請西藩林家」カテゴリーアーカイブ

貝淵・請西藩藩主の林家に関する記事です。
最後の大名と言われる林忠崇については→請西藩主 林忠崇※年表

請西藩初代藩主・林忠旭と印旛沼開拓

真武根陣屋遺址

真武根陣屋遺址
請西藩真武根陣屋林忠崇の実父、忠旭が構えた。

 

林忠旭(ただあきら。銈次郎。林家15代)
文化2年(1805)2月6日、武州にて林忠英の次男として生まれる。母は後室。
8月、兄(忠英長子)忠起が21歳で病死。
文化10年(1813)忠旭を跡取りとする届け出が認められる。

文政2年(1819)12月2日、15歳で西の丸の小姓として出仕。
12月16日、従五位下に叙され諸大夫、播磨守となる。
父林忠英が徳川家斉に引立てられていたため忠旭もその恩恵があったと思われる。
文政4年(1821)2月11日船掘筋御成りの際弓の御伴した際に浅草今戸で小鳩を1羽仕留めた褒美として、時服を授かる。

文政8年(1825)4月23日に父忠英が若年寄となり1万石の諸侯に列し、翌日忠旭も21歳で菊之間席となる。
5月24日、実母の本誓院が死去。

天保8年(1837)徳川家斉は西の丸で退隠し、家慶が将軍職となる。
天保12年(1841)閏1月7日に家斉が没し、老中水野忠邦(みずのただくに)が家斉に引立てられていた西の丸派の粛清と、天保の改革に踏み切った。
4月16日に父忠英が免職され1万8千石のうち8千石を削られ、7月29日に隠居に着き忠旭が家督を継いだ。

 

天保14年(1843)6月10日、利根川分水路・印旛沼古堀筋普請御用を仰せつけられる。
江戸湾(東京湾)と印旛沼に流れていた2つの川、古掘筋を地面を掘って水路をつくって繋げ、利根川~印旛沼~江戸湾を結ぶ大工事である。

印旛沼開拓は過去、天明期の老中田沼意次(たぬまおきつぐ)の時に計画され大洪水と反発を受けた田沼の失脚で中止となっていた。
しかし天保13年(1842)に幕府普請役の二宮金次郎(尊徳/のみやたかのり。そんとく)が事前調査をし工事は困難であると報告したにも関わらず、幕府は強行する。

幕府の実施であれ、実際は御手伝として5藩が予算超過分(20万両)等を負担する形で普請を強いられたと言える。
一の手 駿河国沼津藩(静岡県・5万石)水野出羽守忠武【担当区間の村:平戸~横戸】
二の手 出羽国庄内藩(山形県・14万石)酒井左衛門尉忠器【横戸~柏井】
三の手 稲葉国鳥取藩(鳥取県・32万5千石)松平因幡守慶行【柏井~花島】
四の手 上総国貝淵藩(千葉県・1万石)林播磨守忠旭【花島~畑】
五の手 筑前国秋月藩(福岡県・5万石)黒田甲斐守長元【畑~海辺】

忠旭は父忠英、沼津藩水野忠武は祖父忠成が前将軍家斉の寵臣であり水野忠邦派に疎まれたことから報復人事で、他藩も国替え拒否をした経緯や断りきれない立場ゆえに指名されたともされる。

沼津藩は平戸村~横戸村4,416間(現八千代市平戸~千葉市花見川区の約8km)の最長区間、貝淵藩は2番目に長い2,234間(花見川区内の約4km)を受け持つこととなった。
また貝淵藩は粛清を受けて減封され1万石となった小藩でありながら見積金額は4万両にのぼった。(最大が高台を任せられた庄内藩約11万8千両。5万石の秋月藩は比較的楽な区間で1万両)

割掘工事は進むが、天保14年(1843)閏9月14日に水野忠邦が老中職を罷免され、23日に忠旭は普請の御手伝を免じられる。
天保15年(1844)5月10日に江戸城本丸に火災が発生、復興資金の上納を命じられる。
25日に正式に印旛沼開拓が中止が決まる。

印旛沼の普請は、改革の反発にあった水野忠邦の失脚により中止となり、普請を担当した藩には御下賜品が贈られることで労いとした。

 

