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不二心流伊藤実心斎の供養墓

高谷延命寺仁王門 不二心流伊藤実心斎の供養墓

延命寺総門と「不二心流五代實心齊伊藤直行先生之墓
現在の総門はかつて参道にあった仁王門を移設したもの。
慶応4年(1868)8月に賊徒(旧幕臣と協力した村民による義兵)が延命寺に立て篭もり、上総諸藩の兵と交戦した。木更津近隣の村民が扇動されたのは、この地域で剣術修練が盛んであったことも起因するだろう。(飯野藩も出動しているため詳細は別途紹介予定)

 

伊藤実心斎直行
天保9年(1838)不二心流正統大河内氏と同じく、下総国匝瑳(そうさ)郡共興(きょうこう)村(千葉県匝瑳市)で生まれる。
上総国望陀郡木更津村(千葉県木更津市)の島屋(当主は大河内幸左衛門)の道場で不二心流2代目大河内縫殿三郎や木更津に隠棲中の不二心流開祖中村一心斎に剣術を学ぶ。
望陀郡高谷村(袖ケ浦市)の御園家の食客となり、下総・上総国内で広く不二心流の剣を教えた。

一方、大河内家は不二心流四代目大河内正道(縫殿三郎の三男)が結城藩に成東陣屋(山武市)へ招致され、直心影流の榊原鍵吉(さかきばらけんきち)らと撃剣興行にも加わり廃刀令後の撃剣再興に努めた。成東で正道の弟の家に養子に入った過去もある伊庭兵二(正高。成東出身)が正道から5世を継ぎ、実質の正統となる。
中村一心斎の「剣術」の門人は下総・上総に多く在り、免状を拝受した幾人かの皆伝者がそれぞれ5代目として不二心流の技を受け継いでおり、伊藤実心斎は上総郷里の伝承者として「不二心流五代」と刻まれたのだろう。

大正12年(1923)12月28日に伊藤実心斎は85歳で天寿を全うした。
多くの門人に指導し慕われた実心斎のため立派な供養碑が高谷延命寺(ご子息が住職となっている)の参道脇に建てられた。
伊藤直行の名は「剣道」指導者となった門人達が語り継いだ。

飯王山延命寺 所在地:千葉県袖ケ浦市高谷1234

■■不二心流と木更津「島屋」■■

不二心流「中村一心斎」成就寺供養墓

成就寺門石左 成就寺門石右 成就寺内石
成就寺の剣聖中村一心斎供養塔
南無妙法蓮華経 法界
安政二年四月建之  満足山 四十三世 日涼

一心淨念曇龍居士 中村一心斎為菩提
智徳院妙勇大姉 俗称芳為菩提
大河内氏  熱田氏

大河内 幸左エ門
同   孫左エ門
同   總三郎
友野 七左エ門

安政2年(1855)4月建立。紺屋「島屋」大河内幸左衛門と一族の名。島屋の当主は代々「幸左衛門」の名を継承している。『満足山成就寺史』によると熱田氏、友野氏は成就寺の有力檀家。
建立後に遭った南町の大火災「島屋火事」のためか右側が焼けているようである。

 

中村一心斎藤原正清
幼名は八平。通称は左膳(さぜん)、宮門(くもん)。名は正清。字は一知。号は一心斎、不二剣翁、加藤曇龍(どんりゅう)、不退転曇龍。行者名は藤開行。
碑文に「身長六尺二寸美髪三尺五寸」とあり長身の偉丈夫であったようだ。
中村家は加藤清正を祖先とし、代々高力(こうりき)家に仕え、寛文8年(1668)島原藩主高力左近太夫隆長が改易されると浪人となるが、高力家にかわって島原に移封された松平家に仕える。

天明2年(1782)八平は肥前国島原藩(長崎県)藩士中村八郎左衛門一直(かずなお。中村喜兵衛4代目)の次男として生まれる。
寛政元年(1789)8歳で島原藩士の板倉勘助勝武に浅山一伝流の兵法を学ぶ。
寛政10年(1798)17歳で島原藩士の花村小三郎の婿養子になり花村宮門と称す。
寛政11年(1799)6月21日、八平は20人扶持「中小姓」となる。12月8日江戸詰の義父に従い江戸に移る。江戸では都築(つづき)與平治と津田武太夫三全から武術を学んだ。
享和元年(1801)3月1日「御通番」となる。
文化元年(1804)病気を理由に島原に帰郷し実家で療養。花村家を離れたため中村宮門中村八郎左衛門一知を名乗る。
江戸に戻り剣術で丹羽家に仕えた後、神道無念流戸賀崎(とがざき)知道軒暉芳に随身。
文化3年(1806)麹町六番町鈴木派無念流道場・鈴木大学(鈴木斧八郎重明)の高弟となり3年の間「塾頭」となる。文政元年までに18の流派を極めたという。

