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「韮山反射炉」構造と歴史

現在の韮山反射炉 明治の補修前の反射炉

▲現在の韮山反射炉(にらやまはんしゃろ)と補修直前の反射炉
韮山反射炉は幕府の許可により大砲鋳造の目的で、韮山代官江川太郎左衛門英龍(坦庵)らにより、安政元年(1854に着工、3年後英敏の代に完成した、銑鉄(せんてつ。鉄鉱石から還元した鉄で不純物が多い)を溶かして良質な鉄を得るための洋式の金属溶解炉。
反射炉と呼ばれるのは、燃料(石炭)を燃焼させる炎や熱を、炉のドーム状の天井に反射させ、一点に集中させた反射熱を利用して金属を溶解する方式による。
創立当時は漆喰塗の白亜の塔だった。明治41年1月に煙突部分を鉄帯で補強し周囲に鉄柵を巡らせ、昭和年代に構造用形鋼と鉄筋で耐震補強されている。

連双二基4炉の韮山反射炉 連双二基シャチ台

連双二基の炉、当初あったシャチ台
反射炉は銑鉄を溶解する炉体と煙突から構成され、連双二基(溶解炉を2つ備える)南炉・北炉の計4炉を同時に稼動させることができる。
かつては北東側(上の写真)には鋳型を出し入れするための「シャチ台」があった。

・敷地面積は南北約59m、東西約52mの3,068㎡
・炉と煙突の部分を合わせた高さは約15.7m
・南炉・北炉は各5.9m×5.1m、炉床形で容量2~3t級

煙突が高いのは燃焼時に、ふいご等の人力に頼らない自然送風を確保するため。
上部に行くほど細くなっているが、内部はの穴は上から下まで同じ大きさ。

・炉体部(低層部分)外部伊豆石構造、炉内は耐火煉瓦のアーチ積
・煙突部(高層部分)煉瓦組構造(創立当時は漆喰塗り)

耐火煉瓦(焼石/やきいし)は賀茂郡梨本村(現河津町)に設けられた登り窯で生産され
賀茂郡中村・梨本村で採掘した白土を使用し、1700度まで耐えられる。

韮山反射炉と坦庵像 明治42年補修時の反射炉

▲反射炉を背にする江川坦庵公像。右は反射炉補修時の周囲の様子
天保11年(1840)のアヘン戦争で2年後に清が大敗しイギリスの半植民地化したことで、日本でも欧米諸国の進出に対する危機感が強まり、薩摩・佐賀・水戸など開明的な藩主のいた藩や、幕府でも蘭学に通じた先覚者達により、西洋の先進的な技術の導入が積極的に行われるようになる。
嘉永3年(1850)6月に佐賀藩主鍋島直正は佐賀城西の築地に大砲製造方を置きオランダのヒュゲーニン著『ライク王立鉄大砲鋳造所における鋳造法』を翻訳させ工夫を加え7月に反射炉の建造着手し1基竣工。以降2年間で4基を完成させ操業に成功。
嘉永6年(1853)夏に薩摩藩主島津斉彬による集成館事業(洋式産業群)の一環で磯邸内で試作炉を、完全な2号炉は安政4年(1857)夏に完成させた。

幕府でも、江川英龍が海防の必要性と江戸湾防備の具体策──台場を構築し異国船に備える等──を幕府に建言し、嘉永6年のペリー艦隊の来航等を受けて聞き入れられる。
台場に設置する大砲は、従来のものより長射程で堅牢、かつ低コストの条件を満たすためには、鉄製で口径長大な砲の製作が必要であるが、それを想定していた英龍は『ライク~鋳造法』を石井修三と矢田部卿運に『和蘭国製鉄炉法』として翻訳させる等しており、幕府の許可が下りてすぐに、反射炉建造に着手。
はじめ建設場所を伊豆賀茂郡本郷村(現在の下田高馬付近)とした。

