史蹟・伝説」カテゴリーアーカイブ

安房・上総(千葉県南部)に残る古墳や史跡、伝説の地など

「日墨友好発祥の地」御宿

約400年前の1609年9月30日新スペイン船サンフランシスコ号海難者救出をきっかけに現在の御宿は「日墨友好発祥の地」と呼ばれている(※墨西哥=メキシコ)

日西墨国交通発祥記念碑 日西墨国交通発祥記念碑

■昭和3年(1928)10月1日岩和田轟台に日西墨三国交通発祥記念之碑建立
にっせいぼくさんごくこうつうはっしょうきねんのひ。
高さ17.5m鉄筋コンクリート造りで白鳳石(はくほうせき)が張られた白亜の塔。通称メキシコ塔。
敷地の轟台は寛永年間に黒船が浦賀に来航した際に、幕府の命令で大多喜城主大河内松平領主が砲台を設置した「猫のつら」という場所。
報知新聞記者藤平権一郎が建設を進言し、森矗昶(もりのぶてる。夷隅郡出身の衆議院議員)らが発起人となった。

大東亜戦争では標的になるとして黒く塗りつぶされたが、戦後の昭和33年(1958)11月27日に再び白い姿に改修し、スペイン大使・メキシコ副領事の参列で竣工式が行われた。
昭和63年1月に日西墨国交通発祥記念碑が「房総の魅力500選」に選定。

日西墨国交通発祥記念碑題字 日西墨国交通発祥記念碑 日西墨国交通発祥記念碑建立由来
▲塔前面には青銅製の徳川公爵の題字、側面にスペイン国王の御親筆、メキシコ大統領メッセージ

日西墨国交通発祥記念碑日本語案内板 日西墨国交通発祥記念碑英語とスペイン語案内板
案内板:千葉県指定重要史跡 ドン・ロドリコ上陸の地
日(日本)・西(西班牙/スペイン)・墨(墨西哥/メキシコ)国交通発祥記念碑由来記
1609年(慶長14年)スペイン領フィリピン総監ドン・ロドリゴを乗せた帆船サンフランシスコ号はフィリピンからメキシコに向け航海中台風に遭遇し漂流、この岩和田海岸に座礁した。秋9月30日未明のことである。
乗組員373人中56人は溺死、残る317人は岩和田村民により救出された。この時海女たちは、飢えと寒さと不安にうちふるえる異国の遭難者たちを、素肌で暖め蘇生させたと伝えられている。大多喜城主本多忠朝の判断により遭難者たちは37日間岩和田大宮寺に滞在、村民の手厚い保護を受けた後、江戸城に至り将軍秀忠に謁し、更に駿府に至り家康に謁し、翌1611年聘礼使ビスカイーノの来日、そして1613年支倉常長のメキシコ。スペイン・ローマ特派など、一連の史実はすべてこの岩和田村民の心意気に発するものである。
我らの祖先の美挙を後世に永く伝えるため、また永遠なる国際親交を祈念して、昭和3年10月1日森矗昶、浅野重雄等発起人となり、この日西墨交通発祥記念碑が建立された。

 

■昭和53年(1978)8月7日国際姉妹都市会議で御宿町とアカプルコ市、大多喜町とクエルナバカ市との間に姉妹都市協定が結ばれる。
ロペス・メキシコ大統領来訪記念碑 ロペス通り記念碑

▲「ロペス・メキシコ大統領来訪記念碑」「ロペス通り記念碑
昭和53年11月1日。国賓として来日されたホセ・ロペス・ポルティーリョ大統領は、この日、日西墨国交通発祥の地である、我が御宿町を訪問された・大統領は、若者たちのかつぐ、みこしに乗り、日の丸の扇を高くかざし「エルマーノ!」(兄弟よ!)えお連呼し、町民の歓呼に応えた。
ロペス大統領の来町を記念して平成8年(1996)6月御宿駅前通りを「ロペス通り」と名づけた。

メキシコ塔抱擁の像 メキシコ塔抱擁の像由来 メキシコ塔抱擁の像の額
▲メキシコ塔の抱擁の像
平成21年(2009)に日本、翌年メキシコで400周年の記念行事が行われ、メキシコ国から人類愛の象徴としてブロンズ像の「抱擁」が寄贈された。

