八重の桜」カテゴリーアーカイブ

八重の桜登場人物の史実覚書。
※大河感想は通常の雑記扱いでこのカテゴリーから外します。

山本覚馬と後妻小田時栄

大河ドラマが京都での山本家の騒動にさしかかり、過去の覚書「川崎尚之助と山本一家・八重との関係」にアクセスが集中しているのが申し訳ないので、覚馬の後妻・時栄の周辺について追記します。

※「八重の桜」のネタバレにもなりますのでご注意下さい

 

 

■山本時栄(ときえ。時榮・時枝・時恵・時惠とも)
嘉永6年(1853)5月7日 に京都御所近くに住む丹波の郷士、小田勝太郎(隼人)の四女として時栄が生まれる。

文久2年(1862)12月24日会津藩主の松平容保が京都守護職に任命され上洛、元治元年(1864)2月に37歳の山本覚馬も上洛。大砲奉行林権助のもと御所の警固にあたり、また6月頃に洋学所を開いて教鞭をとった。
その年の7月19日の禁門の変での戦闘が原因か覚馬の視力が急激に衰えて清浄華院で療養、翌年から鉄砲の買付に赴いた長崎でオランダ医師A.F.ボードウィンに失明を宣告される。
慶応2年(1866)頃、御所に出入りをしていた父小田勝太郎を通じて13歳ほどの時栄が目の不自由な覚馬(39歳)の世話を始めた

 

土佐藩の建白を受けた徳川慶喜が慶応3年(1867)10月14日政権返上を明治天皇に上奏、15日に大政奉還勅許。
12月9日王政復古の詔勅により幕府の機関が廃止され、京都守護を任されていた会津・桑名藩兵に代わって薩摩・安芸・越前・尾張藩兵が宮門の警備についた。11日に長州軍が入京し、旧幕臣の多くは不満を抱えたまま大坂城へ退き、慶応4年(1868)正月朔日、林権助率いる会津藩士はじめ徳川慶喜を支持する諸藩が出兵。
伏見方面も戦場となり、京に残っていた覚馬は蹴上で正月3日に薩摩軍に捕らわれた。
※『薩摩藩兵具方一番戦状』では正月十八日頃大坂で生捕りされた報告中に「山元角馬」の名がある

覚馬は御所の北にある薩摩藩二本松邸(現・同志社大学今出川キャンパス)の稽古場を獄舎として幽閉されたが、畳の間が宛がわれ待遇は良かった。なにより時栄が頻く頻く訪ねて介護に来たことも、5月末に政見建白書「管見」を完成させる程の心の支えの一つであったのかもしれない。
口述を野澤雞一(のざわけいいち。陸奥国野沢村出身、17歳。一時的に会津藩士)に筆記させた「管見」を翌月薩摩藩主に提出した後に高熱を発し、新政府軍に接収された仙台藩邸の軍務官病院に6月18日に移された後、岩倉具視の訪問を受ける。

 

明治2年(1869)3月中旬、新政府から軍務官出仕の呼出しに応じた覚馬は4月に病院を出て上洛し、陸海軍務等の教授にあたる。
軍務官(7月に官制改正により兵部省と改称)役所は元・京都守護職屋敷に置かれ、その近くの宿舎で暮す42歳の覚馬の世話の為にまだ15、6歳ほどの小田時栄と同居を始めたと思われる。

明治3年4月14日に覚馬は京都府庁に採用され、権大参事の槇村正直の顧問となる。
この頃には「河原町三条上ル 下丸屋町」に住んでいたとされる。※『官員進退録』

 

明治4年(1871)時栄は覚馬との娘、久栄を出産
この年の秋に覚馬は母佐久、妹八重、妻うらとの次女みね(峰。姉は夭折)を京に招くが、うら(樋口氏)は夫の子を孕んだ若い妾の存在を知ったためか上洛を拒んだ。
うらが離縁を望んだとして覚馬は正式に時栄を妻とした

 

明治5年(1872)覚馬は脊髄損傷でついに歩行困難となるが、覚馬のためにルドルフ・レーマンが試作した車椅子に乗りながらも京都復興のため奔走を続ける。翌年8月に小野組転籍事件で拘禁された槇村参事の釈放を請うため八重と東京へ上京。
明治8年(1875)6月7日覚馬が買付た相国寺二本松の薩摩藩邸跡地を、同志社英学校のため新島襄に譲渡。
明治9年(1876)1月2日八重、アメリカン・ボード(米国の海外伝道組織)の宣教師J.D.デイヴィスより洗礼を受け、3日新島襄とキリスト教式の結婚。12月佐久とみねが受洗。
明治10年(1877)12月27日覚馬は府顧問免職。
明治11年(1878)9月16日同志社女学校開校し山本佐久が舎監を勤め女学校に住込む。
明治12年(1879)3月30日覚馬が初代京都府会議長に選出される。
明治13年(1880)10月に辞職し地方税の布達をめぐり対立していた槇村知事を諸運動によって失脚に追い込む。
明治14年(1881)みねが伊勢時雄(横井時雄。熊本藩士横井小楠の長男、同志社第3代社長)と結婚。

 

明治18年(1885)5月17日、京都第二公会で宣教師グリーンから覚馬と時栄が洗礼を受ける。6月21日に久栄も受洗。
8月下旬に覚馬は斗南から17歳の望月興三郎を呼び寄せ、同志社に入学させた。英学校三年級に無事入学し寄宿舎に入った興三郎を覚馬は将来久栄の婿養子にしてもよいと考えていたようだ。
中野好夫の著では望月興三郎の弟だが、迎えた婿養子候補が実際に誰であったかは不明

当時同志社英学校に通っており山本・新島家と接していた徳富健次郎(徳富蘆花。徳富猪一郎の弟)の小説「黒い眼と茶色の目」によれば、
12月末、時栄が腹痛を起こし医師ジョン・カッティング・ベリーが診た所、妊娠五か月であることが分かった。
しかし覚馬は妻の懐妊理由におぼえがなくその裏切りに対して憤ったが、彼女に介抱された長い年月を振り返り自己との煩悶の末、時栄の不貞を許すことにした。
しかし時栄の不始末を許すことができなかったのが、夫の影響でキリスト教下に身を置いていた妹の八重、そしてかつて実母が父から身を引いている娘のみねである。
みねが嫁ぎ先の今治から駆けつけ、八重と共に覚馬に時栄との離縁を迫った。

覚馬は時栄にきちんと住居を宛がう条件で、離縁に同意。八重は時栄に、実娘の久栄と二度と会ってはいけないと約束させた。
女学校四年級へ通う15歳となり十分に事の成行を理解できる久栄、見守るしかない覚馬の母佐久の心中は計り知れない。

……起居に不自由な山下勝馬(山本覚馬)さんの介抱をしていた時代(時栄)さんは21歳で壽代(久栄)さんを生む。
異母姉のお稲(みね)さんが能勢又雄(伊勢時雄)に嫁いだため家督をつぐ壽代さんが14歳の年に、山下家では養嗣子にするつもりで旧会津藩士の家から18歳の秋月峰四郎さんを迎えた。
時代さんは35、山下さんは60歳近く。時代さんは養子の峰四郎さんを可愛がった。
そのうち時代さんが体調を崩し、協志社(同志社)の校医ドクトル・ペリー(J.C.ベリー)さんが診察した。ペリーさんが「おめでとう、もう五月です」と声高に妊娠を告げたが、それを聞いた山下さんは「覚えがない」と言いだした。

時代さんは、はじめ「鴨の夕涼みにうたた寝して、見も知らぬ男に犯された」としらをきったが、最後には養子を誘惑したことを自白して泣きながら許しを請うた。
永年の介抱に感謝していた山下さんは許そうとしたが、飯島先生(新島襄)の夫人のお多恵(八重)さんと、嫁ぎ先の伊予から駆け付けたお稲さんが否応なしに時代さんを追い出してしまった。
養子は協志社を退学して郷里に帰った。

離縁後に時代さんは娘の顔を見たがったが飯島の夫人が近寄らせず、山下さんの介抱は心得ある女中にさせた。
徳富健次郎『黒い眼と茶色の目』より要約

……後書きには、この小説は著者徳富健次郎が20歳の頃に山本久榮嬢との恋愛の経緯を47歳の晩秋に記憶を辿って書いたもの(上の要約部分は彼が聞いた噂話)と記されています。