嘉永3年(1850)11月23日、忠旭は陣屋を上総国望陀郡(千葉県木更津市)貝淵村から約1.5km南東の請西間舟台に移し真武根陣屋と称した。
西南に耕地をめぐらし東北は小高い山丘に連なり平坦にして縦横数町。

嘉永6年(1853)6月4日、米国艦隊来航の報により幕府が請西藩等、総州諸藩に湾岸警備を命じる。

安政元年(1854)4月27日に弟忠交(武三郎・後に肥後守)に家督を譲る。
※忠旭正室(曽我伊予守助順の娘)の長子は早世、末子の昌之助(忠崇)はまだ幼年のため、忠旭の弟である忠交(武三郎。忠英の側室の子)を養子にとって継がせた。

慶応3年(1867)10月20日、63歳で病没。義鶴院殿一道大居士。江戸愛宕下青松寺に葬。
生前の忠旭は画号を一道と号し、狩野(かのう)晴川院養信に師事し、好んで鷹の絵を描いたという。

青松寺

萬年山青松寺
※青松寺の墓地(林家墓所・石碑等)は檀家以外は立入禁止です。
 一般の方は墓所の参拝許可がおりた場合でも、撮影や写真のWEB掲載を許可しておりません。

青松寺サイト:http://www5.ocn.ne.jp/~seishoji/
所在地:東京都港区愛宕2-4-7

 

余談。
水野忠邦は肥前国唐津藩主(佐賀県)であったのを、幕政に加わる為に遠江国浜松藩への転封となるよう働き実現させています。
唐津藩には小笠原が入りますが、戊辰戦争後に林忠崇が御預となった先が、この小笠原家ですね。

ちなみに林忠英達が粛清された代わりに登用された遠山景元(とおやまかげもと)は、後に江戸町奉行として天保の改革の厳しさに苦しめられた庶民を助けようと水野忠邦派と対立することになりますが、この景元が「遠山の金さん」のモデルです。

貝淵藩貝淵陣屋と林忠英

貝淵陣屋跡 貝淵陣屋案内板
▲住宅地に貝淵木更津県史蹟(市指定文化財)の石碑。

 

貝淵陣屋を置いた林忠英(はやし ただふさ。林家14代)
小笠原家の支流の林家は筑摩郡林郷を名字の地にした。戦国期に徳川に仕え、江戸時代に200石の旗本となる。

狩野探渕守真による貝渕藩主林忠英の肖像 ※木更津郷土資料館フライヤーより引用

明和2年(1765)4月29日、忠英(藤助)が武州で生まれる。父は林肥後守忠篤(藤五郎。浦賀奉行等務めた)、母は水野日向守勝前養女。
天明7年(1787)8月2日、家斉(豊千代。一橋家から将軍家の養子となり西丸に移住していた)に出仕していた忠英は11代将軍となった徳川家斉の小姓(御小納戸衆)を改めて務め寵愛を受けた。
寛政元年(1789)12月16日に従五位下出羽守、寛政4年(1792)12月12日に筑前守に改める。
寛政8年(1796)4月6日に父忠篤が病没(享年59)し、7月3日に忠英が32歳で跡目を相続し、12月9日に肥後守に改める。
寛政9年(1797)3月に小姓頭取となる。
文化元年(1804)11月1日、御小姓組番頭格。御側衆に加わる。
文化2年(1805)1月12日に呉服橋に屋敷を授受され、2月5日に移る。
6日、後室との間に次男忠旭(ただあきら。銈次郎)が生まれる。8月、長男の忠起が21歳で病死。
文化10年(1813)忠旭を跡取りとする届け出が認められる。12月24日、千石加賜され4千石に。

文政5年(1822)3月28日に3千石が加増され、7千石に。上総国望陀郡(千葉県木更津市)貝淵村が領地になる。
文政8年(1825)4月23日に60歳で若年寄に進み、3千石が加増され前封と合わせて1万石を領して諸侯に列した。御奥御用兼。5月6日将軍の詣山に従行。
以降若年寄として忠英の名で酒造・金銭流通・土地や作物の売買等の制限など倹約の公布出し、勤労者への褒賞がみられる。
伝聞の類で奢侈な侫人の一派とされるのは、後の倹約時代とは対照的な時代にこのような仕事柄…同じ西丸派の水野美濃守忠篤も御側御用取次で賄賂が想像し易い内外の接触が多い…為でもあるかもしれない。資料を見る限りでは忠英は職人や役人の働きに応じて彼らに報奨を与え、浪費どころか引き締めが必要な際には倹約も発布しているのである。