御宿町は平成22年(2010)9月30日に「日墨友好の絆記念日」の条例を制定。
現在も御宿では昭和54年から開催された大多喜~御宿間約19kmのロドリゴ駅伝は毎年2月に行われており、日墨間で友好交流が続いている。

月の砂漠像 御宿の海網代湾 御宿の海網代湾の岩和田漁港
▲月の砂漠像で賑わう御宿海岸と、メキシコ塔から見える網代湾・岩和田漁港
メキシコ塔(メキシコ公園)所在地:千葉県夷隅郡御宿町岩和田702

 

大多喜メキシコ通り メキシコ通りの由来

大多喜のメキシコ通り(メキシコ大統領来町記念)
ロペス・メキシコ大統領の大多喜町訪問を記念して大多喜字三の丸から総南博物館(大多喜城)までの道を「メキシコ通り」と命名した。
所在地:千葉県夷隅郡大多喜町大多喜

小久保陣屋・藩校・藩主邸跡-田沼意尊と意斉

小久保藩図 小久保藩陣屋跡の碑

小久保藩陣屋跡の碑小久保藩図(案内板より)
県指定史跡弁天山古墳南西山麓、富津市中央公民館敷地に小久保(こくぼ)藩の陣屋が置かれた。小久保藩図の東の空白は士族の宅地。

 

大政奉還後の明治元年(1868)5月24日徳川宗家当主徳川家達(いえさと)が静岡藩として駿河(するが)・遠江(とおとうみ。共に静岡県)70万石での駿府(すんぷ)入封に伴い、その地にあった7藩は廃藩し安房(あわ)・上総(かずさ。共に千葉県)へ移封となった。
9月23日に遠江国相良藩(さがら。榛原/はいばら郡)の田沼意尊は上総国の周准(すえ、すす)・天羽(あまは)郡の内へ移封が下知される。
意尊は天羽郡の小久保村弁天(富津市)に陣屋を置いて小久保藩と称した。
二代目の意斉は、意尊が創立した漢学校盈進(えいしん)館に逸早く洋学を取り入れた。
明治4年(1871)7月14日に廃藩置県で小久保藩は廃藩となる。

明治元年に移封し明治4年まで存続した藩(石高は約)
駿河国
沼津藩5万石/水野出羽守忠敬→菊間藩(上総国市原郡)
小島藩1万石/滝脇丹波守信敏→金ヶ崎藩(上総国市原郡・周准郡)※翌月~桜井藩
田中藩4万石/本多正訥→長尾藩(安房国平・朝夷・長狭郡)
遠江国
相良藩1万石/田沼隠岐守意尊→小久保藩(上総国周准・天羽郡)
浜松藩6万石/井上河内守正直→鶴舞藩(上総国市原・埴生・長柄郡)
掛川藩5万石/太田備中守資美→芝山藩(上総国武射・山辺郡)※明治4年~松尾藩
横須賀藩3万5千石/西尾隠岐守忠篤→花房藩(安房国平・朝夷・長狭郡、上総国望陀郡)

小久保藩主邸の庭園跡 小久保藩庁・藩主邸跡の井戸

藩庁・藩主邸跡の庭園と井戸。藩校盈進館の南に藩(県)庁と知事の邸宅があった。

 

小久保藩初代藩主 田沼意尊(たぬまおきたか)

文政元年(1818)相良(さがら)藩主田沼意留(おきひさ)の嫡子として生まれる。
幼名は金弥。江戸時代中期の10代将軍徳川家治(いえはる)の時の老中田沼意次(おきつぐ。相良藩初代藩主)の8世の子孫にあたる。
天保11年(1840)7月20日意留が隠居し意尊が9代目相良藩主となる。
12月16日従五位下玄蕃頭(げんばのかみ)に叙任される。
天保14年(1843)6月15日久留島通嘉(くるしまみちひろ。豊後国森藩藩主)の娘を妻とする。
嘉永5年(1852)閏2月28日大番頭となる。
嘉永6年(1853)2月15日大坂玉造口定番に任じられ、大坂に赴任。9月米国国書に対する所見を上陳。
文久元年(1861)9月14日若年寄に昇進。
文久2年(1862)に外国御用掛、11月11日には将軍上洛用掛に命じられる。
文久3年(1863)2月13日徳川家茂の上洛に随従。11日の賀茂下上社御幸に供奉。
10月26日横浜港に停泊中の軍艦へ赴き、フランス全権公使ドゥ・ベルクールと横浜鎖港に関して商議する。