嘉永6年(1853)12月に本郷村で建設準備。
安政元年(1854)3月27日、伊豆本郷村の工事中の反射炉に、近くにある下田港に入港していたペリー艦隊の水兵が侵入する事件が起きたため、建設地を急遽、韮山代官所に近い田方郡韮山中村村に変更することとなった。
5月29日本郷村から資材を運び出し、沼津香貫村に荷揚げ。
6月に現在の場所、田方郡中村で着工。翌月1日から土台、閏7月18日に耐火煉瓦を積み始め22日板鉄鋳造。
安政2年(1855)1月16日に英龍が江戸屋敷で病没。子の英敏が意志を継いで工事は続行される。
2月21日に1番反射炉半双。8月に幕府を通じて佐賀藩の協力を要請し、12月に承諾を得る。
安政3年 (1856)4月11日タール製造所で完成。この年発行の『鉄煩鋳鑑図』入手。
※この年3月に水戸藩で反射炉完成
安政4年 (1857)2月5日佐賀藩より技師の杉谷雍助(翌年3月9日帰国)・田代孫三郎および職人達(翌年3月22日帰国)が到着。
7月1日南炉試鋳。9月9日に最初の18ポンド砲の鋳込みが行われる。
安政5年(1858)3月連双2基が完成。
製造した18ポンド砲は良好だったが、その後度々の天災や粗悪な銑鉄使用の弊害等が重なり、鋳砲の困難が記録に見られる。安政6年から銅製砲を鋳造。

完成した大砲の28門が品川台場に据付られたという。
幕末期から国内で幕府直轄4、藩営6、民間3箇所の反射炉が作られ、8箇所が完成したといわれる(幕府直轄は韮山のみ)が、現存するのは山口県萩(試験炉とみられる)と韮山のみ、実際に稼動運用し当時の姿をほぼ完全な形として残すものは韮山のみとなった。

古絵図文久3年9月 古絵図

▲古絵図(文久3年9月)
古地図によると韮山反射炉は現存している反射炉本体のまわりに砲身をくり抜く錐台小屋など敷地内は一連の作業小屋を含めた製砲工場であった。
これらの小屋を見ると、本錐台小屋、御筒仕上小屋、鍛冶小屋、板倉、詰所、門番所などがあり、他に古川の上流に仮小屋、タタラ炉が配置されている。

炉の構造案内 炉と鋳台の位置

▲位置と構造
鋳台下に約30cm角の松の角材が碁盤の目のように敷き詰められ、炉の下には松杭が打ち込まれている。
高レベルな基礎工事により、安政元年(1854)11月14日の安政の大地震でも工事中の反射炉に大きな損害は無かった。

韮山反射炉東側 韮山反射炉南側

▲東側と南側
東側写真、右に北炉と出湯口、左が南炉で横に焚口鋳口が見える。
南側写真、右が南炉で下に灰穴、左が北炉で横に焚口と鋳口、手前は源材料置場。

灰穴内部 炉の構造

▲炉のしくみ。写真の穴は灰穴

反射炉焚口 焚口解説

△[工程1]焚口(たきぐち)
小さい四角が焚所(燃焼室)に石炭(筑後・常盤等)などの燃料を入れる焚口。
最初、木炭(天城炭)の弱火でロストル(火格子/ひごうし。固体燃料を載せる格子状の装置)を温め、この上に木屑と薪を置き
石炭を堰(えん。燃焼室と溶解室を区切る煉瓦積みの仕切り)よりやや高くなる程度に入れ、数千百度まで温度を上げる。

反射炉鋳口 反射炉鋳口解説

△[工程2]鋳口(いぐち)
焚口より大きいドーム型が、溶解室に銑鉄等を入れる鋳口。燃焼ガスの集合により最も高温になる所。
炉床面は出湯口に向かってゆるやかな下り勾配になっていて、不純物を含んだ銑鉄が溶けると傾斜に従い出湯口に向かう。出湯口の手前で上に煙道が伸びる。

反射炉出湯口と鋳台場所 反射炉出湯口側説明

△[工程3]出湯口(しゅっとうこう)
出湯口から溶解した鉄が流れ、鋳台(いだい。鋳型を置く台)に設置された大砲の鋳型(いがた)へと注がれる。
南北の炉が出湯口側で直交する(直角に位置する)のは、多量の鉄湯を必要とする時に、合わせ湯を便利にさせるため。
手前のコンクリート枠(補修時の目印のためにある)の位置が鋳台場所。鋳台は縦横4.6m角で深さ2.7mの箱型。

反射炉灰穴 反射炉灰穴案内

焚所風入口灰穴
灰穴は焚口のある焚所(燃焼室)の下に位置し、焚所への自然送風口と共に、焚所で燃えた燃料の灰を落とす所。
上部の鉄桁の上にロストルを敷き、この上に燃料を置いていた。