文政元年(1818)6月10日に富士山へ単身登頂し100日の過酷な修行により9月26日不二心流(ふじしんりゅう)を立てた。富士浅間流(ふじせんげんりゅう)とも呼ばれる。
江戸八丁堀に構えた道場は門下が2千名ともされ隆盛した。
文政3年(1820)9月から10月まで島原に滞在した時の風貌は被布(ひふ)を纏い長剣を横たえ、頤から胸の下まで長く髭を伸ばし、象牙の環の耳飾を通し、錦の袋を垂れて髪を納めて、山伏のようだったと描写されている。この頃から一心斎と呼ばれるようになったようだ。
そして江戸に戻るも八丁堀道場を大河内縫殿三郎に任せ、東北を廻る。水戸笠間方面より下総へ向かう。
文政5年(1822)2月15日に下総国海上郡足川村で代官の岩井市右衛門とその子重兵衛に剣術教授。近隣の有力者にも指導した。

『日本武術神妙記』に伝聞であるが水戸藩での鵜殿力之助、若き海保帆平(かいほはんぺい)との仕合いについて、勝負つかずであったが老齢ながらの精力と、一心斎の神妙な立ち回りで精神的に圧倒し水戸公に賞賛された(直心影流の山田次朗吉談、ここでは要約)逸話が収録されている。
伝聞ではなく飯野藩剣術指南役の北辰一刀流森要蔵本人が「予弱年の頃、八州を遊歴せしに、中村一心斎と暫く剣友となり、相交はりたるなり。一心斎朝暮内観の法を修す。予又これに随ひて学び得たり」と、一心斎との交友と練気養心を学んだことを記しているように、内観の法の成果か老いても気力は冴え、不二心流を継承した大河内家が店を出した上総国望陀郡の木更津に在り、大河内家の本拠下総国匝瑳郡小笹村(千葉県匝瑳市)の道場と木更津の道場で指導した。

森要蔵と中村一心西斎
▲森景鎮(森要蔵)『劒法擊刺論』中村一心斎の記述

晩年の嘉永の頃(1848~)は妻を同伴して上総国武射郡屋形村(現山武郡横芝光町)の漁家、海保惣兵衛正義(海保沙崖)方に来訪、その後は忠左衛門の元に移る。屋形では十数人の門下がいたが、極意を授けたのは正義と忠左衛門のみであった。

忠左衛門家に妻を預けて、次は香取大宮司家を訪れ、最後は下総国埴生郡赤荻村(あこぎ、あかおぎ。千葉県成田市)の鵜沢家に移る。
嘉永7年(1854)10月3日鵜沢覚右エ門宅で死亡。享年73歳。赤荻村善福寺に葬った後、小笹村に分骨し大河原家を中心に門人達が葬儀を行い、碑を建立した。
木更津成就寺にも門人多数が集まり三日間剣道大会を開いて葬儀を行い分骨した遺骨を納めた供養墓を建立。戒名「一心清念曇龍大居士」

逸話として、一心斎はいつも蓬の粉末を飲んで壮健さを保っていたという。
後の有名な創作として、中里介山の時代小説『大菩薩峠』の甲源一刀流の巻で、中村一心斎が試合の行司役として登場している。

成就寺正面 成就寺俯瞰地図

▲現在の成就寺と門石、木更津鳥瞰絵地図の成就寺 ※鳥瞰図は木更津駅前パネルより
昭和4年『千葉縣木更津町鳥瞰』の門にも一心斎の供養塔が描かれている。

満足山寶珠院成就寺 (まんぞくざん ほうじゅいん じょうじゅじ)
応永33年(1426)2月8日に日運上人により創建。
所在地:千葉県木更津市富士見1-9-17

■■不二心流と木更津「島屋」■■

甲源一刀流逸見氏練武道場燿武館

甲源一刀流逸見氏練武道場燿武館稽古場 甲源一刀流逸見氏練武道場燿武館の写真

▲燿武館稽古場の一部。この左側に師範席がある。

逸見(へんみ)氏は清和天皇七世の孫の新羅三郎義光(しんらさぶろうよしみつ。八幡太郎義家の弟)の後裔で、第三皇子の逸見冠者義清を祖とし代々甲斐(山梨県)に住んでいた。
大永年間(1521~28)に逸見若狭守源義綱(よしつな。後に朝高/ともたか)が、勢力を強めていた武田信虎と対立して一族共々甲斐を去り、小沢口に移住したと伝わる。

