請西藩林家」カテゴリーアーカイブ

貝淵・請西藩藩主の林家に関する記事です。
最後の大名と言われる林忠崇については→請西藩主 林忠崇※年表

大御所時代の大奥-林忠英は「侫人」か

江戸幕府第11代将軍徳川家斉(いえなり)の死の直後から水野忠邦が行った天保の改革で失脚した林肥後守忠英(ただふさ。林若年寄)水野美濃守忠篤(ただあつ。御側御用取次)美濃部筑前守茂育(みのべもちなる。小納戸頭取)は、家斉の権威のおかげで地位を保った3人として、俗に西丸派の「三侫人」と言われ
忠邦を善玉として創作された『眠狂四郎』等、時代劇や小説で悪役のイメージがついています。
※侫人は口先がうまいおべっか使いのこと

林肥後守の経歴は貝淵陣屋と林忠英に書きましたが、家斉の身の回りの世話をする西丸の小姓から出世し、呉服橋門内に屋敷を賜り、大御所(隠居後の家斉)夫妻が西丸に移ってからも地位を保ちました。

その後の改革で厳しく取り締まられた町人たちは華やかだった大御所時代(徳川家斉の権威時代)を懐かしむ程でしたから、本丸派(本丸に居る第12代将軍家慶サイド)で厳しい倹約指導者の忠邦からみれば、浪費の多かった大御所時代を象徴する西丸派は綱紀粛正の対称であったことでしょう。
さすがに大奥には手が出せませんが、家斉あってこその側近達を一斉に失脚させたため、町人達の間で多くの風刺や噂が流布したのです。

林肥後守・水野美濃守の免職を洒落にした落首の例
御停止が明いて太鼓にばちあたり林どころか居る處もなし
ほとゝぎす此頃不得手飛びはやし八千石は鳴いてかへらぬ
林方太鼓もばちも打ちすてゝ 人にはやされ肥後なめに逢ふ
※林・肥後(守)・家紋の三つ巴に見立てた太鼓や、林と囃子(はやし)をかけている

 

将軍家斉の寵妾お美代の方(専行院)と、感応寺事件
まだ家斉が将軍職にあった天保4年(1833)12月17日、かつての日蓮宗の名刹であり天台宗に改宗している谷中の長耀山感応寺の日蓮宗帰宗のための経緯で、谷中感応寺は護国山天王寺と改称し、雑司谷の鼠山(現東京都豊島区目白)に感応寺を新たに造る許可が下りました。
天保7年(1836)12月28日に本堂が完成したとされます。
しかし天保12年(1841)正月晦日に家斉が薨去、その年の10月5日に幕府は感応寺を廃棄し、新しい大寺院がたった5年で更地に戻ってしまったのです。
また同じ時期に主玄院日啓・智泉院日尚ら僧徒が処罰されました。

東京市(東京都が設置される前の東京府の市。現在の23区相当)編纂史料に記載されている範囲ではここまでで、感応寺廃却に関する経緯は幕府の記録にはありませんが、随筆(当時を語るエッセイ)にまで目を向けると、大坂に住むとされる著者が当時の世相や伝聞を記録した『浮世の有様』の天保12年に「感應寺不如法奥女中を犯し、美濃守・肥後守・筑前守など心を合わせ、及ばざる工み事有りしを、御老中脇坂侯に見顯はされし故、比の者共申合せ、醫者両人に申付け、殿中に於て之を毒殺せしなど種々の取沙汰なり、如何なる事かは知らね共、皆々御咎にて知行を減ぜられ、奥中中大勢仕くじり、感應寺は申すに及ばず、醫者両人も入牢せしといふ事なり」と記されています。

この感応寺の事件は、明治時代の江戸文化論者・三田村鳶魚も引用している大谷木醇堂の思い出話『燈前一睡夢』に描かれ「文恭公升遐の後、林・水野・美野部が謫せられしも、荘内・川越・長岡等が領知替の事も、みなこれより起こりし事なりと聞く」と、文恭公(家斉)薨去後の西丸派の失脚の起因として噂されていたようです。

