上総・安房の歴史」カテゴリーアーカイブ

上総・安房(千葉県の中~南部)地域の歴史

大河内喜左衛門・幸左衛門の墓所

西小笹村の藍商喜左衛門・木更津村の島屋幸左衛門ら、縫殿三郎の主な親族の墓。

大河内喜左衛門安吉・豊子夫妻の墓
縫殿三郎・幸左衛門(幸芳)の両親。

伊藤喜左衛門安吉と母豊子の墓 大河内喜左衛門の墓

寶林院慈灮覺應居士
宝暦10年(1760)生。弘化4年(1847)10月30日、87歳で没。大河内喜左衛門安吉。
紫玉院悲峰貞應大姉
安政4年(1857)3月23日、88歳で没。豊子。

大河内喜左衛門 大河内喜左衛門明治二年伊藤ト改ム

江戸時代の大河内家の墓に「喜左衛門
近年の伊藤家の墓に「大河内喜左衛門 明治二年伊藤ト改ム
元々伊藤姓であったが領主から大の字を賜り大河内(河内は祖先為安の河内守から取ったと思われる)を名乗る。徳川義軍府(旧幕府脱走軍)に協力した木更津の大河内家について、西小笹村の喜左衛門宅にも佐倉藩の捜索があった。そのような騒動があってか再び伊藤に復姓した。

 

幕末の島屋当主大河内幸左衛門一郎
三千太郎の父親。木更津と、北海道の神居村に墓。

▼木更津の持宝院(現愛染院)
諦厳院大河内一郎の墓 芳讃湛義妙貞信

諦嚴院喜山明鏡居士
文久3年(1863)7月17日没。大河内一郎の墓。
芳讃湛義妙貞信女
慶応2年(1866)3月28日没。家族の女性。三千太郎の実母だろうか。

美香保丸難破後に伊庭八郎が頼ったとされる伊庭軍兵衛の門弟「大河内一郎」は官軍に抗って捕縛されていたとするが、三千太郎の父親の一郎は伊庭が最初に木更津村に上陸した時には既に亡くなっている。
尚、江戸の伊庭道場には三千太郎が入門したと伝わっている。※三千太郎については別記事で後日紹介

▼旭川の神居墓地 【2017年4月追記】
 
諦嚴院喜山明鏡居士 文久三年七月十七日亡」 俗名 大河内一郎
貞壽院夏光妙善大姉 大正二年八月四日亡」 俗名 伊藤くに

墓所の神居墓地(現旭川市神居町神岡)は明治40年に開設された。
大正2年(1913)8月に伊藤くにが亡くなった後、9月に大河内三千太郎が建立。

 

大河内三千太郎の妻なお
大田村の惣名主地曳新兵衛の娘で、17歳の若さで亡くなったとされる。

大河内道太郎の妻なをの墓 大河内道太郎の妻大田村地曳新兵衛娘

栄樹院直心妙了信女
慶応2年(1866)5月9日没。

因みに、地曳新兵衛の家から男子が下烏田村(木更津市下烏田)の諏訪家に養子に入り、その子が慶応4年戊辰の林忠崇の出陣時に病身で付き従い館山で命尽きた請西藩諏訪数馬

 

南町島屋で最後に生きた幸左衛門

最後の木更津島屋当主の幸左衛門墓 伊藤幸左衛門

盛光院三執願應居士
慶応4年(明治元年)8月24日没。家族と思われる伊藤幸左衛門の墓に共に眠る。

木更津村の明王山持宝院(現在愛染院に合併)の過去帳にも記載されている。
殿三郎の弟(幸芳)と家族の墓か。もしくは一郎が亡くなった後で義勇軍を率いて北行してしまった嫡子三千太郎の代りに、急遽幸左衛門の名を継いだ者かもしれない。すると伊庭八郎が頼ろうとし官軍に捕縛された大河内一郎がこの幸左衛門(新しい代の一郎)という見方もできる。

三千太郎は箱館戦争まで従軍し、放免後東京を経て北海道へ渡った。
大河内一郎(三千太郎の父)の後妻きたと、幸左衛門の次男(妻帯し分家)である常盤之助の一家は木更津村寺町に残ったが、明治8年3月の寺町大火で類焼してしまい、北海道へ転居した。