 

時栄の「不祥事」については覚馬について語る誰もが濁しており、健次郎の小説がどこまで創作かは分からない。
明治19年(1886)に覚馬から離縁された時栄は2月12日付で戸籍を小田に戻し、その後分家して堺市に移る
兄勝太郎の先妻の子を養子にもらい、明治28年(1895)2月9日に神戸市山本通五丁目七十七番屋敷へ移籍
その後はアメリカへ渡ったと小田家に伝わっているそうだが、記録は遺されていない。

 

そして時栄と離縁した後の山本家周辺は…
翌年の明治20年(1887)1月27日、長男の平馬を出産後に肥立ちが悪かったみねが26歳で亡くなり、平馬は山本家の養嗣子となる。
みねの義母の津世子(夫横井時雄の母、小楠夫人)が、みねが葬られた南禅寺の門前で横転して横井家で同居している19歳の徳富健次郎(時雄の母方の親戚にあたる)と久栄が看病にあたった。
1月30日に新島襄の父民治が亡くなる。

津世子の看病で親密になった久栄と健次郎が互いに勉学中の身であるために周囲から咎められ(特に八重の猛反発があったとも)11月に婚約が破談、12月の半ばに健次郎は同志社英学校(三年級)を中隊し、京都を去った。
久栄は神戸の英和女学校(後の神戸女学院)に進む。

明治23年(1890)正月、募金運動の最中の新島襄は神奈川県大磯の百足屋旅館の離れ座敷で病床にあった。八重、徳富猪一郎(とくとみいいちろう)、小崎弘道(こざきひろみち)を呼び三十通にも及ぶ遺言を伝える。
1月23日午後2時20分死去。享年47。27日同志社のチャペルで葬儀が営まれ、京都東山若王子に葬られた。

明治25年(1892)12月28日午後1時45分山本覚馬、自宅で死去。享年64歳。30日襄と同様に同志社チャペルで葬儀、若王子墓地に葬られる。
明治26年(1893)7月山本久栄23歳で病没。
明治29年(1896)5月20日山本佐久87歳で死去。

参考図書
・青山霞村『山本覚馬伝
・『歴史読本2013年7月号「特集 山本覚馬 会津近代化の先駆者」』→[Kindle版]
・『会津人群像 第19号―特集:幕末京都にただ一人残った会津人山本覚馬
・徳富健次郎『黒い眼と茶色の目
・『近代日本に生きた会津の男たち』宮崎十三八「山本覚馬」
・同志社社史資料室『同志社人物誌』

そしておまけ、八重の桜のキャスト。成長後、敬称略
・新島八重:綾瀬はるか
山本覚馬:西島秀俊(八重の兄)
・山本佐久:風吹ジュン(八重の母)
山本時栄:谷村美月(覚馬の後妻)
・山本久栄:門脇麦(覚馬と時栄の娘)
・伊勢みね:三根梓(覚馬と前妻うらとの娘)
・樋口うら:長谷川京子(覚馬の前妻)

・新島襄:オダギリジョー(八重の夫、同志社の校長)
・新島民治:清水紘治(襄の父)

熊本バンドに属していた同志社の卒業生
・伊勢時雄:黄川田将也(みねの夫、伝道師として愛媛県今治市に赴任)
・小崎弘道:古川雄輝(伝道師となる)
・徳富猪一郎:中村蒼(新聞記者を志願し中退)

ドラマの中で時栄の不倫相手として描かれるのは青木栄二郎
青木栄二郎:永瀬匡(番組中では広沢安任の遠縁、山本家の書生)
・広沢安任:岡田義徳(旧会津・斗南藩士)

明らかな無断転載があるようです。当ブログの文章のみを抜粋した転載はご遠慮下さい。

飯野藩保科邸・会津藩家老萱野権兵衛の最期

慶応4年(1868)9月4日、鶴ヶ城で籠城中の前会津藩9代藩主松平容保(かたもり)宛てに降伏を勧める米沢藩主上杉斉憲の書簡が、高久(たかく。会津若松市北会津町)屯所で越後口守備にあたっていた会津藩家老萱野権兵衛長修(かやのごんべえ・ごんのひょうえ ながはる)に託され、これを軍事奉行添役の秋月悌次郎(あきづきていじろう)が受取り進呈する。
慎重に周辺同盟藩の情報を収集するため秋月は同じく公用人の手代木直右衛門勝任(てしろぎすぐえもん かつとう)と米沢藩陣営に赴くが、既に米沢藩は新政府に恭順していた。
城へ戻り同盟藩であった仙台・庄内の動向と照らし合わせて協議し、容保は降伏を決意する。

19日秋月・手代木らの降伏の申し出が土佐藩士板垣退助・薩摩藩士伊地知正治に受け入れられ、21日に開城の令を示した。
22日午前10時、鶴ヶ城追手門前に降伏の旗が立った。籠城中に布は包帯に使用されており、集めた端切れを照姫(てるひめ。容保の義姉)ら婦人達が断腸の思いで継ぎ合わせ、涙で濡らした白旗である。

正午に大手門外の甲賀町通りの内藤家・西郷家間に緋毛毯が敷かれた式場へ新政府軍の軍監中村半次郎、軍曹山縣小太郎、使番唯九十九等諸藩の兵を率いる錦旗を擁して進み、会津側は秋月・手代木が熨斗目上下を着用し無刀で迎える。
重臣萱野権兵衛・梶原平馬(かじわらへいま)が出て、次いで礼服の容保・第10代藩主喜徳(のぶのり。慶応3年容保の養子となり翌年開戦前の2月に容保が恭順の意を示すために家督を相続)父子が近臣十名余を従えて着座し式に臨み、降伏謝罪の書を提出した。
引き渡された城内の兵器は大砲51門・小銃2845挺・動乱18箱・小銃弾薬23万発・槍1320筋・長刀81振。

容保父子は輿で謹慎地の滝沢村の妙国寺に送られ、しばらくして萱野権兵衛ら三十名余が伴った。この時重臣達は自分たちの処罰と引き換えに容保父子の助命を求める連署をしたためている。
23日に家臣は天寧寺から謹慎地の天猪苗代へ、傷病者は青木村、婦女子と60歳以上・14歳以下の者は塩川へ立退くが、開城を知って自刃する者もあった。
24日午後に新政府軍が鶴ヶ城に入る。

 

10月19日に新政府から容保父子が権兵衛ら重臣達と共に呼出され、佐賀藩徳久幸次郎の兵の護衛で東京へ出立。
11月3日に東京着。容保は梶原平馬・手代木直右衛門・丸山主水・山田貞介・馬島瑞園(まじまずいえん)と因州(鳥取)藩池田慶徳邸に入り、
喜徳は萱野権兵衛・内藤介右衛門・倉澤右衛門・井深宅右衛門(いぶかたくうえもん)・浦川藤吾は久留米藩有馬慶賴邸での謹慎となる。
狭い部屋に押し込められる形であったが、権兵衛はまだ年若い喜徳をよく気にかけ、皆がくつろぐ中でも常に正座をやめず、しかし時に冗談などを言って皆を和ませたという。

 

11月、明治政府軍務官より「容保の死一等を減じて永預となし、代わりに首謀者を誅して非常の寛典(かんてん)に処する」と下された。容保父子の助命の代わりに、処罰すべき戦争責任者の差出しを求められたのである。

12月に新政府は会津松平家の親戚であり、会津藩への情報取次をしていた飯野藩保科弾正忠正益(まさあり)に取調べを命じた。
正益は、8月23日の新政府軍鶴ヶ城下侵襲の日に甲賀町で既に切腹している会津藩家老田中土佐(たなかとさ。玄清)・神保内蔵助(じんぼくらのすけ)の二名を戦争責任者として選び、返答した。
しかし死者の選出は政府に認められず、権兵衛が首謀者として候補にあがる。

このことが伝えられ、忠誠純義な権兵衛は藩に代わって死ぬのは本分であると語り、会津藩の罪を一身に背負うことを受け入れ、早く名前を書き加えるよう促したという。
権兵衛の潔さと決意に感じ入った正益は、翌明治2年(1869)正月24日に先の二名に権兵衛の名を加えて軍務局へ提出する。
5月14日、政府は正益に家老萱野権兵衛の処刑・打ち首を命じた。