『燈前一睡夢』は水野忠邦を英傑と賞し、対立する者は賊臣とはっきり書かれているのでかなり著者の偏見が含まれていそうですが、当時から忠邦の改革により同時期に消されたすべてを繋げて想像した噂自体は有ったのでしょう。三田村鳶魚の『江戸の女』(伝聞が主で事実と明らかに異なる部分が見られますが…)での解釈も交えて事件を要約しますと──

お美代の方の実父日啓は、長男の日量(お美代の兄)が継ぐ智泉院(中山法華経寺の子院。日蓮宗)を、東叡山寛永寺(天台宗)のような将軍家の御祈祷所にしようという大それた野望を持っていました。
しかし子院レベルの寺では許されず、それならばと由緒はあるが今は天台宗に改宗している谷中感応寺を日蓮宗に戻させる計画を立てました。

その頃大奥では、家斉の数多い側室の一人おいとの方の子、千三郎(仙三郎)の眼病を中延法蓮寺の日詮(にっせん)が祈祷で治したことで日蓮宗の祈祷の人気が高まっていたので、将軍家の御祈祷所が出来ることを喜びました。
家斉の奥方達の要望を家斉の寵臣が無下に出来るはずはありません。
お美代の方の口添えと寵臣の林・水野・美野部の庇護もあって、計画が運びます。

東叡山の輪王寺宮舜仁法親王(りんのうじのみやしゅんにん。皇族の子息である住職)の計らいで計画は止められましたが、谷中感応寺は天王寺へと改称し、新しい感応寺を造ることとなりました。
天保5年5月に雑司ヶ谷鼠山の安藤対馬守下屋敷の広大な敷地(二万八千百九十三坪)を下付され、地鎮を中山智泉院が承りました。建設地の整地・地固めは、なんと大奥の女中達がやってきて華々しく行ったので、驚いた町人達はこぞって見物に来ました。

天保7年12月に完成した豪華で大奥の女中達も信仰する大寺院に、美男子な僧侶ばかりが揃えられたなどと多くの噂が流れます。
鼠山はかつてなく賑わいましたが、ある時、感応寺に運ばれた長持に生人形が入っていたのが見つかりました…つまり大奥の女性が長持に隠れて運ばれ僧と密通していたことが明るみに出てしまったのです。
以後は長持の重量を確かめるようになり、大奥女中の頭目が監視不届きで御暇処分となりました。
長持を見破って風紀を注意した寺社奉行脇坂大人が突然死したため(脇坂が死んだのは天保12年2月で家斉が亡くなってすぐです)毒殺されたのではと噂が立ちました。

水野忠邦の改革で智泉院と感応寺は摘発され、日啓と長男は「密通女犯」の罪を告発されて遠流が決まりましたが、実行前に獄死しました。
感応寺は取り潰され、大御所の寵臣であった林・水野・美野部は失脚し、お美代の方は押込処分となりました。
忠邦が、大奥を中心とした権力と乱れたの風紀をまとめて粛正したのです。

※実際には揉消しか虚構か、鼠山感応寺の顛末について幕府公式記録には記載されておらず、智泉院と感応寺の関係も不明です

 

──更に、家斉とお美代の間にできた娘、溶姫と加賀藩主前田斉泰の間に生まれた犬千代(前田慶寧)を次期将軍に据える西丸派の計画が本丸派に寝返った者の暴露で明るみになった、などと噂は尽きません。
いずれも林肥後守達は感応寺建立を容認したと思われるのみで、お美代と西丸派のイメージの土台は当時の噂を記した随筆を更に三田村鳶魚が大衆に広めた結果が大きいでしょう。

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昭和16発行小山松吉の『名判官物語』はこれらのことを分けて扱っています。

