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飯野藩の茶園掛建立供養碑─藩と県

飯野藩 開發人一綂
明治二己巳年十月廿一日
無縁佛
御茶園掛

明治元年(1868)新政府下の房総では大総督府の知県事管轄の県と、従来または移封された藩が併置された。10月に諸藩へ政府基準の職制に改めるよう藩治職制を布達する。

明治2年(1869)3月、前年の藩治職制を受け飯野藩は房総諸藩で最も早く藩制改革が行われた。(『千葉県議会史1巻』)
また同月15日には飯野藩主保科正益は版籍奉還──諸侯が治めていた土地と人民を天皇へ変換すること──を新政府に上表している。
版籍奉還において旧藩主は政府のもと世襲ではない地方知事に任命され、6月22日に正益は飯野藩知事となる。(『千葉県誌』)

飯野陣屋に藩庁を置いた飯野藩では茶園掛を設けて茶園を開墾したことが、この明治2年10月21日付の供養碑から読み取れる。
詳細は不明で、碑に刻まれた文字の範囲で『富津市史 通史』でも茶園開墾時に出土した無縁仏を供養したものとだけ伝えている。
※隣の手水鉢は明治25年9月吉日とあり地蔵と共に追悼か移したものかは不詳

この年6月と翌年9月にも藩制改革を行うなど政府の意向に順応し、一方で正益は会津侯松平容保父子の家名存続の歎願に奔走する等多忙を極めた頃である。

明治3年(1870)10月4日に摂津・丹波・近江三国の飯野藩支配地を政府が接収し現地の兵庫・久美浜・大津県管轄になる。翌日周准郡に替地を下賜される。この際、1,363石強の不足高が生じた。

明治4年(1871)廃藩置県により正益は7月14日をもって飯野藩知事を免官
飯野県となるも同年11月13日に廃止となり木更津県に統合され、木更津県権令には柴原和が就任した。
翌5年(1872)2月7日に土地人民の引渡が行われる。
ここにおいて柴原権令は勧業として製茶を挙げ、茶種の売捌きについて布達している。
しかし飯野地区に製茶業は根付いた様子はなく、個人規模の茶畑がみられる程度に留まり、そのような茶畑も昭和の戦後には姿を消したようだ。
富津市の郷土誌でも旧周准郡域の製茶の項目は近代茶業の第一人者として著名な多田元吉について出身地(富津市富津)の縁で項を割いている。

以上のように飯野藩が仮に明治2年に茶園地を開墾したとすると廃藩まで約2年、茶樹の育成には数年かかるため、藩営の茶園は製茶まで至らなかったのかもしれない。
現在では内裏塚古墳の脇を通りかかった折に無縁佛の冥福を祈るばかりである。

所在地:千葉県富津市二間塚 内裏塚古墳そば

初期の飯野藩保科邸と吉良上野介邸

元禄江戸城周辺

▲元禄年間の絵図では鍛冶橋門内に飯野藩保科邸(兵部少輔正賢)と吉良上野介邸。
呉服橋門内に南町奉行所(能勢出雲守邸)、和田倉門近くに会津藩邸(3代藩主正)が在る

呉服橋の南には鍛冶橋(現在の東京駅八重洲口南側)がかかり、鍛冶橋門のそばに忠臣蔵のモデルでお馴染み吉良上野介義央が生まれたととされる屋敷の隣に飯野藩保科家の上屋敷(寛永10/1633年4月に2代藩主保科正景が賜わり元禄11年9月18日まで在)がありました。後の貝淵藩林邸の2軒隣の邸地です。

※米澤城主上杉綱勝を介して吉良義央と繋がる会津藩の保科肥後守…保科正之は、高遠城主時代の寛永10年2月に桜田門内に上屋敷(西の丸のすぐ脇。会津藩2代藩主保科筑前守正経の代まで在)を賜り、6年後の山形城主時代に芝新銭座を賜り下屋敷(正経の代から上屋敷。庭園を造り箕田園と呼ぶ)としています

