▲江原素六(えばらそろく)の肖像と沼津市明治史料館の胸像
江原家の祖は慶長年間に参州(三河)幡豆(はず)郡江原村に住み、覚左衛門は年少黒鍬に召し出され家康の入府に従い江戸に来て村名から江原の苗字を許された。覚左衛門より8代を経た9代目が江原素六とされる。
■江原素六の生立ち
天保13年正月29日(1842年3月10日)に、江戸角筈五十人町(東京府豊多摩郡淀橋町角筈角筈五十人町817番地、現在の新宿駅の北西)に江原源吾(始め帯刀)の長男として素六が生まれる。幼名は鋳三郎(いさぶろう)。
源吾は幕府の小普請組津田美濃守配下。食禄一カ年金七両一人扶持(玄米四十俵)で、祖父の源左衛門・父源吾・母のろく・鋳三郎・弟の義次と銀蔵・妹のますの7人で暮す。
生活は困窮したが両親は泣き言を言わず借金もせず厳格であったため、鋳三郎も欲が薄かったという。
※清貧を強調した部分は伝記の着色として実際と異なるとされる
■8歳で初めて寺子屋へ通う
8歳の正月から寺子屋に通う。伯父の小野鼎之助(ていのすけ)が鋳三郎に手習いをさせようと机を下男に担がせ文具を揃え束修二百文を持たせたという。
その年の暮れから翌年1月15日頃まで、牛込雉子谷町に住む大伯母で徳川家斉将軍の奥に勤めていた願生院(がんしょういん)の所で年始客を迎える手伝いをし一疋(25銭)の報酬を得ることができた。これは14才まで続き、言葉遣いや行儀作法も薫陶された。
鋳三郎は寺子屋から帰ると親の内職の房楊枝の光沢付けを手伝い、百本磨くと4文の青銭を貰い、筆や墨、寺子屋の謝儀にあてた。
嘉永5年(1852)2月、11歳の時に四谷蕎麦屋横丁(愛住町)に移転し、幕臣池谷(いけのや、池田)福五郎に入門する。
隣席の安藤という者が大学を教わるのを傍らで聞いていただけで、その一冊を覚えてしまったので、池谷先生は素読を勧めたが、学問嫌いな父源吾は息子が本を読むことを認めなかった。
そこで先生が「鋳三(いさ)さんはきっと読めば覚える質だから教えたい」本は貸すし月謝も不要だと親切に説得に来たが、源吾は人の子を出来る出来ないと批評するとは無礼だと怒ってしまう。当時は子供を叱る時に折檻も行われ最悪勘当をされる恐れもあり鋳三郎が怯えて身を縮めていたその時、池谷夫人が浴びせられた小言や悪口に対して平身低頭して謝り滔々と説得したので、素読を教わることを許された。
15歳で四書五経の素読を済ませた鋳三郎は安政3年(1856)9月21日に幕府の規則により昌平黌の素読吟味の試験を受けて及第し、賞与として丹後縞三反を拝領した。
妹ますもこの池谷夫人に糸を紡ぐことを教わり、女ながら月に五、六十銭は稼ぐことができた。
12月に伯父の大澤が烏帽子親になって元服し、赤飯を炊いて前髪を剃り落した。
源吾は大人になったからには自活しろと命じられたが、それは鋳三郎も考えていたことだった。
安政4年(1857)の正月4日から自分で房楊枝を拵え、夜間に小さな脇差を見えないように頬被りをして新宿の小間物屋の店を「楊枝は宣(よ)いか楊枝は宣いか」と言って売り歩いた。
普通は楊枝を百本束ねる時に悪品を良品で囲んで売られていたのを、鋳三郎はきちんと品質ごとに分けたので客に喜ばれ、月に一円二、三十銭を稼いだ。
楊枝の原料は日本橋の西河岸で米俵大のものを二把買い、人足を使う運賃1銭を節約するため暗くなるのを待って刀の大小に結んで背負って愛住町まで帰った。帰途の九段坂上の齋藤弥九郎の神道無念流道場「練兵館」の下の1つ八文の稲荷寿司の出店へ寄った所を運悪く源吾に目撃され、武士の子にあるまじき買い食いに対して往来で鉄拳制裁をくらう逸話もある。鋳三郎にしてみれば人足まがいの仕入れ中のことであったが、普段は庇ってくれる母にも叱られ、侍の体面を保つ重要さを実感し心を入れ直したという。