■智泉院の事件
水野忠邦は、智泉院日尚(24歳)・守玄院日啓(71歳)を、祈祷で人民を惑わせ、婦女を姦し、大奥に通じ、奢侈に耽り僧侶としてあるまじき行為の疑いで、寺社奉行阿部正弘(23歳)に内偵による「風聞書」を制作させ、両僧を逮捕し取り調べさせます。
自白により日啓に関係する本丸西丸の奥女中達は30余名にのぼり、このまま取調べが進めば大奥のどこに及ぶか計り知れず、この関係者には一切取調べをせず民間関係者のみを取り調べました。
尼妙榮が密通のため押込50日・下女ますが押込30日の処分を下しましたが、日尚・日啓が彼女達の密通を知らなかったことが不埒として逼塞30日を言い渡しました。(日尚に対して三日間晒しの上、谷中妙法寺へ引渡す間寺法通り取調べるべしとあります)

■お美代と感応寺の事件
雑司谷感応寺という小寺の住職の娘は中野播磨守の養女となって大奥に出仕し、将軍の寵愛を受けたため、養父や感応寺は取立てられました。
感応寺は雑司谷に新たに七堂伽藍を建立し幕府の御祈祷所として御朱印を賜ったため参詣人が増え隆盛を極めました。
住職と僧侶達が奥女中と繋がりを持っていると察した老中脇坂安菫は、長持に潜んで寺に運ばれた女中を発見し注意しますが、他の老中達は大御所が健在だったため大奥に対して遠慮し検挙は憚られました。
大御所が薨去すると忠邦が大奥関係も粛正し感応寺を取調べさせ、お美代の方は表向きは押込処分となりましたが実際は優遇されたといいます。

■忠邦の対立者の処分
次に前将軍の勢いで権威をほしいままにし愛憎によって政治を行ったため粛清を受けた三人の股肱として、忠邦が信任していた鳥居忠輝・渋川六蔵・後藤三右衛門を挙げています。
林・水野・美野部の3人については、忠邦の改革に反対するであろう家斎時代の寵臣の免職としてだけの記載です。
また寺社と賄賂については、別の事件として牛込横寺町聖天別当南蔵院の賄賂の罪に水野美濃守が関与との噂が示されています。

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賄賂は当時頻繁に行われていた(善玉に描かれる水野忠邦にすら賄賂疑惑がある)ようなので、失脚の理由として想像されやすかったことでしょう。

主に祖父・父からの伝聞を小冥野夫が明治7年に記した『しづのおだまき』に三名の免職に対し「おのれの私多くて賄賂専ら行はれし故に此輩を免職なし給ふ」とあり、続くあらましで忠英については簡単な経歴に「退隠後文恭大君の御墓参拝をも許されたり」と締め括っているだけで、驕奢や賄賂について書かれているのは著者と多少ゆかりがあるため話に聞いていたという水野美濃守とお美代の方の養父の中野碩翁(隠居前は小納戸頭取)です。美濃部筑前守は「実に無見識の人なり」と書かれています。

天保14年(1843年)に一勇斎国芳(歌川国芳)が描いた錦絵『源頼光公館土蜘作妖怪図』は、江戸の古本屋須藤(藤岡屋)由蔵の日記『藤岡屋日記』等によれば
平安時代の源頼光の土蜘蛛退治を、当時の将軍徳川家慶と大名達や天保の改革に当てはめ風刺した判じ物ではないかと評判になりました。

・早稲田大学図書館古典籍総合データベース「源頼光公館土蜘作妖怪図」
http://www.wul.waseda.ac.jp/kosho/bunko10/b10_8285/

天保の改革の一環で政治を誹謗した戯作者やその販売者が罰せらている(特に水野忠邦派の批判ができない)状況下のため、風刺と分からないように描かれていて明確な答えが無く、当時から様々な解釈がされていています。
文化史家の石井研堂が大正15年に記した『天保改革鬼譚』で土蜘作妖怪図に着目し、モチーフの解釈の一つにされる林肥後守・水野美濃守、美濃部筑前守について「当時三侫人の称あった…」と書いています。