元禄11年(1698)9月6日午前10時江戸の大火で吉良邸・保科邸が類焼してしまい、飯野潘3代藩主保科正賢(兵部少輔)は麻布村の地を与えられ、吉良上野介は呉服橋門内の後に北町奉行所が建つ場所に移りました。
鍛冶橋内の屋敷跡には10月5日に町奉行松前伊豆守邸が営造され、ここが南北町奉行所となります。

元禄14年(1701)3月14日、将軍家勅客式(朝廷から江戸城に下向する使節を迎える)当日に、勅使御馳人(使節の供応係)の浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)こと赤穂城主浅野長矩(ながのり)が私怨により、式の指導にあたっていた奥高家(幕府の儀式儀礼を司る)吉良上野介を松の廊下で斬りつけました。
夜に内匠頭は殿中(でんちゅう)刃傷(にんじょう)により切腹を申付けられ、彼の家臣達は主君と屋敷そして赤穂城をも失うことになります。

お咎めのなかった吉良上野介も自ら免官を願い表高家(非役中の高家)となりますが、8月19日に本所松坂町の松平登之助(駿河守)邸へ屋敷替えを命じられます。
12月11日に上野介は引退を願い出て養子の左兵衛佐義周(さひょうのすけ よしかね)が家督を相続しました。

元禄15年(1702)12月15日未明、内匠頭の遺臣大石良雄(内蔵助)と四十六人の赤穂浪士が本所宅を襲撃し上野介を刺殺します。享年62歳。
警備の行き届く呉服橋門内から、あえて討入りさせやすい場所に屋敷替えをさせたとも噂されました。

参考図書
・東京市『東京市史稿
・江戸幕府普請方『御府内往還其外沿革図書』
・義士叢書刊行会『赤穂義挙録』
・三田村鳶魚『元禄快挙別
他。江戸絵図等

飯野藩「浜屋敷」

飯野藩浜屋敷跡 飯野藩浜屋敷案内板

上総国(千葉県)飯野藩は慶安元年(1648)飯野陣屋に藩庁を置いたが、同じ頃に上方所領の代官所を摂津国豊島郡浜村(大阪府豊中市浜)の天竺(てんじく)川東岸に置き、豊島・能勢・河辺・有田の四郡、丹波国天田郡、近江国伊香郡の租を輸した。
土地の者は浜屋敷と呼んだ。
安政年間に発行された飯野藩の藩札(藩が発行する紙幣)の銀札摂津飛地札に「攝州濱村 預り切手・摂州濱屋舗(摂州豊嶋郡濱屋舗・摂刕濱屋舗)引替會所」等、浜屋舗(屋敷)の文字がある。

東西約35間(約64m)、南北約51間(約93m)の長方形の屋敷で、東側中央に門があり、その正面に役所、北に接して牢屋敷もあったとされる。

浜村陣屋推定位置

▲古地図からの浜屋敷推定位置(2013年現在の地図、上が北)
文化7年制作と言われる『小曽根郷六箇村絵図之写』に描かれた「御屋敷(やしき)」と、名神高速道路が通る前の航空写真、今西氏屋敷の史料・絵図と比較すると現在の浜3丁目5番地辺りに重なります(絵図が元なのでおおよその位置です)

浜屋敷の北東の今西屋敷は中世の荘官(目代)屋敷で、春日社の社家出身の目代今西氏36代目である今西春房は明智光秀の娘を娶り、弟の今西春光が山崎の戦いにで明智方についたため豊臣秀吉に所領を没収されてしまったと伝承されています。
その後、浜の領主となった飯野藩保科氏の庇護で復興を許されたそうです。
明治時代に再び廃されましたが府指定史跡として屋敷が残されており、現在も今西家の方が住まわれています。

 

