三宝寺[2]-佐倉藩士小谷金十郎と三浦蔵司の墓

佐倉藩士小谷金十郎と三浦蔵司の墓 佐倉藩士の碑

▲佐倉藩士小谷金十郎と三浦蔵司の忠死墓
石碑の篆額は下総国佐倉藩(千葉県佐倉市)藩主堀田正倫(ほったまさとも)による。
旧佐倉藩士依田百川(よだひゃくせん。學海。森鷗外の師)撰文。

 

慶応4年(1868)閏4月14日上総国佐貫藩(富津市佐貫)藩主は、家臣の脱走を見過ごし請西藩藩主林忠崇らの軍に加入させ富津陣屋を脅嚇した罪を問われ、城と兵器を明け渡し謹慎することとなった。

19日には佐倉藩が佐貫藩の領地取調べを命じられ、岩滝伝兵衛が総勢150人を率いて佐倉を出発し、21日に佐貫城に入った。

翌5月18日の未明、木更津で結成された義軍を名乗る貫義隊に突如佐貫城を襲撃され、佐倉藩兵の小谷金十郎(37歳)と三浦蔵司(24歳)が討死した。
戦死した両者は佐貫の地で弔われ、忠死墓が佐貫城の西の勝龍寺(三宝寺)に建てられている。

小谷金十郎の墓 三浦蔵司の墓
「北総佐倉臣小谷金十郎忠死墓」「北総佐倉臣三浦蔵司忠死墓」

三宝寺(三宝山勝龍寺)については三宝寺[1]-勝山藩士福井小左衛門と楯石作之丞の墓