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江川邸と韮山代官所

江川邸枡形 江川邸案内板

重要文化財指定の江川家住宅の敷地は11873㎡もある。
右写真は城郭の虎口にあたる枡形。江川邸では代官が外出する際にここで人員を揃え、幕末には農兵の訓練場に使われたという。
農兵の軍事調練に用いられた「右向け、右」「気をつけ、前へならえ」などの鋭音号令は、オランダ式の号令を江川英龍(担庵)が翻訳させ、日本人に分かりやすいよう工夫したもの。

江川邸表門 主屋玄関ときささげ

表門主屋玄関
表門は元禄9年(1696)建築、文政6年(1823)修復の薬医(やくい)門。
主屋は552㎡あり桁行13間(約24m)梁間10間(約18m)棟高約12m。室町時代創建部分と江戸時代初期修築部分が含まれる。近年銅板に葺替えられる前は瓦葺屋根だった。
手前に北条早雲が植えた伝承もある豇豆(きささげ)の古木。

韮山屋敷鳥瞰図 韮山代官役所跡

江戸末期の江川邸役所跡
韮山屋敷鳥瞰図」は明治期に家臣の前田甲龍が万延元年頃の様子を回想して描いた図。
主屋北側辺りに韮山代官所の役人が政務した茅葺平屋の建物が在った。現在は梅林になっている。
他にも江川邸周辺には役人達の住む長屋や番人小屋、厩、牢屋など様々な建物があり、韮山代官役所として一体的に機能していた。

維新後も明治元年(1868)6月29日~4年11月の廃藩置県までは韮山県の県庁舎、9年の足柄県廃止まで足柄県韮山支所、12年まで静岡県韮山支庁舎として地方行政を担った。
官舎のあった場所は現在郷土資料館と民家になっている。

主屋へ 江川邸主屋土間の中

▲主屋の土間
土間(どま)は50坪程の広さがあり、天井板が張られていないため主屋の大屋根を支える豪壮な架構(かこう、小屋組)が見上げられる。高い位置に棟札箱が置かれている。

主屋土間の生き柱 ボートホーウィッスル砲車

東側の生き柱は地中深くまで続いており、江川家の移住時から生えていたケヤキの木をそのまま柱として利用されたと考えられ長年大切にされた。敷台に室町時代の掘立柱と判明した柱根が展示されている。
竈の横に幕府に献上された「ペリーの大砲」アメリカ製のボートホーウィッスル砲車(上陸舟艇用の小型砲車)と砲弾が展示されている。砲身は複製。

江川邸の塾の間 担庵の忍の字

塾の間と坦庵の座右の銘「
江川邸主屋土間側東北の18畳の部屋(玄関右手)が英龍の「韮山塾」と呼ばれた「塾の間」で江戸の江川塾を含めた生名簿もある。
江川塾には佐久間象山英敏の代には大山巖、黒田清隆ほか多くの優秀な人材が集った。

坦庵の母久子は芳次郎(坦庵の少年時代)の優秀なあまりの血気盛んな性格を戒めいたが臨終に際して「忍」の一字を書いて与えられてからは坦庵の座右の銘としてこの一字を書いた紙を肌身離さず所持した。

江川邸の蔵 江川邸武器庫

西蔵・南北の米蔵武器庫
西蔵は幕末頃の建築で四方の壁がわずかに内側に傾いた「四方ころび」という技法で造られている。正面から見ると将棋の駒のような形なので「駒蔵」とも呼ばれる。軒の屋根が瓦でなく伊豆石で葺かれているのも特徴的。

写真奥に並ぶ手前の南米蔵は明治25年(1892)隣の北米蔵は大正18年(1919)建造。
武器庫は幕末に造られ、火器や火薬の原料(硝石・硫黄・松ヤニ)等が保管された。

米蔵内は資料展示 韮山竹 木馬

▲南米蔵の展示品は民具や調度品が中心。
米蔵は展示スペースとなっており裏門側の郷土資料館(共通券あり)とあわせて多くの展示物が見学できる。木馬までありここに載せきれません。
千利休が園城寺(三井寺)の割れ鐘に見立てて作り豊臣秀吉に献上した花筒の「園城寺」が江川邸の竹を用いたことから韮山竹が著名になった。