母方の祖母すみ子は鋳三郎が本を求められないことを聞き聞き妹婿の浅野従兵衛の元へやった。浅野は鋳三郎の聡明さを気に入って豊富な書庫を開放する。
浅野のお蔭で鋳三郎は更に小野久弥、関根良助、高橋三十郎、星野格次郎、松平謹次郎等に洋書及び洋式練兵を学ぶことができるようになった。
一方、相変わらず源吾は家で勉強をさせなかったが、鋳三郎は夜十時に親が寝てから軒下の盆燈籠の下に毎晩立って漢書を読み続けた。
この頃に青山の左京大夫邸の出火が広がり江原家も全焼してしまうが、預かっていたブツキシーの原本は責任感から穴に埋めてあったため無事だった。
剣術は習う機会がなかったので、重い木刀を拵えて鍛錬と暖を取ることも兼ねて寝る前に数百振っていたが、浅野は鋳三郎を斎藤弥九郎の道場に入らせ、後の渡辺昇が塾頭として立ち会い免許を得た。
免許を与えた時の習わしで師に酒を馳走になり、鋳三郎は初めて飲酒した。ここで腰が立たなくなるまで飲み、しかし酒には強いようですぐに立ち上がることができたため、以降家では飲まないが友人と飲酒をする事を覚えたのは後悔していると自伝で語っている。
安政5年(1858)に流行した虎列拉(コレラ)を家族が患い同じ蚊帳の中で看病し、四谷伝馬町萬新で1粒一分の金匱救命丸を買って飲ませた。家族は半分だけ飲み半分を後に備えて残したが、幸い回復した。
■18歳で横浜の番兵、22歳で講武所の教授方となる
浅野を介して幕府旗本の深津摂津守弥左衛門(ふかつやざえもん)に従うようになり、深津は攘夷志士から外国人を護るために横浜に置かれた番兵を斡旋した。
兵士となった鋳三郎は横浜に半月駐在し1日に二朱(12銭5厘)の給料を得て内職から解放され、半月は東京で勉強をした。
給料はそっくり親に渡し、幾らかを分けて貰っていたのを貯めて、妹の衣服を拵えたりもした。
外国のことを気にかけた鋳三郎は互国条約書を写して持っていたため、安藤太郎の父で医者の文澤(ぶんたく)ら年配の知人が多かった。
また村田蔵六(大村兵部大輔)が訳した歩兵操練所の原書を読み始めると、両親や漢学の友人は蘭書を読むことを咎めたが気にせず勉強を続けた。
文久元年(1861)12月22日、幕府の兵学校にあたる講武所の砲術世話心得となる。
その後、横浜に警備兵が組織されて有志者の番兵は廃されたため、和蘭書の筆耕を始めて食い繋いだ。
文久2年(1862)9月25日に講武所の砲術教授方となり二十人扶持(月3石の米の給与)となる。
体を酷使して患うが、この給与のお蔭で薬を得て半年で回復出来た。
病が癒えると佐久間象山の塾に入りたいと思い、象山が京都で殺害された後を引き受けた松代藩の有河賢之助の塾に入るが、幕府の講武所の名誉ある教授が藩士の私塾に入ることは体面を汚すと周囲から散々非難を受けた。
鋳三郎は今まで塾費が払えなかったから入塾しなかったまでで、非難を退けて塾から講武所へ通った。
■撒兵隊長、歩兵指図役頭取となる
慶応元年(1865)長州征伐のため将軍徳川家茂の上洛準備として4月21日に幕府軍の大調練が行われ斡旋の任にあたる。
組織改正で講武所が廃され、鋳三郎は撒兵隊(さんぺいたい)長となった。
当時の兵制は一大隊が五中隊から成り、その内の偵察・伝令・哨兵・番兵の任にあたる一中隊を撒兵隊と称した。
5月6日に家茂の御供の先発隊として一個中隊を率いて東海道より美濃路を進み22日に京都に着く。当時慶喜の宿所の桑名屋敷守護に任にあたった。
大坂から芸州広島・備後三次、石州大森、出雲石見等を巡察して大坂に帰る。
その頃に鋳三郎は自分の兵を一中隊率いると共に幕府の兵隊に西洋流の練兵を教えていたが、幕府の者の西洋砲術の認識は幼稚であったと回想している。
11月に大坂を発ち江戸に戻るが、出張中は手当が出るため教授方の給料は使わずにいたのを、弟の義次が親を唆して蓄えを全て使い込んでいた。以後も賢い弟の出費を賄うのに苦労することとなる。