水車 22水力三連錐台の図

水車(みずぐるま)と三連錐台の図
当時の大砲は砲身の内部にあらかじめ芯の鋳型を挿入する中子法から、鋳造後に砲身をくり抜く工法に移っている。
鉄を溶かして鋳型で固めた、鉄の塊でしかない砲身を、水車で回転させ削孔(さっこう)させる工作機械「三連錐台」で行われた。昼夜休みなく回る水車によって約1ヶ月かけて穴が開けられたのだ。
反射炉が古川沿いに築造されたのも、水力を必要とするためである。
図は『鉄煩鋳鑑図』より。

韮山古川

今も古川はそばに流れている。
その後の韮山反射炉は…
慶応2年(1866)4月に幕府直営から江川家私営となるが、維新後は明治6年(1873)3月に陸軍省に移管、設備・付属品等を造兵司に引き渡し決定。
大正11年(1922)3月8日に内務省に移管し、国史跡に指定される。
平成19年(2007)11月30日に経済産業省より近代化産業遺産群33に指定される。

国指定史蹟 韮山反射炉
所在地:静岡県伊豆の国市中字鳴滝入268の1

参考資料
・山田寿々六『韮山反射炉 構造の概要と写真集』『反射炉に学ぶ』
・日本耐火物協会『耐火物年鑑4』
ほか反射炉の案内パネル・リーフレット等
関連サイト
・伊豆の国市HP:http://www.city.izunokuni.shizuoka.jp/

■■韮山代官江川家と担庵■■

韮山反射炉の記念建立物等

韮山反射炉の現在の敷地内にあるもの

青銅製二十九拇臼砲 青銅製二十九拇臼砲

青銅製二十九拇臼砲
臼砲(モルチール砲)は45度の角度で砲弾を射出し城壁などの上を越えて攻撃する砲口装填式の滑空砲。
拇(ドイム)は、昔のオランダの長さの単位で幕末頃はcmと同じ。
反射炉築造前に三分の一サイズの反射炉を江川邸に作り、寺の壊れた釣鐘を溶かして試作
碑の右側の臼砲に「伊豆韮山長谷川刑部秋貞造」と銘。

20ドイムモルチール砲 20ドイムモルチール砲口

青銅製20ドイムモルチール砲
室内展示の臼砲。説明文によると、反射炉で鋳造されたと思われ、この2門は外形寸法に差があり別の鋳型で鋳造されたようだ。

鋳鉄製24ポンドカノン砲 鋳鉄製24ポンドカノン砲口

鋳鉄製24ポンドカノン砲のモニュメント
二十四听加農砲は、韮山反射炉で最も多く鋳造されたと考えられている大砲。
全長は3.502mで重さは3.5tある。
このモニュメントは江川家家臣の長沢家に遺る古図を元に清水町の木村鋳造所が複製した。
くろがねの色!

 

反射炉碑 反射鑪詩碑

反射鑪碑反射鑪詩碑
「元帥陸軍大将大勲位功二級戴仁親王(ことひとしんのう)篆額(てんがく)」
反射鑪碑の上額は戴仁親王による題字と、韮山反射炉と江川家についての碑文。

江川坦庵像 片岡春吉翁胸像

江川坦庵公像片岡春吉翁胸像
江川坦庵は有事の兵の糧食・保存用のパンを広め「パン祖」とされ
この片岡春吉氏は日本製パンの功労者として、胸像が建てられた。

大正11年(1922)沼津市に「富士家製パン」創業。
春吉は横浜フランスパン店のフランス系技術を習い、石窯を使ったパンを焼いた。
大正15年(1926)から菓子パン、昭和9年(1934)から食パンを作り始めている。
創業から昭和18年(1943)までイースト種を使わずホップス種(酒種)を使用し続けた。
昭和17年(1942)2月に第二次世界大戦の食料統制下の製パン企業保護のため「静岡県東部製パン有限会社」設立。社長となる。
戦後も昭和24年(1949)に「静岡県食パン工業協同組合」の結成メンバーに加わる。
解散後に結成の「静岡県パン協同組合」にも連なる。

沼津市本郷町の「冨士家製パン所」がお弟子さんの引き継いだ後継のよう。
静岡県パン工業協同組合の照会文は「昭和初期から使い続けている日本で唯一と思われるレンガの窯でパンを焼いています。昔から変わらぬあきのこない味を守り続ける事にこだわりを持っています」とのこと。給食用のパンも作っている、地元に愛されているパン屋さんだ。