天明・寛政(1781~1800)の頃、溝口一刀流の櫻井五亮長政(さくらいごすけながまさ。景政)に学ん逸見太四郎義年(たしろうよしとし1747~1828。後に多門)は、両神山の二子山で修行し、祖先の甲斐源氏に因んで「甲源」と名付けた甲源一刀流を開いた。これに因み二子山は逸見ヶ岳と呼ばれるようになる。

甲源一刀流練武道場(れんぶどうじょう)の燿武館(ようぶかん)は木造平屋建で、外側は白壁をめぐらし、木製の武者窓(明かり採り)が設えられている。
内部の稽古場は板張りで10坪、控えの間が2.5坪。稽古場に続いて一段高くに、天井の張られた床の間付きの師範席がある。江戸時代の頃は栗板の板葺き屋根であったという。
「突き」の名門といわれた燿武館には首の高さの部分に大きなくぼみのできた柱があり、往時の稽古の激しさを物語っている。

門弟は秩父を中心に全国各地へ広がり隆盛時は三千人を越え、寺社へ多くの奉納額を献じた。
特に東京の靖国神社の奉納額は壮大な額であったが大東亜戦争での空襲で焼失してしまった。

甲源一刀流逸見氏練武道場燿武館の表門 甲源一刀流逸見氏練武道場燿武館の案内板 

▲門の奥が稽古場、手前が修行者用宿舎

 

■幕末近世武州の主な甲源一刀流の門人(現在の出身地名)

●逸見太四郎義年門下
印可を得た強矢良輔武行(すねや。小鹿野町。徳川御三家紀州新宮藩剣術指南役。江戸四谷伝馬町に道場)、水野清吾年賀(嵐山町。志賀村名主)、比留間与八利恭(日高市)、中島宗蔵義武(美里町。成瀬因幡守の剣術指南役)らはそれぞれの自宅道場で門人を増やし甲源一刀流を広めた。
原島玄徳(秩父市)……村医。尊皇攘夷派で公卿大炊御門公尊の近侍となり秩父下向に従い清雲寺に入るも一行が偽者と嫌疑をかけられ斬られた。
坂本勘蔵(秩父市)……自宅道場で多くの門下を育成。維新後は白久村戸長を務めた。
田嶋七郎左衛門武郷(越生市)……「禅心無形流」を開く。
清水伊之松(日高市)……講談『関東七人男』の主人公猪之松。

●強矢良輔門下
強矢良右衛門武文(小鹿野町)……強矢良輔の嫡男。紀州新宮藩剣術指南役、大殿様御近習など藩の要職を歴任した。
強矢左馬之助文武(小鹿野町)……強矢良輔の次男で撃剣師範。彰義隊として戦死。
酒井右駒(小鹿野町)……領主の平岡丹波守に仕え江戸に上り馬庭念流も修めた。彰義隊に参加し若くして戦没。
飯野清三郎(寄居町)……浪士組として京に上り、その後帰郷し自宅道場で剣術を指導。
蛭川一忠康(深谷市)……師範。剣豪として名高く自宅の道場で多くの門下を育成した。将軍家茂の上洛の際は領主の室賀氏に従い京へ上っている。
高橋三五郎一之(本庄市)……剣の達人で知られ川越藩の剣術指南役を務めた。
松澤良作正景(寄居町)……師範。浪士組四番隊(松澤隊)小頭。清川八郎の攘夷活動の一味として拘束され、明治に赦免。

●松澤良作正景門下
小澤勇作義光(本庄市)……浪士組四番隊。新徴組の次席となり庄内では剣術世話係となる。戊辰戦争では二番隊で連戦し庄内藩が降伏した後は、松ヶ丘(山形県羽黒町)の開墾労働を強制される。その後は東京で警視庁の剣術師範を勤め、後に甲源北辰流を編出し道場を開く。
中島政之助(群馬県安中市)……浪士組として京に上る。