この年、地方役所を置くために貝淵村の狭間、浜田に七反八畝廿歩の敷地を買い上げ、翌年に起功。
平坦な田畑の中間に土砂を堆積し、およそ1500~2500坪の丘続きに土堤を廻らし、堤の上に松を植え、中に殿舎を設けた。

文政9年(1826)貝淵陣屋が成る。(『鈴木家文書』では文政8年9月。役所設置時か)陣屋が出来ると貝淵村には家や店が立ち並んで栄えたという。
11月18日徳川家の嘉例再開を願い「兎御献上之儀留」を提出。

天保5年(1834)12月20日に3千石を加増され1万3千石となる。
天保8年(1837)4月2日、家斉が家慶に将軍職を譲り西丸に隠居するが、実権は大御所となった家斉が握っていた。
天保9年(1838)西丸普請。
天保10年(1839)3月18日に前年の西丸普請の勤を労わり5千石を加増され1万8千石となる。
この頃に伊能惣右衛門由虎(一雲斎)が仕え、忠英に宝蔵院流槍術愛洲陰流剣術を指南したという。

天保12年(1841)閏正月晦日に大御所家斉が69歳で亡くなり、4月16日に若年寄を免職され8千石も削られてしまった。
7月29日に次男忠旭に家督を継がせての隠居を命じられる。
華やかな大御所時代から一転して、幕政建て直しのため厳しい倹約を主とした改革を進める老中水野越前守忠邦の主導であったため、忠邦ら本丸派が家斉の寵臣であった忠英ら西丸派を疎んでの粛清であるともいわれ、落首や狂言で風刺された。
剃髪後は擽叟と名を改める。

天保13年(1842)8月に貝渕陣屋に長屋増設。
弘化2年(1845)5月8日、81歳で病没。義芳院英擽叟大居士。愛宕下の青松寺(東京都。林家菩提寺)に葬られた。

 

請西藩
忠英次男の播磨守忠旭が領地を継ぎ、武蔵上野で1万石を領した。
嘉永3年(1859)11月23日、忠旭は陣屋を貝淵から東の請西間船台に移し真武根陣屋とした。

 

桜井藩
明治元年(1868)請西藩主林忠崇が脱藩して抗戦派の旧幕府軍に加勢したため藩地を没収される。
7月13日、徳川家達(いえさと)の駿河移転により、駿河小島(おじま)藩主の滝脇信敏(たきわきのぶとし。丹後守。維新前は松平姓)が上総に転封。
周准郡金ヶ崎(八重原村南子安/君津市)に金ヶ崎藩を称したが、不便な土地であったため、貝淵陣屋の場所に藩庁を移す。
翌月、士卒100人程の邸宅を設けた隣の桜井村から名を取って、桜井藩と称した。

明治4年(1871)の廃藩置県で廃藩。
11月14日の再編で木更津県旧桜井藩邸を庁舎に選擇寺を官舎に発足。
明治6年6月2日に木更津県が廃止され、千葉町に県庁を置く千葉県が誕生した。
その後この地に監獄署が置かれたが、それも後に廃された。

 

貝淵陣屋跡地 大楠

貝淵木更津県史蹟
所在地:千葉県木更津市貝淵

参考図書
・『木更津市史
・君津郡教育会『君津郡誌』他

※他、林家関連の資料は別途まとめる予定です。

特別展「幕末の木更津」・中村彰彦先生講演会

先日新しく「請西藩主 林忠崇」年表ページを追加しました。
今後、更新中のまとめ記事と並行する形で請西関連の記事を書いていきます。

さて現在木更津市郷土博物館「金のすず」で特別展「幕末の木更津」が開催中です。
凹型のコーナーの3つの壁にそれぞれ幕末の木更津に関したテーマで史料と解説が展示されていました。

 

木更津船と文化
まずは木更津港から江戸へ従事したという、大きな木更津船の模型が目に入ります。江戸の日本橋と江戸橋の中間に「木更津河岸」が設けられて、江戸時代から特別扱いを受けていたそうです。特権を与えられた理由は大坂の陣に参加した水軍に因むとも言われています。