慶応2年(1866)12月に歩兵指図役並を命じられる。
慶応3年(1867)歩兵中隊の指揮官として再び上洛し、任地で歩兵指図役頭取(歩兵大尉相当)となった。
京都に滞在中は主松平容保から依頼を受けて会津藩士族の歩兵・兵法の練兵を教授した。
元々身分が低かった鋳三郎は乗馬経験がなかったため代わりに馬術を教わった。
熟練したつもりであったが、会津藩士が大隊長、鋳三郎が連隊長として連隊操練を行う際に強引に馬を借りたものの馬を操れず、結局大隊長のみ乗馬し鋳三郎は徒歩で号令することになった。
普段は鋳三郎に合わせて乗りやすい馬に乗せて貰っていたと気付いて、恥じるよりも一層熱心に鍛錬を積むことを決意する。
翌年に兵は江戸に帰還したが、鋳三郎は上方で兵乱が起こるのを危惧して京の残留を望み、連隊長の深津摂津守に懇願した。
残留は叶ったものの鋳三郎の思慮は周囲者には理解されずに昇進のためだと誤解され悔しい思いをした。
11月に慶喜は大政を返上し、12月に再び京へ出立し、大坂へ下った。
兵を持たずに取り残された鋳三郎が伏見にまわるとフランス皇帝ナポレオン三世から幕府に献納されたナポレオン大砲二門が捨ててあるのを見て、日本の武士の体面に関わるものとして大坂へ運ぼうとした。
付近は薩長の兵が充満し、大砲の砲身が車台から外れており一人では動かせずにいると、新門辰五郎(しんもんたつごろう。江戸の侠客で二条城の警備を任されていた)の乾兒(こぶん、手下)達が通りがかって手伝い、無事に淀まで曳き、大坂に持って行った。
12月末日に慶喜は上洛を薦められ京へ向かうが、慶応4年(1868)正月に鳥羽・伏見の戦が勃発。
幕府方の連敗で、官軍が大坂へ迫るのを危惧した鋳三郎は大坂城で陸軍奉行の藤堂肥後守に面会し砲一座と歩兵一中隊を借り受けた。守口に砲座胸障を築いて備えたが、慶喜は1日になって引き揚げてしまう。
鋳三郎は大坂城に戻って兵を纏め泉州の堺に向かい、小銃の音を聞くと兵に弾込めと整列をさせ速やかに紀州路に抜けた。途中空腹と披露が重なって寝ている隙に軍資金を盗まれる失態もあったが、紀州に着いても幕府兵の姿は見えないので、城下で一番大きな旅籠に泊まり「砲兵差図役頭取江原鋳三郎」と松板に書いて表に掲げると、逃げそこなって潜んでいた人が集まって来た。
騒ぎによって新政府から嫌疑をかけられることを恐れた紀州藩の使者に、鋳三郎は自身の切腹覚悟で兵士達を江戸に送るための取り計らいを強談した。交渉により立退き金ともいえる一千両の大金を貰い受けて(千石積の船持は千両と決まっていたので丁度の金額を申し出るという駆け引きが成功したと言える)、和歌山を出航出来た。
途中で幕府艦に出会ったら半額の500両を返すよう船頭と交渉した上で、紀州の橋杭港に停泊中に汽船の「迅動丸」に乗移り、品川へ着いた。
兵士を労うために海月楼で酒肴の用意をして迅動丸に戻ると、京阪で抱えた兵士しか居らず、江戸士族は直ちに家族に会いに帰ったことを知って人情を痛感した。
500両を受取に船宿へ向かった所、既に彰義隊の軍資金として上野に送らたという。
■撒兵隊頭並となる
3月1日、鋳三郎は撒兵隊頭並(さんぺいたいかしらなみ。明治の少佐相当)となる。
この撒兵隊は前年に隊長となって引率した撒兵隊ではなく、初め御持小筒役と称した銃隊である。
頑固で交際を嫌い、息子が友達を同行しているのを見るや往来を二人で並んで歩くなと打擲するような父源吾は、昇進を目出度いともせず友人に通知することも許さなかったが、伯父の小野が、甥が芙蓉の間の役に就いたと非常に喜んで訪ねてきた。