須永宗司(熊谷市)……松澤良作の誘いで浪士組に入り、七番隊須永隊小頭として京に上る。新徴組として江戸市中取締を命じられるが病死。養子である年若い宗太郎が新徴組へ入隊した。
須永宗太郎(〃)……義父の宗司に代わり庄内で戦う。維新後は陸軍に入隊し日露戦争では第九師団の参謀長、戦後は陸軍中将に昇進した。庄内で戦死した水野令三郎とは親友であった。

●高橋三五郎門下
青木七郎(深谷市)……逸見愛作にも学び、若くして印可を授かり「荘武館」を開き全国から門人が集った。明治以降は「明信館支部」として剣道を教授。

●蛭川一門下
塚田源三郎(深谷市)……浪士組六番隊。後に郷里に戻り道場を開く。維新後は蓮沼村戸長、その後合併により明戸村の村長を歴任。
瀬川太郎右衛門信綱(深谷市)……塚田に学び「源部館」を開く。

●瀬川太郎右衛門「源部館」門下
富田喜三郎(本庄市)……岩鼻監獄所へ奉職。その後山岡鉄舟の春風館道場(東京四谷)に入門、警視庁四谷署で剣術を指導する。札幌警察署に転勤。札幌区体育所で剣道師範となり、北海道内で甲源一刀流を広めた。

●水野清吾年賀「市関演武場」門下
根岸伴七信輔(熊谷市)……甲山村の名主。雅号友山。道場「振武所」や私塾「三餘堂」を設立し北辰一刀流千葉道場の剣師や昌平学の生徒等、文武の達士を講師に招いた。
名主として農民蜂起「蓑負騒動」に味方したため郷里を追われる身になるが、赦免後は尊皇攘夷に傾き長州藩との繋がりを深めた。また庄内藩士清川八郎との親交により浪士組へ入隊する同志甲山組を集め自らも参加。後に郷里に戻り文化活動に専念した。
松本半平(横田村)……自宅道場で多くの門人を育成。
水野倭一郎年次(嵐山町)……水野清吾の嫡男。名主。根岸友山の要請で浪士組に参加する門弟を率いて、道場を嫡男喜市郎に任せて自らも一番組として京に上る。
江戸では新徴組の五番組小頭。庄内へは倭一郎の三男令三郎を連れ立った。倭一郎は三番組伍長として数々の戦功をあげるが、令三郎は19歳の若さで戦死してしまう。庄内藩の降伏後は熊谷県に出仕。

●水野倭一郎「市関演武場」門下
吉野唯五郎(滑川町)……浪士組として京に上り、その後帰郷し自宅道場で剣術を指導。
松本半平衛(横田村)……初め為三郎。雅号は松月斎。松本半平の嫡男。浪士組として京に上るが父の訃報により帰郷し道場を継ぐ。

●松本半平門下
新井荘司年信(小川町)……浪士組として京に上り、その後帰郷し自宅道場「講武館」を開き、宗家の逸見愛作に目代の印可を得て甲源一刀流を伝道。町に剣道の講道館が設立されると師範となる。

●比留間氏(日高市)
比留間半造利充……与八利恭の嫡男。八王子千人同心の剣術指南に赴く。寿碑の篆額は山岡鉄舟(鐵太郎)の筆。土方歳三を描いた司馬遼太郎の小説『燃えよ剣』に実名記述あり。
比留間周三利周内田周三。利恭の次男で多くの門下を育成。
比留間良八利衆……利充の嫡男。二十歳で免状を得る。一橋慶喜家臣。剣術教授方。慶喜が徳川十五代将軍となると陸軍銃隊指図役に任命される。鳥羽伏見の戦後は彰義隊の第十四番隊長として清水門口を守衛。上野戦争では比留間の奥義「車斬り」で官軍を斬り上げたと言い伝えられている。敗戦後は帰郷し数年間各地を潜伏、世相が安定すると弟利暠に家督を譲り成瀬村(越生町)の田島家に婿入りして道場を開き多くの門人が集った。
比留間国造利暠……国造の弟。一橋慶喜家臣。維新後家督を継ぎ、名門道場を存続させた。