浜屋敷東側 浜屋敷西側中央

▲浜屋敷の東側と、西側中央
左写真の白い老人ホーム建物向かいのアパート付近に浜屋敷正門、天竺川を背にして撮った右写真の小道の先の付近に役所が在ったと思われます。

名神高速道路の高架下 浜屋敷西側

▲浜屋敷跡の碑遠景と天竺川堤
碑の背後の草地には石や溝がありますが、道路や名神高速の高架工事時のものでしょうか。
浜屋敷西沿いにあたる天竺川の堤も高架の高さに積まれた岩が露出しています。

新天竺橋 天竺川

▲新天竺橋と天竺川
古地図には橋は無いですが、この新天竺橋辺りが浜屋敷敷地南西の角であったと思われます。
右の写真は橋から高架に向かって流れを撮影。現在は岸・川底共にコンクリートで固められています。

光久桂治氏の敷地 旧浜村集落の古民家

旧浜村の集落は今も民家がたち並んでいます(右写真)
左写真、地主さんの蔵と奥の家宅は近年建替のようですが、手前二棟の場所には昭和初期から建物が在りました。

 

飯野藩浜屋敷跡案内板
飯野藩上総国飯野二万石保科氏は 大坂夏の陣で天王寺表に功あり
よく大坂定番をつとめ 慶応四年鳥羽伏見の戦いの前の動乱時
藩主正益が京橋口定番であったので 領民も大坂城につとめたという。
慶安年中当地に代官所をおき浜屋敷と称し 藩札を発行し 天田郡一揆を解決する。

所在地:大阪府豊中市浜3丁目

参考図書
・佐野英山『藩札図録
・豊中市史編さん委員会『新修豊中市史』(付録「小曽根郷六箇村絵図之写」)
・豊中市教育委員会『春日大社南郷目代今西氏屋敷総合調査報告書』
・橘田正徳『大阪府指定史跡春日大社南郷目代今西氏屋敷』

飯野藩の藩校「明新館」

飯野藩「明新館」跡地 木漏れ日の差す藩校跡地

 江戸時代末期に飯野陣屋内の三の丸、三条塚古墳の前方部から東側くびれ部にかけて飯野藩の藩校「明新館」が設立され、士族の子弟を対象に支那学(漢学)中心に教育した。

 2年を一期として六等級、入学は8歳で(素読生の六等)、12年間就学し19歳(講習生の一等)で卒業。卒業後は専門の学問を研究させる。
 正月17日から12月25日まで開校され、1、6の日が素読生と質問生の休みであるが、6の日は詩文会が催されるので余力のある者は参加しなければならなかった。試験は春・秋2回。

 職員としては学問教授、副教授が置かれたが、明治3年12月改正して学校教長、副教長、助教とした。教長1、副教長3、助教似2人がおり、当時生徒は83人居たという。
 後年下飯野北小学校となった。

 

明新館学則 [●専力(主たる教科書) ▲兼力(副読本) ■余力(準副読本)]

・素読生(漢文を音読する)授業:午前7時~9時
[六等]
●孝経、四経 ■三字経、千字文
[五等]
●詩経、書経、礼記 ■春秋、易経

・質問生(解読し質問する)授業:午前9時~11時
[四等]
●論語、孟子 ▲十八史略、国史略、蒙求 ■孝経、元明史略
[三等]
●左伝、学庸 ▲史記、日本外史、地球略説 ■漢書、作詩、文書規範

・講習生(教師から講習を受ける)
[二等]
●詩経、書経 ▲歴史網鑑、大日本史、瀛寰史略 ■資治通鑑、八大家文、作文
[一等]
●礼記、易経 ▲論衡、貞観政要、万国公法 ■博物新論、武経開宗、令義解

 

 学者の織本東岳(履道)が明治2年に飯野藩主保科侯に招かれて明新館の教授となり、更に校長を務め、同年10月に権大参事(幕藩体制での家老や現在の副知事に相当)に任ぜられた。
 通称は徳輔。明治初年に現在の富津仲町に学塾「始愛舎」開塾。
 小林一茶と交流のあった女流俳人織本花嬌の曾孫にあたる。