天井も何もない六畳一室と一坪半の土間だけの小さい家ゆえに奥で寝ていた鋳三郎の耳にも会話が筒抜けで、謙遜していた源吾も酒を飲まないのだけは取り得だと珍しく褒めたので、外で酒を嗜んでいる鋳三郎にとって可笑しくあり親の情に触れた瞬間でもあった。
撒兵隊頭並の五人のうち、新参ほど悪い隊を宛がわれる習いであったが、籤引きで決めるように申し出て、良い隊を受持つことが出来た。鋳三郎は他の上官が無下にしていた建白書にも目を通し、中でも良い文を書き字も上手い古川善助(善次郎、陸軍中将古川宣譽)を呼んで人格者とみて直ちに抜擢した。
東征大総督軍が東海道を下ってくると幕府陸軍では謹慎か抗戦かという今更な協議を始めたが、戦を避ける意志を見せるものなら臆病としてその場で斬るような空気が流れたため、非戦論者の鋳三郎は人に斬られる前に菩提所で自刃するつもりで、恩顧の深津摂津守に暇乞いをする。
先輩である攻玉舎の学者近藤誠(真琴)にも別れを告げにと四谷内藤町の藩邸を訪ねたが留守であったため机上の紙に「慷慨就死易、從容就死難(こうがいしにつくはやすく、しょうようしにつくはがたし)」と書いて去った所に後ろから、君死んではいけぬと近藤が駆けつけて思いとどまらせた。
江戸において慶喜が東叡山に謹慎し、会津藩も恭順の意を示していたが、江原家に会津藩士の林三郎が肥後藩の益田参謀を伴って訪れ、官軍も懸念している撒兵隊に軽挙暴動を起こさないように留める役を頼む。鋳三郎は役目を引き受け、幕府は4月には鋳三郎を撒兵頭(大佐相当)に昇進させている。
■撒兵隊が木更津に脱走、市川・船橋戦争
鋳三郎は撒兵隊の屯所である西丸下の広場に兵を集め、軽挙暴動をしないと契約させた。
しかし官軍の機嫌をとる挙動に疑問をもった者が、江原の命令であると吹き込んで兵を動かしてしまう。
4月10日に撒兵隊長の福田八郎右衛門が撒兵隊を率いて脱走した。
霊岸島(れいがんじま。現在の東京都中央区内新川)から船に乗り、11日午後に寒川(千葉)に上陸し、上総八幡村に散宿する。12日に姉ヶ崎に至り、福田は総員2千名の兵を纏めて官軍の背後を衝く狙いで木更津に駐屯し「徳川義軍府」の標札を掲げた。長須賀の泉著寺(選擇寺の誤記か)を本営とし(本営の場所は選擇寺・染物屋島屋等諸説あり)上総国木更津本営義軍府とする。
福田を総督、会津藩広沢富三郎を参謀、庄内藩木崎定之丞を軍監とし久留里藩に檄文を発した。
鋳三郎も大佐を辞職して撒兵隊を統制するために上総へ向かった。
木更津で鋳三郎は米屋「米伝」に泊まっていたとも伝わっている。
撒兵隊を兵達は真面目に警備する様子もなく、いかにも狼藉千万であったために、鋳三郎はそれぞれに兵を配置して整理し、小藩と談判するように運んんで、今は官軍に手出しをしてはならないと注意した。
17日に要害に欠ける木更津から連絡の近い市川・八幡方面に兵を移すため鋳三郎が第一大隊を率いて先鋒として船橋に進み、第二・第三大隊が続く。
第四・第五大隊は木更津に留まり、真里谷に滞陣した。福田が請西藩藩主林忠崇に協力を求めるため請西を訪れている。
18日に第一大隊が中山法華経寺に入る。
官軍に攻撃の意志が見えたため、上総方面の参謀長である徳島藩士の林徹之丞(立木兼善/たちきかねよし)と交渉し無条件で膠着状態を保った。
それも長くはもたずに閏4月3日の早朝に官軍先方隊が動き、蜂須賀勢と共に八幡の東に迫った。戦が始まる。官軍側からの攻撃にまず撒兵隊が勝利し、市川の渡まで追い詰めると藤堂兵が大砲を火門針も打込まないまま置き捨てて撤退した。大砲の勝手を知っている鋳三郎は撃鉄類は弾薬箱に入っているとみて組立て、刀の下緒でウレーシングパイプを取って敵側の鉄炮で見事に敵を砲撃した。
無闇な深追いは避けて八幡の船橋へ兵を集中させようとしたが、第二大隊が船橋で敗れて潰走していたため、仕方なく隊伍を纏めて船橋街道に出て、銚子から水戸に渡ろうと進路を変更した。