元治元年(1864)6月19日徳川家康250回忌の勅会用掛を命じられる。7月8日外国掛を免じられる。
この頃水戸の天狗党の乱が起こり、10日に意尊が常野追討使(追討軍総督)に任じられた。23日に野州へ。
8月5日意尊は古河陣中で宇都宮藩、9日に福島・宇都宮・壬生・下館・土浦・二本松・笠間諸藩に筑波出兵を命じる。23日に下妻藩に糧食・夫役、戦火災の補償金を支給。25日常陸笠間に宿陣。
9月1日笠間陣中から、幕府兵と共に二本松・壬生両藩兵を那珂湊へ、宇都宮・棚倉・佐倉三藩兵を磯浜に進軍させ両地域の天狗党を討たせる。3日に水戸藩へ手綱、6日烏山藩・7日棚倉藩へ助川の防備を固めるよう命じて敵の退路を絶った。9日佐倉藩に潮来へ12日高崎藩に鉾田への出兵を命じる。18日磐城平藩に手綱附近に兵を出させ、助川脱出の天狗党浪士を捕らえさせる。
25日笠間から水戸に幕府軍本隊を進め、弘道館に本営を置く。
27日意尊は水戸藩主名代松平頼徳(よりのり。宍戸藩主)や元家老鳥居瀬兵衛(せべえ)・大久保甚五左衛門(じんござえもん)らに水戸城入城の失敗や諸生党市川三左衛門と対立した責任を問い下市町会所に投じる。28日頼徳を水戸藩縁故の松平万次郎頼遵の邸宅に、家来達を水戸城中に禁固した。頼徳の家臣小幡友七郎(おばたともしちろう)ら7人が憤慨し自刃。
10月3日忍藩へ那珂湊の佐倉藩兵の救援を命じる。9日柳沢・塩ケ崎の諸陣を巡視する。
11月6日京へ向かった武田耕運斎ら天狗党追討のため、意尊は水戸を出発。9日に川越藩へ出兵要請。12日上野・武蔵に侵入する天狗党の討伐を伊勢崎・前橋・矢田・高崎・館林・安中・小幡・七日市・麻生・忍諸藩に命じる。26日壬生藩へ太平山の警備を固めさせる。
27日水戸藩へ、投降者のうち懺悔した者の処置を緩めるよう命じる。
12月27日美濃関ケ原に至る。

慶応元年(1865)1月30日に入京。一橋慶喜に天狗党の処分の事を委ねられ敦賀へ向かう。
2月17日京都賀茂社の鳥居に意尊を弾劾する落書が貼られた。
25日敦賀から江戸へ向かう。3月11日江戸に着き幕府に出仕。
11月4日京へと海路で江戸を出発。9日大坂に着く。この時、意尊の上洛は将軍が江戸へ帰ることを促すためと噂が流れ、薩摩藩士西郷吉之助(隆盛)は大坂に居る薩摩藩士黒田清綱に情勢を探らせた。

慶応2年(1866)2月5・6日に老中松井康直(やすなお。後の康英)邸でフランス全権公使ロッシュと会議。
3月5日康直邸でプロイセン王国領事フォン・ブラントと、13日に英国特派全権公使パークスと税則改正ついて商議する。
10月24日若年寄を罷免。
慶応3年(1867)11月15日朝廷の召命を辞退する。

慶応4年(1868)1月14日幕府から駿府城の警守を命じられる。
2月13日家臣に勤王証書を持たせ提出させる。3月2日徳川慶喜の嘆願書に連署。
閏4月2日信濃出兵の命で帰藩。その後箱根に侵入した林忠崇軍を相良の地でも警戒している。
9月4日相良を出発し12日京に入り15日参内する。
23日に相良1万3243石から西上総の周准・天羽郡1万1270余石(現石4400石)への移封が下知される。他、3年間現米200石と、金3千両を受給。