ここでようやく「三侫人」の言葉に行きつきました。
錦絵に三侫人の落書があったようなので、当時の町人か、後の時代の所有者が推理した落書でしょうか。三侫人の呼び名はごく最近ついたものではなさそうです。

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当時は賄賂や弁舌の巧みさで、代々決められた身分と土地から出て新しい地位を得ることは、完全に悪とも言いきれないでしょう。
そして私が現在自宅で調べられる範囲では、侫人・林肥後守のイメージも、今の時代劇で描かれるような心から憎まれての揶揄でなく憶測で生まれた噂からつくられたものでした。まだ掘り起こしていく必要がありそうです。
今後また林肥後守の関連資料を見つけたら記事にしますね。

参考図書
・石井研堂『天保改革鬼譚
・小冥野夫『しづのおだまき』
・国史研究会編『浮世の有様』
・三田村鳶魚『江戸の女』
・大谷木醇堂『燈前一睡夢(鼠璞十種 )』
・東京市『東京市史稿 遊園篇』
・小山松吉『名判官物語

林忠崇の書[1]日枝神社石柱

日枝神社鳥居 日枝神社拝殿
▲請西の日枝神社と拝殿

請西の日枝神社の門柱の刻名は、当地の領主であった請西藩第3代藩主林忠崇公の筆です。
この石柱は昭和8年に建立されました。

領主林忠崇記之林

日枝神社
所在地:千葉県木更津市請西2-15-31

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【追記2】日枝神社境内に大日本帝國軍大勝利祈願成就の碑があります
【追記1】旧領下烏田の熊野神社の扁額は忠崇の直筆です

請西藩「真武根陣屋」

真武根陣屋遺址 真武根陣屋跡案内板

請西藩真武根陣屋(まふねじんや)
徳川幕府譜代大名の請西藩二代藩主・林播磨守忠旭(はりまのかみただあき。林氏は故事に習い将軍が元旦に食べる吸物に入れる兎肉を代々献上する家柄)が、嘉永3年(1850)上総国望陀郡(千葉県木更津市)請西村に造営。
案内板によると移転元の貝淵陣屋を「下屋敷」と呼ぶのに対し、「上屋敷」と呼ばれていたという。

木更津港から約2km程南東に位置する、標高50mの真船台地に所在。
発掘調査等によると陣屋の推定面積は南北370m・東西280m・8800㎡。南西の土手部分や西側の枡形を含めると倍の面積になり
南西部に大手口、北側に(飲食用陶器の遺物があるため)御殿、中央に役所や蔵、大手口両側に士屋敷(南東部にも陶器の遺物)があったとみられる。

言伝えによると請西の地名は「城砦」の転訛で、陣屋を置くより前に古い城砦が在ったらしい。廃砦跡とすると陣屋に適した立地といえる。

陣屋は請西藩第3代藩主忠崇が佐幕派に属して出陣した際に焼かせて焼失する。陣屋址は地元の者に「お林」と呼ばれた。
昭和20年、戦後の農地改革で開墾され遺構は壊されてしまった。
請西藩の陣屋の存在が完全に埋もれてしまうことを憂いた知己関係者達の促進により昭和41年4月に木更津市指定文化財となった。

 

真武根陣屋遺址の碑

▲「真武根陣屋遺址碑」(まふねじんやいしひ)
忠崇が出陣した相州の、根府川で産出する赤みを帯びた根府川石の碑石は、箱根山の陣中で月光を仰いで詠んだ和歌と共に、20代当主林忠昭氏による碑文が刻まれている。
一番上には、徳川将軍より拝領の林家家紋、丸の内三頭左巴下に一文字。