途中、二俣村海神村に転戦する矢野安太郎率いる一隊と撃ち合いになり、突貫してきた久留米藩士小室弥四郎に組み伏せられたが、すぐに駆けつけた指図役の古川善助に鉄炮の台尻で背中を打たせて命拾いをした。
駆けつけてきた味方兵が小室の頭を斬りつけたが、小室が動いたので兵は驚いて逃げてしまった。小室は九州武士らしく自ら切腹しようとしたのだが、力が入らない様を見て古川が介錯をしてやった。
そこへ筑前兵が隊長の仇だと盛んに銃撃を浴びせ、鋳三郎は左足に三発の弾丸を受けてしまう。鋳三郎の傍に味方兵が集まるのを避けて、古川と少人数で浅間神社境内の山林に運ばせた。
山野台に潜行し百姓家に従者二人で入り、他の兵は野営し4日未明に佐倉街道へ向かった。
動けない鋳三郎は握り飯と共に長持の中に入れて蛇沼まで背負い、空気が入るよう蓋に石を挟んだ上で雑林の畦道に埋めておくと、官軍に見付けられずにやり過ごせた。
数日後に捜索が打ち切られると、村人が家に運んでくれたが、夏であったため腐敗した傷を見ると手の施しようがないので去っていった。
鋳三郎は和蘭の医書の外科の項を読んでいたため、自分で膿を搾って綿撒糸(めんさっし、手術後の傷口に宛がう綿布)を拵え包帯をしていたが股を打ち抜かれた所などは酷く化膿していた。
辛抱強く回復を待ち、多少動けるようになった5月16日の未明に下り船を頼んで新場から牛込の揚場に着き暗に紛れて籠に乗って愛住町の実家へ戻った。
■潜伏、駿河へ脱走し水野泡三郎と名乗る
家族を巻き込まないように、潜伏先の石井至凝宅(後の永田町の大蔵省官舎付近)へ向かった籠が途中の市谷で捜査にかかったが、尾州士官が知人であったため見逃して貰えた。
石井宅も安全ではないと外へ出た翌日に佳作捜索を受けたため、ここでも災厄を逃れた。
江原宅に年俸千円のうち1ヶ月間の給料を会計課が五十円を差し引いて届けられた。
差し引かれたのは上総方面に出つ際に受け取っていた分で、負傷して長持に入れられる際に、もう助からないと思い律義に官金を返そうと下僕の小三郎に江戸へ行くよう託したものが、会計課に届いていない…つまり小三郎がくすねたことを示していた。
そして不意に小三郎が訪ねてきて、鋳三郎が生きてきることに狼狽した。悪事を覆うために官軍へ密告されるわけにはいかず、機嫌をとるために自分はこの先どうなるか分からないからと暇を出して彼の故郷の甲州に帰る資金として20円を渡した。
その後小三郎は笹子峠を通る時に官軍に捕えられて50円と20円を奪われたあげくに首を刎ねられてしまったという。
杖無しで歩けるまで回復する頃に、阿部邦之助(潜/ひそむ)が来訪し芝の浜御殿へ榎本釜次郎(武揚)との会合に招かれた。鋳三郎が尊敬する榎本は彼が率いる旧幕府艦隊で函館に渡ることを企てており、鋳三郎の兵を誘ったのである。
しかし鋳三郎は函館行きを断わり、幼年の徳川家達(いえさと。田安亀之助)をもって70万石で徳川家が移封された駿河(静岡県)へ行くことを選んだ。
駿河移住の陸軍関係者は陸軍頭服部綾雄が統率し、まず大筒組・小筒組等を集めて三大体に分けた。9月にアメリカ人の所有するニューヨーク号を三百両で賃借し「都」丸と名付けて乗船させ品川を出航する。
時化に遭いながらも伊豆の下田に入港する。次に阿良連(あられ)港に潜伏し、風が弱まると漁船に乗って駿河の清水に着く。小夜の中山を越え、そして駿河の藤枝の在に仮住みをすることとなった。
やがて東京の友人から「江原が小野三介の偽名で藤枝に居る」と捜索が出ていることを知らされ、急いで伝手のある伊豆の韮山へ移ることにした。
沼津辺りに来た時に沼津領主の水野の名を借りて、徳川家康が詠んだ「吹けば行き吹かねば行かぬ浮雲の風に任かする身こそ安けれ」の歌から水野浮雲と偽名を考え付くが、知人の水野痴雲と似てしまうので、自分の生命のあやうさを水の泡にたとえて「水野泡三郎」とした。
