諏訪神社碑 従二位勲一等子爵榎本武揚篆額
上總峰上郷諏訪神社祭建御名方命嘉應二年所創立
也治承四年源頼朝敗於石橋山航自真鶴崎遁安房尋
至上總途過此社使別當快源祈興復快源懇祷曰若使
源氏再興則生水以兆之一夜泉忽湧頼朝感喜名曰源
氏水乃檄四方八州豪族響應遂成覇業因献祀田弐段
餘歩風霜経久社宇頽壊天文九年里見義弘重修之雕
桶飛甍煥然照眼十一年十一月里見氏与北条之兵戦
于三船山時掬此水以祷戦捷獲勝乃建華表納金幣明
治廿二年祠官毛利元継恐霊蹟将湮滅欲建碑伝後世
謀之郷豪諸氏争損貲属予記之乃繋以詞曰
檻泉觱沸 地顕其竒 戎馬奔騰 人開覇基
油油胦田 以供馨栥 巍巍華表 以致鴻釐
威霊千載 建斯豊碑
明治廿二年十一月
従七位 重城保撰
従四位勲四等 金井之恭書
白井半右エ衛門刻
建碑時の榎本武揚は文部大臣。戊辰年に海軍副総裁として旧幕府艦隊を率いて館山沖に停泊し請西藩主林忠崇らの渡航を支援。東北、蝦夷へ渡って官軍に抗い、箱館の降伏後は明治政府に出仕し中核をなした。
重城保は当時は望陀・周准・天羽郡長。高柳(現木更津市)の名主で維新後は行政官や実業家として土木・教育等多方面で郷里の発展に尽くした。重城家の祖先は里見氏一族であったという。
金井之恭は明治の三筆に数えられる書家で、当時は元老院議官。上州の画家金井烏洲の子で勤皇家であり、戊辰戦争では新政府側につき新田官軍の重鎮として転戦した。
白井半右衛門は志駒村の名主で、惣代人。
碑文中の祠官毛利元継は隣に建つ「毛利元継碑」に功績が刻まれている。
社伝では嘉応2年(1170)11月5日創建。
治承4年(1180)源頼朝が別当普賢寺快源に戦勝祈願の祈祷させると清泉が湧き、地元では源氏水と呼ばれている。後に頼朝は神田寄付をした。
永享3年(1431)太夫五郎が薬師三尊を寄付し御神体として神殿に安置。
(後に普賢寺所蔵。銘大貫峯上師子馬薬師堂敬白法眼永亨三年庚戌八月廿五日敬白法眼旦那大夫五山作者道観)
天文8年9月3日真里谷入道全芳が鰐口一個寄付。
天文9年里見義弘(里見系図によると若年)が大旦那となり7年社殿落成。
永禄10年北条氏との三船山合戦に際し里見義弘が必勝祈願。
天保8年社殿・拝殿を修繕。
万延元年(1860)本殿造設。
明治の神仏分離で諏訪大明神から諏訪神社に神号を改め普賢寺別当職をやめ、御神体を普普賢寺へ移す。
明治6年(1873)2月に郷社となる。
明治22年(1889)諏訪神社碑建立。
■普賢寺
新義真言宗智山派真福寺末。榮源が開基という。行基作とされる薬師如来(不動明王とも)を安置。
里見義弘の家臣加藤有補軒が記したとされる『智明山縁起』は富津市市指定有形文化財で、諏訪神社碑の碑文と同様の内容が認められる。
■毛利元継碑
昭和6年建立の諏訪神社祠官の毛利元継の公徳碑。
社寺兵事課長の広橋真光伯爵の題、和田和の書、八剱神社社司の八剱功の撰。
社前の馬場の両側の松林は「諏訪の森」という。
正面の氷室山は、文明年間に里見義実が真里谷道環を環城を攻めた際に本陣としたとされる。
山頂の雨乞塚の近くにかつて源頼朝が母衣を掛けて「我軍利あらば永く枯死すること莫れ」と願掛けをした「母衣懸松」があり巨木となったが慶応年中に落雷により倒れてしまったという。(『總國誌』)
諏訪神社所在地:千葉県富津市小志駒(こじこま)字南188