●比留間半造門下
清水準之助(嵐山町)……浪士組として京に上り、その後帰郷。
久林萬次郎(飯能市)……赤沢村戸長。自宅道場で指導もした。
三田左内(東京都青梅市)……中里介山の小説『大菩薩峠』の主人公机竜之助のモデルとされる。

●内田(比留間)周三門下
小川椙太(小川町)……渋沢栄一を介して一橋慶喜に出仕し幕臣となる。江戸では鏡新明智流道場で修業したとも。彰義隊の天王寺詰組頭として上野戦争で刀を振るうが敗れ、小伝馬町の獄舎に入れられた。赦免後は静岡藩を経て東京に戻る。興郷を名乗り、晩年に彰義隊「戦死之墓」を建立した。
野口愛之助章庸(小川町)……彰義隊に参加。維新後青山村長となる。顕彰碑の篆額は黒田長成の筆。

逸見太四郎長英(ながひで。剣世五世。初め年洽)門下
檜山省吾(小鹿野町)……請西藩士。戊辰戦争で脱藩した藩主林忠崇に従軍し、その後小鹿野町に戻る。
逸見愛作英敦(あいさくひであつ)……長英の嫡男。寿碑の篆額は榎本武揚の筆。

●逸見愛作門下
大川藤吉郎(松山市)……浪士組として京に上り、新徴組として庄内で戦う。

他、堀内大輔(長瀬町)、山岸金十郎、田口徳次郎(共に小川町)等が浪士組に参加し、千野卯之助(小川町)はその後も新徴組として庄内で戦い、細田市蔵(入間市)は最後まで庄内に残留したという。
資料により記録が異なるが、横手銀二郎(日高市)は杉山銀之丞の名で振武軍に加わり飯能戦争で捕われ若くして命を散らせた。

 

甲源一刀流逸見氏練武道場(埼玉県指定有形文化財)※見学要予約
所在地:埼玉県秩父郡小鹿野町両神薄167

参考図書
・逸見光治『甲斐源氏甲源一刀流逸見家』『甲源一刀流逸見家続編』
・『飯能郷土史
・『小鹿野町誌』
他、甲源一刀流資料館でのお話や展示物
関連サイト
・小鹿野町HP:http://www.town.ogano.lg.jp/(燿武館の紹介ページ有)

甲源一刀流逸見愛作寿碑

甲源一刀流逸見愛作寿碑 請西藩士檜山省吾や小鹿野町長田嶋小弥太の名

逸見愛作寿碑(へんみあいさく じゅひ)
発起人に請西藩檜山省吾やその息子田嶋小彌太の名もある

江戸時代から続く剣術甲源一刀流(こうげんいっとうりゅう)は逸見太四郎義年(1747~1828)が甲源(逸見家の祖甲斐源氏に由る)を名付け創始した一刀流の一派。
薄村小沢口(こさわぐち。小鹿野町両神薄)に道場「燿武館」を建て、隆盛時は全国から多くの門弟が集い、様々な時代小説に甲源一刀流の剣豪が登場している。

逸見家29世の逸見愛作は、村民から「小沢口の先生」と呼ばれ慕われた。
明治33年(1900)に門弟らが逸見愛作の還暦を記念して寿碑を建立した。篆額は文部大臣榎本武揚(えのもとたけあき)の筆、書と撰文は雨宮春譚(しゅんたん。寄居町の医師・教育者)。
4月26日の建碑式では門人約330名による記念試合も行われた。

逸見愛作の肖像写真 逸見愛作寿碑案内板

■逸見愛作源英敦(へんみあいさくみなもとのひであつ)
天保12年(1841)4月21日に剣世五代太四郎長英の嫡男として生まれる。
江戸へ出て、逸見道場門下であった強矢良輔の道場等で修業を積んだ。
文久年間(1861~3)領主の上州岩鼻陣屋(高崎市岩鼻町)代官所の剣術指南役に若くして抜擢され、激動の時代に見合う厳しい指導をした。

明治9年の廃刀令後も小沢口で修練と教導に励み、薄村の戸長も務めた。
甲源一刀流は郷里の様々な神社に奉額を奉納し、明治28年には三千余人もの門人の名が書かれた巨大な奉納額を東京の靖国神社に納め盛大な奉納試合が行われた。
この奉納額は大きさもさることながら豪華な彫刻が施され、数千の門弟の確認も手間がかかり奉納日が延期したほどだった。

