静岡県」カテゴリーアーカイブ

伊豆・駿河の歴史・史蹟

山中城跡と山中新田[1]

山中城跡公園 山中新田

▲山中城跡(やまなかじょうあと)と山中新田の道標
慶応4年(1868)5月、沼津藩下の香貫村林忠崇・遊撃隊らは待機していたが、東西での連携を企てていた彰義隊が上野で破れ、西の遊撃隊への警戒も次第に強まる中、人見勝太郎が旗下の第一軍を率いて箱根関門へ出陣する。
残る本隊も先鋒を追い三島を経て19日に箱根間近で要路にあたる豆州山中村に本営を構えたという。
伊庭八郎は箱根湯本に陣を構え、林忠崇は山中本営で箱根方面を睨みながら、同時に背後の三島方面からの沼津兵の進軍を警戒した。

山中新田は元和年間(江戸時代の初め)に成立した新田集落の一つで、三島宿と箱根宿の間の宿として茶店や旅籠が営まれた。※それまでは現在の元山中(関所跡の碑がある)が「山中」と呼ばれていた。

箱根旧街道 箱根旧街道の解説

箱根旧街道
箱根旧街道は慶長9年(1604)江戸幕府が整備した五街道の中で、江戸と京都を結ぶ一番の主要街道である東海道のうち、小田原宿と三島宿を結ぶ、標高845mの箱根峠を越える箱根八里(約32km)区間である。
旧街道には通行する人馬の保護のため松や杉並木が作られ、正確に道のりを示す一里塚が築かれた。またローム層上の滑りやすい道なので竹が敷かれたが、延宝8年(1680)頃には石畳の道に改修された。
平成6年度に三島市がこの腰巻地区約350m区間を復元整備した。発掘調査で石畳は付近で採掘したと思われる安山石を用いて幅2間(約3.6m)を基本とし基礎を造らずローム層上に敷き並べられ、道の両側の縁石は比較的大きめの石がほぼ直線状に配置されていたとみられる。

遊撃隊らもこの街道を経て出兵、そして5月26日の山崎の戦の追撃を受けることとなる。

富士山に臨む山中城 三島市街と駿河湾方面

▲西ノ丸付近は標高580mで、富士山、愛宕山、そして三島市街と駿河湾を見渡せる。
戊辰戦争から時代は遡って戦国時代の山中城は箱根山の地形を利用し、北条の出城の徳倉城・獅子浜城・泉城、そして豊臣軍の北条征伐に耐えた韮山城を俯瞰できる位置に築城した。

 

史蹟山中城
山中城は小田原に本城を置いた後北条氏により戦国時代末期の永禄年間(1560年代)小田原防備のために創築された。
天正17年(1589)10月に北條氏直により修築が行われ、豊臣秀吉の小田原征伐に備えて西の丸や岱崎出丸等の増築が始まった。
しかし翌年天正18年(1590)3月29日に増築が未完成のまま、豊臣軍4万の総攻撃を受けた。
羽柴秀次が中村一氏、田中吉政、堀尾吉直(吉晴、)山内一豊、一柳直末等を率いて包囲し、家康を小田原口の先鋒として元山中の間道より進軍させた。
必死の防戦も約17倍の人数には適わず、北條氏勝は相模玉縄城に逃れ、山中城はわずか半日で落城したと伝えられる。
この時の北条方の守将松田康長(まつだやすなが)・副将間宮康俊(まみややすとし)の、豊臣方の一柳直末等の武将の墓は今も三の丸跡の宗閑寺に苔むしている。

三島市が公園化を企画し、昭和48年から全面発掘に踏み切り山城の規模・遺構が明らかになった。特に掘や土塁の構築法、尾根を区切る曲輪(くるわ)の造成法、架橋や土橋の配置、曲輪相互間の連絡道等の自然の地形を巧みに取り入れた縄張りの妙味と、空堀(からぼり)・水掘(みずぼり)・用水池・井戸等、山城の宿命である飲料水の確保に意を注いだことや、石を使わない山城の最期の姿を留めている点等、学術的にも貴重な資料を提供している。

 

載せきれないのでまず山中城の特徴の畝掘(うねぼり)・障子掘(しょうじぼり)を中心に…

西櫓掘 西ノ丸畝掘から曲輪

▲西櫓掘(にしやぐらぼり)と、西ノ丸畝掘から曲輪の様子
西ノ丸の畝掘は五本の畝により区画され、畝の高さは堀底から約2m、更に西ノ丸の曲輪に入るには9m近くもよじ登らなければならない。
ローム層を台形に掘り残しほぼ9m間隔に8本の畝が堀の方向に直角に作られている。畝の傾斜度は50~60度と非常に急峻で平均した掘底の幅は2.4m、中央の長狭9.4m、頂部の幅は約0.6mで丸みを帯びている。
西ノ丸掘は「北条流掘障子」の変形でより複雑に谷に連なっている。
現在は遺構保護の為に芝や樹木を植林しているが、当時は滑りやすいローム層が露出しており、人が落ちれば脱出不可能であったと推測される。