1軍用銃 大筒と着発弾 木筒等

▲北米蔵は火器類の展示や反射炉や品川台場の資料解説等。
担庵は軍用銃の改良にも勤め、画期的な着発弾(着弾と同時に破裂する弾)なども開発した。
展示品としておなじみ韮山笠をはじめ、火縄銃、ゲベール銃、砲身螺旋切り台、木砲、大筒、その他野戦砲やモルチール砲の小型模型、砲弾、大砲鋳台道具等が並ぶ。

井戸 江川邸裏門

井戸裏門(北門)
江川氏は大和国宇野より酒造技術をもって韮山に到ったとされ、元禄年間(1688~1703)頃まで江川酒と呼ばれる銘酒を造っていた。
江川家15代英治が北条時頼に献じ、18代英住の子正秀が北条早雲より江川酒の名を賜ったと伝わる。
徳川家康が伊豆国での鷹狩りで献上された江川酒を賞美し、江川屋敷内の井戸む図が軽い味わいで酒に合うと褒め、自ら河原の野菊を下し家紋とせよと言ったことから、それませの「五三の桐二つ引紋」から「井桁菊紋」に改められたという。
井戸の向こうにパン租の碑。

裏門は古くは茅葺屋根で、文政6年(1823)建築だが門扉は更に古く天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原攻めで韮山城が包囲された際に砦の一つであった江川曲輪当時のもので、多数の穴はその時に受けた鉄砲玉や鏃の跡だとされる。

・韮山邸(史蹟韮山役所跡)所在地
静岡県伊豆の国市韮山韮山1番地
・重要文化財「江川家住宅」サイト:http://www.egawatei.com/

韮山城址の城池
▲韮山城址の城池

■■韮山代官江川家と担庵■■

韮山代官江川家と担庵

本立寺の江川担庵像 韮山反射炉

韮山まとめ。いずれ江戸版も…
江川邸と韮山代官所 – 重要文化財「江川家住宅」
幕末維新時の江川太郎左衛門 – 最後の韮山代官
本立寺 – 江川家の菩提寺
パン祖のパン – 「パンの祖」坦庵の兵糧パン
韮山反射炉
 └反射炉敷地内の記念建立物等 – 臼砲や記念碑など

江戸時代、伊豆の国市域の村々の多くは、幕府直轄領や旗本領となっていました。
勘定奉行の下で、幕府直轄領の支配を担当したのが韮山代官です。
韮山代官の職は代々江川氏が世襲していました。その支配地域は時期によって異なりますが、概ね現在の静岡県東部・伊豆地方、神奈川県・東京都・埼玉県・山梨県にまたがる広い範囲に分布していました。

歴代の韮山代官で最も有名なのは幕末に活躍した江川太郎左衛門英龍(ひでたつ、担庵/たんなん)です。
英龍が代官となった当時は、天保の飢饉によって各地で一揆や打ち壊しが頻発するなど、非常に困難な時代でした。しかし英龍は巧みな行政手腕によって支配地の村々を立ち直らせることに成功しました。
彼はまた、幕末日本の海防政策にも大きな業績を残しています。西洋砲術の普及、鉄製大砲鋳造用の反射炉建設、江戸湾内海の台場建造、農兵制度採用の建言など、その仕事は明治維新後の日本の近代化にもつながる先進的なものだったのです。(韮山郷土資料館リーフレットより引用)

江川太郎左衛門英龍担庵肖像 担庵直筆の絵画と世直大明神札

江川英龍の肖像と直筆の絵画(江川家住宅展示品)
『富士画賛』里はまだ夜深し富士の朝日影
『甲州微行図』韮山代官管轄地に一揆・打ち壊しが横行する農民の状況把握のため、天保8年(1837)8年3月頃に江戸の剣豪斎藤弥九郎と供に刀剣行商人に扮装してひそかに視察に回った当時を思い起こしたもの。視察の結果、打ち壊しの鎮静や窮民援助を積極的に行い窮民の援助に勤め結果を出したため領民に「世直し江川大明神」と敬愛された。左下が世直江川大明神のお札。