・沼津の冨士家パン http://fujiyapan1926.blog.fc2.com/

 

韮山古川 韮山反射炉周辺の案内板

古川の流れと砲弾型?の欄干
幕末の洋式砲弾にしてはくびれて細長すぎる、まるで徹甲弾…。砲弾色々ってスタンスかな?
付近は茶畑やホタル自生地がある。

■■韮山代官江川家と担庵■■

「パンの祖」江川坦庵の兵糧パン

担庵の兵糧パン

日本に初めて洋式のパンが現れたのは、応仁の乱後のポルトガルとの南蛮貿易の時で、パンの語源もポルトガル語のpãoと考えられています。
米食が浸透した日本にはパン食は広まらず、更に天正15年(1587)豊臣秀吉のバテレン追放令で、パンが姿を消すことになります。
その後の江戸時代でもパンが作られたのは長崎の出島のオランダ人向けで「白カステラ」と呼ばれ、西洋文化の域を出ません。

江戸時代後期の天保11年(1840)清とイギリス間でアヘン戦争が勃発し、日本でも国防の危機感から西洋技術を取り入れる動きが強まります。
まず長崎出身の洋式砲術家の高島秋帆(しゅうはん)が、腐りやすい米飯に代わる兵糧として、乾パンに着眼したともされます。
秋帆は韮山代官江川英龍(坦庵/たんなん)の西洋砲術の師です。

天保13年(1842)4月2日付けで江川英龍が天城・江梨山へ鹿や猪の狩猟の際に試しにパンを携帯したらとても便利であったことや、
秋帆の配下でパン製法を知る長崎の作太郎が江戸に滞在している間に、彼から技術を得るようにと、書簡を江戸詰の柏木総蔵(手代の柏木忠俊)へ宛てています。
英龍は饂飩粉をベースに「味が良くなる卵や砂糖を加え…」と書いているので、菓子パンのような美味しさも考慮していたようです。

柏木はすぐに英龍の指示に従いパンを試作し、薪の量や火加減から窯のことまで製法が事細かに書いて、8日付けで返事を出しています。
「小麦粉一品に塩で味を付け……大きさは厚さ三分(約1cm)ばかり、差渡し三寸(直径約9cm)ばかり、それを一度に一つ半、大食らいの者は二つも食べ、その後湯茶水を飲めば腹の中で増える…」と、菓子よりも主食としての味付けを優先し、より長期の保存、軽さ、腹持ちを考え、農兵の携帯食として適した形を挙げています。

江川邸の兵糧パン焼き釜 兵糧パン焼き釜上部

パン焼き窯鉄鍋
江川邸内にもオランダ式の窯が築かれ、パンの改良を進めました。
展示されているのはパン焼き窯を形作っていた伊豆石(いずいし)の一部で、本来は上に載せてある鉄鍋が入る、もっと大きなものだったようです。
洋式兵法を学ぶため英龍の元へと津々浦々から集まった門人達が各地へパンを広めたことでしょう。

 

嘉永6~7年(1853-4)にアメリカのペリー、ロシアのプチャーチンが艦隊を率いて開国を迫るという緊迫した外交に対して、有事の時に役立つ兵糧パンの需要が高まり、水戸(安政2年/1855に藩医柴田方庵がオランダ人コンプラから製法を教わる。兵糧丸)や、薩摩(蒸餅)、長州(備急餅)藩等でも貯蔵用のパンが量産されるようになります。

ところでこのロシア艦ディアナ号が11月4日に下田で談判中に大地震が起こり、沈んでしまいました。幕府は英龍にロシア人と協力して伊豆の戸田村で造船を命じ、英龍はロシア人のためにパンを給食しています。
このような形でも英龍のパン作りが役に立ちました。

 

昭和28年に全国パン協議会は、パンを全国に広めた坦庵を「パン祖」として顕彰して、江川邸の庭に記念碑「パン租の碑」が建ちました。碑文「パン祖江川太郎左衛門」は徳富蘇峰(とくとみそほう)によります。

近年、坦庵の直筆のパン製法書が発見され、彼が初めてパンを邸内の窯で焼かせたのが天保13年4月12日と推定されることから
4月12日がパン業界指定のパンの日になりました。