西小笹に移り伊藤に復姓した代の幸左衛門は、明治の合併で共興村となった際に助役となった。

■■不二心流と木更津「島屋」■■

※現在関係者個人の管理のものもあるため、当ブログへの問合せはご遠慮願います

不二心流中村一心斎碑文

地蔵院の中村一心斎碑文 不二心流中村一心斎碑の刻文

中村一心斎供養碑
不二心流開祖の中村一心斎が嘉永7年(1854)10月3日赤荻村(千葉県成田市)で没し善福寺に葬った後、一心斎が剣を教えた西小笹村(匝瑳市)地蔵院と木更津村(木更津市)成就寺に分骨し大河内家を中心に門人達が葬儀を行った。
慶応2年(1866)10月不二心流二世の大河内縫殿三郎(幸安)親族と門人達の連名で一心斎の供養碑が建立された。
地蔵院は大河内家祖先伊藤河内守為安の白い愛馬を祀った伊藤(大河内)家縁の堂宇である。

妙はその子に譲られすつき穂かな

中村一心斎肥之島原城之人也姓藤原字一知身長六尺二寸美髭三尺五寸清正公之後云々先生竹馬歳始學劒法不遊他技既而訪師于四方從問從學遂究諸流之淵原矣後来于東部入鈴木重明之門開教場於八町堀教育子弟二三千諸侯聞名重聘者多然而固辞不仕焉悠然貫適意其他周遊而欲貽術於天下以成言鍛錬之心忠孝旡二之志報國體旡窮之恩也北總漁村岩井石橋氏盡禮敬而迎先生吾兄弟共從事濤川氏向後氏又教育一日先生語曰剣法體用未得自然文政戌寅之夏登駿之富峰行氣断鹽穀食百草而禱祈一百日季秋二十六夜非睡非覺身心豁然有得焉夫吾心精一則天地心精一豈有二心哉於是新號不二心流爲師術之表吾兄弟事先生積年親猶子世故所得悉傳與因開鍛錬場而以教授千時安政甲寅十月二日卒埴生郡赤萩鵜澤氏行年七十又三也荼毘以葬此地謚淨念雲龍今當十三諱辰門人來會謀不朽亦欲後生不忘先生之得澤書大䊠于時慶応二年十月也

大河内幸安
同  芳安
同  安道

経年磨耗して判読し難いため『続日本武術神妙記』の「中村一心斎碑文」を引用した。

中村一心斎碑の大河内署名部分 中村一心斎門人者名大河内総三郎

▲表面の大河内幸安らの署名部分。裏面に大勢の門人名が刻まれている。
表と同様に門人名も一部消えかかっていて確証はつかめないが、大河内総三郎(不二心流三世・幸経)と阿三郎(不二心流四世・安吉)の名にも読める。

 

* * *

上記の日本武術神妙記が今年、正・続編を併せて安価で読み易くした(ここで引用した碑文の旧字も現代語に置き換えられている)文庫本が出版された。中村一心斎や他剣豪の言い伝えが纏められているのでお勧めしたい。
著者の中里介山(なかざとかいざん)は、甲源一刀流の巻で中村一心斎が登場する小説『大菩薩峠』の作者でもある。

角川ソフィア文庫『日本武術神妙記』中里介山著

■■不二心流と木更津「島屋」■■

【不二心流二代目】大河内縫殿三郎

不二心流大河内縫殿三郎の夫妻の墓所

大河内縫殿三郎と妻喜佐子の墓標
※現在は個人の方が管理しており撮影・WEB公開許可を得た墓碑のみ掲載しています。
 詳細を求める問合せはご遠慮下さい。

 

万延元年(1860)の『武術英名録』に不二心流二世の縫三郎(縫殿三郎)の名が記されている。幸左衛門と市郎(一郎)は弟親子で木更津島屋当主として島屋道場で不二心流の剣術を教えた。
冨士心流 上総国望陀郡木更津
     大河内 縫三郎
      同  幸左衛門
      同  市郎


大河内縫殿三郎藤原幸安
おおこうちぬいさぶろう。縫殿之助、縫之助とも。号は三朗。
寛政2年(1790)下総国小笹村で伊藤喜左衛門安吉の嫡子として生まれる。母は豊子。
後に地域の領主である旗本の菅沼氏から大の字を賜り大河内(河内は祖先為安の河内守から取ったと思われる)と姓を改めた。
妻は河津信行の娘、恵以子(のち喜佐子に改める)。