明治2年(1869)1月19日相良を出発し24日に東京に着く。
3月16日上総領内の巡検に出発し24日に東京へ帰る。
6月24日版籍奉還により小久保藩知事に任命。家禄440石。
7月27日に東京から上総の任地へ入る。
小久保弁天に藩庁と住所を置き、藩庁は643坪、県知事邸は440坪。北側に役所地800坪。
儒学を尊ぶ意尊は、藩士に漢学を教える藩校盈進館(えいしんかん)を創立する。
12月に病にかかり床に伏し、跡継ぎの男子が居なかったため、岩槻藩知事大岡忠貫の弟で15歳の金弥(意斉)を養子に入れた。
※意尊の娘は後に田沼家を継ぐ長女智恵(ちえ)、小笠原長育の妻の次女路子(みちこ)
20日に病状が悪化し、22日に意斉に家督を相続させる。
24日に死去。52歳。寛隆院殿曜徳自照大居士。領地貞元(君津市新御堂)の護国山最勝福寺に葬られた。

明治22年(1889)7月6日に田沼家菩提寺の勝林寺(東京都豊島区駒込。田沼意次が再建)に改葬。

 

2代藩主 田沼意斉(たぬまおきなり)

安政2年(1855)7月に武蔵国岩槻藩(いわつき。埼玉県岩槻市。2万3千石)7代藩主大岡忠恕(ただゆき、ただのり)の五男として生まれる。幼名は金弥。
※館山藩最後の藩主稲葉正善(まさよし)は意斉の兄(大岡忠恕次男)で、館山藩4代藩主稲葉正巳の養子となった

明治2年(1869)12月に小久保藩主田沼意尊の養子となる。22日に家督を相続。
24日意尊が死去。
明治3年(1870)2月25日小久保藩知事に叙任。
10月に建坪58坪余の藩校盈進館の校舎を新築。14日支配地村替。
11月に盈進館の学問に新たに洋学も取り入れた。洋学教師は間宮濤之助(福地源一郎の門下)が就任。英語に加え算術・地理・歴史も教え、藩士だけでなく庶民とも共学とした。

明治4年(1871)2月14日藩政を大参事に任せ、東京遊学の許可を得る。旧藩邸に寓居し文学修業に励む。
23日東京府移住を命じられ、東京府貫属華族となる。
25日本所徳右衛門町(東京都墨田区)に住む。※後に松井町へ転居
7月14日に廃藩置県で小久保藩は廃藩し、藩知事を罷免。

明治6年(1873年)11月に隠居し、田沼家は意尊の長女の智恵が継ぐ。

 

■その後の田沼家

明治5年(1872)学問頒布(はんぷ)により盈進館は小久保小学校の校舎となる。(尋常小学校等を経て現在の大貫小学校に至る)

明治6年(1873年)11月に意斉が隠居し、田沼家は意尊の長女の智恵が継ぐ。
明治7年(1874)智恵は伊予国宇和島藩(愛媛県宇和島市)8代藩主伊達宗城(むねなり)の六男の忠千代(後の瀧脇信廣/たきわきのぶひろ)を婿に入れ、忠千代が田沼家当主となる。

明治11年(1878)忠千代と離婚し、再び智恵が当主となる。
明治13年(1890)智恵が伏原望(伏原宣諭の次男)を婿に入れ、望が当主となり田沼家は現在まで続く。

富津市大貫の弁天山古墳 大貫の富津市中央公民館

▲東に弁天山古墳。現在の公民館と駐車場は小久保藩の役所や藩校にあたる。

所在地:千葉県富津市小久保字弁天2955 富津市中央公民館敷地

参考史料・図書
『田沼意斉家記』
『田沼家譜』
富津市史
君津郡誌』他古地図・案内板等

妙勝寺-水戸天狗党の乱と天狗党四士の墓

花香谷明谷山妙勝寺 妙勝寺の水戸浪士天狗党四士の墓所

妙勝寺水戸天狗党四士の墓
佐貫藩に預けられ処刑された天狗党の4人の墓。平成16年10月改修。
古い墓石の表には「南無妙法蓮華経」が刻まれている。文字は殆ど見えなくなっているが『富津市史』に右から「黒沢氏」「荒井氏 元治二丑年四月三日」(なし)「木村氏」とある。

 

■天狗党の乱

常陸国水戸藩(茨城県水戸市)の後継者争いで藩主の座に着いた徳川斉昭(なりあき)を擁立した派閥は頭勝で鼻高々な様子から天狗党と呼ばれた。
嘉永6年(1853)の黒船来航により海防をに関わる斉昭は国防の必要性を主張し、水戸藩は尊王攘夷派が台頭していく。
天狗党の中でも攘夷に意欲的な改革派は激派と呼ばれ(激派に反する派閥は鎮派)日米修好通商条約に調印した井伊直弼を襲う桜田門外の変にも加わった。その約半年後に斉昭が急死した後も攘夷運動は続けられた。