江川坦庵の兵糧パン製法

明治維新後に西洋文化が積極的に取り入れられるようになり、明治2年(1869)に芝日陰町木村屋(現・銀座木村屋總本店)がパン屋を開業しました。酒饅頭の製法を元に米麹から酵母を創り、明治7年には日本独自の餡パンが生まれます。
そして陸軍が日清戦争後に従来の「道明寺乾飯」を改良して発酵菌による乾パンを作り携帯食にすると、一般での需要も増えました。
後にイーストの輸入があり、海軍でもパン食が採用されます。

参考図書
・北岡正三郎『物語 食の文化
・矢田七太郎『江川坦庵』
・『パンの明治百年史』
・糧友会『製パン教程』
ほか江川邸のリーフレットなど

■■韮山代官江川家と担庵■■

* * *
おまけ。
韮山反射炉のお土産、伊豆倶楽部の「パン祖のパン
原材料は小麦粉(全粒粉)・塩・米糀(こうじ)の3種のみで、二度焼き製法で水分を少なくし、170年前の坦庵のパンを再現!

パン祖のパン

堅い上に厚さがあるので、売店で購入後に湯茶に漬けながらとはいえ、よくご年配の方がその場(イートイン)で食べていくと聞いて驚きです。

▼日鐵需要か私の地元でも売っている「くろがね堅パン」で鍛えていても丸かじりはキツかったですはい
  ←堅パン画像はAmazonリンクです
堅パンは大正末期に官営八幡製鐵所(現:新日鐵住金八幡製鐵所)が従業員の栄養補給食として開発した、長期保存用に水分を少なくすると鉄(くろがね)のように堅いお菓子、だそうです

本立寺-韮山代官江川家菩提寺

本立寺山門 本立寺本堂

大成山本立寺山門本堂
江川邸正門より東南三町の金谷区に江川家菩提寺の本立寺(ほんりゅうじ)がある。
現在の本堂は昭和3年4月8日に入仏式を行い完成したもの。

上人像 本立寺縁起

▲縁起と上人像
弘長元年(1261)日蓮上人伊東に流罪の時、江川家16代当主江川太郎左衛門英親(ひでちか。後に英久)が、親しい江間の住人中務三郎右衛門頼基が鎌倉勤番の折にそれを伝えた。英親は伊東の上人へ謁し信徒となって、真言宗から日蓮宗に改宗した。
翌年江川邸修復の節に上人が直筆の火伏の曼荼羅と自刻の木像を与える。
英親73歳の春に身延山に登詣、上人に優婆塞日久と法号を授けられた。

嗣子英方(ひでまさ)遺命により新たに大乗庵を邸内に建て宗祖像を安置した後
永正3年(1506)6月に24代英盛(ひでもり)が邸内の大乗庵をこの金谷村に移し、本立寺を創立し日澄上人を開山とした。

富士山と江川担庵像 江川家墓地

江川坦庵の像江川家墓地
富士山を望む場所に江川坦庵の像が在る。
本堂裏には江川家墓地があり七百年歴代の墓碑が並ぶ。
一段目の中心に開山優婆塞日久の墓、最上段に源英龍・源英敏・源英武の墓碑。

36代江川英龍の墓 37代江川英敏の墓 38代江川英武の墓

日蓮宗本山 大成山本立寺
所在地:静岡県伊豆の国市韮山金谷268-1

■■韮山代官江川家と担庵■■

坦庵と幕末維新時の江川太郎左衛門

伊豆韮山代官(にらやまだいかん)は江川(えがわ)家の世襲代官で江川太郎左衛門の名を引き継ぎ
坦庵は韮山代官8代目にあたる。

江川英龍
■36代英龍(ひでたつ。坦庵/たんなん)
芳(よし)次郎、後に邦次郎。字は九淵(きゅうえん)、号は坦庵。
享和元年(1801)5月13日に江川英毅(ひでたけ)の次男として誕生。母は安藤氏。兄の英虎が早世したため嫡子として文政7年(1824)3月22日に代官見習いとなる。
天保6年(1835)35歳で家督を継ぎ韮山代官となる。
幕末の激動期に西洋砲術の導入、鉄製大砲の生産、西洋式築城術を用いた台場の設置、海軍の創設、西洋式の訓練を施した農兵制度の導入、種痘の実施、兵糧パンの製作等、軍事、海防、外交、医療、教育など様々な面で業績を残した。
安政2年(1855)1月16日腸胃性僂麻質斯(リウマチス)熱で江戸屋敷にて没。享年55。
坦庵の死を水府(水戸)烈公(徳川斉昭)は「一方(ひとかた)の長城を亡くした」と悲しみ、老中阿部正弘は「空せみはかぎりこそあれ真心に 立てしいさをは世々に朽せじ」と歌いその功績は不滅であると称した。法名修功院殿英龍日淵居子。菩提寺は本立寺