 

■江川英龍関連書籍 ※Amazonへのリンクです
・江川文庫『勝海舟が絶賛し福沢諭吉も憧れた幕末の知られざる巨人 江川英龍
・仲田正之『実伝 江川太郎左衛門』『江川坦庵

体調回復してきたぞ

靖国遊就館の零戦

▲おなじみ遊就館の零戦五二型(靖国神社/東京都)

インフルエンザ後の体調不良、検査をしたら専門医の治療が必要な疾患と分かりかなり危ない状態でした。
ようやく動けるようになったので休んでいた間のことをひたすら消化中です。
趣味に時間をかけられるのはいつになることやら…

呉・江田島や横須賀等の海軍関連の写真もストックが溜まる一方なので早くまとめたいなあ。

享保の打ちこわしに遭った高間伝兵衛

高間橋西向き 高間屋敷方面

▲周淮郡常代村(君津市常代)に屋敷を構えた高間傳兵衛(伝兵衛)に因む高間橋
高間橋がかかる宮下川の西、右写真方面に12町歩(発掘調査では屋敷全体は1586坪)もある高間屋敷があった。
俗謡「あんば常代高間どんすぎなりお笠で紙鳶揚げるお雪さんに見せよと紙鳶揚げる」は敷地内の4反歩もの大きな池に屋根船を浮かべて愛妻(もしくは妾)を乗せ、舟から紙鳶(たこ)を揚げて喜ばせたという豪勢な様子を歌ったものと伝わる。
※上総国(かずさ、千葉県)周淮(すえ)郡周南(すなみ)村は明治22年の町村制施行で常代(とこしろ)村等周辺の村々が合併。その後周淮郡は君津(きみつ)郡となる

 

高間伝兵衛は、米将軍と呼ばれ享保の改革を行った第8代将軍徳川吉宗、将軍を支え江戸の町から米価引下げの懇願を引受ける町奉行大岡越前守忠相らのもとで米方役に任命され米価調整を担った豪商である。
※米方は御蔵渡り米を領査し、札旦那御入米拂米を定め、請取方賈方に取り扱わせ指図し、米代金を領収する。
米価が上がれば手持ちの米を安く売り、米価が下がれば大量に買い入れることで相場を安定させた。
武士の役人だけでは捌けず、伝兵衛のような商才ある町人を抜擢したのだろう

元禄16年(1703)6月付けで周淮郡(君津市)の猪原村と市場村の名主が伝兵衛に宛てた請求書が残されていることから、初代から数代の間の伝兵衛(代々「伝兵衛」を名乗っていた)は周淮で米穀を扱い、年貢・俸禄米を担保にした貸付やを行っていたと推測されている。
享保(1716~)初期には江戸に出店し、日本橋伊勢町(東京都中央区日本橋本町1丁目。橋の日本橋の東)に24棟の米蔵(出入口が1棟に2つ有り、いろはの48組の符号がついていたためか48棟の記述も多い)を持ち、側の本船町に「高間河岸」を設け、て大いに繁盛した。

江戸橋 木更津河岸と高間河岸

高間河岸の位置と現在の江戸橋
日本橋と下手の本船町にかかる江戸橋との間の南岸の土手倉(防火のため東西二町半に、石を畳揚げて屋根で覆った封疆蔵が置かれていた)が並ぶ四日市の西側に幕府に認められた木更津河岸があり、廻船の五大力船(ごだいりき。木更津船)が行き交っていた。上総との運送が盛んな所である。
※現在の江戸橋は昭和2年の昭和通り開設で90m程上流に移っている

 

享保15年(1730)9月12日、豊年が続き米価の下落を止めるため幕府は伝兵衛他8人の米殻商に上方米(かみがたまい)の独占取引権を与え買入れされる。

享保16年(1731)に幕府は米殻商へ安売りを禁じる。
7月に幕府は米方役の伝兵衛を大坂に派遣し買米(かいまい。幕府の買い上げ)、二付銀子を被下。

享保17年(1732)享保の大飢饉。夏に西日本が冷害に見舞われ蝗が大発生し、翌年まで餓死者が相次ぐ。
幕府が昨年買入れた米や東国産の米を西国に送り救援したため江戸でも米不足となって米価が上がり、庶民が困窮した。