陣中観月

くもりなき心や見せんあすの夜は
かはねの露に照らす月影

慶応戊辰四月 忠崇

 

林氏は清和源氏。親羅三郎義光十七代の孫光政公を祖とす。
姓は小笠原、徳川家康の祖、有親、親氏と足利持氏に仕えて誼し。
讒に遭ひ去って信州林郷に在り。親氏父子も持氏義教との隙に流浪し、永享十一年臘日、光政を誘ふ。
公遇する雪中に一匹兎を狩り、元日之を羹にし、薦めて歳旦を賀す。上意により姓を林と改む。
後、親氏三河に興るに及び、出でて仕ふ。
歴代、歳末に兎を献じ、元旦、将軍より一番に盃を賜ふ例とす。拝領紋、下に一の字を加ふ所以なり。

十四代忠英公諸侯に列し、若年寄に進む、子十五代忠旭公請西藩主として、嘉永三年、此処に館を営み真武根陣屋と称す。
第十六代忠交公伏見奉行勤役中に卒し、忠旭の子忠崇公封を襲ぎ戊辰の大変革に際す。
若干二十歳で徳川氏朝敵の汚名を受くるや、譜代の恩義を痛感、その冤を雪がんと蹶起し、慶応四年閏四月三日、藩地を脱し、豆相より奥羽各地奮戦す。
後、天恩鴻大、徳川家の社稷存せらるるに至って、翻然罪を闕下に請ふ。
赦されて忠交の男忠弘華族に列せられ、忠崇公亦其礼遇を賜ふ。

星霜移ること百年、里人お林と称し、藩侯の遺徳を慕へり。
後開拓せられ、今その址を留めず、往時を偲ぶに由無く、只管史蹟の湮滅を虞る。
玆に木更津市より文化財として史蹟の指定を受く。仍て碑を建て縁由を録し以て不朽に伝ふ。

昭和四十年四月廿二日 当主 第二十代 林忠昭 建立

林勲氏の碑文

真武根陣屋陣屋懐古詩碑(うたぶみ)
発起人である林勲氏による碑文。氏の物した詩が刻まれている。
一番から五番まで、忠崇の出陣の勇姿を謳うこの詩は柴勝三氏の作曲で歌になっている。

 

石祠と藩庁方面 海と貝淵方面

▲左写真、小さな石祠の方向(西南)奥にかつて藩庁や蔵が建てられていたようです。その先に古井戸、大手口(南)として枡形門の土塁も築かれていました。
右写真が貝淵陣屋がある方向(西)です。更にその先に江戸湾(東京湾)が広がります。こちらの区画は調査により遺構が完全に消失していることが確認されています。

木更津中央霊園前の道

▲址碑の前で南方向を撮影。木更津中央霊園入口のすぐ向かいにコンクリートに囲まれた址碑があります。かつては土塁が廻らされていたのでしょう。この右の敷地の先にも古井戸。
※縄張り等の学術的図面は著作権の都合で引用できず、言葉での説明のみでご容赦下さい

・真武根陣屋遺址
所在地:木更津市請西字間船台1319-21

請西藩第2代藩主林忠交-最後の伏見奉行

林忠交(ただかた。武三郎。林家十六代)
天保3年(1832)貝淵藩初代藩主林忠英の四男として生まれる。

安政元年(1854)4月27日に請西藩主(貝淵から陣屋を移転林播磨守忠旭は長男を亡くしており末子昌之助(忠崇)が幼年であったため、弟の武三郎(忠交)に家督を譲る。
12月16日、従五位下肥後守に叙される。
安政4年(1857)閏5月18日に大番頭となる。

安政6年(1859)8月11日に伏見奉行を21年務めた内藤正縄(信濃岩村田藩藩主。翌年2月死去。前老中水野忠邦の弟)が解任される。
8月28日に忠交が伏見奉行となる。京都町奉行と共に幕末の激動期となる京都での司法・行政を管轄する重職就任である。
9月5日引越費用の借受を願い金一千両を支給される。