 

 また、嘉永年間(1848~1854年)頃から飯野村内に庶民にも読書・習字を教える寺子屋が多く在ったが、明治5年(1872)の学制発布によって廃業となる。

参考図書・サイト
・富津市史編さん委員会『富津市史
・千葉県教育会『千葉県教育史 第1巻』第五節 明新館
・富津市ホームページ http://www.city.futtsu.lg.jp/

飯野陣屋の屋敷稲荷(飯野神社)

飯野神社 飯野神社の石灯篭

 本丸の西に接する屋敷稲荷は最初、稲荷塚の墳丘上に鎮座していたが宝暦八(1758)年に第6代藩主保科正宜によって稲荷塚から今の場所に移された。
 明治政府が明治39(1906)年12月に一町村一社を原則に神社を統廃合し数を減らす「神社合祀令」を発布し千葉県下でも実施され、明治44(1909)年4月20日に堰田の八坂神社を始め、7月17日の下飯野神明神社を最後として二年間に飯野村内の全ての神社を取り壊し、15社を合祀して社号を飯野神社とし新しく社殿を増営した。

飯野神社

▲正面の綺麗な拝殿は平成に入って新築されたもの。

 

 案内板によると祭神は保食命、相殿神は建御名方命など。
 食物神である保食命は豊穣をつかさどる稲荷神社の祭神、建御名方命は保科家のルーツである諏訪の神なので、近隣の諏訪宮を合祀したよりも先に相殿神として祀られていたのでしょうか。(機会が有れば調べてみます)
保科家の家紋は「並九曜」と「梶の葉」であるが、梶の葉は保科氏が諏訪の神裔であることに由来するという。

 諏訪神としての建御名方命は諏訪に移った際に諏訪湖の龍神を征した経緯があるが、護国のため龍神となる伝承もある。飯野陣屋のお濠の水が枯れないよう雨乞いのため竜神の舞を奉納するという伝統行事にも関わるのかもしれない。

飯野神社

▲こちらの額の飯墅(飯野)神社の社号はだいぶかすれている

庚申塔の三猿と狛犬 飯野神社の石祠や石仏

庚申塔の三猿や明治初期の狛犬御嶽三柱大神の神号碑
 石祠や石仏が集められている

飯野神社 末社

 飯野神社稲荷口稲荷神社と共に合祀された神社は、記念碑に「本丸の楠稲荷神社」「内小平田稲荷神社」「堰田の八坂神社」「森山の日吉神社・末社の厄神社」「神明山の神明神社・末社の佐田社・住吉社」「上五畝田の八坂神社」「北御堂谷の菅原神社」「鹿島の日吉神社」「本谷の八坂神社」「向谷の日吉神社」「上の宮日吉神社」「本村の神明神社」「百目木の日吉神社」「東内裏塚の珠名神社」とある。

 祭神は、君津郡誌下巻の飯野神社の項目では、保食命(うけもちのかみ)、建御名方命(たけみなかたのみこと)、大國主神(おおくにぬしのかみ)、稚産靈命(わくむすびのみこと)、素盞鳴命(すさのおのみこと)、倉稲魂命(うかのみたまのみこと)、迦具土神(かぐつちのかみ)、大山咋命(おおやまくいのみこと)、誉田別尊(ほむたわけのみこと※応神天皇)、大己貴命(おおなむちのみこと) 、天照大御神(あまてらすおおみかみ)、佐田彦命(さるたひこのみこと)、中筒男命(なかつつのおのみこと)、菅原道真(すがわらのみちざね)公、聖神(ひじりのかみ)、末珠名(すえのたまな)とある。

* * *

政令で一社にまとめたので仕方ないことですが、天津神も国津神も天神様もいっしょくたですね……

参考図書
・富津市教育委員会『富津市文化財ガイドブック』
・富津市史編さん委員会『富津市史
・君津郡教育会『君津郡誌