享保18年(1733)1月23日、伝兵衛は高騰した米価を下げるため幕府に安価で備蓄米二万石を府下に売りに出すことを願い出て、許される。

しかし江戸市人は「米価が昂騰したのは、幕府と癒着した米商の高間傳兵衛が府内の米を大量に買占めて蓄えているせいだ」と噂を立てた。

世相を伝兵衛と大岡越前にかけた狂歌

「米高間 壱升貮合で粥にたき
 大岡食はぬ たった越前」

米が高く(高間)て銭百文では一升二合しか買えないのでお粥にしたが
多く(大岡)食べられず、たった一膳(越前)だけだ

実際は伝兵衛の備蓄は米価調整のためであり、23日の行動からすると私欲で溜め込んでいたわけではなかったが、米方役として米価を左右し江戸吉原を3日間貸切るという豪遊も伝わる富んだ伝兵衛に対して庶民は「私欲で米穀を買占め高値で売っている」と疑っていたようだ。

そして26日の夜、町民達が1700人あまり(4千人と記すものもある)集まり党を結び、伝兵衛の本船町の店(たな)を襲撃して打ちこわしを決行。家財は砕かれて前の川へ捨てられた。

町奉行が属吏等を出動させてようやく騒動を鎮め、打ちこわしを先導した首魁を捕らえた。
首魁4人のうち1人を重遠島、3人を重追放とした。

この日、高間一家は母の住む上総周南の高間屋敷に居たため暴動に直面するのを免れた。
伝兵衛は打ち壊しに遭いながらも翌月には、米二万石を五升安で売却することを上申している。

…この高間騒動は江戸で初めての打ちこわしともいわれる。打ちこわしは幕府権力への反抗と悪徳商人の摘発を目的にしたため、現代の時代劇などでは伝兵衛が噂通りの悪い商人として描かれることが多い。
また講談「姐妃の於百」歌舞伎「善悪両面児手柏」等で毒婦として着色されたお百は『秋田杉直物語』で、お百=おりつは宝暦7年(1758)の秋田騒動で夫が仕置きとなった後に、高間伝兵衛の甥の高間磯右衛門の妾になったとする。

 

享保20年(1735)7月19に伝兵衛が病死。代替わり上申。
11月に新しい代の高間伝兵衛が米方役に任命される。※以降の記事は跡を継いだ伝兵衛の事

延享元年(1744)米価が下落し、米価引上げのため107人の米殻商に買米を10等級に分けて割り当てた。伝兵衛は最高等級の5万石である。

延享4年(1747)播磨明石藩蔵元となる。

この頃財政難の播磨姫路藩の松平家は「姫路藩の大坂廻米の売却を許す」条件で伝兵衛に融資させていたが、松平家が条件を一方的に破り、伝兵衛の姫路藩蔵元役を罷免し蔵元制度(専売制度)そのものを廃止するに至ったとされる。

寛延2年(1749)11月12日、伝兵衛は米方役辞任。

その後、天保3年(1832)から嘉永(1848~)頃、伝兵衛と分家の伝右衛門(江戸小網町一丁目に店を構えていた。小網町の河岸も房州への海運が盛んだった)は武州川越藩松平家の御用高として仕えた。伝兵衛は20人扶持があてがわれた。

 

しかし明治になって諸大名へ貸付けていた分が回収できなくなり経営不振に陥り、高間屋敷は親族の松本氏の名義となり母屋は青堀(富津市)方面の人に売却。
表の平治門は大正3年頃に周南村(君津市大山野)の渡辺由太郎氏に払い下げ、長屋門も改築となった。

 

高間家の菩提寺は貞元字八幡所の豊山派満隆寺(過去帳に伝右衛門等記載)
墓は常代の共同墓地。墓には丸に葉柏の家紋が刻まれている。

参考図書
・『享保撰要類集』
・『東京市史稿 産業篇第17
・『国史大辞典7』土肥鑑高「江戸の米屋」「正米商」
・『君津郡誌
・『コンサイス日本人名事典
・幸田成友『日本経済史研究
・『列侯深秘録
・『有徳院殿御実紀』
・古屋野正伍『都市居住における適応技術の展開』
・君津市文化協会『呦々4』
・西上総文化会『西上総文化会会報53』
・君津郡市文化財センター『年報11』
・『会報21』菱田忠義「豪商高間伝兵衛関係の文書」
・『房総文化18』『常代遺跡群』『すなみふるさと誌』
・『江戸名所図会』