15日に梶原平間と北原半助(故神保内蔵助二男)が有馬邸を訪れて処分の決定を伝えた。容保からの白衣や遺族への手当料を頂いた権兵衛は容保に感謝を示した。

 

5月18日の処刑の日の朝、故郷の老父への一書を残し沐浴で体を清めた権兵衛は、浦川藤吾に普段と変わらない様子で、斬首に際して見苦しくないようにと襟元などを入念に整えるよう頼むので、浦川は権兵衛の髪を取りながら櫛に涙を落す他なかった。
喜徳より葵紋のついた衣服一式を賜ったが、紋服を汚すのは畏れ多いと着用しなかった。

静々と座した権兵衛の前で、権兵衛の茶の仲間であった井深宅右衛門(重義。容保の御側付)が茶を点じる。
戊辰戦争で一刀流溝口派師範の樋口隼之助光高が行方不明になり流儀が途絶えることを憂いていたため、流派免許を得ている権兵衛は、この時長い竹の火箸(最後の膳の箸とも)を持って宅右衛門に一刀流溝口派の奥義を伝授したという。

同朝、山川大蔵と梶原平馬が麻布広尾の飯野藩保科下屋敷を訪れて、出迎えた飯野藩老中大出十郎右衛門・大目付玉置予兵衛に、前年からの会津に対する厚意とこのたびの権兵衛の件に対して慇懃に礼を述べた。

飯野藩隊長中村精十郎が兵を率いて有馬邸に向かい権兵衛を篭で護送し、保科邸の茶亭に着く。
権兵衛が隣室に入ると山川と梶原が、容保直筆の親書と、青山の紀州藩邸に預けられていた照姫(容保の義姉であり、保科正益の実姉でもある)の手書と見舞いの歌を渡す。

今般御沙汰ノ趣窃ニ致承知恐入候次第ニ候 右ハ全我等不届ヨリ斯モ相至候儀ニ候立場柄父子始一藩ニ代リ呉候段ニ立至
不耐痛哭候扨々不便ノ至ニ候面會モ相成候身分ニ候是非逢度候得共其儀モ及兼遺憾此事ニ候其方忠實之段ハ厚心得候事ニ候間後々之儀等ハ毛頭不心置此上ハ為國家潔遂最後呉候様頼入候也
                      祐 堂
五月十六日
   萱野権兵衛

今般(こんばん)御沙汰(さた)の趣 ひそかに承知いたし恐入り候
右は全く我が不行き届きより 斯(か)くも相至り候義に候
立場柄、父子はじめ一藩に代わりくれ候段に立ち至り
痛哭に耐えずさてさて不便の至りに候 面会も相成り候身分に候 是非とも逢いたく候えども、その儀も及びかね、遺憾この事に候 其方(そのほう)忠実の段は厚く心得候間後々の義等は毛頭心置かず、この上は国家の為、いさぎよく最期を遂げくれ候よう頼み入り候也

祐堂は容保の雅号である。

偖此度ノ儀誠恐入候次第全御二方様御身代ト存自分ニ於テモ何共申候様モ無ク氣毒絶言語惜シキ事ニ存候右見舞之為申進候
 五月十六日
                           照
                   権兵衛殿へ

夢うつヽ 思ひも分す惜むそよ
まことある名は 世に残るとも

この度の儀、誠に恐れ入り候次第、全く御二方様お身代と存じ自分においても何とも申し様もなく、気の毒言語に絶たず、惜しきことに存じ候
右見舞いの為申し進め候

夢うつつ思いも分かず惜しむぞよ まことある名は世に残れども

権兵衛は容保の厚意と会津のために潔く最期を遂げてくれとの権兵衛にとって誉ある言葉、照姫のはかなさを惜しみながらも真に存在するその名は残るとの憐みの筆を、真に栄誉であると感涙し、山川と梶原にも熱涙をさそった。
定刻までの短い間に正益からの酒肴が出され訪れた会津藩士と遺族一同で別れの杯を酌んだ。

会津藩士達が帰路につくと、飯野藩の大出・玉置が部屋に入って朝命を伝え、正益から賜わった白無紋礼服一着を交付して退座する。
次いで起倒流柔道指南役で剣術にも長けた飯野藩士沢田武治(武司)が対面した。目利きに優れた権兵衛はいとも冷静に、沢田が介錯のために正益から賜わった刀が貞宗の業物であると認めて、両者は正益の武家らしい情けに感じ入った。

面会後に行われた執行準備で、白木三宝(三方とも。神饌や献上品を載せる台)と白紙で包んだ扇子(白紙で短刀に見立てている)が置かれた。
これは新政府の要求する罪人の斬首でなく、密かに切腹の作法である扇腹(おうぎばら、扇子(せんす)腹とも。三宝に載せた白扇を取るため前かがみになった時に介錯人が首を落す。自ら命を絶つ形を取らせて武士の体面を保たせる切腹の作法)を行うことを示していた。

飯野藩大目付の玉置予兵衛・隊長中村精十郎・御徒目付今井喜十郎・介錯沢田武治・助員中川熊太郎・他小頭三名の立ち会いのもと、権兵衛は主君の居る屋敷の方角を拝し、命を絶った。享年42歳(40とも)。
保科正益は政府の命令の罪人としての処刑をさせず、武芸に秀でた飯野藩士沢田武治の介錯と銘刀をもって、切腹の作法通りに扇腹を行い、建前には政府の斬罪の要望と、実際には権兵衛に対し会津武士の面目を、両方全うさせたのだろう。

遺体に丁寧に布団を被せ置き、玉置と沢田が残って遺体を清めて棺に入れ、正益はこの日のうちに軍務官へ、申付けの通りに松平容保家来・叛逆首謀萱野権兵衛の刎首を執行したと簡潔に届けさせた。

軍務官から飯野藩で遺骸処置すべしと通達があり、棺を浅黄木綿で覆って外面は貨物の如く装って、権兵衛の意志に従い白金の興禅寺に送った。
興禅寺には、鳥羽・伏見の戦いに際し徳川慶喜と松平容保の江戸への脱出を進言し敗戦を招いた元凶だと迫られ、責任を負って三田下屋敷で自刃した神保修理(長輝)他会津藩士が眠っている。

正益は権兵衛や儀を執行した飯野藩家臣に香典を供し、その後も松平家再興等の伝達を受持っている。
また容保父子・照姫と厚姫(容保の長女)がこのたびの首謀者として名を並べた萱野権兵衛・田中土佐・神保内蔵助に対して香典を与え、容保父子は三人の遺族にも菓子料を賜わった。

 広尾の保科下屋敷・現都営広尾五丁目アパート

▲『江戸切絵図』と現在の飯野藩下屋敷跡地(東京都渋谷区広尾)

 

本来家老席順で責を負うべきであったが行方不明として死を免れた保科近悳(西郷頼母)が明治24年2月20日に興禅寺の墓に参り「あはれ此人のみかくなりて己れは長らひ居る事は抑如何なる故にや、実に栄枯の定りなき事共思ひ続くるに堪す」と記している。

介錯を務めた沢田は横浜に移ったのち箱根底倉の蔦屋旅館を譲り受けて箱根の観光・医療業に貢献することとなるが、子孫の仏壇には代々萱野権兵衛の位牌が祀られ、自刃の際に「顔色も変えず平生の如し」潔さを思い起こしては語り涙したという。
(その後も沢田家は長く旅館を営みましたが現在「つたや」は経営者が他家に替わっています)
【2018年追記:「つたや」旅館は2017年をもって閉館しました】
【再追記:2019年11月よりゲストハウス「そこくら温泉 つたや旅館」として新装開店しました】