万延元年(1860)3月15日、水戸浪士の金子孫二郎(教孝)・同佐藤鉄三郎(教寛)を拘引し、翌日訊問する。閏3月5日江戸に2人を檻送させる。

文久2年(1862)4月23日、忠交は尊皇派達が討幕の挙に出ようと集まったことを察知するが、薩摩藩藩主後見役の島津久光の命で薩摩藩尊皇派の過激分子を伏見寺田屋(てらだや)で成敗されたため、伏見奉行所は関与に至らずに済んだと思われる。(寺田屋事変
寺田屋騒動殉難碑と坂本龍馬像 伏見寺田屋殉難九烈士之碑
▲薩摩藩士らの「寺田屋騒動殉難碑」と「伏見寺田屋殉難九烈士之碑
坂本龍馬像の背後にある殉難碑の篆額は有栖川宮熾仁(たるひと)親王の筆。

文久3年(1863)5月に将軍徳川家茂が大阪城より入洛のため(3月4日に上洛、4月21日に巡視のため大阪城に入り5月11日に出発)淀を経て伏見京橋から伏見奉行所に入る。竹田街道より入洛。
6月9日に二条城を出て伏見街道から伏見奉行所に着き、今留橋より乗船し大阪城へ戻る。

元治元年(1864)6月24日に長州藩(前年の八月十八日の政変で長州藩を中心とした尊皇攘夷派が京都から追放された)家老の福原越後(元僴/もとたけ)が三百余人の兵を率いて長州伏見藩邸に入り、幕府は監察戸川安愛(やすちか)・小出五郎左衛門を伏見奉行所に遣わせ長州藩の様子を偵察させる。
7月3日に朝廷は大監察永井主水正・小監察戸川安愛を伏見に遣わせ、福原越後を伏見奉行所の役所に呼び出すが病を称して翌日応じる。兵を退ける説得に福原は従おうとしたが、山崎天王山に陣する久坂玄瑞らや嵯峨天龍寺に陣する来島又兵衛らは拒む。
その後も応じず18日一橋慶喜は追討を決め伏見方面には大垣藩を先方に彦根藩・会津藩(新撰組も属す)・桑名藩等の兵を出した。追討軍は長州勢を破り敗走させた。
19日の禁門の変勃発時に福原越後が率いる長州勢は伏見長州藩邸に立ち戻り、再び出陣しようと試みるが、彦根藩ら連合軍に京橋から砲撃され藩邸は焼け落ちた。
長州藩邸跡と禁門の変 現代の京橋
伏見長州藩邸跡と現在の京橋

慶応元年(1865)長州征討への動きで5月24日徳川家茂が二条城を出発し伏見奉行所に入り、翌日大坂へ出立。9月14日に家茂は大坂城を出て伏見奉行所に入り16日に二条城着。23日に再び伏見を経て大阪へ発ち10月3日に大坂城を出て伏見奉行所に入り伏見に逗留し4月2日に二条城入り。11月3日に二条城を発ち伏見奉行所に入り大阪へ着き征討準備を進めた。

慶応2年(1866)正月23日に手配中の浪士坂本龍馬らが寺田屋に入ったと報告が入り、伏見奉行はこれを捕縛すべく指揮をとった。
深夜2時に幕吏(役人)が二階へあがり詰問し、坂本と同泊の長門府中藩士三吉慎蔵の二人は薩摩藩士を名乗った。三吉が手槍を握っているのを見て幕吏が引き下がると坂本らは襲撃に備えた。
やがて階下から数人が得物を携え押し上がり肥後守の上意として捕縛にかかる。
坂本は銃を撃ち三吉が手槍を振るって捕吏に抗戦しながら逃走し薩摩藩邸に救援を求めた。匿った薩摩藩邸は坂本龍馬の引渡しを拒否。
※伏見奉行“肥後守”を同じ肥後守の会津藩主松平容保と誤って解釈され京都守護職配下の新撰組が関わった風聞があるが、この肥後守は容保でなく林忠交である。
薩摩藩寺田屋騒動と坂本竜馬ゆかりの寺田屋 薩摩藩伏見屋敷跡
寺田屋(再建)と伏見薩摩島津屋敷跡