士魂商才の小柳津要人

M35小柳津要人の写真 小柳津要人(おやいづ かなめ)
士魂商才」は、福澤諭吉が「元禄武士の魂を以って大阪商人の腕ある者、即ち西洋のマーチャント(商人)の風ある者は小柳津要人」と評している通り士魂商才の新語を創って小柳津にあてた、または丸善創業者の早矢仕が番頭の小柳津の人柄に対し表した言葉とも伝わる。
徳川の恩義のため戊辰戦争を戦いぬいた後、丸善と出版界の発展の大きな力となった小柳津に相応しい言葉である。

 

■岡崎藩の西洋流大砲方として江戸へ
弘化元年(1844)2月15日に三河国額田郡岡崎で岡崎藩士小柳津宗和の長男として出生。母は光子。
要人は小柳津家の九代目。

岡崎藩(5万石)は三河国額田郡岡崎(愛知県岡崎市康生町)の岡崎城(徳川家康の出生地)を居城とし、この時の岡崎藩の藩主は本多忠民(ほんだただもと。美濃守、中務大輔。万延元年/1860に老中)。
忠民の本多家は本多平八郎忠勝を租とし、徳川譜代の重鎮であったため、子弟教育は厳しく幼くして武士としての教養を身に付けさせていたという。
小柳津も本多忠勝の遺訓「惣まくり」を生涯の信条としていた(總捲、残らず論じる意味)

17歳で御料理の間詰として藩に出仕し、間もなく側役の御次詰となる。
この頃、先輩同輩と将来における洋学・漢学の是非を論じて小柳津は洋学を採る方針を固め、従来の武芸のほか洋式砲術も修練した。

文久3年(1863)3月、20歳でに岡崎藩西洋流大砲方として江戸詰を命じられ江戸に赴く。
江川英龍の「繩武館」に入り教授の大鳥圭介、箕作貞一郎(麟祥)に兵学・洋学の教えを受ける。
秋より幕府開成所に学び、英学得業士となって新しい知識を身につけた。

慶応2年(1866)4月に藩に呼び戻される。

 

■戊辰戦争では脱藩して箱根から箱館まで転戦する
慶応3年(1867)10月徳川慶喜上洛とともに岡崎藩本多家は伏見の豊後橋の警護を命ぜられる。14日に慶喜が大政奉還を上奏。
12月に小柳津は藩を脱して江戸に向かう。

慶応4年(1868)3月23日に藩主忠民は養嗣子の忠直(ただなお)を上京させ親子連盟の勤皇誓書を提出し恭順を示した。

徳川譜代の藩として恭順に対し反発も多く、小柳津は藩の上役で佐幕派である儒者の志賀熊太(重職。重昴の父)に血判状を提出し、脱藩する。
和多田貢ら岡崎藩士23名で林忠崇・遊撃隊らが宿陣する沼津香貫村に至り、5月6日に加盟。第三軍に編入される。
26日の箱根山崎の戦の撤退戦で小柳津は左の脛を負傷。
その後も奥州を転戦し、更に榎本武揚率いる旧幕府艦隊で10月22日に蝦夷鷲の木へ上陸。11月5日に松前を落とす。

明治2年(1869)正月の仏式改編で遊撃隊の差図役となる。新政府に対しての和解案は受け入れられず、掃討のため4月に官軍が来襲し11日札前村付近で戦闘後、木古内に引揚。
20日に木古内に官軍千人ばかり押し寄せ火を放つ。この戦いで伊庭八郎はじめ負傷者が多く出て泉沢まで撤退。立て直すも追撃はなく22日に五稜郭帰営。
その後も抗戦するも5月11日に総攻撃を受け遊撃隊は桔梗野口で戦い小柳津は負傷する。その後に遊撃隊は五稜郭の表門を守備につく。

