史蹟・伝説」カテゴリーアーカイブ

安房・上総(千葉県南部)に残る古墳や史跡、伝説の地など

不二心流と木更津「島屋」(まとめ)

木更津鳥瞰図で見る島屋と戊辰戦争
観光パネル昭和11年松山天山写生『千葉縣木更津町鳥瞰圖』に大河内家関連跡地・所在地を上書

不二心流の流祖・剣豪中村一心斎と、不二心流を継承した大河内一族、木更津の紺屋「島屋」と
戊辰戦争で徳川義軍に関わった経緯等のブログ記事まとめです。

不二心流
【不二心流開祖】中村一心斎の略歴と成就寺供養塔
不二心流「中村一心斎碑」
不二心流伊藤実心斎の供養墓
飽富神社の不二心流奉額
成東元倡寺の不二心流剣道碑
宮川熊野神社と不二心流
────他、追加予定

島屋と大河内家
木更津の紺屋・大河内幸左衛門「島屋」
大河内喜左衛門・幸左衛門の墓所
【不二心流二代目】大河内縫殿三郎(幸安)
【不二心流三代目】大河内総三郎(幸経)と寺町「志摩屋」
【不二心流四代目】大河内正道(安吉)と戊辰戦争義勇隊
大河内三千太郎(幸昌)[1]上総義勇隊頭取
大河内三千太郎[2]明治の北海道に渡った剣客、監獄看守となる
大河内三千太郎[3]篤志・教育家としての後半生
空知集治監と看守長伊藤常盤之助のこと

 

■関連記事
結城藩成東陣屋跡地
糀屋村名主伊藤仁右衛門茂平碑

 


戦前の木更津八幡町。江戸時代に不二心流大河内家が在った(写真右の硝子店の建物辺)通り

※各記事は福田久一郎著『不二心流系譜並略伝』を元に、文中に明記した各参考史料と関連旧蹟の碑文や聞き取りで補足しました。ご協力ありがとうございました。

木更津の紺屋・大河内幸左衛門「島屋」

島屋跡地の山崎医院周辺 木更津の紺屋の島屋跡地

▲昭和4年『千葉縣木更津町鳥瞰』の島屋推定跡地(旧山崎医院)周辺と跡地に沿う矢那川
南町(現木更津市富士見)島屋は新田川(矢那川)沿いにあって豊富な水で藍染をしたのだろう。
講談『切られ与三郎』のモデル四代目芳村伊三郎こと中村大吉が南町島屋で型付職人をしていたともされるが、大河内家の島屋か別の島屋かは不明。歌舞伎の人気演目となった瀬川如皐『與話情浮名横櫛』では「南町藍玉屋善右衛門」で登場する。
戊辰戦争の際、福田八郎右衛門・江原鋳三郎(素六)ら撒兵隊(さっぺい、さんぺいたい)が木更津に駐屯し、撒兵頭の福田が大河内家の島屋を宿所としたようだ。

 

大河内幸左衛門「島屋」
大河内氏は藤原鎌足の摂家光明法寺摂関左大臣九条修理大夫長家の流れで、天正10年織田軍の甲信攻めで信州伊那城主伊藤志摩守為長(靫負。28世)が降伏し、戦で負傷し不具となった18歳の息子伊藤河内守為安は縁故の本多氏(当時の領主、本多縫殿亮か)を頼り家臣の17士と共に下総国匝瑳郡西小笹村(西小篠/こざさ。匝瑳市。旧共興村)に帰農したという。彼らは向地屋組十七家と呼ばれ、為安は隠棲して縫右衛門と称した。
縫殿三郎(1790-1871)の時に、西小笹の領主である旗本の菅沼氏から大の字を賜り伊藤から大河内(河内は祖先為安の河内守から取ったと思われる)と姓を改めた。
※西小笹村は維新前は旗本菅沼藤十郎、森川内膳正、岡部中務、馬場繁治郎の分領

下総国匝瑳郡小笹村 西小笹の長屋門
西小笹には現在も往時の村の隆盛を偲ばせる長屋門や古民家が生活に溶け込んでいる

 