不二心流開祖中村一心斎門下一の剣の腕を持ち、一心斎の猶子となって正統二代目として文政年間に江戸八丁堀不二心流道場を継承した。

上総国望陀郡木更津の南町で弟の大河内幸左衛門藤原幸芳が営む紺屋島屋の敷地内と、八幡町の八劔八幡神社境内に道場をつくり、一心斎が木更津に隠棲している間共に指導にあたった。
縫殿三郎は周准郡富津村の代官森覚蔵(上総での任期1823~1840)管理下富津陣屋にも出向き、また請西藩士にも教授したという。
西小笹の実家の道場にも一心斎を招いて、上総・下総地域に広く不二心流を広めた。
慶応2年(1866)10月、嘉永7年に没した一心斎の碑を西小笹に建立

慶応4年(1868)戊辰戦争の幕開のこの年2月下旬に幕府撒兵隊の福田八郎右衛門の使者が大河内家を訪ねてきた。
勤王勢力に徹底抗戦する主張に高齢の縫殿三郎は静観したが、息子や甥達は撒兵隊に協力する意思を固めて義勇隊を結成する。縫殿三郎の「行先はめいどの花と思へども 雪の降るのに桜見物」の句を以って見送ることとなった。

戦後の明治2年(1869)に、戊辰戦争の義勇隊長を務めた三男の阿三郎(大河内正道)と上総武射(むさ)郡成東で再会を果たす。
明治4年(1871)6月24日に東京市芝区芝山内旧粟田口青蓮院宮入黒道役所(現東京都港区)内で没した。82歳。
駒込蓬莱町海蔵寺(かいぞうじ)に葬られ、成東元倡寺(がんしょうじ)にも分骨した。宝樹院成壇幸安居士。
死後20年後に飽富神社に奉献された不二心流振武社の奉額には縫之助の名で筆頭に記されている。

駒込大智山海蔵寺山門 大智山海蔵寺社殿
▲曹洞宗大智山海蔵寺
海蔵寺所在地:東京都文京区向丘2-25-10

 

尚、『函館戦争記』等複数の箱館戦争史料に従軍者として大河内三千太郎と共に記され戦死している「大河内縫殿三郎(縫之助)」は不二心流門人達の証言では誤記ではないかとされている。大河内一門で実際に義勇隊として戦った「大河内縫之進」のように似た名前の別人の誤記か、縫殿三郎幸安から継いだ通称かは不明。(現在調査中)

■■不二心流と木更津「島屋」■■

結城藩成東陣屋跡地

結城藩成東陣屋跡地 成東松風山福星寺

成東陣屋跡地と結城藩学館「興譲館」の置かれた松風山福星寺

 

■結城藩成東陣屋
元禄13年(1700)10月水野隠岐守勝長(かつなが)が能登国西谷(にしやち。石川県七尾市)1万石から下総国結城(茨城県結城市)へ移封となり、元禄16年(1703)までに上総国2郡内7715石余の領地をあわせ1万8千石を領した。
結城藩水野家は武射(むさ)郡成東村に上総国領を治めるための陣屋を、廃城となっていた成東城址の入道山東南麓に造営した。
面積1615坪、かつては堀及び土手があり、南側に門、西側に牢屋や蔵が建てられていたという。

幕末の第10代藩主水野日向守勝知(かつとも。第9代藩主勝任の養子、奥州二本松藩藩主丹羽長富の八男)は佐幕派であり、藩内で佐幕派と勤皇派が内紛を引き起こすこととなる。
慶応4年(1868)1月11日には佐幕派家老水野甚四郎の蟄居を実行し、3月1日に旧幕府軍に上野東叡山の警備と彰義隊の指揮役を命じられた勝知は承諾の意思があったが家老小場兵馬ら恭順派家臣の嘆願が幕府軍に聞き入れられて警備と指揮は免除となった。
更に恭順派が画策したのは隠居の水野摂津守勝進(かつゆき。勝知の義祖父。第8代藩主)を江戸藩邸に迎え入れて藩政を取り仕切らせ、禊之助(勝進の次男。後の勝寛)を新藩主にすることであった。
しかし勝知の元に、脱藩した水野甚四郎ら佐幕派が駆けつけ、勝知は「一水隊」を結成し、自らが隊長となった。
3月16日に勝知は彰義隊隊士と合わせて300名を率いて、本領の結城へ藩主自ら攻め込んだ。
25日結城城の戦いは勝知が勝利し、勝進と禊之助や係累の婦女は成東に避難して難を逃れた。勝進は成東に留まり家臣達は禊之の相続を進めるため尾張藩へ身を寄せさせた。
4月5日に結城城は官軍に攻められ、勝知は彰義隊に守られながら久保田河岸より船で逃れて成東に潜伏した。数日後に江戸に上り一水隊を再編成し上野寛永寺外、屏風坂の守備に当たったが、上野総攻撃を受ける直前に天野八郎(彰義隊頭取)の勧めで離脱し親元の二本松藩邸に身を潜めた。
5月20日に官軍の捜索で津藩に引き渡され9月10日鶴牧藩に預替。避難中の勝進と禊之助(勝寛)は新政府からの命で帰藩した。