江川坦庵略年譜 江川坦庵をめぐる人々

▲坦庵の略歴と周辺人物(韮山反射炉展示パネル)

 

江川英敏
■37代英敏(ひでとし。保之丞)
天保10年(1839)英龍の三男として生まれる。母は北条氏。
安政2年(1855)坦庵の死により16歳で代官見習となる。
5月9日韮山代官となる。鉄砲方を兼ね、英龍の事業を引き継いだ。
芝新銀座に韮山塾を再開させる。
8月4日濱苑で将軍家定が英敏の砲技を観る。以降も折々で老中・若年寄等の前で大小砲調練を行い、諸藩の砲術精励にも寄与した。
安政3年(1855)3月1日講武所の砲術教授方を任じられる。
9月25日幕府に韮山型造船の功、12月24日に大砲鋳造の功をを賞される。
安政4年(1856)佐賀藩の協力を得て韮山反射炉が完成する。
代官になった時の支配地は伊豆・駿河・相模・武蔵の7万4千石と当分預所1万4千石余で、この年には10万石となった。
安政6年(1859)7月13日幕府に野戦連砲鋳造・車台等製造の労を賞される。
文久1年(1861)5月29日部下の鉄砲組を率いて東禅寺の警衛に加わる。
7月8日幕府に銃製造等の功を賞される。
10月関東八州と駿河・遠江・参河諸国に農兵制の創立を幕府に建議する。
文久2年(1862)8月26日小笠原島が管轄となり、八丈島の住民30余人を小笠原島に移す。
文久2年(1862)12月16日に在職7年で病死。享年24。法名総達院英敏日恵。
※英敏の写真は中濱萬次郎(ジョン万次郎。漂流し米国から帰国後に江川家配下)の撮影

 

江川英武
■38代英武(ひでたけ。籌之助。号は対岳亭・春禄)
嘉永6年(1853)4月5日英龍の五男として誕生。
文久2年(1862)兄英敏に嗣子がなく養子として跡を継ぎ、10歳で韮山代官となる。
元治1年(1864)7月30日幕府の大小砲製作場の改革で、英武は製造御用を罷免。
慶応2年(1866)11月18日幕府は講武所を陸軍所と改め、英武は鉄炮方から陸軍所教授方頭取となる。
慶応4年(1868/明治元年)1月6日幕府は農兵を編して、英武は伊豆の警守を任じられる。
2月3日東海道鎮撫総督府に管内の地図・戸籍等を督府へ提出するよう命じられる。
2月21日藤川駅へ参じて勤王の意を表す。徴兵の命令は辞した。
3月25日(4月7日)英国公使の来謁に対し英武は熱海の警守を勤める。
閏4月17日大総督府は英武に旧幕府付に託されていた鉄砲を品川に送致させる。
5月5日大総督府は宇和島藩士林玖十郎通顕を参謀とし、軍艦として鳥取藩士中井範五郎正勝・佐土原藩士三雲為一郎種方を伊豆・相模に向かわせる。
(下総・下野へ佐賀藩士島団右衛門義勇、沼津へは大村藩士和田藤之助勇が向かう)
関東監察使府は林忠崇請西藩兵・遊撃隊らを管内に進入させた英武と小田原藩主大久保忠礼の罪に対し、範五郎等と協力して功を立てることで報いさせた。※箱根戦争

5月8日天野八郎らと袂を分かち彰義隊を離れた渋沢成一郎らが「振武軍」を名乗り、英武の管地の北多摩郡田無村(東京都西東京市。青梅街道旁近)の西光寺を本陣とした。英武は先鋒総督府に書面で「振武軍と称するもの」の結集を報告。
15日の上野戦争で敗走した彰義隊の残党が田無村で振武軍に合流し17日に飯能(はんのう、埼玉県)へ移動。
20日大総督府は福岡・久留米・大村・佐土原四藩兵に振武軍らの討伐を命じて下参謀渡辺清左衛門に率いさせ、英武に糧食を掌らせた。
23日に交戦し数時間で振武軍ら潰走。
※飯能戦争