興禅寺

興禅寺では今も萱野権兵衛の法要を行っている(東京都港区白金)
萱野権兵衛の戒名は報国院殿公道了忠居士。福島県会津若松市の天寧寺にも妻と一緒に弔われた墓がある。
 

※参考図書は記事中リンク先ページと同一、沢田家については後に記事にする予定です。
 
* * *

ちなみに
記事中人物の八重の桜でのキャスト(敬称略)は…
・萱野権兵衛:柳沢慎吾(会津藩家老)
・松平容保:綾野剛(会津藩9代藩主)
・照姫:稲森いずみ(容保の義姉・保科正益の実姉)
・松平喜徳:嶋田龍(会津藩10代藩主)
・秋月悌次郎:北村有起哉(会津藩軍事奉行添役)
・内藤介右衛門:志村東吾(会津藩家老)
・山川大蔵:玉山鉄二(会津藩若年寄→家老)
・梶原平馬:池内博之(会津藩家老)
・神保内蔵助:津嘉山正種(会津藩家老)※
・田中土佐:佐藤B作(会津藩家老)※賀町口で奮戦するが田中が負傷。共に医師の土屋一庵邸で自刃
・上杉斉憲:倉持一裕(米沢藩主)
・板垣退助:加藤雅也(土佐藩士)
・伊地知正治:井上肇(薩摩藩士)
・中村半次郎:三上市朗(薩摩藩士)
・徳川慶喜:小泉孝太郎(幕府15代将軍)
・神保修理:斎藤工(会津藩軍事奉行添役。神保内蔵助長男)
・西郷頼母:西田敏行(会津藩家老)

最期はあばよでなく「さらばだ!」でしたね。

秋月悌次郎詩碑

秋月悌二郎詩碑 秋月悌次郎北越潜行詩

▲秋月悌次郎「北越潜行之詩」碑

 

秋月悌次郎 胤永(あきづきていじろう かずひさ)

文政7年(1824)7月2日若松城下の米代二丁目に録150石の丸山五八郎胤道(かずゆき。逸八。丸山家は初代会津藩主保科正之から代々松平家に仕えた)の次男として生まれる。母はお伊野(杉本氏)。
丸山家は長男の胤昌(かずまさ)が継ぎ、悌次郎は分家として秋月姓を称した。

10歳で藩校日新館の素読所尚書塾に通い、秀才と賞され進級を重ね、15歳で武術を学ぶ傍ら詩作に励んだ。南摩綱紀(なんまつなのり)も優秀な学友であった。

天保13年(1842)19歳で江戸に上り、松平慎斎(しんさい)の麹渓書院で漢学を学ぶ。
江戸藩校で儒官に任じられる。
弘化3年(1846)に藩命で幕府の大学の昌平黌(しょうへいこう。昌平坂学問所)に入り、佐藤一斎、古賀謹一郎等ら大儒に学ぶ。古賀の門人には越後長岡藩士の河井継之助もいた。
後に大学頭林祭酒に入門。また経義を金子霜山、国史令格を栗原又楽、文詩を藤森天山に学んだ。
昌平黌書生寮舎長(生徒の指導監督)助役を命じられ扶持(給料)を賜わり、嘉永3年(1850)には書生寮舎長となる。

安政4年(1857)から藩命により諸国巡視のため、新潟・尾張・熱田・攝州・廣島・萩・薩摩等旅して「観光集」等を執筆。
書生寮舎長辞任の際、幕府から功労として官版書(幕府直営の出版)五部を授与されている。
安政6年(1859)8月23日から秋月は長州藩藩校萩の明倫館で七日間滞在して詩文を指導する。長州藩生徒には19歳の奥平謙輔(おくだいら けんすけ。居正)が居た。
またこの道中の備中松山で、同じく諸国を渡っていた河井継之助にも出会い、その後長崎に秋月が居るとこを知った河井は秋月を訪問して同じ宿に共に留まった。

文久元年(1861)3月に徳川宗家と水戸家の仲裁に常陸へ赴き、両者の調停を進めた。
文久2年(1862)8月1日に会津藩主松平容保(かたもり)が幕府から京都守護職に任命されると、秋月は会津藩公用役に抜擢され、先遣隊の一員として上洛。
藩主一行の部隊受入れのために働き、賀茂川ほとりの三本木町に住む。
12月24日に容保が藩兵千人を伴い京に入った後、秋月は容保の側近として公務に従事する。
また儒者見習兼侍読として又中川親王や二条関白の顧問をつとめた。

文久3年(1863)2月22日夜に足利三代の木像の首が三条河原に晒した容疑で会津藩は尊攘派志士を捕縛し、秋月が使者として朝廷に捕縛の正当性を説くことで彼の才名が高まった。
その後も宮中を護り操練を実施する会津藩の任務に携り、その傍らで秋月は薩摩藩士の高崎佐太郎正風)らと会薩間で長州勢を宮中から排斥する計画を練り、八月十八日の政変を起こした。

尊王攘夷派を一掃するクーデター成功により首謀者として長州藩の刺客に狙われるが狙撃は免れている。
こうして情勢を良く察していたために会津の行く末を案じてており藩外で様々な交流のあった秋月は後に会津藩内の佐幕派の反発を買われ、秋月をよく引き立ててくれていた家老の横山主税(ちから、常徳。白河口副総督常守の養父)が病により帰郷すると元治元年(1864)5月に秋月は公用役を降ろされてしまう。(常徳は8月に没する)
横山の病気見舞いに帰郷していた秋月は免職により会津に留まり、桑畑などの耕作をしながら母親を孝養して暮らした。

慶応元年(1865)9月に前代官の田中玄純が没した引継として蝦夷地舎利(北海道知床半島の斜里)の代官に任じられるが、実質左遷であった。
妻の美栄(遠藤氏。二男一女を生む)を伴って赴き、漁場の開設や開拓事業に努めた。

慶応2年(1866)12月に会薩同盟が破れて孤立した会津の窮地の為に京へ呼び戻され、極寒の気候にも関わらず急な事態とみて3日に出立する。
翌年3月に京に着く。既に長州と結び尊王討幕に傾いた薩摩藩との関係を繕う余地もなく、慶応4年(1868)鳥羽・伏見の戦いが勃発。

戊辰戦争で秋月は、幔役(ほろやく。参謀役)で3月に越後水原(すいばら)に出陣。5月に窮地の長岡城へ入り河井と協議する。
その後猪苗代方面に転戦するが8月22日に近くの石筵口が破られ鶴ヶ城に入り、軍事奉行添役(副奉行)に任命される。

鶴ヶ城籠城も苦境を強いられ、9月中旬ごろ容保宛てに降伏を勧める米沢藩主上杉斉憲の書簡が高久屯所の軍事奉行萱野権兵衛に託され、これを秋月が受取り進呈する。
慎重に周辺同盟藩の情報を収集するため同じく公用人の手代木直右衛門勝任(てしろぎすぐえもん かつとう)と米沢藩陣営に赴くが、既に米沢藩は新政府に恭順していた。
城へ戻り仙台・庄内の動向と照らし合わせて協議し、容保は降伏を決意する。

秋月は再び米沢藩屯所の森台村へ向かい降伏条件を確かめた後、土佐藩士板垣退助に降伏を申し出た。
9月22日正午の降伏式で容保・喜徳父子と会津の重臣達が新政府軍の軍監中村半次郎(桐野利秋)らを迎える。秋月の装いは熨斗目上下を着用し無刀であった。式で甲賀町通りの内藤家・西郷家間に敷かれた緋毛毯は苦汁を共にした会津藩士達で切り分けられた。

23日猪苗代に謹慎。謹慎中に密かに旧知の長州藩士奥平謙輔(干城方参謀)が届けさせた労わりの書簡を受け取った秋月は、10月7日に会津藩主助命の仲介願いと友の温情に報いるために寺使いに変装して小出鉄之助と共に猪苗代を抜け出し、越後(新潟地方)水原駐留中の奥平に直接面会を果たした。
越後からの帰途、越後街道束松(たばねまつ)峠(現在の会津坂下町の一部)で北越潜行之歌一遍を作った。

有故潜行北越帰途所得
行無輿兮帰無家 国破孤城乱雀鴉
治不奏功戦無略 微臣有罪複何嗟
聞説天皇元聖明 我公貫日発至誠
恩賜赦書応非遠 幾度額手望京城
思之思之夕達晨 愁満胸臆涙沾巾
風淅瀝兮雲惨澹 何地置君又置親