西ノ丸畝掘 西ノ丸掘

後北條の城独自の特徴「障子掘」は、障子のように堀の中を区画して畝を掘り残されている。中央区画には水が湧き出て南北の堀へ排出され、水掘と用水池を兼ねた珍しい構造である。

元西櫓下の堀 三の丸掘 山中城跡案内板

▲元西櫓下の堀、三ノ丸掘
三ノ丸掘は、自然地形を加工して作る他の曲輪掘とは異なり自然の谷を利用した二重掘で、長さ約180m、最大幅約30m、深さ約8m。中央の畝を境に西側の堀は空堀として活用していた。

掛橋のある二の丸虎 箱井戸跡 田尻の池

▲左写真の二ノ丸(北条丸)虎口から降りた湿地帯に在った箱井戸と田尻の池
三ノ丸掘東側の堀は水路として箱井戸・田尻の池からの排水を処理した。高地の箱井戸から広い田尻の池(約148m²、馬用の飲み水として使われたようだ)へ水を落すことにより水の腐敗や鉄分による変色を防いだと思われ、用水地として工夫がなされている。
箱井戸・本丸の間の下った場所が現在の山中新田の地域。

山中の芝切地蔵尊 山中城跡縄張りと案内図

▲かつての旧箱根街道沿いに在る芝切地蔵(しばきりじぞう)
山中新田の旅籠に泊まった巡礼姿の旅人が急な腹痛をおこして死に際に、この旅人の故郷の常陸が見えるように芝塚を積んで地蔵尊として祭れば村人の健康を守りましょうと遺言を残したという。村人はその通りに地蔵尊を祭り毎年7月1日を縁日として供養した。
縁日に出された腹掛けや参拝者の接待用の「小麦まんじゅう」が美味しいと評判になり、沼津方面からも参拝者が集まり山中村が潤ったといわれる。
山中城跡の案内図は右側が北。

饅頭ではないが、現在は観光案内所売店の「寒ざらし団子」が名物になっている。
上新粉を冬場の寒気にさらして作ったことによるネーミングだ。
表面はシャクシャクと歯ごたえがあり、蓬の風味と合っている。じっくり温めたタレをかけた焼団子を寒空の下食べると殊更美味だった。

山中城跡公園(国指定史跡・日本100名城選定)
所在地:静岡県三島市山中新田、田方郡函南町字城山

霊山寺-遊撃隊が滞在

沼津略絵図 霊山寺

霊山寺(りょうぜんじ)と寺所有の沼津略絵図
「カヌキ山」麓の絵図。境界に狩野川霊山寺の寺域は千三百七十坪で現代も広い敷地を持つ。
慶応4年(1868)5月5日~18日まで遊撃隊・林忠崇と請西兵等諸藩脱走兵は香貫村(かんき、かぬき。駿東部)霊山寺と付近の農家4、5軒に滞在した。

それより先の閏4月15日に一行は韮山へ着き韮山代官所に協力を求めた。沼津藩は隊士達を御殿場に待機させ、その後隊士達は旧幕臣の山岡鉄太郎(鉄舟)らの説得に対し新政府の総督府に差出す上意の返事を甲府で待つことを取り決めた。
約束の期日に返事は来ず再度説得が行われ、旧幕臣の使者の顔をたてて沼津城下最寄りの香貫村でひとまず謹慎となる。
謹慎中は沼津藩の監視下におかれ、警固にあたる非常組(沼津藩主水野忠敬は甲府城代に任命されており、甲州警備に兵力を割いたため沼津守備のために増員した農兵。後に「常整隊」として訓練を受ける)が厳重に旧幕府脱走兵達を警戒したという。
霊山寺山門 霊山寺の梵鐘

▲山門と梵鐘
霊山寺は「れいざんじ」の通称で呼ばれる曹洞宗永平寺派の寺。
はじめ真言宗であったが弘治3年(1557)機外永宜和尚が中興開山し曹洞宗に改宗した。
向かって右の「不許葷酒入山門」は生臭(ネギ類などの臭い野菜「葷」や肉)を食らい飲酒した者は立ち入りを禁ずるという仏教的な意味。
梵鐘は貞治3年(1364)府中見付の蓮光寺に奉納との銘があり県文化財。

霊山寺のある本郷町は上香貫の中住町・黒瀬町・住吉町等の一部がまとまった地域で、昔は上香町の本村(もとむら)であったため本郷の名になったとも伝わる。
上香貫村は後に合併して楊原村になり、更に大正12年の沼津町との合併で沼津市が誕生した。

兜率林霊山寺
所在地:静岡県沼津市本郷町25-37

参考図書:『新風土記』
参考サイト:沼津市HP http://www.city.numazu.shizuoka.jp/