壁に面した展示で目を引くのが木更津が舞台の歌舞伎「與話情浮名之横櫛」の錦絵。三代豊国作。
ペリー来航の3月前に浅草中村座で初演され、人気演目となりました。
「切られ与三」の通称や歌謡曲「お富さん」でお馴染みですね。
※木更津市内に与三郎の墓や、相棒の蝙蝠安の墓があります。
他に江戸視点で当時の木更津の地図や、房総の絵葉書が展示されています。

 

海防と太平の世の終焉
幕末の日本に通商を求める外国船が現れ、東京湾の防衛のため諸藩が警備にあたります。
亜墨利加(アメリカ)人上陸之図など資料と一緒に置かれた屏風は安房上総御固図屏風。
海上警備の様子を描く絵の中に富津沖に請西藩林家の家紋「丸の内三頭左巴下に一文字」を染めた帆船が描かれています。

 

請西藩と戊辰戦争
請西藩主の林家を中心に紹介されています。
林家の系譜。そして林家のルーツでお馴染み兎御献上の資料。

戊辰戦争資料は、これがなくては語れない「戊辰出陣記」の原本。
リーフレットの表面に使われている、箱根の関で戦う忠崇の姿絵。
片腕を斬られた伊庭八郎を描いた線画「伊庭八郎手負い図」。完成画でなく作者不明ですが、忠崇作とみられるとのこと。

当時を思わせる古銃も展示されています。火縄銃、短エンフィールド銃、短スナイドル銃。
火縄銃には「木更津縣」の銘、旧大多喜藩所有のものとみられるようです。

仙台で降伏した忠崇が滞在した林泉院の写真パネル。その後に忠崇が綴った和歌集の「おもひでくさ」
林家再興のために家臣達が嘆願した書。士族の身元証明のための書類等々。

忠崇の祖父にあたる、貝淵陣屋を築いた貝淵藩主林忠英を描いた「林家初代藩主忠英侯肖像/狩野探渕守真作」は今回が初公開です。
林家の名誉が回復した印の、忠弘(忠崇の弟)の叙従五位。明治2年に林家を継ぐため忠弘が決めた実名と花押も相続史料として重要な資料です。

近年の請西陣屋の遺構を絵にしたカラー俯瞰図もありました。

 

金のすず特別展 講演会看板

 

そして今回の企画として、日曜日に直木賞作家の中村彰彦先生による講演会「上総請西藩主 林忠崇の幕末維新」も行われました!

 『脱藩大名の戊辰戦争―上総請西藩主・林忠崇の生涯』の著者でもあります。

一般向けの講演会なので勉強をしに行くような堅苦しい場ではなく、中村先生ファンはもちろん今回の催しをきっかけに初めて幕末や忠崇に興味を持った方でも楽しめるトーク内容でした。

受付で特別展チラシのコピーと、講演会用の「林忠崇侯年譜」1枚。年譜は明治時代以降が主で住居地の移行が簡単に紹介されています。

初めの10分は、来賓の紹介と挨拶。現在の林家ご当主もいらっしゃいました。

そして中村先生の講演が始まります。
まずは「予備知識」として木更津は離れて、幕末史のお話。先生論全開の豆知識が次々に飛び出します。

 

『これまで「組」と呼ばれていたのが「隊」となったのはなぜか』
『隊列に見る、これまでの日本の伝統的な戦い方と新しい「洋式戦術」の違い』
いずれ本になるか、すでに著書で紹介されてるからかもしれないので詳細は省きますが「部隊」は英語と日本語のごろ合わせではないかという提案です。
ボードに語句を書きながら、洋式戦術を採用した大村益次郎の強さという流れに綺麗に持って行って、退屈させません。

これは私の感想、古い日本語は聞き取りをそのまま文字に当てはめるイメージなのでごろ合わせには共感もありますが、新旧和洋の「隊列」については異議ありありでした。
古代ローマ、フランス、スペインと欧州の隊列からアメリカ南北戦争での隊列までと、日本の古代から戦国時代の合戦での隊列を思い浮かべながら聞いていたら、隊列についても独自な用語も違和感ありありで。
(もちろん間違っているという批評でなく、歴史話は意見の出し合いもありだよねという感想)
序盤なので私もこれはジョークで(洋画の話も持ち出したので)笑うべき所なのか、真面目に頷く所かがつかめずに、静かな周りに合わせて流しちゃいました。あとで日本での部隊の語源について調べてみよっと。

 

まだ参加者が緊張している気配を察したのか、もう少し身近な幕末トークに移ります。
具体的な歴史人物の名前を出して、よりバラエティ感覚に。
強さといえば『幕末最強は誰か』で先生が推すのはご自身の著書にも描かれたあのお方、立見大将です。

そしてようやく「遊撃隊」の話に。忠崇目当ての参加者が期待している遊撃隊と、その他の遊撃隊(見廻り組や新撰組)についてを分かりやすく説明します。
慶喜に対しては何度もしつこくダメ将軍として紹介していたので、中村先生の慶喜ポジションというよりここも笑い処だったのかも??