伊豆に至る前に知人と会って駿河駿東郡中泉字竹原の大沼嘉右得衛門宅に潜伏する。
■静岡藩の少参事となり、沼津兵学校を設立する
やがて藩庁から呼出があり、有度郡吉川村の藤棚に初めての野宿をし、静岡に向かう。
その頃、函館を目指して出航した旧幕府艦隊のうち銚子沖で難破した美加保丸の乗組員が捕えられ静岡の牢に入れられていたが武士の命の刀を取られることを拒んだ高野という男が、刀と持って謹慎したいと申し出るや否や役人に斬り捨てられてしまったという。脱走人の扱いの惨さに、鋳三郎は宿代や飲食いに使わずに保管しておいた30円を全て見舞金に宛てている。
そうした殺伐な状況下で鋳三郎が呼ばれた用件は役人として従事せよとの太政官からの達しであった。
8月に駿河府中藩(駿府藩。後に静岡藩に改称)の少参事に任ぜられ、この時から公に江原素六を名乗る。
しばらくは沼津城内の友人の家に寓居して沼津方面の治政に携った。
素六は維新前から陸軍の発展のために士官に学問が必要と考えていたので、江戸で同じ志を持っていた陸軍頭の阿部邦之助(潜)と共に藩に働きかけ、沼津に初めてヨーロッパ流の兵学校が設立された。日本の組織的学校の元祖である。
明治2年(1869)正月8日に静岡藩の陸軍局を母体に沼津兵学校が開校。
沼津藩主の居城であった沼津城の二の丸御殿を校舎として、初代頭取(学校長)は石州津和野藩士の西周(文久2年に榎本武揚と共にオランダ留学し慶応3年に帰国)。
西周と共に留学した赤松大二郎(則良)、塚本桓輔(明毅)等、優秀な教授を招聘し英学、仏学、算術は微分積分まで、そして体操もしくは図画(写生や製図技術)、剣術、乗馬、練兵、水泳というあらゆる学科をそなえた。
そして附属小学校として本郷小学校の元祖……従来は四書五経、寺子屋では名頭、国盡しを読ませる時代に、体操や算術や絵を描かせ本も読ませるという新しい小学校も設けた。
兵学校進学を希望しない童生も入学でき、農民・町民にも開放された。
3月17には沼津西ノ条に兵学校の附属病院で陸軍軍医を養成する「陸軍医局」が開業する。病院頭取は杉田玄瑞(杉田玄白の孫)、御用重立取扱は林梅仙(洞海)とした。
その後、静岡藩は医療分野を静岡病院が掌握する方針をとり、陸軍管轄を離れ、8月に「沼津病院」に改称。
医学教育だけでなく一般にも開放し、薬代のみで診察料は無料なため地元に大きな恩恵を与えた。
兵学校では入学時に体格検査を導入するなど、先進的な校則に対して迫害もあった。
士族三千人の教育を藩庁から一任されている阿部と江原の専断が幼年の君公の失態になりかねないとして暗殺を企てられた。それを阿部達に伝えた大柳内龍太郎の首が見せしめに届いたこともあった。
学校に刀懸けも下駄もない、廃刀と靴履きを理想として、士族の子弟のうち器用な者を横浜に靴製造の修行に出したが、昔は穢多が扱っていた皮加工を士族にさせることに外部が騒いだが、構わずに遣って成功して帰り、後に陸軍の靴の製造長となった。
また余った運営費で銀行を建てて運輸や為替を取り扱い、廃藩置県後も兵学校を維持できるよう構想を練ったが、士族が商業を営むのは体面に関わるから閉店せよと朝廷から命じられてしまった。
6月20日に駿府が静岡と改められる。藩政改革で陸軍局は軍事掛に改称する。
■海外視察と兵学校閉校、議員選出と数々の事業
素六は沼津の北西の坦道約一里、愛鷹山麓の西熊堂村(金岡村)に住居を定めて両親を迎え定住した。
明治3年(1870)11月に太政官より各藩に海外視察員選抜の内命が下る。静岡藩庁は素六と相原安次郎を指名し長田銈太郎を随行員とした。
明治4年4月8日にシティー・オブ・ペキン号で30名が横浜を出港しアメリカに渡った。桑港(サンフランシスコ)に上陸し紐育(ニューヨーク)に赴き、一行は英国リバプールに向かうが、和蘭語を習得し英語が未熟であった素六と二、三人の有志は修養のため紐育に残った。