元治元年(1864)3月27日、横浜港の閉鎖を求めて天狗党激派の藤田小四郎(こしろう。藤田東湖の4男)は、町奉行田丸稲之衛門直允(いなのえもんなおあき)を大将に据え、自らは総裁として監察府として筑波山に旗揚げした。※以降「筑波勢」と記述
これに攘夷派の藩士や浪士達が呼応し、4月に正義党(水戸・江戸・京在勤の武田耕運斎ら水戸藩執行部が指導)と合わさり田丸を首領のまま遊軍監察府総轄と称して小栗村に集結した。
徳川家康を祀る日光東照宮を占拠するため、田丸は水戸藩前藩主烈公(斉昭)の位牌を背負い、天狗党一団は下野国(栃木県)日光山へ向かう。
日光奉行から知らせを受けた幕府は下野近隣の藩と水戸藩へ天狗党の警戒を命じる。筑波勢は戦闘を避けて太平山(栃木市)へ移動。

その頃朝廷では孝明天皇と禁裏御守衛総督の一橋慶喜(よしのぶ。後の15代将軍徳川慶喜。水戸藩前藩主徳川斉昭の7男)らが幕府に横浜鎖港を求め、20日に将軍徳川家茂は、水戸藩主徳川慶篤(よしあつ)と、幕府政事総裁職の川越藩主松平直克(なおかつ。慶喜と親しい)に鎖港を推し進めるよう命じた。

一方水戸では、天狗党鎮派の一部が保守派と組んで諸生組(水戸藩の学問所弘道館の書生が中心だったため書生・諸生党と呼ばれた)を結成し、激派の排除に乗り出した。
6月6月に筑波勢は水戸の情勢を案じて筑波山へ引揚げ大御堂(おおみどう)を本営とする。

天狗党激派を中心とする攘夷集団は膨れ上がり、別隊浪士の略奪等横行狼藉が目立った。
10日に幕府は関東の近隣諸藩に討伐を命じ、11日には高崎・笠間藩へ追討命令が出される。
水戸藩は藩主慶篤の居る江戸藩邸へ諸生組が詰めかけ、慶篤は改革派支援から一転して幕府の意向に従うことに応じた。
慶篤は佐幕派の幕僚を退けようとする松平直克を非難し、結果として直克は政事総裁職を罷免。横浜鎖港が頓挫して大義名分を失った筑波勢の排除に幕府が動くこととなる。

7月8日に幕府若年寄の田沼意尊(おきたか。玄蕃頭/げんばのかみ)が浪人追討総督に任命され、幕府は諸藩に筑波勢の追討を命じた。
水戸藩内では諸生組と筑波勢以外の天狗党が争っていたが、筑波勢の挙兵に直接参加していなかった耕運斎も諸生組に対抗するため筑波勢と合流する。
8月10日に筑波勢と水戸城の兵が交戦開始、14日に筑波山から天狗党が一斉に押寄せ連日激戦となる。

9月2日に幕府軍が水戸書生組と連携して攻撃を開始。水戸・棚倉・高崎・二本松・佐倉・宇都宮・新発田・館林・川越・安中・岡部藩と他幕府歩兵隊の大軍が筑波勢の各拠点を包囲した。

10月には筑波勢は追い詰められ、大子村に集い耕雲斎を主将とし田丸と藤田は副将として一軍七隊に再編成し、軍規を整え粗暴な行いを禁じた。
11月1日に天狗党一軍七隊は、一橋公を頼り(かつて烈公が望んでいたように一橋公を盟主にする目的もあったとされる)京へ向けて中山道を行軍する。

中山道付近の小藩では天狗党に対抗できず見過ごされたが、上州高崎藩(群馬県高崎市)は攻撃体勢に入った。
天狗党は16日に下仁田で高崎藩兵を破り、信州(長野県)で小諸・上田藩兵と対峙し高島(諏訪藩)・松本藩兵と交戦。20日に和田峠で諏訪勢を破り、東山道を進む。
27日美濃大垣藩(岐阜県大垣市)を避けて迂回するために木曽街道から北へ進路を変えて12月11日に越前国の敦賀(つるが。福井県敦賀市)に到着した。