故ありて北越に潜行し帰途得る所
行くに輿(こし)無く帰るに家無し 国破れて孤城雀鴉(じゃくあ)乱る
治は功を奏せず戦略無し 微臣罪有り複貫日(かんじつ。一貫して)至誠に発す
恩賜の赦書応(まさ)に遠きに非(あら)ざるべし 幾度か手を額(ぬか)にして京城を望む
之を思い之を思うて夕晨(ゆうべあした)に達す 愁(憂い)胸臆に満ち涙巾(きん。手ぬぐい)を沾す(うるおす。濡らす)
風は淅瀝(せきれき)として雲惨澹(さんたん)たり 何(いず)れの地に君を置き又親を置かん

面会時に有望な会津の青年らを奥平の書生として預けるよう頼んでおり、11月12日に山川健次郎(山川大蔵(浩)の弟、西郷頼母の甥。白虎隊士中二番隊。後に東京・京都・九州帝国大学総長となる)と小川亮(伝八郎。白虎隊寄合一番隊として越後口に出陣。後に陸軍士官となり西南戦争・日清戦争等に出征し大佐に就任)
の二人を無事越後に送り出した。

12月13日に新政府から呼び出され26日に東京伝馬町の揚屋(牢獄)に送られた後、熊本藩細川邸に移る。
明治2年(1869)6月には会津戦争の責任を問われ、萱野権兵衛の処刑に次ぐ重罪の永預かり(終身禁固刑)に処され、7月5日に美濃高須藩に移った。

明治3年(1870)旧会津松平家の再興が認められ青森に三万石を賜わり、明治4年(1871)新領を斗南藩と名付け、藩士の移住が始まる。
秋月は10月13日に名古屋、11月9日に元津軽藩上屋敷、12月27日に下北郡野辺地の長崎尚志家に転々と移され、斗南藩で幽囚生活を送った。

明治5年(1872)正月6日に特赦によって赦免される。
老母を養うために会津に帰郷し、友人である若松県参事の南摩綱紀を介して学校の副教授となるが、3月には新政府からの要請で左院少議生(さいんしょうぎせい)として月給七十円で出仕することとなる。
この際に特赦任官と題した「囚余措大余栄 九死何図得一生 地下故人応笑我 厚顔復入帝王城」と、九死に一生を得て囚人からの誉ある抜擢であるが、戦死や苦難の末先だったた仲間たちは、朝廷に仕える厚顔さを笑うだろうと、やるせない思いを込めた詩を残している。

明治7年(1874)1月に左院五等議官、明治8年2月に正七位に叙される。5月に左院が廃された後は太政官七等出仕として内務課に配属となるが、これも廃止となった。
かつての会薩同盟を策した高崎左太郎(正風)のいとこの高崎五六(ごろく。猪太郎・兵部)が明治8年(1875)10月に岡山県権令(副知事)となり秋月を監事に招こうとしたが、老母の孝行を理由に断り、これを退官の機会と考えたのか同時に官を辞した。

翌明治9年(1876)11月に妻子と共に若松へ戻り、老母の傍で田畑を耕して暮し孝養に尽した。
奥平謙輔が10月に萩の乱を起こし11月末頃捕えられて刑場に送られた際の辞世の漢詩が届く。北越潜行の歌になぞらえたと思われ、12月の処刑を知り秋月は涙したという。

明治11年(1878)母88歳の寿筵を開いて祝うが、明治13年(1880)1月4日に母が90歳で死去。
喪が明けた4月に再び上京し四谷大番町に家塾を開き斯文学舎と名付けて学監となる。
明治14年(1881)文部省管下の教導職役、明治15年(1882)に中教正、明治16年(1883)に文部省御用掛、明治18年(1885)に東京大学予備門の教諭となる。

明治19年(1886)第一高等中学校(東京大学の前身)から教諭を務める。
9月に娘の閑衛(しずえ)の婿養子として塚原六助(胤継。文学博士となり、第六高等学校教頭、大坂の学問所の懐徳堂講師を務めた)を迎える。
11月に秋月は「弘毅斎遺稿」(弘毅斎は奥平謙輔の号)の跋文(後書き)を寄せた。

明治23年(1890)9月に第五高等中学校(熊本大学の前身校)教授に招かれた。
古き良き精神を重んじて漢文・倫理を教え、教育勅語演説を担当し、国のための人材育成に励んだという。
英文学の教授であった夏目漱石・小泉八雲(パトリック・ラフカディオ・ハーン)らと同僚であり、特に小泉に父の如く親われて「神のような人」と称賛を受けている。

明治26年(1893)北白川宮能久親王殿下が熊本師団長に着任され、副官の高崎正風の推薦で秋月が週一回進講申し上げた。
4月に菊池方面の小旅行の際に菊池川の畔で菊池勤王の事績を詳らかに説いて、自ら木刀を持って北越潜行之歌を吟じ舞って見せたという。

翌年からの日清戦争で鹿児島行軍からの帰途の難所加久藤越(かくとうごえ)で大雨に見舞われ生徒の足取りが鈍ると、秋月はエイエイと一歩一歩掛け声をかけながら、道端に刈って積まれていた枯草をつかんで道に棄てていき、後から来る者が滑らないよう機転を利かせた。

明治28年(1895)辞職し会津に帰郷。
明治30年(1897)正六位に叙せられる。
明治32年(1899)秋に息子の居る東京に移る。12月に病を患う。
明治33年(1900)1月4日特旨従五位に進む。翌5日、75歳(77)で死去。
東京都港区の青山霊園に墓所。彼を称えた墓碑「秋月子錫之碑」の文章は親友の南摩綱紀(当時高等師範学校教授従五位勲五等)が撰した。(子錫は秋月のあざな。また韋軒と号す)

上に記した他の家族として、はじめ兄胤昌の次男の胤浩を養うが没し、長男の浩次はアメリカに遊学した後に商いを営み、次男の胤逸は陸軍少尉となった。

秋月悌次郎詩碑所在地:福島県会津若松市追手町4 鶴ヶ城三の丸入口

参考図書
・松本健一『秋月悌次郎 老日本の面影
・『山本覚馬と幕末会津を生きた男たち
・習学寮史編纂部『習学寮史』
・会津武家屋敷『近代日本に生きた会津の男たち』『北辺に生きる会津藩』
・『会津人群像 第6号』『会津人群像 第13号

※河井継之助についてはいずれ記事にします。

会津藩主松平家御廟[2]照姫の墓所

容保と照姫の墓

▲松平容保の墓所のそばに佇む松平家の墓に義姉の照姫が眠る

松平煕・照姫(てるひめ)
天保3年(1832)12月13日、上総国飯野藩九代藩主の保科正丕(まさもと)の三女(てる)は、側室の静広院を母として飯野藩の江戸藩邸で生まれた。

天保13年(1842)5月25日に11歳で、当時実子のなかった会津藩八代藩主松平容敬(かたたか)の養女となった。
容敬の子が次々に夭折した為、芯が強く教養の高い美少女の照姫を迎えたとの話もあり、翌年9月に容敬と侍妾寿賀女(岡崎氏)との間に娘の敏子が誕生した後も、容敬の照姫への慈愛は変わらなかったという。

弘化3年(1846)4月、容敬は美濃高須藩松平義建(よしたつ。容敬の義弟)六男で12歳の銈之允(けいのすけ。元服して容保/かたもりを名乗る)を養子に迎える。

嘉永元年(1848)7月16日に実父保科正丕が病没し、跡を継いだ保科正益(照姫の弟)を容敬は支援した。

嘉永2年(1849)18歳の照姫は豊前中津藩(現在の大分県中津市)10万石八代藩主奥平大膳大夫昌服(まさもと。この時21歳)に嫁ぐ。
しかし子宝に恵まれず安政元年5月(1854)に離婚し、弘化5年(1848)には会津藩江戸藩邸に戻っている。

嘉永5年(1852)2月10日に容敬が病没し、閏2月25日18歳の容保が九代会津藩主となる。照姫は義姉として容保を支えたという。
安政3年(1856)9月に22歳の容保と13歳の敏子が結婚するが、文久元年(1861)10月に敏子が病没。
文久2年(1862)12月24日容保は京都守護職就任のため江戸を出発。
慶応2年(1866)12月容保は水戸家一橋余九麿(よくまろ。慶喜の実弟、11歳)を養子に入れる。翌年元服し喜徳(のぶのり)と名乗る。
慶応4年(1868)正月の鳥羽・伏見の敗戦後に容保は慶喜に従い江戸に帰還し、恭順の意を表すために2月4日に喜徳へ家督を譲り引退する。
しかし登城禁止令が出され、やむなく16日に会津藩主従は江戸を引き揚げた。