明治4年(1871)12月25日に海外視察から帰国する。
帰国前の7月に、廃藩置県により沼津兵学校は政府の陸軍管轄となってしまっていた。
明治5年(1872)2月に31歳で幕臣川村順次郎の娘、縫子と結婚する。
5月に兵学校は東京の陸軍兵学寮に組み込まれて移転を命じられ、閉校となった。
沼津病院には杉田らの努力で会社病院として継続する。
前途を失った士族のために11月に愛鷹山麓に牧場を開き、肉食の広まりに応じ外国産の牛と交配させた雑種を育てた。純良のシヨルトホーン牡牛を提供した横浜の米人スミス氏に同じ毛色の馬を馬車用に贈る。
しかし疫病や火災の苦難を乗り越えてきた牧場経営も、肉食推奨を問題視されて明治11年に朝廷から廃牧を命じられてしまう。
なお廃牧後に牛を預けた農家では自然交尾で駿牛から良い馬が生まれて喜び、雑種の利益を知り、改良の良い結果をもたらすことになった。
明治6年(1873)正月に海外視察の知識によって附属小学校を改造して新しく公立小学「集成舎」を創立。科目に英語科を設けて外国人教師を高額で雇った。
6月10日に長男帯一が生まれる。
明治8年(1875)に静岡師範学校長になるが明治9年1月に依願免職。
6月15日に長女なつ子(福井菊三郎夫人)が生まれる。
12月に県会議委員に静岡県第一区より公選する。
明治9年(1876)8月に集成舎の設備を拡張して「沼津中学校」として独立させる。
明治10年(1877)1月に積信者を起業し静岡茶の製茶と輸出も始めたが、多額の損失が出て明治15年に廃業となった。
■基督教の受洗、教育と政治に従事
明治11年(1878)に外国人教師でカナダメソジスト教会の宣教師ジョージ・ミーチャムにより洗礼を受ける。
明治12年(1879)3月に駿東郡長(月俸35円)となる。4月から沼津中学校の校長を兼務した。
衰運していた沼津病院に東京大学医学部助教室賀緑郎を院長に招いて駿東病院と改称する。
6月10日に次女のよし子(帝国商業銀行頭取高山長幸夫人)が生まれる。
明治14年(1881)6月に郡長を辞して中学校長専任(月俸40円)となる。
秋に素六は沼津教会の帰途に喀血し、連日の高熱で病臥した。素六は聖書の句を思い出して念じたところ霊火に焼かれる心地がし、生死は神意であると痛感する。様態は悪化し最終手段の手術を宣告されるが、晩に左肺から異様なものを大量に吐き出してから回復に向かった。それが教会の者たちが祈祷を捧げていた時刻と重なったことを知って信仰心を強め、12月のクリスマスに再度の洗礼を受けた。
素六は校長を辞して正式にメソジスト教会の伝道師を志願する。
教会はまず沼津に隣接する吉原講義所に素六を派遣し、原、大宮の伝道も担当することとなる。素六は単身で講義所に起臥し自炊し質素な生活に入り、過去の事業の負債が累を他に及んだことを悔いて財産を公売に付し、日用品も全て売却して贖った。この行動に感じ入った信徒が多く沼津教会に集まることとなる。
明治15年(1882)3月18日に次男の次郎が生まれる。
明治18年(1885)に三男の三郎(稲葉千波の養子となる)が生まれる・
■東京で福音士、そして麻布中学校長となる
素六は東京へ移住し、宣教師イビー博士がミッションにとらわれず文化的に経営する本郷中央会堂に招かれる。素六は当時メソジスト教会に初めて設けられた福音士として講演した。
明治21年(1888)2月20日に四男の愛作(丸山堯の養子となる)が生まれる。
明治22年(1889)6月に麻布鳥居坂の東洋英和学校幹事となる。
明治23年(1890)7月に第一期衆議院議員選挙で駿東の有志に推されて一金も費やさずに静岡県第七区(駿東郡)で当選。東洋英和学校幹事を辞す。
