が8千石の領主となり、正徳3年(1713)松平勝以(かつゆき)が1万2千石の大名となって多古藩を立藩し、藩丁を陣屋に置いた。
松平氏は陣屋内でなく多古台下の屋敷に居住したが、保科時代の武家屋敷を引き継いだとも思われる。
以降明治4年の廃藩までの230年余りの間、久松松平家が藩主であった。

廃藩置県で多古県庁舎になり、多古県廃止後の明治6年に競売にかけられ、明治8年に御殿は多古学校に当てられ、多古小学校に引き継がれた。
昭和8年製作の多古町鳥瞰図の小学校(陣屋跡)の隣に久松子爵邸が描かれている。

多古陣屋跡石垣 多古陣屋跡石垣 多古陣屋跡石垣
多古陣屋の石垣跡
陣屋は現在の多古第一小学校の建つ標高15m程の小高い丘にあり、校庭の一部に相当するが遺構は僅かに高野前稲荷社天神社の裏に石垣が残されているのみである。
藩丁が置かれ、行政・居住のための邸地・長屋、倉庫、稲荷社等が建ち、馬場も備わっていた。
東側の陣屋下の南北に伸びる下馬通り(県道)沿いに表門・中門・裏門が並び、石垣下の堀に朱塗りの橋が正門へと架かっていたという。堀は表門周辺から陣屋の北側を囲うように直角に折れ、木戸谷(きどやつ)奥の池(小学校正門前付近)に続いていた。
競売記録に邸地800坪、山地(森)500坪、囚獄(しゅうごく、牢獄や番小屋等)囲地100坪とあり、その他建造物をふまえると陣屋面積は15000㎡はあったようだ。

多古陣屋下総名勝図絵

多古と千葉氏
多古地域は古くは千田荘(ちだのしょう)と呼ばれる荘園であった。
平安時代の公家藤原下総守親通は、保延2年(1136年)に下総の在地領主千葉常重から領地を取上げたという。親通の子の親盛もまた下総守として領地を継ぎ、平清盛の嫡男平重盛に娘を嫁がせ平家との繋がりを深めた。
親盛の子の親政は千田荘領家判官代として千田氏を名乗る。
治承4年(1180)源頼朝が平氏方に敗れて房総に渡った際、千葉荘の千葉常胤(常重の嫡男)は頼朝を迎え、平氏一門への抵抗を顕にし、親政の目代(代官)を成敗した。
9月14日千葉荘へ大軍を率いた親政を、常胤の嫡孫小太郎成胤が僅か数騎で迎打ち生捕りにし頼朝へ差し出した。(『吾妻鏡』)
千田荘は成胤の娘千田尼(北条時頼の後室)、甥胤綱が千田次郎を名乗り継いでいく。
胤綱の娘、その子宗胤が、永仁2年(1294)元寇で元軍と戦い肥前国で命を落した父大隅守頼胤に代わって九州に赴くと、留守を任された弟の胤宗がを千葉惣家を掌握してしまう。

千葉氏本領の千葉荘は胤宗の子貞胤が、千田荘は宗胤の子の胤貞が継ぎ「千田殿」と呼ばれた。
建武元年(1334)12月1日胤貞は肥前国小城郡や千田荘の総領職を子胤平に譲る。
その翌年から南北朝の戦いで千田貞胤と千葉胤貞が敵味方分かれ、結果、貞胤側が宗家を存続する。
千田荘は胤平の弟の胤継に渡り観応元年(1350)胤継が千田荘の倉持阿弥陀堂に免田を寄附している。
※多古にまつわる千田氏は次浦(多古町)本貫の次浦八郎常盛の孫千田次常家の末裔等、諸系統あり『千葉大系図』等では千葉常胤の弟千田次郎胤幹(松蘿館本系図の千田弥ニ郎胤鎮と同一か)が領主で、子の次郎太郎胤氏が継いで多古胤氏を名乗り、三男の胤満の子の胤春が千田荘の地頭となって再び千田氏に戻したようだ

 

関東動乱期の多古城
文安元年(1444)には宗家の千葉胤直(ちばたねなお)が領していた。
享徳3年(1455)古河公方(こがくぼう。鎌倉公方)足利成氏(しげうじ)と関東管領上杉憲忠(のりただ)の対立で、どちらにつくか千葉一族で勢力が分かれてしまった。
康正元年(享徳4年)4月、分家の馬加康胤(まくわりやすたね)と執権原胤房(はらたねふさ)らが亥鼻(いのはな。千葉)城を急襲し、胤直の子の胤宣(たねのぶ)は多古城に避れた。
8月12日に多古城は落ち、胤宣はむさ(武射か)の阿弥陀堂で自らの血で「見てなげき聞きてとむらふ人あらば 我に手向けよなむあみだぶつ」と壁に辞世を書き遺して自刃した。未だ15歳(12歳とも)の美男で、共に割腹した従者も年若い者ばかりであったという。14日に胤直の志摩砦も陥落し、翌日胤直は多古妙光寺で自刃した。尚、胤直の弟胤賢の子孫が千田氏称している。