文化年間の初めに阿波国(四国徳島)の僧が藍種を隠し持って小笹村を訪れ、逗留した伊藤家にもてなされた礼として藍業を伝授した。
文化2年(1805)4月4日に伊藤家当主喜左衛門の弟幸左衛門が阿波に向かい、5月に鳴門に着き名主の金兵衛に阿波国秘伝の藍業を詳しく教わった後、栽培用の藍種を持ち帰った。
西小笹村での生産に成功し屋号喜左エ門は1町5反の藍畑を持ち栄えたという。
四国続西小笹 四国同行中
▲縫右エ門と幸左エ門の姓は擦れているが(不完全な読取で佐藤とする郷土誌もある)、実際に刻字を観察した限りでは願主の伊藤喜左エ門と同じ伊藤に見える。
文政4年(1821)は縫殿三郎の父の喜左衛門安吉は62歳なので隠居し、藍商喜左衛門の当主は次の代か。縫殿三郎はこの時32歳。
四國同行中 伊藤縫右エ門 同 幸左エ門 渡邊権兵衛 増田□
文政四辛巳年 三月吉日 西小笹邑中  願主 伊藤喜左エ門
※四国巡礼者達と思われ本件の阿波へ渡った伊藤幸左エ門らと関わりがあるかは不明だが、祖先伊藤為安が縫右エ門を名乗っているためその名を代々継いだ紺屋大河内家の兄弟であろう。

 

木更津南丁島屋

阿波で藍業の技術を得た幸左衛門は江戸越前堀の藍問屋の島六(森六・まる九)の株を買い、木更津に「島屋」という名の紺屋(こうや)の出店を持った。富士山が見える立地若しくは不二心流(富士浅間流)道場があったためか由来は不詳だが富士城や不二城とも呼ばれた。
※越前堀は中村一心斎・大河内縫殿三郎の江戸道場が開かれた八丁堀の東
以降、代々島屋の当主は幸左衛門の名を継いだ。

木更津山崎公園 木更津旧山崎医院

▲島屋があった推定地の山崎公園と旧山崎医院
島屋跡地ははっきりしないが昭和27年木更津市発行『木更津郷土史』等で「山崎医院の場所」としている。
山崎節『山崎直その踏跡』によると山崎周太郎氏が向かいの塩勘の右隣の倉庫の所に開院し、明治20年頃に現在の山崎公園と旧山崎医院(大正9年建築)の場所に移転した。
因みに周太郎の兄、山崎邦之助(内蔵之助)は佐貫藩相場事件での佐幕派剣士であった。

木更津證誠寺参道 山崎公園と君津橋

▲君津橋(證誠寺橋)対岸の左が證誠寺参道で開院当初の山崎医院側。右が移転後の山崎病院
【2016.11/5追記】昭和当時の郷土研究家の聞取元が開院当初の山崎医院を言った可能性もあるので、補足として昭和初期鳥瞰図での島市(材木店。岸本家)敷地跡を追加。新政府に土地を接収されたなら公園側が妥当か。

 

島屋道場

八劔神社道場周辺 八劔八幡神社専用駐車場

▲かつて八劔八幡神社境内の不二心流道場があった地と周辺鳥瞰図 ※鳥瞰図は木更津駅前パネルより
島屋では番頭から小僧まで皆剣術を習い、門下は「島屋門」と呼ばれたという。島屋の敷地内の道場の他に、八幡町(木更津市富士見)八劔神社の境内にも町道場を作り中村一心斎・不二心流正統大河内氏・不二心流門下で神職の八劔氏が指導した。
八幡町道場があった住所は大河内一郎(維新前に死去し愛染院に葬。長男の三千太郎が継ぐ)が戸主であった記録が残っている。
現在は八劔八幡神社専用駐車場となっている。

 

木更津愛染院 木更津愛染院の大河内家墓所
愛染院大河内家の墓

山崎公園所在地:千葉県木更津市富士見1-14-14
瑠璃光山愛染院所在地:千葉県木更津市中央1-3-15

■■不二心流と木更津「島屋」■■

飽富神社の不二心流奉額

袖ヶ浦飽富神社 飽富神社の不二心流奉額

▲飽富(あきとみ)神社と不二心流振武社奉額
明治24年(1891)10月奉献。
先頭に大河内縫之助不二心流正統二代目)や大河内正道(不二心流正統四世)の名。
藤代吉高・吉隆は、中村一心斎に剣を学んだ藤城吉高と吉隆親子と思われる。
上総国望陀郡根形村飯富(いいとみ)に「振武社」を起こした伊橋清三郎以下、飯富や奈良輪等、近隣の門人の名が連なる。
不二心流奉額左側 不二心流奉額左側

 