22日、照姫は初めて会津に国入りしたともいう。
容保は更に恭順の意志を示すために鶴ヶ城へは入らず、御薬園別邸に留まった。

しかし戦雲は広がり、会津藩と親密な飯野藩にも嫌疑がかかるが藩主正益の謹慎と重臣達の嘆願で正益は救われた。
国元の飯野藩内では幕府と会津への義によって森要蔵などが脱藩し新政府軍と戦っている。

鶴ヶ城籠城は8月23日から9月22日まで一ヶ月も続くが、照姫は城内にあって六百有余の婦女子の総指揮をとったという。
奥殿の女中若年寄格表使大野瀨山(大野四郎五郎叔母)、御側格表使根津安尾(根津八太夫妹)等に命じて分担させ、婦女子達は病室にあてられた本丸大書院・小書院へ次々と運び込まれる傷兵の手当を蘭方医古川春英ら藩医や幕府の西洋学問所頭取の松本良順と門弟4人らの指導で行い、食事(牛乳や牛肉も与えたという)の世話をした。
手狭になると大奥の長局の間も提供し、照姫は包帯を作るために高貴な衣装を解かせて布芯を使わせた。
飛来した砲弾が破裂する前に濡れ布団や鍋で覆うなど危険な防火処置などにも毅然として活躍し、書籍や帳簿などから薬筒(パトロン)を制作し、食事と物資を運び女達は「照姫様のために」を合言葉に戦い続けたという。
子供は敵の弾丸を拾い、老人が弾丸を造り、皆が力を合わせて兵を支え籠城に耐えた。

鶴ヶ城開城式の後、容保父子と共に滝沢村妙国寺の謹慎に従う。照姫は髪を落として照桂院と名を改めた。

荒れはてし 野寺のかねもつくづくと
身にしみ増さる 夜あらしの声

10月17日夕刻に松平父子と萱野権兵衛ら家臣5人の東京護送の沙汰が伝えられ、立退きを言い渡された照姫は義弟と甥の見送られながら夜半に侍女の高木時尾(側表使。新撰組斎藤一の妻とされる。経緯に諸説あり)達と共に大町の民家に移り、後に七日町の清水屋を寓居とする。

翌明治2年(1869)正月28日照姫は若狭叔母(松平若狭守喜徳の叔母)として紀州藩御預となり、会津から紀州藩兵が護衛して2月29日東京へ向かい、3月10日青山の紀州藩邸(徳川茂承)に入る。
会津藩からは照姫の付き人や側医師ら中奥・表の役人の男子18人、時尾ら侍女22人の40人が従った。
(3月3日御薬園に移った義父容敬側室(敏姫実母)圓隆院や容保の側室達も5月に上京の命が出ている)

新政府から会津藩への伝達・伝令は大方は保科正益を通じてなされていた。
5月18日、会津藩叛逆の首謀者として家老萱野権兵衛が一藩の責を負って飯野藩下屋敷で処刑を命じられた時に、照姫は手紙をしたため、歌を寄せた。

偖此度之儀誠ニ恐入候次第全ク御二方様御身代ト存
自分ニ於テモ何共申候様無之氣ノ毒絶言語惜候事ニ存候右見舞ノ為申進候
 五月十六日
                           照
                   権兵衛殿へ

夢うつヽ 思ひも分す惜むそよ
まことある名は 世に残るとも

正益はり密かに扇による自刃の方式をとらせ権兵衛に朝廷の望む罪人ではなく武士の體面を全うさせた。
その後も正益は松平家再興等の伝達を受持っている。

12月3日、飯野藩の尽力で照姫は飯野藩に預け替となり、27年ぶりに実家で起居することになった。
翌明治3年(1870)3月2日に母静廣院が飯野で亡くなるが、照姫は正益に庇護され、容保と和歌を交わすなどして穏やかに暮らし、晩年に東山温泉へ湯治に行き旅館向瀧にしばらく逗留した記録がある。

向滝

明治17年(1884)2月28日、照姫は53歳で逗留先の東京牛込(旧会津藩家老山川邸)にて死去。容保の子供(おそらく早世の双子)が埋葬されていた新宿の正受院に葬られる。
改名は照桂院殿心誉香月清遠大姉。
照姫の没後に容保も正受院に仮埋葬されたが、正受院の会津松平家関係埋葬者は戊辰五十周年の大正6年に全て会津院内御廟に改葬された。

 

元夫の奥平昌服は、照姫離婚の9年後の文久3年(1863)5月に宇和島藩主伊達宗城の四男儀三郎(昌邁。まさゆき)を嗣子とした。
会津攻撃を心苦しく思ったか定かではないが、総攻撃より前の5月6日病気を理由に、昌邁へ家督を譲り隠居している。

また伊達宗城の妹が、保科正益の室の節子である。
明治32年8月の照姫の十三回忌の供養として、三淵隆衡(萱野権兵衛の実弟)・保科近悳(西郷頼母)・松平健雄(容保次男)ら78人程と共に追悼歌集「かつらのしづく」に節子の歌もある。
そのかみをしのぶなみだのはる雨は 我袖にのみふる心ちして 保科節子

松平家墓所 松平家の墓照姫の案内板

会津藩主松平家墓所(院内御廟・国指定史跡)
所在地:福島県会津若松市東山町大字石山字墓山

参考図書
・綱淵謙錠『幕末の悲劇の会津藩主 松平容保
・阿達義雄『会津鶴ヶ城の女たち
・会津戊辰戦史編纂会『会津戊辰戦史
・富津市史編さん委員会『富津市史 通史』『富津市史 史料集2
・牧野登『保科氏800年史』
・『三百藩戊辰戦争事典〈上〉
・『歴史読本2013年07月号

阿弥陀寺[3]新撰組斎藤一の墓所

阿弥陀寺[1]伴百悦-会津悲願の埋葬
阿弥陀寺[2]戊辰戦争殉難者墳墓

斉藤一の墓案内板

斎藤一(山口次郎/二郎・一戸伝八・藤田五郎)
天保15年(弘化元年/1844)1月1日江戸で、山口祐助(ゆうすけ)の三子として一(はじめ)が生まれる。
祐助は元播磨国明石藩の足軽で、江戸に出て小川町辺(現千代田区)の鈴木家の足軽となり後に御家人株を買った(邸は本郷弓町で、ある藩の間者として潜入していたとの推測もある)という。
母は川越出身のマス、天保7年生まれの兄は維新後大蔵省の属官を務めたとされる廣明(ひろあき。公明とも。通称は喜間多)、天保13年生まれの姉は勝(かつ。後に久と改名。九段下飯田町あたりで開業していた水戸藩の藩医相馬俊明に嫁ぐ)。

確証はないが一は左利き(中島登の似せ絵では右利きに描かれている)で遺された羽織から当時では長身の170cm程だがそれ以上に大きく見え、剣術は無外流か江戸の会津藩邸で一刀流を学んだと考えられており、几帳面で眼光鋭い無口とも後に証言されている。
また市谷甲良屋敷(柳町)の近藤勇の天然理心流道場試衛館に出入するようになったとも。

文久2年(1862)12月頃に山口一は、19歳で小石川関口で意見の違いから旗本の侍を殺し、父親が世話をしていた京都の吉田某の剣道場(聖徳太子流とされる)へ匿われた。吉田某は腕のたつ一に代稽古をさせたという。この時から斎藤を名乗ったか。

 

●壬生浪士組・新撰組結成
文久3年(1863)2月、斎藤は同行していないが、近藤勇達が加わり京へ上った「浪士組」は京に到着し壬生村に分宿した浪士組は清河八郎の主張をめぐり分裂し、芹沢鴨ら一派と近藤ら一派は京都に残留する。
3月10日に幕府が会津藩へ残留者の差配を命じ、芹沢・近藤らが会津藩に出した残留歎願書の連名者17名のうちに斎藤一の名があるので、この頃には合流と改名をしていたようだ。
20の深夜に会津藩預かりとなることが決まり壬生浪士組が結成された。