2月23日、禁門事変の軍資を京の商人が代償した書状を幕府に上申し、これを大坂金蔵から弁償することを請う。

慶応3年(1867)6月24日急病のため伏見奉行官舎にて35歳で没した。晃晥院殿轉誉宝国大居士。一心寺に葬る。※急死を黙され実際は5月24日ともみられる
後任が置かれないまま、7月より京都町奉行(永井主水正尚志)の管轄となり、大政奉還を迎え奉行所が廃止されたため忠交が最後の伏見奉行となった。

8月30日に忠交の養子となった忠崇が継ぐが、翌慶応4年(1868)の戊辰戦争で忠崇が脱藩して抗戦に徹したために請西藩は取潰しとなった。
戊辰戦争で減封された藩は少なくないが、全てを没収されたのは請西藩だけである。

桃稜団地の伏見奉行所跡の碑 伏見奉行所跡地の石垣
伏見奉行所跡と明治期?の石垣
慶応4年の鳥羽伏見の戦いで新政府軍の砲火を浴びて伏見奉行所は焼け落ち、その後跡地は陸軍工兵隊の兵営になっている。

一心寺 伏見奉行林忠交の墓
一心寺忠交の墓
晃晥院殿従五位下前肥州大守轉譽寳國忠交大居士
慶應三丁卯年 六月二十四日 林 肥後守源忠交 於城州伏見宦舎卒

請西藩初代藩主・林忠旭と印旛沼開拓

真武根陣屋遺址

真武根陣屋遺址
請西藩真武根陣屋林忠崇の実父、忠旭が構えた。

 

林忠旭(ただあきら。銈次郎。林家15代)
文化2年(1805)2月6日、武州にて林忠英の次男として生まれる。母は後室。
8月、兄(忠英長子)忠起が21歳で病死。
文化10年(1813)忠旭を跡取りとする届け出が認められる。

文政2年(1819)12月2日、15歳で西の丸の小姓として出仕。
12月16日、従五位下に叙され諸大夫、播磨守となる。
父林忠英が徳川家斉に引立てられていたため忠旭もその恩恵があったと思われる。
文政4年(1821)2月11日船掘筋御成りの際弓の御伴した際に浅草今戸で小鳩を1羽仕留めた褒美として、時服を授かる。

文政8年(1825)4月23日に父忠英が若年寄となり1万石の諸侯に列し、翌日忠旭も21歳で菊之間席となる。
5月24日、実母の本誓院が死去。

天保8年(1837)徳川家斉は西の丸で退隠し、家慶が将軍職となる。
天保12年(1841)閏1月7日に家斉が没し、老中水野忠邦(みずのただくに)が家斉に引立てられていた西の丸派の粛清と、天保の改革に踏み切った。
4月16日に父忠英が免職され1万8千石のうち8千石を削られ、7月29日に隠居に着き忠旭が家督を継いだ。

 

天保14年(1843)6月10日、利根川分水路・印旛沼古堀筋普請御用を仰せつけられる。
江戸湾(東京湾)と印旛沼に流れていた2つの川、古掘筋を地面を掘って水路をつくって繋げ、利根川~印旛沼~江戸湾を結ぶ大工事である。

印旛沼開拓は過去、天明期の老中田沼意次(たぬまおきつぐ)の時に計画され大洪水と反発を受けた田沼の失脚で中止となっていた。
しかし天保13年(1842)に幕府普請役の二宮金次郎(尊徳/のみやたかのり。そんとく)が事前調査をし工事は困難であると報告したにも関わらず、幕府は強行する。