18日に榎本らは謝罪を決め、箱館称名寺で謹慎。称名寺で一泊し、翌日病院へ。
7月3日に出院して弁天台場に謹慎。
9月1日土州蒸気船の夕顔丸に乗り翌日出航。風模様が悪く南部釜石港に翌朝まで錨泊。
5日に品川着。
その後岡崎脱藩士は岡崎に呼び戻されて郷里で謹慎となる。

 

■英学を修め慶応義塾を経て丸善商社に入社
明治3年(1870)3月に謹慎を赦され東京へ向かう。
その途次に静岡──駿府に移封となった徳川家が人材育成のため駿府の学問所(静岡学問所)や沼津兵学校など教育機関を設立認可し、かつての有能な幕臣達が教鞭を執っていた──で沼津兵学校で英学教授の乙骨太郎乙(おつこつたろうおつ)のもとで英学を修め、また外山正一(とやままさかず。後に文部大臣)の知遇を得る(金拾円の援助を受ける)

東京で大学南校(開成所跡に開校した洋学校)に学び、後に慶応義塾(福澤諭吉の築地鉄砲洲の中津藩中屋敷に開いた蘭学塾が英学塾となり芝新銭座に拡大移転後慶應義塾に改称)に入る。

明治4年(1871)小柳津は藩の貸賃生であったが7月の廃藩置県に際し藩費が途絶えたので筑後柳河(福岡県柳川市)英学校の教師となる。
後に郷里の岡崎へ戻って英語を教授。

明治6年(1873)1月に横浜の丸屋に入り、書籍部門を担当する。
※慶応義塾生の早矢仕有的(はやしゆうてき。医師。美濃武儀郡笹賀村出身、幼名左京)が福沢諭吉の提案に基き明治2年1月1日横浜新浜町に和洋書籍と西洋医品を商う「丸屋」を創業。名義人を仮名の丸屋善八にしたため「丸善」と呼ばれるようになった。
小柳津について諭吉伝にも明治6年頃入社し丸善の基礎を成す大きな力になったことはその歴史上忘れるべからずものであろうと記されている。

明治5年11月9日に明治政府は太陰太陽暦から太陽暦(西暦、グレゴリオ暦)への改暦の詔書を発表し、明治5年12月3日を明治6年1月1日と定めた。
布告からひと月も満たない急な改暦に混乱する状況を見かねた福澤諭吉は太陽暦を庶民に受け入れやすく解説した『改暦辨』を急編。
改暦辨に明治六年一月一日発兌(はつだ、発行すること)とあるように短期作業のため三田の印刷所から刷りたてのバラ丁を丸善に運び小柳津ら社員大勢で綴じたという逸話もある。

9月9日に長男の邦太が生まれる。

明治9年(1876)8月7日に長女とくが生まれる。

明治10年(1877)3月大阪支店(北久宝寺町の丸屋善蔵店)支配人となる。
この頃から大鳥圭介・外山正一・志賀重昂など小柳津と面識や係りのあった旧幕臣の学識者の著作もしばしば出版されるようになった。

明治11年(1878)8月14日に次女の銈(けい)が生まれる。

※明治13年3月30日、東京日本橋通の丸屋善七店を本店とし責任有限「丸善商社」に改称。

明治14年(1881)5月12日に三女の京が生まれる。

明治15年(1882)7月に東京本店支配人となる。
旧岐阜藩士林有適らと丸善の経営改革、洋書の輸入に先鞭をつけ文明開化に貢献する。

7月に外山正一等の『新體詩抄』を出版。出版の相談を受けると小柳津が独断で丸善での出版を承諾。これが早々に売り切れるほど好評で多く売れたので「士魂商才」の商才…商売の道に誠実巧みな様子が窺える。

明治17年(1884)3月7日に次男の脩二が生まれる(田中家養子)
※この年、大蔵省のデフレーション政策により丸善銀行をはじめ閉店する銀行が相次ぐ

明治18年(1885)1月20日に銀行破綻の整理のため退任した早矢仕に代わり松下鉄三郎が社長に就任し、小柳津は取締役に選任される。
小柳津はこの丸善の危機に社長松下と供に社業の回復につとめた。