スクリーンに写真を写して人見勝太郎や伊庭八郎を紹介。この頃には参加者の緊張もほぐれて、幕末三大美男子の二人は「林忠崇」「伊庭八郎」が不動であとは──…と、先生の面白く語るネタに笑いも漏れます。
そして榎本武揚の行動を追い、ようやく話の舞台が木更津に移ります。

ようやく、というのはここまでで1時間丸々使っているんです。
きっちり1時間だったので先生の予定通りなのかも。プロだ。

 

まずは林家について、長ったらしい名称の林家家紋の一文字の由来でもある兎献上のこと。
「兎御献上之儀留」にある兎の結び方がスクリーンに写されます。
そしてこのネタでもユーモラスに話して笑いをとる先生。

 

「総野の戦い」という語句を掲げて忠崇の戦いについての話に移ります。
先生は房総も協力たので『奥羽越列藩同盟を奥羽越“総”列藩同盟と呼んでもいいのでは』とおっしゃるので、私はまた首かしげ。(これもジョークか房総半島・木更津上げ?でも周りが笑ってなかったからリアクション難しくて流しちゃいました)

上総義軍と村人の反応。忠崇は遊撃隊の協力要請に快諾したこと。
だいぶはしょって(富津台場や途中訪れた藩の詳細は触れず)相模へ渡ったこと。
その頃、問罪出兵に共感した小田原藩。
かなりはしょって、奥州行。はしょりすぎです。
会津で忠崇が容保と面会し、志を同じにする二人に言葉は不要、ただ「お察し申す」だったこと。
奥州では忠崇は自ら戦ったこと(戦の詳細は無し)、70万石で徳川存続も決まり、そして投降して唐津藩に御預けとなったこと。
明治五年に許されて、後に忠弘が華族になること。

テーマが幕末「維新」ですし配られたレジュメも明治以降が主で、木更津についてを多く話そうとしたのか、ここから話がローカルな方向で詳しくなりました。
爵位のいろいろ。男爵は一家に一人だけなので忠崇は華族になれない。
それに男爵になるには毎年500円の大金が必要になる。地元に広大な土地を持っていた人が(ここも面白く語られました)、忠崇の親族を偽った自称林家に騙されてもめげずに身を削って援助を続けた逸話。

忠崇の足取りを簡単に追って、招魂祭70周年でのインタビューのこと。
そして逝去の直前に、辞世を尋ねた次女に対して答えた言葉で、忠崇の人生の話を締めくくりました。

とても濃厚な講演内容でしたのに開演から2時間、皆さんしっかり聞き入って、大きな拍手があがります。
資料重視な作家さんだけあって引出しが豊富で、本当に素晴らしい話術でした。

 

講演終了後は、当日のサプライズとして、サイン会が行われました!
そうと知っていたら携帯用の文庫でなくハードカバーの本を持参したのにと悔やみましたが、事前告知をしたら先生に負担がかかりますものね。
長い列でも、前に並んでいた林家に詳しい方(林家ご当主とも知り合いで、今回お知らせが届いたから来たような)とぽつぽつ雑談をしているうちに順番が来ました。

体調が優れないのに講演を受けて下さったと紹介されていたので「お体大事になさってください」と言ったら、にっこり笑顔で一言お礼を返してくれました。なんと良いお人柄!

興奮というよりも、ふわふわした良い気持ちで帰りました。
中村先生ほんとうにお疲れ様でした!

 

中村彰彦先生のサイン

 

※講演は終了。特別展は12/26(木)まで開催
木更津市郷土博物館金のすず
所在地:千葉県木更津市太田2-16-2
▼木更津市公式サイト内博物館ページ
http://www.city.kisarazu.lg.jp/13,491,38,262.html