5月23日甲斐鎮撫府は沼津・高遠二藩兵を箱根に発遣し沼津軍監和田勇の指揮で遊撃隊らを討たせ、中津・高島二藩兵に甲府城と原村を警守せさせる。
5月24日甲斐鎮撫府は参謀助役伏谷惇に松代・浜松二藩兵を率いて箱根へ赴くよう命じ、英武と沼津藩は久世三四郎に其糧餉丁馬を弁給させる。
5月29日遊撃隊らの残党が伊豆網代村傍近に屯拠する報に対して大総督府は英武に追討を命じる。
※箱根戦争

6月10日箱根・品川間の糧餉伝逓(戊辰戦争での官軍の食料の輸送)を任せられる。
6月29日韮山県が置かれ、江戸鎮台府は英武に旧地の韮山県の管理を任じる。
9月18日伊豆国賀茂郡毛倉野金山の開鉱のため鉱山司との協議を命じられる。
10月7日明治天皇の車駕の御東幸で三島駅に至り、英武の速やかな帰順と忠勤を褒められ、江川家の由緒書きを上らせた。翌日、余興として箱根湖上の水鳥を小船から二十間の距離を西洋銃で見事撃ち落して喜ばせた。
10月20日英武は箱根・平塚二駅間の餽餉伝逓管理を罷め、小田原藩が受け持つ。

明治2年(1869)6月10日韮山知事となり翌月更に韮山県権知事(ごんちじ)となる。
明治3年(1870)6月に正六位に叙せられる。
明治4年(1871)7月に米俸28石下賜され東京府、海軍省に所属。
8月13日に肥田濱五郎(江川家手代見習、造船頭。後述の岩倉使節団で理事官)が木戸孝允(桂小五郎)に、英武が洋行の意思があると伝えた。
若くして韮山知事となり良い統治を朝賞された英武への嫉妬を避けるため柏木忠俊(かしわぎただとし。江川家手代の家柄で、江戸詰として坦庵の頃から江川家を補佐した。韮山県大参事、足柄県令)が木戸に相談し、肥田と斉藤篤信斎(江川家まとめ記事参照)が洋行を斡旋したという。
11月12日に岩倉具視を正使とした欧米出張使節団に英武も留学生として従い横浜出航。
12月6日カリフォルニア州サンフランシスコ到着。

明治5年(1872)1月21日ワシントンに至り滞在。
2月にニューヨーク州ハイランドフォールズ普通学校入学。
明治6年(1873)9月にピークスキル普通中学校へ進学。
明治7年(1874)4月に帰国命令が出たため海軍省を辞めて自費で留学。
明治8年(1875)ピークスキルで級長となり優等生として表彰される。
9月ペンシルバニア州ラフィエット大学に入り工学を修めた。
明治11年(1878)テクニカル部門、数学賞で20ドル授与。
2月20日ジュニアコンテストでスピーチを行う。
明治12年(1879)7月工学部を優秀な成績で卒業。
10月に帰国。
明治14年(1881)7月に内務省御用係となり月俸40円下賜。取調局事務長となる。
明治16年(1883)8月に大蔵権少書記官として大蔵省に奉職。
明治17年(1884)9月に大蔵省造幣局勤務議案局兼務。
明治18年(1885)5月に大蔵省造幣局大阪出張所長となる。
明治19年(1886)1月16日非職となり2月に退職。
官僚を辞め郷里伊豆に戻った英武は、4月に町村立伊豆学校の校長となった。留学経験を生かし英学を中心に教育に力を入れる。
明治20年(1887)12月に伊豆学校の廃止により私立学校(韮山高校)創立。
明治24年(1891)校長辞任。
その後も韮山周辺の教育斡旋や被災地の寄付をし地域に貢献した。
昭和8年(1933)10月2日没。81歳。

参考図書・文献
・米山梅吉『幕末西洋文化と沼津兵学校 (1935年)
・妻木忠太『木戸松菊公逸話』
・『Lafayette College Journal』
・『Bulletin of Lafayette College』
ほか江川文庫資料、韮山郷土資料館、韮山反射炉パンフレット等

■■韮山代官江川家と担庵■■