大正13年10月2日没。享年84歳。甲源院敦武雄居士。

甲源一刀流逸見愛作寿碑(小鹿野町指定史跡)
所在地:埼玉県秩父郡小鹿野町両神薄

参考
・逸見光治『甲斐源氏 甲源一刀流逸見家』
他、甲源一刀流資料館でのお話や展示物

正永寺[2]林館次郎の墓所と小鹿神社

請西藩主林忠交の子林館次郎の墓 林館次郎の墓側面

請西藩林忠交の三男林館次郎の墓
『林館次郎氏墓』『大正六年一月二十二日卒 小鹿野町有志建之』

君者旧請西藩主之次男也。別興一家、或官、或商、北陸南海、具嘗辛酸而常不遇、志遂不成、落魄困憊一家離散、僅 索一道之光明、於旧領之誼、訪菊池氏于斯地。
菊池氏群二郎夙富任侠志、乃謀郷党、使君守鎮守社殿、贈米塩補其生計、年又年、君、清廉潔白、仕神恪勤、起敬神会、神威頓加。
偶為二豎所犯、不孝遂不起。年當五十有五。郷人悼其死功矣。乃相議葬於菊池氏之塋域、弔祭盡誠、慰其霊。嗚呼、 名門之出、漂浪落泊者甚多。然如君得能死所者亦少矣。抑君温良恭謙之餘徳、依神稜之加護耶非耶 田嶋小弥太識

林館次郎は文久3年(1863)9月24日に林忠交の三男として生まれた。
林忠崇の義弟にあたり、忠崇が脱藩した後に林家を継いだ忠弘の実弟である。

館次郎の子供の出生届が明治33年に福島県、明治38年に山形県、明治40年に栃木県、明治42年に新潟県と変わり、碑文の通りの漂白の日々が窺われる。
明治45年(1912)に分家し、かつて請西藩領であった小鹿野町の有徳者である菊池氏の計らいで小鹿神社に奉仕する運びとなった。

菊池家には、晩年も旧藩主の忠崇と親交を続けていた元請西藩士檜山省吾が籍を置いており、碑文の田嶋小弥太は、省吾と菊池家の娘のこうとの間に生まれた小弥太である。
省吾は明治37年(1904)に没したが、その周囲が館次郎を手厚く迎えたことが想像できる。

館次郎は大正6年(1917)1月22日に没し、省吾と同じ正永寺の菊池氏の墓地に葬られた。

小鹿神社 小鹿神社境内
▲小鹿神社と境内から望む小鹿野町

■小鹿神社
景行天皇の御世、皇子の日本武尊が東征の折に下小鹿野で休憩し
筑波根をはるか隔てゝ八日見し妻恋ひかぬる小鹿野の原」と詠んだという。
そして日本武尊は春日四柱神を奉して小鹿野明神社を創立したと伝わっている。

幕府直轄領であった江戸時代初期に上小鹿野の町並みが整えられ、寛永4年(1627)2月にに現在の小鹿神社の地(上ノ森)に大久保から諏訪大明神社を遷座した。
慶安5年(1652)2月には下小鹿野から小鹿野明神を町並みの入口にあたる春日町(明神)に移し、町の東西に鎮守した両社の間で毎年2月と7月の27日の祭礼で交互に御輿渡しが行われて(『岩田家文書』)

その後、上小鹿野は請西藩領、明治元年に岩鼻県(9年に埼玉県)管轄となり明治5年に村社、明治16年に郷社となる。
明治38年の地震後の明治43年の水害で小鹿野明神の境内が陥没する恐れがあり、本殿だけを残してその他建造物を腰之根の諏訪大明神に移して合祀し社号を「小鹿神社」とした。

飛び地境内に残された元宮(旧小鹿野明神)の「小鹿神社旧本殿」は宝暦10年(1760)、現在の小鹿神社本殿(旧諏訪神社本殿)は安永4年(1775)の建立とみられ、共に町文化財に指定された。
元宮の地名が諏訪なのは、江戸時代の祭礼で諏訪大明神を上諏訪社・小鹿野明神を下諏訪社に見立てた名残であろう。

小鹿神社祭神:春日四柱神(天児屋根命・武甕槌命・経津主神・比蕒神)
合祀:諏訪大神(建御名方命)・大己貴命・大山積神・菊理媛神・崇徳天皇

小鹿神社所在地:埼玉県秩父郡小鹿野町小鹿野1432