対する幕府軍は加賀・小田原・桑名・大垣・会津・水戸・海津(一橋慶喜本営)・大野・鯖江・福井・彦根藩兵が各要所に布陣した。
頼りの一橋公が幕府軍側に付き、命運尽きた天狗党は15日に遂に加賀藩へ投降する。
元治2年(慶応元年/1865)2月4日に来迎寺境内で耕運斎・田丸らを斬首し300余人を処刑。日を改め幹部を中心に次々に処刑し、23日には藤田らを斬首。水戸では諸生党らが、賊徒となった天狗党の家族を処刑した。

耕運斎らより先に降伏した天狗党のうち、士分116名の身柄を諸藩に……例えば請西藩に13人、飯野藩に25人といった具合に分けて預けることとなった。

 

■佐貫藩が処刑した天狗党四士

佐貫藩では銚子藩から23人の引渡しが決まり、12月2日に相場助右衛門ら100余名が武装して銚子へ向かっている。
4日に銚子に着き身柄を引取るが、天狗党の9名は大怪我をしていた。
12日に佐貫城外の長屋に拘留。天狗党藩士は佐貫藩主にも敬意を示し、長屋で学問をや弁論をしたため、佐貫藩士も刺激を受けて藩校誠道館の名を選秀館と改め学問に打ち込んだという。禁固中に新井(荒井)源八郎と村田理介は騒動の記録「国難顛末」を書き残した。

4月3日、幕府から新井と村田に切腹を申し付けられる。
木村三保之介(三穂介)と黒沢覚介(学介)にも斬首の処罰が下る。

▼切腹
新井源八郎直敬…龍雲院義直日周居士。42歳。郡奉行。
村田理介政興…随順院量意日相居士。58歳。郡奉行。

▼斬首
黒沢覚介成憲…直成院学純信士。47歳。小住人組。
木村三保之介善道…得法院淨円信士。55歳。高田村の名主の長男。弟の善雄は館山藩で斬首された。

処刑された4士の遺体は妙勝寺に託され、住職のはからいで水戸に縁が深い梅の木の下に葬ったと伝わっている。
残りの19人は5月26日に江戸の監獄へ護送された。

大正4年11月に木村を除く3名に贈従五位。

 

日蓮宗明谷山妙勝寺
寛正6年(1465)5月、僧日通の開山。
所在地:千葉県富津市花香谷137

安楽寺-勤王の佐貫藩士相場助右衛門の墓

安楽寺 相場助右衛門の墓

安楽寺相場助右衛門の墓
開闡院一乗日松居士 相場助右衛門 五十八歳 慶應四年四月二十八日 寂
演寳院妙義日相大姉 妻 寿美子 明治三年 自害 四十八歳(慰霊碑より)

 

相場助右衛門(あいばすけうえもん)
佐貫藩の納戸役(80石)相場三右衛門茂隣の跡を継ぐ。
文武両道で文学は漢学者の大槻磐渓(おおつきばんけい)に学び、武道は斉藤弥九郎の門下で神道無念流の免許皆伝であった。
佐貫藩主阿部駿河守正身(まさみ、まさちか)、因幡守正恒(まさつね。後に駿河守)の二代に仕え、佐貫藩の江戸詰家老に昇進したとされている。

文久元年(1861)に藩主正恒は大坂加番を任じられ、側用人の資格で随行し伏見に居て上方の様子をよく知る助右衛門の尊王意見を在坂中に採った。

慶応4年(1868)前藩主菊山公(正身)の第四子で15歳の小十郎を養子に貰い受けた。100石持参で260石となる。
戊辰の動乱の色濃くなり、3月に佐貫藩は江戸屋敷(上屋敷が外桜田・中屋敷が愛宕下・下屋敷は霊南坂)を引き払って佐貫へ集まった。助右衛門は恭順を唱えたが、佐貫藩は徳川譜代であり江戸と上総で暮らしていた家臣達は佐幕を唱える者が多かった。

4月に木更津に駐屯する徳川脱走兵の撒兵隊が佐貫藩へ応援を要求し、助右衛門は協力に反対したが、28日に佐貫藩は撒兵隊の支援を決定した。

この日、栗飯原八百之進ら佐幕派同志31名は助右衛門の排除を実行する。
午後3時頃、佐幕派同志達20人程が佐貫城中の太鼓櫓のある大手門付近の石垣辺りの茂みに潜んで、助右衛門が帰宅するのを待った。
助右衛門は大手門を出て南の清水坂を下って古宿(ふるじく)の家へと向かう。