幕府の実施であれ、実際は御手伝として5藩が予算超過分(20万両)等を負担する形で普請を強いられたと言える。
一の手 駿河国沼津藩(静岡県・5万石)水野出羽守忠武【担当区間の村:平戸~横戸】
二の手 出羽国庄内藩(山形県・14万石)酒井左衛門尉忠器【横戸~柏井】
三の手 稲葉国鳥取藩(鳥取県・32万5千石)松平因幡守慶行【柏井~花島】
四の手 上総国貝淵藩(千葉県・1万石)林播磨守忠旭【花島~畑】
五の手 筑前国秋月藩(福岡県・5万石)黒田甲斐守長元【畑~海辺】

忠旭は父忠英、沼津藩水野忠武は祖父忠成が前将軍家斉の寵臣であり水野忠邦派に疎まれたことから報復人事で、他藩も国替え拒否をした経緯や断りきれない立場ゆえに指名されたともされる。

沼津藩は平戸村~横戸村4,416間(現八千代市平戸~千葉市花見川区の約8km)の最長区間、貝淵藩は2番目に長い2,234間(花見川区内の約4km)を受け持つこととなった。
また貝淵藩は粛清を受けて減封され1万石となった小藩でありながら見積金額は4万両にのぼった。(最大が高台を任せられた庄内藩約11万8千両。5万石の秋月藩は比較的楽な区間で1万両)

割掘工事は進むが、天保14年(1843)閏9月14日に水野忠邦が老中職を罷免され、23日に忠旭は普請の御手伝を免じられる。
天保15年(1844)5月10日に江戸城本丸に火災が発生、復興資金の上納を命じられる。
25日に正式に印旛沼開拓が中止が決まる。

印旛沼の普請は、改革の反発にあった水野忠邦の失脚により中止となり、普請を担当した藩には御下賜品が贈られることで労いとした。

 

嘉永3年(1850)11月23日、忠旭は陣屋を上総国望陀郡(千葉県木更津市)貝淵村から約1.5km南東の請西間舟台に移し真武根陣屋と称した。
西南に耕地をめぐらし東北は小高い山丘に連なり平坦にして縦横数町。

嘉永6年(1853)6月4日、米国艦隊来航の報により幕府が請西藩等、総州諸藩に湾岸警備を命じる。

安政元年(1854)4月27日に弟忠交(武三郎・後に肥後守)に家督を譲る。
※忠旭正室(曽我伊予守助順の娘)の長子は早世、末子の昌之助(忠崇)はまだ幼年のため、忠旭の弟である忠交(武三郎。忠英の側室の子)を養子にとって継がせた。

慶応3年(1867)10月20日、63歳で病没。義鶴院殿一道大居士。江戸愛宕下青松寺に葬。
生前の忠旭は画号を一道と号し、狩野(かのう)晴川院養信に師事し、好んで鷹の絵を描いたという。

青松寺

萬年山青松寺
※青松寺の墓地(林家墓所・石碑等)は檀家以外は立入禁止です。
 一般の方は墓所の参拝許可がおりた場合でも、撮影や写真のWEB掲載を許可しておりません。

青松寺サイト:http://www5.ocn.ne.jp/~seishoji/
所在地:東京都港区愛宕2-4-7

 

余談。
水野忠邦は肥前国唐津藩主(佐賀県)であったのを、幕政に加わる為に遠江国浜松藩への転封となるよう働き実現させています。
唐津藩には小笠原が入りますが、戊辰戦争後に林忠崇が御預となった先が、この小笠原家ですね。

ちなみに林忠英達が粛清された代わりに登用された遠山景元(とおやまかげもと)は、後に江戸町奉行として天保の改革の厳しさに苦しめられた庶民を助けようと水野忠邦派と対立することになりますが、この景元が「遠山の金さん」のモデルです。