飽富神社(飫富神社)
祭神は倉稲魂命、相殿大巳貴神・少彦名神。
綏靖天皇(すいぜい。神武天皇の皇子)の即位元年(皇紀80年)4月に天皇の兄である神八井耳命(かんやいみみのみこと)が創建したと伝わり、平安時代の延喜式神名上に上総国五座大一座として記されている古刹。
古代の上総国望陀郡飫富庄の豪族飫富(おふ)氏にちなんだ飫富宮(おふのみや)で、いつしか飽富とも称されるようになった。
天慶2年(939)3月、平将門公の兵乱の時に朱雀天皇の勅使が鎮定祈願を修して太刀一振りを納めたという。飽冨神社には古くから太刀が奉納されており、平安時代末期のものとみられる無銘附太刀拵(つけたりたちこしらえ)が市指定文化財として指定されている。
現代の権現造りの社殿(有形文化財)は元禄4年(1691)再建。
明治6年(1873)2月27日郷社、5月30日に縣社に列する。
飽冨神社で毎年正月に行われる年占行事の筒粥(つつがゆ)は県指定無形民俗文化財。

所在地:千葉県袖ケ浦市飯富(字東馬場)2863

■■不二心流と木更津「島屋」■■

不二心流伊藤実心斎の供養墓

高谷延命寺仁王門 不二心流伊藤実心斎の供養墓

延命寺総門と「不二心流五代實心齊伊藤直行先生之墓
現在の総門はかつて参道にあった仁王門を移設したもの。
慶応4年(1868)8月に賊徒(旧幕臣と協力した村民による義兵)が延命寺に立て篭もり、上総諸藩の兵と交戦した。木更津近隣の村民が扇動されたのは、この地域で剣術修練が盛んであったことも起因するだろう。(飯野藩も出動しているため詳細は別途紹介予定)

 

伊藤実心斎直行
天保9年(1838)不二心流正統大河内氏と同じく、下総国匝瑳(そうさ)郡共興(きょうこう)村(千葉県匝瑳市)で生まれる。
上総国望陀郡木更津村(千葉県木更津市)の島屋(当主は大河内幸左衛門)の道場で不二心流2代目大河内縫殿三郎や木更津に隠棲中の不二心流開祖中村一心斎に剣術を学ぶ。
望陀郡高谷村(袖ケ浦市)の御園家の食客となり、下総・上総国内で広く不二心流の剣を教えた。

一方、大河内家は不二心流四代目大河内正道(縫殿三郎の三男)が結城藩に成東陣屋(山武市)へ招致され、直心影流の榊原鍵吉(さかきばらけんきち)らと撃剣興行にも加わり廃刀令後の撃剣再興に努めた。成東で正道の弟の家に養子に入った過去もある伊庭兵二(正高。成東出身)が正道から5世を継ぎ、実質の正統となる。
中村一心斎の「剣術」の門人は下総・上総に多く在り、免状を拝受した幾人かの皆伝者がそれぞれ5代目として不二心流の技を受け継いでおり、伊藤実心斎は上総郷里の伝承者として「不二心流五代」と刻まれたのだろう。

大正12年(1923)12月28日に伊藤実心斎は85歳で天寿を全うした。
多くの門人に指導し慕われた実心斎のため立派な供養碑が高谷延命寺(ご子息が住職となっている)の参道脇に建てられた。
伊藤直行の名は「剣道」指導者となった門人達が語り継いだ。

飯王山延命寺 所在地:千葉県袖ケ浦市高谷1234

■■不二心流と木更津「島屋」■■

不二心流「中村一心斎」成就寺供養墓

成就寺門石左 成就寺門石右 成就寺内石
成就寺の剣聖中村一心斎供養塔
南無妙法蓮華経 法界
安政二年四月建之  満足山 四十三世 日涼

一心淨念曇龍居士 中村一心斎為菩提
智徳院妙勇大姉 俗称芳為菩提
大河内氏  熱田氏

大河内 幸左エ門
同   孫左エ門
同   總三郎
友野 七左エ門

安政2年(1855)4月建立。紺屋「島屋」大河内幸左衛門と一族の名。島屋の当主は代々「幸左衛門」の名を継承している。『満足山成就寺史』によると熱田氏、友野氏は成就寺の有力檀家。
建立後に遭った南町の大火災「島屋火事」のためか右側が焼けているようである。

 

中村一心斎藤原正清
幼名は八平。通称は左膳(さぜん)、宮門(くもん)。名は正清。字は一知。号は一心斎、不二剣翁、加藤曇龍(どんりゅう)、不退転曇龍。行者名は藤開行。
碑文に「身長六尺二寸美髪三尺五寸」とあり長身の偉丈夫であったようだ。
中村家は加藤清正を祖先とし、代々高力(こうりき)家に仕え、寛文8年(1668)島原藩主高力左近太夫隆長が改易されると浪人となるが、高力家にかわって島原に移封された松平家に仕える。