坂を下った正面の御厩(おうまや)で長岡勇(33歳の最年長とされる)ら10名程が待ち伏せ、窓から助右衛門とお供の中間を狙撃した。
不意に真正面から体を撃たれた助右衛門は屈せずに傷口を押さえながら抜刀する。

剣の腕が立つ上に拳銃を所持している助右衛門に対して、20歳の血気盛んな印東男也政方(いんどうおなりまさより。後に万次に改名)が臆せずに一太刀浴びせたのを皮切りに、山崎邦之助、相沢甲子次郎信秀ら若侍が続き、そして残りの同志達が一斉に斬り掛った。
助右衛門は体中無残に切り刻まれて悲運の最期を遂げたのである。
31人は勝隆寺に引揚げて、謹慎の意を示した御届書を藩主へ提出した。

襲撃事件の沙汰は、加害者31人は忠義からの行いとしてお咎め無しであったとされる。
一方、相場家は、阿部家からの養子小十郎は連れ戻しになってお家断絶・家族追放という重い処分を受けた。
妻の寿美子(すみこ。飯野藩物頭の西平之亟の娘)夫人は悲痛な思いで後処理をし、棺桶を買うことも憚られたので亡骸は長小持に入れられ、従妹や女中の助けを借りて夫を花香谷(はながやつ)の安楽寺に葬った。
そして14歳の養女米子(よねこ。安政2年の大地震で被災した弟相場助之亟の娘)と共に、実家(飯野藩の平之亟の家)へ帰ることとなる。

2年後の明治3年(1870)に寿美子は自害し、米子は平之亟の子の志津馬に嫁いだ。

相場助右衛門慰霊碑 相場助右衛門の案内板

▲近年建立された相場助右衛門慰霊碑と案内板。子孫冨田氏の寄贈。
墓石 佐貫藩主阿部正恒公建之 
相場助衛門子孫冨田清建立。上部に丸に桔梗の家紋。

昭和6年(1931)7月、NHKラジオにて小説家の江見水蔭(えみすいいん)作「隠れたる勤王家相場助右衛門」が放送された。

 

日蓮宗安樂寺
天正5年(1577)に僧日國が開山。
所在地:千葉県富津市花香谷167-1

萬里小路大姉墓誌と川名りか

横田の万里小路大姉墓誌 万里小路大姉墓誌

萬里小路大姉墓誌碑。明治13年広部精(くわし。せい)の撰文

 

■川名里鹿(りか)
天保10年(1839)横田村(袖ヶ浦市横田)中下(なかしも)の豪商河内屋の川名惣左衛門栄助頼信(よりのぶ)とお鐐(りょう)の長女の里鹿が生まれる。

利発な里鹿は嘉永の頃に幼くして12代将軍徳川家慶(いえよし)の頃の江戸城二の丸の御女中に出仕した。貝淵藩林家の口添えも有ったのかも知れない。
大奥で老女(高位の女中職三役の総称)万里小路局(までのこうじ。まて様)に出会う。

嘉永5年(1852)13歳の時に祖父と父親が相次いで無くなり、嫡子の政之助がまだ幼児のため、川名家は大奥へ里鹿の宿下がりを申請する。
嘉永7年(1854)15歳の時に家督を相続するため横田へ帰郷した。
その後婿をとって5人の子を産む(3人は夭折)。

慶応4年(1868)にかつて大奥で面識のあったまて様が請西に移り住み、29歳の里鹿は横田から長楽寺まで往復して世話をした。
戊辰の役の後には、身の置き場を無くしたまて様を横田の川名家に迎え入れる。

明治5年(1872)に33歳で亡くなる。
その6年後にまて様も死去し盛大な葬式が営まれた。

 

萬里小路大姉墓誌 所在地:千葉県袖ケ浦市横田

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碑文には矛盾が見られ、万里小路の出自が虚偽(将来的に大奥で権威をもつことになる、次期将軍の正室のお付きになるには京の公家から選ばれた慣わしのため)であった説もあります。
その他史料を照らし合わせると、大奥に入った後の万里小路が非常に有能で結果的には長く徳川家の支えとなったことは事実に近いはずなので、決定的な記録が発見されるまでは歴史に残した結果を重視したいと思います。