4月16日に京都黒谷の会津本陣の松平容保の御前で壬生浪士組隊士らによる武術稽古の上覧が行われた。斎藤は永倉新八と対戦する。

6月1日不逞浪士取締のため10人の隊士が大坂に赴き、3日に捕縛し、身柄を町奉行所に引き渡した。その後、芹沢鴨・平山五郎・野口健司・山南敬助・沖田総司・島田魁と永倉・斉藤の8人の隊士が夕涼みのため出船するが、斎藤が腹痛を起こし鍋島河岸に上陸。
介抱のため北新地住吉楼に向かう途中、大坂の力士達と芹沢が衝突し住吉楼で乱闘となる。

8月尊皇攘夷派の長州藩勢力を京都から追放した八月十八日の政変で、会津藩の合印である黄色の襷をつけて南門の警備に出動。その際に新撰組の隊名が与えられた。

9月25日隊内の長州の間者らのうち林信太郎を斎藤が脇差一刺で誅殺。

 

●高台寺派の諜報活動後、山口二郎と改名
元治元年(1864年)6月5日、池田屋事件では別方面をあたり到着が遅れた土方歳三隊に属していたため目立つ活躍はしていない。
7月19日の禁門の変の鎮圧に新撰組も参加。11月に行軍録が制作され斎藤は四番組長となる。

元治2年(1865/慶応元年)3月22日頃に土方と目付の斎藤、伊東甲子太郎、藤堂平助は隊士を募るために江戸へ出立。4月5日に江戸の試衛館に着き、五十数人の新入隊士を得て、27日に江戸を発つ。

閏5月頃の小隊制で斎藤は三番組長、9月の第二次行軍録でも三番組長に相当する槍頭に就任。剣術師範を受持つ。
隊士総勢130名余りになり壬生の民家が手狭になったため六条の西本願寺に移り、北集会所(きたしゅうえしょ)を借りて本陣とする。

慶応2年(1866)9月28日(または翌年6月22日)銭取橋(現勧進橋)で薩摩藩に通じていた五番組組長の武田観柳斎を斎藤が一太刀で誅殺。

慶応3年(1867)正月、伊東が島原に遊興する際に斎藤・永倉が同席するが4日も帰らず3名は謹慎処分を受ける。
3月、反幕に傾いていた伊東一派が、孝明天皇の陵墓を護る名目で御陵衛士(ごりょうえじ)を結成し脱退する際に永倉か斎藤の動向を求めた。斎藤は近藤の命で間者として伊東派に従った。
11月10日に高台寺月真院から抜け出し、新撰組幹部暗殺計画を報告後、斎藤は京都詰用心差添の紀州藩士三浦休太郎(きゅうたろう)のもとに預けられたとみられる。
11月18日御陵衛士を襲撃して伊東らを暗殺(油小路事件)
諜報活動を終えると山口二郎(次郎)と改名し、新撰組に復隊する。

12月7日坂本龍馬と中岡慎太郎が三浦休太郎の指示で新撰組に殺されたと誤解した土佐浪士50余人が花屋町の旅籠天満屋に襲撃、山口ら十数人で三浦を護り応戦。内、十津川郷士の中井庄五郎は正月7日に山口(斎藤)らと小競り合いをしたともいう。佩刀関孫六(せきまごろく)を振るう山口の奮闘が伝わる。

12月9日の王政復古発令により、二条城の警備に就いていた新撰組も12日に容保らに従い大坂へ下り、14日に大坂天満宮に宿陣。15日に伏見警護を命じられ16日に薩摩藩兵が陣を敷く伏見へ向かうこととなる。
18日に近藤が御陵衛士残党に狙撃され重傷を負う。

 

●鳥羽・伏見の戦いが勃発
慶応4年(1868)1月3日朝に薩摩・長州・土佐藩が進軍し、御香宮に布陣する薩摩兵は桃山善光寺に大砲4門を設置。
近藤が負傷中のために土方が指揮する新撰組は伏見奉行屋敷の裏手を警備した。
午後五時頃に鳥羽街道上の赤池付近で旧幕軍と新政府軍の押し問答の最中、突然薩摩軍が発砲(上鳥羽村小枝橋)し、発砲音が届いた伏見でも開戦となる。

新撰組が一発撃った弾が御香宮に届き打撃を与えたが、薩摩軍が撃ち込む焼玉で奉行所屋敷が出火。斬り込み隊も敵の小銃隊の射撃に遮られ、深夜の午前2時頃に引き揚げた。
撤退中に下鳥羽の横大路方面で薩摩軍の先鋒と衝突し接戦を繰り広げたとも伝わる。

その後戦線組は千両松に陣を置き4日に小戦。この日新政府軍に錦旗が立ち、旧幕軍は賊軍となった。
5日の激戦で14名の隊士が戦死。旧幕府軍と共に淀城に拠ろうとしたが、淀藩は突如西軍についたため入城できず、後退した。

6日山口・永倉らは20人の隊士を率いて八幡山中腹で戦うが、三方から攻められ一軒家に火を掛け、楠葉砲台がある橋本の旧幕府軍拠点に後退。
正午過ぎ、橋本台場の淀川を挟んだ対岸の津藩から不意に砲撃を受けた。津藩も新政府側に転じいた。総崩れとなった旧幕府軍は夕刻に大坂方面へ敗走。

7日山口・永倉ら大坂城到着した時に土方率いる新撰組は戦の準備をしていたが、この前夜に徳川慶喜は戦いを放棄し城を脱していた。
旧幕軍は解体となり、新撰組は海路で9日に順動丸(12日に品川着・釜屋逗留)、11日に近藤や結核の沖田ら患者を富士山丸と分乗して出航。
富士山丸は14日に横浜に着き重傷者・介護者22人が横浜病院に入る。
15日に品川に帰着し近藤・沖田は神田の医学所に入院。他軽傷者50人程が浅草新町の弾左衛門(長吏頭と称し、維新後弾直樹と改名)の協力で今戸方面の宿で治療を受け、ここに山口も訪れているという。

 

●甲陽鎮撫隊の敗戦、五兵衛新田・流山へ
鍛冶屋橋門内の元秋月右京亮宅を新撰組の屯所とし、釜屋の隊士や治療を終えた隊士達が入る。
2月12日に上野寛永寺の徳川慶喜の護衛を命じられ、15日から任につくが、10日後に免じられる。
27日に江戸城で約2400両の軍資金と大砲・小銃を拝領し、28日に大久保一翁らの命で、新撰組80名程と弾左衛門配下で洋式調練を受けた100人の隊を甲陽鎮撫隊とし甲府城接収を目的に甲州鎮撫にあたる。
30日大名小路の仮屯所を出発して新宿に泊まり弾左衛門配下の兵と合流。

3月1日、鎮撫隊長大久保剛(近藤が改名)は若年寄身分で長棒引手の駕籠に乗り、洋装断髪の内藤隼人(土方が改名)は寄合席身分で馬上、山口ら幹部隊士は旗本並の青叩裏金輪抜の陣笠を被り江戸発足。府中に泊まる。
2日に日野の佐藤家で休息時に佐藤彦五郎率いる春日隊22人が加入、鎮撫隊は200人の部隊となる。
4日笹子峠を越えて駒飼宿に到着するが、新政府軍の甲府入りの報が届く。5日に隊士を交付近い田中まで派遣して事態を確認させたが、この時までに弾左衛門配下の大半が脱走し部隊は121人に減少していた。内藤が援軍要請のため江戸に走り、大久保は勝沼の大善寺付近に進軍し夜を待った。
6日正午頃に開戦、新政府軍の土佐・鳥取・高島藩兵200人が三方から迫り、山口が守備したと思われる北側の菱山には谷神兵衛率いる土佐四番隊が突撃した。
士気の下がった鎮撫隊は持ちこたえられずに離散し二時間後に敗走。鶴瀬から吉野に逃れ、大久保が立て直そうとするも撤退中に多くが離脱した鎮撫隊士達に再戦の意思は無かった。