妙光寺山門 妙光寺本堂
妙印山妙光寺総門と本堂

戦国時代の多古城
千田氏支族の牛尾(うしお)氏は、千田庄牛尾郷(多古町牛尾、うしお)を本拠とした。
多古領主であった三浦入道を滅ぼして多古城に入り、新たに城を整備して城山に移ったという。
天正13年(1585)7月に多古城主牛尾能登守胤仲(たねなか)は飯櫃城(山武郡芝山町)主の山室常隆(やまむろつねたか)の子の氏勝(うじかつ)との戦いに破れ、隠棲する。
『山室譜傅記』では、弘治元年(1555)6月12日胤仲は山室常陸と佐野原で戦い胤仲の弟の薩摩守が討たれた。胤仲は再起を図り閏10月3日に飯櫃城を攻めるが落せず、逃れた小原子の妙光寺を囲まれ果てたとされる。しかし胤仲が娘の病気快癒祈願に妙光寺へ寄進した鰐口に「天正五年丁丑月六日 大旦那牛尾右近大夫胤仲」と刻銘があり、弘治以降も生存しているはずである。

天正18年(1590)8月徳川家康の関東入封に従い保科正直が多古1万石を与えられる。
12月27日近隣を支配していた山室氏の反抗に対し、家督を継承した正光は大熊大膳対馬守を大将として飯櫃城へ進軍、翌日落城し山室常陸守光勝(氏勝の子)は自害した。
※前述の『山室譜傅記』によるので創作の可能性もあるが、実際にこうした在郷勢力の抵抗はあったのだろう
飯櫃の記録と飯高の正則の墓正直が信仰した樹林寺の位置関係から、保科家の領地は八日市場の飯高(匝瑳市)~小見川の銚子道に沿った地域、芝山町の旧千代田村を領したと思われる。

多古に移って間もなく正光は文禄の役や上杉攻めで家康に従軍し、関ヶ原の戦時に浜松守備、戦後に越前の庄城の城番となる等で多古を離れていたため、多古の民政は家老北原采女佐光次篠田半左衛門隆吉一ノ瀬勘兵衛らに任せていたようだ。

 

江戸時代の多古陣屋
慶長6年(1601)正光が高遠へ転封し翌年には幕府直轄地となり、関東代官頭長谷川七左衛門が管轄。
慶長9年(1604)に田子(多古)村含む5千石は越中国(富山県)布市(ぬのいち)藩1万石の藩主土方雄久(ひじかたかつひさ)が替地として宛がわれる。
※田子は本領ではないが、慶長13年(1608)雄久が本領能登石崎より田子に陣屋を移したとの記録から田子藩が成立したとの解釈もされている。
慶長13年(1608)11月12日雄久が死去し、次男雄重(かつしげ)が遺領の散地1万石と田子5千石を継ぐ。
元和8年(1622)雄重が陸奥国窪田(くぼた。福島県いわき市)藩主となったので、多古は御料地として代官南条帯刀(たてわき)支配所となる。

元和9年(1623)多古の一部の南玉造等が生実(おゆみ。千葉県千葉市)藩主酒井重澄(さかいしげずみ)の領地となり、その後、寛永10年(1633)の領地替えまで佐倉藩主大炊頭土井利勝(どいとしかつ。江戸老中)が領する。

寛永12年(1635)11月9日松平勝義が駿河の領地を多古牛尾諸村8千石に移す。
勝義は、家康の異父弟久松康俊の娘婿の子で、康俊の妹が保科正貞の母多劫である。
多古領は勝義の次男勝忠(かつただ)が継ぐ。
正徳3年(1713)勝忠の末弟の勝以が加増され1万2千石の大名となり多胡藩を立藩した。
以降、勝房(かつふさ)、勝尹(かつただ)、勝全(かつたけ)、勝升(かつゆき)、勝権(かつのり。井伊直弼の兄)、勝行(かつゆき)まで代々続いた。
戊辰戦争時藩主であった勝行は、徳川家との決別の意を示すために久松姓に戻し、版籍奉還により知藩事に任じられた勝行は隠居し、多古藩は長男勝慈(かつなり)の代で廃藩を迎えた。

多古小学校校庭前 志摩城方面
▲多古陣屋の敷地であった校庭と志摩城(島)方面(多古城址はこれより右方向)

多古町高野前稲荷社 多古町切通天神社
高野前稲荷社社・天神社城山の天神社
久松氏の先祖は菅原氏とされ、松平勝義は多古陣屋の森に天満宮(菅原道真)を守護神に祀り、信仰していた正一位稲荷大明神を総本社伏見稲荷より分祀し、同一社屋に祀った。
昭和56年多古第一小学校建設の為、社屋取壊しの上、妙光寺裏の高台に仮安置され、平成12年3月25日この場所に遷座した。
(碑の神社由来要約。表に菅公の詩東風吹かば 匂ひおこせよ梅の花 主なしとて春を忘るな
多古城の在った多古台は土地開発で均されてしまった。
天神社が鎮座する丘は「城山」と呼ばれ、多古城の出城であったという。
古くは丘が繋がっていたが、後年、道路を作るために切り開かれて独立した丘になったことから「切通」という地名になった。

多古町立多古第一小学校所在地:千葉県香取郡多古町多古2547

▼関連サイト
多古町:https://www.town.tako.chiba.jp/
▼参考図書
・多古町史編さん委員会『多古町史』
・多古町教育委員会『多古町名所百選』
・芝山町史編さん委員会『芝山町史 山室譜伝記』
・芝山町教育委員会『総州山室譜伝記』
・『千葉県香取郡誌
・清宮秀堅『下総国旧事考
・千野原靖方『戦国房総人名事典』
・『下総古城趾』
他、記事中記載の史料、案内板等