明治2年(1869)2月24日14歳の水野勝寛が上総領千石減封の1万7000石で最後の結城藩主となり、勝知は7月4日に改めて二本松藩預となった。
6月版籍奉還で勝寛は結城藩知事となり、11月に成東陣屋の西に位置する福星寺に結城藩学館興譲館が開かれた。朱子学と武術を教え、武術は大河内阿三郎(不二心流四世大河内正道)が指導した。翌年に作られた勝寛の筆による興譲館扁額は市指定文化財。
明治4年(1871)7月14日に廃藩置県、11月に成東陣屋を廃した。
明治6年(1873)12月1日に勝寛が18歳の若さで死去、21日に勝進も57歳で亡くなっている。

所在地:千葉県山武市成東上町

参考図書
・『山武町史』
・『千葉県誌・下
・『成東町郷土史料集』
・『成東町史』
・『成東町志』
・『東海道先鋒記』
・小沢治郎左衛門『上総国町村誌
・『三百藩戊辰戦争辞典・上

成東元倡寺の不二心流剣道碑

元倡寺山門 元倡寺不二心流報国社の碑

庭賢山元倡寺(がんしょうじ)と不二心流の顕彰碑
明治時代に不二心流四世大河内正道が成東町(なるとう。山武市)天神山の元倡寺に「興譲館」道場を置き、弟の大河内四郎信明と共に指導した。後の昭和43年に不二心流六代土屋政太郎(まさたろう)安高と関係者一同が元倡寺の境内に顕彰碑を建立。

不二心流
 開祖中村一心斎は夙に十八流を究めたが文政元年霊峰富士に登り剋苦研鑚壹百日九月廿六日夜霊威を得て不二心流と稱し后(後)常総の間を遊歴してその技を傳えた。
 二代大河内縫殿三郎は君津郡木更津町・匝瑳郡西小笹村に、三代大河内宗三郎は君津郡祇園村・大寺村に道場を設けた。
 四代大河内正道は関東諸国に門派を広め后木更津町に隠退。明治二年結城藩主水野日向守が成東巡回の際召されて撃剣師範役となり元倡寺を興譲館道場とし弟四朗が主として教授に当った。明治十五年四朗死亡により成東に移り上町に道場を置き明治三十三年より大正四年迠(迄)成東中学校撃剣教師となった。
 五代伊庭兵二は昭和三年成東成東町に不二心館道場を建設した。同門の人々皆一致団結して斯道の興隆に務め昭和二十四年土屋政太郎六代を継承して今日に至った。これを以って山武君津匝瑳郡下には伊那なおその流を汲む者が特に多く斯道先覚者諸氏の献身的薫陶は郷党の道義髙揚に顕著な美績を残されている関係者一同は諸先生の遺徳を慕い年々法要を行って冥福を祈って来たがここに碑を建立して顕彰し一層の精進をお誓いする。
 昭和四十三年六月三十日 不二心流報国社
 題字 松本縫三郎、文並書 土屋政太郎

※当記事で句読点等を追加した

不二心流碑篆額 不二心流顕彰碑の発起人

 

庭賢山元倡禅寺
応安元年(1368)10月1日に臨済宗の具保禅師創開、南紀より椰樹の柱を携え来たと伝わる。宋国請来の阿弥陀仏像が本尊。
大永年間に成戸(成東)城主千葉利胤が梅月禅良和尚を招き曹洞宗に改める。
天正18年(1590)成東城落城時に伽藍を焼失し寛永10年(1632)東金代官野村彦太夫が檀家となり伽藍を再興した。(二代目野村彦太夫造立の九重塔は山武市指定文化財)
山武地域の農村で朱子学(上総道学)を広めた大儒稲葉黙斎(いなばもくさい)正信の墓所。

所在地:千葉県山武市成東2697

■■不二心流と木更津「島屋」■■