8日朝に江戸での増援を果たせなかった内藤が日野を通過し、吉野着。大久保・内藤(近藤・土方)が江戸表へ馬で発つ際に、大久保は永倉・原田左之助に残存兵116人を任せたが、結果的に永倉・原田との決裂に繋がった。

永倉・原田ら離脱者が出て60数人に減少した新撰組の増員を募集し12日に安富才介を頭領(久米部正親、または山口とも)にして傷病兵と付添合わせ20数名を会津へ先発させた。
13日夜に五兵衛新田(ごへえしんでん。現東京都足立区綾瀬)で再起を図った大久保は金子健十郎邸を訪れ、15日に内藤も金子家に入る。
4月1日に総員227人が五兵衛新田に集結、洋式調練を受けるため流山に転陣。
3日隊士達が野外操練中に、数人が残る本陣を急襲され、大久保が新政府軍に出頭。

 

●新撰組と会津戦争
※4月~9月の動向は伝習隊と新撰組記事参照

 

9月5日の如来堂の戦いで生き延びた山口と清水卯吉・粂部正親・池田七三郎・河合鉄五郎・吉田俊一郎(俊太郎)・志村武蔵のうち
粂部・池田・河合・吉田の4人は会津田島で水戸の諸生(しょせい)隊と合流し24日に水戸へ発ち、10月1日の水戸城攻撃に失敗し敗走した銚子で、高崎藩兵に降伏し東京に送られた。志村の動向は不明だが、後に東京での病死が確認されている。

9月23日会津開城後、山口は一ノ瀬伝八と名を変え朱雀寄合隊として、清水も機械方の江川三吉と変名し、城外で戦った会津藩士として塩川に送られる。

 

●一ノ瀬伝八と改名し越後高田へ移住
明治2年(1869)1月4日に謹慎地が越後高田藩(現新潟県上越市)移住の無事を阿弥陀寺に祈願。
新政府の民生局は一人につき金一両を持たせ越後藩士の警固のもと1746人が5日・7日・9日・11日・13日・15日に六組に分けて高田に向かい、20日までに寺町へ着き36の寺院に分けて入った。
一ノ瀬・江川(山口・清水)は共に旧会津藩首脳陣が拠る東本願寺に入る。

明治政府から米五合と生活費の二人扶持を与えられ厳しい謹慎生活が始まったが、飢死や脱走捕縛者が出る中でも屈せず、病没者達を狼谷と呼ばれる会津墓地へ埋葬し弔った。この間、東本願寺から惣持寺に移り住んでいる記録がある。

9月2日に明治政府は旧会津藩士の北海道移住と苗字帯刀、旧藩主松平容保の嗣子容大(かたはる)に家督相続を許し、28日に旧藩主と家老以外の冤罪を決めたが、北海道には移住せず容保父減刑の嘆願を求め翌月上京する者もいた。
11月3日、容大に陸奥国のうち三万石と北海道の4郡を与えることが決まり、翌日華族に列した容大は三万石を賜わり、翌年斗南藩を立藩。

 

●斗南へ移住し藤田五郎と改名、やそとの結婚
明治3年(1870)東京から高田に赴いた倉沢平治右衛門(当時は右兵衛)が斗南移住を指揮した。脱走していた一ノ瀬も(動向は諸説ある)倉沢を補助し、渡航した高田謹慎組とは別に陸路から移住した。

移住時に藤田五郎と改名した経緯は、容保の命名等諸説あるが定かではない。
斗南の表高の三万石は名ばかりで実収は7000石で、移り住んだ旧藩士と家族1万7000人余りは飢餓に瀕したが、藤田は五戸(ごのへ)村内の倉沢(斗南藩の家老職である小参事に任命された)家の世話を受け生き延びた。

倉沢家には旧会津藩士族の故篠田内蔵(しのだくら。会津藩時代は400石、病没)の長女やそも同居していた。
明治4年(1871)2月頃に倉沢のとりなしで藤田とやそは結ばれた。(翌年の上京時とも)

尚、高木時尾(もとは貞。旧会津藩大目付高木小十郎盛至300石の長女。容保の義姉の照姫に仕え祐筆をしていた。母方の姓は藤田)も倉沢の養女として弟盛之輔(後に陸軍に入りのち検事正となる)と共に同居しているともされる。
6月に斗南藩は斗南県となり、8月25日に容保父子が上京する際に藤田も同行したという。

明治5年(1872)3月編纂の青森県三戸(さんのへ)郡五戸の戸籍にも、五戸村上大町三十三番屋敷内奇寓 藤田五郎二十七歳・妻やそ三十一歳と記されている。

明治6年(1873)倉沢が転居し、藤田も上田八郎右衛門の息子夫婦と同居(五戸村八百十二番屋敷内)する。

 

●江戸で警視局に勤め、高木時尾と再婚
明治7年(1874)7月10日、藤田は東京に出て、警視局(警視庁)に奉職。
やその動向は不明だが30日に倉沢家に戻ったとされる。
この頃に高木時尾と見合い、本仲人は松平容保、下仲人は旧会津藩家老格の佐川官兵衛・山川浩(大蔵)の二名がつとめたともされる。

明治9年(1876)8月藤田は本籍を東京に移す。住所は本郷区根津宮永町。
12月15日時尾は長男の勉(つとむ。後に陸軍士官学校に進む)を出産。名付け親はの山川浩が「勉てふ名に背かすはやかてよに 高く功(いさお)のたゝさらめやは」と詠む。

明治10年(1877)2月20日警部補に任命。
5月18日に西郷隆盛鎮圧のため西南戦争へ出征。豊後口警視徴募隊二番小隊(総員107名)の半隊長を勤め、薩摩軍に斬り込んで砲二門を奪う手柄をたてた。
7月12日に轟越(とどろきごえ)攻撃兵の先駆として陸軍第一小隊と共に進軍し三川内(みかわうち。宮崎県東臼杵郡北浦町)に配備。13日に藤田は銃弾で負傷。
10月28日帰京。

明治11年(1878)3月30日警部試補に任命。
明治12年(1879)10月8日叙勲七等と金百円が下賜される。
10月4日に次男の剛(つよし。貿易業に携り旧会津藩家老田中土佐の孫娘ユキと結婚)が生まれる
明治14年(1881)巡査部長。
明治19年(1886)7月1日に三男龍雄(時尾の母や西郷頼母家と縁の沼沢家の養子に出され後に弁護士となる)が生まれる。この時警察本署守衛掛勤務警部補。
明治21年(1888)11月1日警部に任命。和泉橋警察署。

明治23年(1890)1月23日警視庁構内の春季撃剣会で麻布署から藤田が出場し、京橋署詰の撃剣世話掛の渡辺登と対戦し勝利している。

 

●警視庁退職後の晩年
明治24年(1891)48歳で4月2日に警視庁を退職し、同日付で東京高等師範学校(現筑波大学)に就職し、附属東京教育博物館看守となる。(8月まで山川浩が校長であった)
明治29年(1896)本籍を福島県若松市に移す。

明治32年(1899)2月に依願退職し、時尾と共に東京女子高等師範学校(現お茶の水女子大学)に就職し、明治42年(1909)まで庶務兼会計係として勤める。

明治40年(1907)阿弥陀寺の合同供養に時尾が会津出身の婦人10名と桜を植える。翌年会津戊辰戦死者の墓田購入の寄付金を募る。夫五郎も十円の寄付金を納めている。

大正4年(1915)9月28日、東京市本郷区真砂町三十番地(現文京区本郷四丁目)の自宅で死期を察し、床の間に積み重ねさせた座布団の上に座して往生を迎えた。酒好きで胃潰瘍を患っていたという。享年72歳。
大正9年(1920)12月4日に妻時尾も永眠し、共に会津の地に眠る。

以上諸説ある中からまとめたが未だ謎や疑問が多く、今後の研究が待たれる。

阿弥陀寺の藤田家の墓

長男の藤田勉が若松第六五連隊配属時に、会津の地に両親の墓を造営してほしいと申し出て建てられたという。

正覚山阿弥陀寺(あみだじ)
所在地:福島県会津若松市七日町4-20

参考図書
・菊地明編著『斎藤一の生涯
・・『歴史REAL新選組最後の戦士 土方歳三と斎藤一
・『救え会津』赤間倭子「会津戊辰戦争と新撰組」