明治20年(1887)東京書籍出版営業者組合(後の東京書籍商組合)の創立の発起人に加わる。

明治21年(1888)12月18日の出版条例で奥付に実名が必要となったため、丸善出版代表者に小柳津の名を記載するようになる(退任する大正まで続く)

明治22年(1889)東京書籍出版営業者組合副頭取となる。

明治23年(1890)大日本図書株式会社創立に際し取締役

4月26日に4女の駒が生まれる※上に二人の夭折の兄あり

明治25年(1892)東京書籍出版営業者組合頭取となる(人望のためか明治42年まで在任)

明治26年(1893)丸善商社から「丸善株式会社」と改称。小柳津は取締役に選任。
2月27日に五男の宗吾(昭和5年~丸善監査役・15年~取締役・22年~社長となる)が生まれる。

明治30年(1897)専務取締役。

 

■専務取締役として丸善二代目社長の後を引き継ぐ
明治33年(1900)1月16日に丸善社長の松下が急逝し20日の取締役会で小柳津が後任に当選。三代目社長にあたるが定款により専務取締役として統括した。
2月25日に六男の六蔵が生まれる。

※明治34年2月3日に福沢諭吉、18日に早矢仕が死去。

明治35年(1902)5月7日 駒込メリヤス工場の名義人となる。
※この頃学校教科書の採用時の賄賂が横行し12月17日に関連会社が一斉検挙された「教科書賄賂事件」でも無関係なうえ新聞でも専務取締役小柳津の名が一度も出なかった。

昭和37年(1904)1月に小柳津は正金銀行が信用状を謝絶した事を銀行側に問いただしている。対露戦争に向けた資金を海外支店の政府の預金から引き出され為替金支払いの準備金が欠乏したためであった。2月に日露戦争勃発。
日本の連勝に国民の生活全般が軍国調になったが、小柳津が軍隊への献金・国債応募・軍人遺族の救済等日露戦争には協力的であった一方で「書籍の武装は断じてせず」と丸善店舗は通常通り文学や美術の良書を取り揃えていたたことを感心する声もあった。

志賀重昂が従軍記者として乃木軍中に在った『旅順攻囲軍』9月4日の項に、岡崎出身である第十一師団長土屋光春中将を訪ね、参謀長石田大佐の案内で戦線をめぐるった折に、露兵の落とした軍隊手帳2帖を贈られた。
日本兵なら軍隊手帳を落とすことは恥辱として肌身離さないが、露兵は複数人落としている。日本側は書きだしに天皇陛下より下賜された御勅論、以降軍人の心得を揚げるが、露側は全く精神上の教育について触れられていない。この比較は教育家として面白い倫理研究題材になるのではと、手帳の1冊を小柳津に贈りたい旨と小柳津の功績や人柄について語り合ったことが記されている。
土屋・石田・志賀の三人ともに小柳津のよく知る間柄である。

※明治41年4月5日に第一回名士講演会開催。講師に江原素六・海老名弾正。

明治42年東京書籍監査役に就任し帝都書籍界に重きをなす。

明治45年(1912)1月24日総支配人

大正4年(1915)3月31日 特別議員に推薦される。

大正5年(1916)1月24日に総務取締役を辞任し、相談役に就任。

大正8年(1919)6月に軽度の脳溢血を病む。

大正11年(1922)6月21日東京で死去。79歳。菩提所は谷中の加納院、おくつきは青山墓地。

※明治5年までは旧暦表記です

▼青山霊園(東京都港区南青山二丁目)の小柳津家の墓と側面

小柳津家の墓 墓石側面

参考図書
・『丸善百年史
・『三百藩戊辰戦争事典上
・須藤隆仙『箱館戦争史料集
・『丸善外史
・『岡崎商工会議所五十年史』
・小柳津要『遊撃隊戦記』
・富沢淑子『小柳津要人追遠』
・『慶應義塾百年史』
・福沢諭吉『改暦弁』
・志賀重昂『旅順攻囲軍』
関連・参考サイト
・丸善株式会社Webサイト:http://www.maruzen.co.jp/top/
・慶應義塾:http://www.keio.ac.jp