明治24年(1891)4月4日に三女のしず子(松本常磐の養女となる)が生まれる。
明治25年(1892)第二次伊藤内閣で当選。
明治26年(1893)3月に、再び東洋英和学校に入って名誉校長となる。東洋英和学校の寄宿舎に住み、聖書の講義を行った。
この年、父源吾が亡くなる。
明治28年(1895)3月に中等部を設ける。そして同校内に麻布中学校を起こし校長となった。
中央会堂から麻布教会へ移り、麻布中学寄宿舎に住んで寄宿舎内の宗教的会合には必ず出席して生徒を導いた。
明治31年(1898)3月の第三次伊藤内閣臨時選挙にも当選。政務委員となる。文部大臣に推薦されたが固辞して立候補しなかった。
明治32年(1899)に文部省から、官私立学校で課程外であっても宗教上の教育や儀式を行うことを禁じる訓令を受けた。
本国伝道会社の命で翌年3月限りの廃校の運びとなったが、素六はこれを予期しており、麻布中学校創立者の変更を出願して許可を得て、また東洋英和学校からの独立を決めた。
明治33年(1900)伊藤博文の政友会に投じて総務委員となる。
明治34年(1901)6月第一次桂内閣当時、政友会総務委員と政務踏査委員長を兼任。21日に星享が伊庭想太郎(伊庭八郎の弟)に刺殺されて痛哭し、政界を退くことを決意する。
この年、東京市教育会会長、次いで東京市参事会員となる。
明治36年(1903)1月21日に長男の帯一が死亡。
2月の臨時総選挙で市民から無理に推され東京市より衆議院議員に当選。
明治37年(1904)2月に片岡健吉を引き継いで東京キリスト教青年会(YMCA)の理事長となる。
明治39年(1906)1月に政友会協議員長となる。4月に日露戦争の功で勲四等に叙し旭日綬章を授けられ、また帝国軍人後援会理事となる。6月に家庭学校理事。
明治40年(1907)6月に日本メソジスト教会日曜学校局長。12月6日に鉄道青年会創立、会長となる。
明治41年(1908)にも協議員長を継続するが、翌年2月に辞して協議員となる。
明治44年(1911)徳川公爵家家政相談役。この年、母ろくが亡くなる。
明治45年(1912)の総選挙は立候補を辞退したので、西園寺首相は素六を貴族議員に奏薦し、4月に勅選する。藍綬褒章を下賜される。
■素六の晩年
大正2年(1913)3月に白十字会会長就任。5月3日に日米関係の悪化により素六は在米同胞慰問使として東京基督青年会主事山本邦之助を同行して气船コレア号で横浜を出港した。老体でありながら各地で講演し排日の緩和に努めた。
大正3年(1914)7月に教育調査会委員。
大正4年(1915)10月に大正天皇御即位に際し多年の教育業務の勤労により勲三等に叙し旭日中綬章を賜わる。
大正11年(1922)この頃、徳川家に招かれて聖書を基にした精神講和を行っていたという。
この年の5月18日に突然二豎に冐され、19日午後9時に危篤。
20日夜9時に東京市麻布区本村町30番地の自宅で永眠が発表された。享年81歳。特旨を以て正五位勲二等に叙される。
22日午後3時から神田青年会館で麻布中学校の校葬執行。午後4時から5時まで一般の告別式が行われ、同夜11時半に東京駅発霊柩を沼津に送る。
23日午前3時半に沼津駅に着き11日に金岡村に埋葬した。
▲沼津基督教共同墓地の江原家の墓所と、江原素六の墓
参考図書
・内田宜人『遺聞 市川・船橋戊辰戦争-若き日の江原素六』
・辻真澄『江原素六』
・大野虎雄『沼津兵学校と其人材』
・江原素六『急がば廻れ』
・加奈陀合同教会宣教師会『加奈陀メソヂスト日本伝道概史』
・私立中等学校恩給財団『創立十周年記念誌』
・江原素六先生記念会委員『基督者としての江原素六先生』
・沼津市明治資料館『沼津兵学校』