天明2年(1782)八平は肥前国島原藩(長崎県)藩士中村八郎左衛門一直(かずなお。中村喜兵衛4代目)の次男として生まれる。
寛政元年(1789)8歳で島原藩士の板倉勘助勝武に浅山一伝流の兵法を学ぶ。
寛政10年(1798)17歳で島原藩士の花村小三郎の婿養子になり花村宮門と称す。
寛政11年(1799)6月21日、八平は20人扶持「中小姓」となる。12月8日江戸詰の義父に従い江戸に移る。江戸では都築(つづき)與平治と津田武太夫三全から武術を学んだ。
享和元年(1801)3月1日「御通番」となる。
文化元年(1804)病気を理由に島原に帰郷し実家で療養。花村家を離れたため中村宮門中村八郎左衛門一知を名乗る。
江戸に戻り剣術で丹羽家に仕えた後、神道無念流戸賀崎(とがざき)知道軒暉芳に随身。
文化3年(1806)麹町六番町鈴木派無念流道場・鈴木大学(鈴木斧八郎重明)の高弟となり3年の間「塾頭」となる。文政元年までに18の流派を極めたという。

文政元年(1818)6月10日に富士山へ単身登頂し100日の過酷な修行により9月26日不二心流(ふじしんりゅう)を立てた。富士浅間流(ふじせんげんりゅう)とも呼ばれる。
江戸八丁堀に構えた道場は門下が2千名ともされ隆盛した。
文政3年(1820)9月から10月まで島原に滞在した時の風貌は被布(ひふ)を纏い長剣を横たえ、頤から胸の下まで長く髭を伸ばし、象牙の環の耳飾を通し、錦の袋を垂れて髪を納めて、山伏のようだったと描写されている。この頃から一心斎と呼ばれるようになったようだ。
そして江戸に戻るも八丁堀道場を大河内縫殿三郎に任せ、東北を廻る。水戸笠間方面より下総へ向かう。
文政5年(1822)2月15日に下総国海上郡足川村で代官の岩井市右衛門とその子重兵衛に剣術教授。近隣の有力者にも指導した。

『日本武術神妙記』に伝聞であるが水戸藩での鵜殿力之助、若き海保帆平(かいほはんぺい)との仕合いについて、勝負つかずであったが老齢ながらの精力と、一心斎の神妙な立ち回りで精神的に圧倒し水戸公に賞賛された(直心影流の山田次朗吉談、ここでは要約)逸話が収録されている。
伝聞ではなく飯野藩剣術指南役の北辰一刀流森要蔵本人が「予弱年の頃、八州を遊歴せしに、中村一心斎と暫く剣友となり、相交はりたるなり。一心斎朝暮内観の法を修す。予又これに随ひて学び得たり」と、一心斎との交友と練気養心を学んだことを記しているように、内観の法の成果か老いても気力は冴え、不二心流を継承した大河内家が店を出した上総国望陀郡の木更津に在り、大河内家の本拠下総国匝瑳郡小笹村(千葉県匝瑳市)の道場と木更津の道場で指導した。

森要蔵と中村一心西斎
▲森景鎮(森要蔵)『劒法擊刺論』中村一心斎の記述

晩年の嘉永の頃(1848~)は妻を同伴して上総国武射郡屋形村(現山武郡横芝光町)の漁家、海保惣兵衛正義(海保沙崖)方に来訪、その後は忠左衛門の元に移る。屋形では十数人の門下がいたが、極意を授けたのは正義と忠左衛門のみであった。

忠左衛門家に妻を預けて、次は香取大宮司家を訪れ、最後は下総国埴生郡赤荻村(あこぎ、あかおぎ。千葉県成田市)の鵜沢家に移る。
嘉永7年(1854)10月3日鵜沢覚右エ門宅で死亡。享年73歳。赤荻村善福寺に葬った後、小笹村に分骨し大河原家を中心に門人達が葬儀を行い、碑を建立した。
木更津成就寺にも門人多数が集まり三日間剣道大会を開いて葬儀を行い分骨した遺骨を納めた供養墓を建立。戒名「一心清念曇龍大居士」

逸話として、一心斎はいつも蓬の粉末を飲んで壮健さを保っていたという。
後の有名な創作として、中里介山の時代小説『大菩薩峠』の甲源一刀流の巻で、中村一心斎が試合の行司役として登場している。

成就寺正面 成就寺俯瞰地図

▲現在の成就寺と門石、木更津鳥瞰絵地図の成就寺 ※鳥瞰図は木更津駅前パネルより
昭和4年『千葉縣木更津町鳥瞰』の門にも一心斎の供養塔が描かれている。

満足山寶珠院成就寺 (まんぞくざん ほうじゅいん じょうじゅじ)
応永33年(1426)2月8日に日運上人により創建。
所在地:千葉県木更津市富士見1-9-17

■■不二心流と木更津「島屋」■■