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摂津の歴史・史蹟

請西藩林家祖先7代目林吉忠と大坂夏の陣

一心寺の林籐四郎墓 林籐四郎吉忠墓の碑文

▲大阪一心寺の林籐四郎墓
玄明院殿光山舊露大居士」「元和元乙卯年」「五月七日
俗名林籐四郎吉忠 元和元年五月七日戰死
 今歳文化十一甲戌年相當二百年之遠忌因而為追福新造立石碑者也
 文化十一年甲戌年五月

文化11年(1814)5月に三百遠忌追福のため林家14代林忠英が建立。
忠英は2年後の文化13年8月にも大樹寺に4代忠満・5代忠時の供養墓を建立している。

 

林吉忠(はやしよしただ)藤四郎。初めは吉正(よしまさ)。妻は河村善七郎重信の娘。

天正15年(1587)三州で家康の家臣上林越前政重(竹庵。又市、良清)の長男として生まれる。林家6代目忠政の弟忠定の妻(上林政重の娘)の弟にあたる。
慶長16年(1611)に忠政の長子藤蔵が病没したため、林家の養子となった。
吉忠は林家7代目当主となり徳川秀忠に仕え扶持米200俵を賜わる。

元和元年(1615)4月9日、300俵加増し番組に入る。
4月下旬に徳川勢が大坂へ進軍を開始。
5月5日、徳川家康・秀忠が伏見を出発、一番組の水野勝成らが国分に至る。
吉忠は大番頭高木主水正次(まさつぐ。河内丹南藩初代藩主。家紋は高木鷹)隊に属して出陣する。
6日に家康は岡山口の先鋒を七番手前田利常、天王寺口の先鋒を五番手本多忠朝に命じる。この日、水野勝成ら大和口の諸将の道明寺の戦い。

7日午前2時、秀忠は千塚を出発。大番六隊の左は阿部正次・内藤大和守・松平定綱ら、右に高木正次・青山忠俊・水野正忠。
10時頃に平野の家康と来会した秀忠は岡山への出向を命じられる。

岡山こと御勝山古墳 岡山から見た天王寺方面

岡山(御勝山)と岡山から見た天王寺方面

岡山方面の布陣は秀忠の前備えに藤堂高虎、井伊直孝、前田利常らが平野道を挟み中間に細川忠興。
秀忠の麾下は、前に高木正次、阿部正次らが大番組を率いた。
二番として書院番組は書院番頭青山忠俊、次に水野忠清、内藤清次、松平定綱。
左に旗本組頭酒井忠世、土井利勝の両隊が並び、その後ろに本多正信、高力忠房、鳥居成次、日根野吉明、前田利考、立花宗茂ら諸隊。前田隊の後ろに黒田長政、加藤嘉明。
秀忠は岡山の南方に位置する平野道(ひらのみち。大坂道。中高野街道)の西に在り、安藤重信隊が後拒となった。
※平野道…大阪天王寺から奈良街道(明治以降の名称で現国道25号線相当)と分岐し高野山へ向かう道。

正午に天王寺口で豊臣方先鋒が逸り発砲し、開戦。
秀忠には家康に指示を待つよう軍令があったが、天王寺口で徳川方の本多・小笠原等の諸隊が破れて西軍が突入すると、先手の松平利常らが進軍し大野治長の銃隊(治長本隊より東に布陣)を攻撃した。
阿部野側に陣していた水野隊は、前田利常隊へ続き青山隊と先駆けを争いながら書院番組を率いて北上する。
第二の左備えの藤堂・井伊隊、旗本組も平野道沿いの桑津村から進軍し先頭は天王寺の側面を狙うが、毘沙門地辺りで毛利勝永隊に阻止され、岡山口の大野治房の兵らが呼応して秀忠麾下を狙い護衛隊も防戦となる。

高木隊も大番組を率いて天王寺表で戦功をあげた。
茶臼山の南に布陣する福島正鎮(まさしげ)・福島正之(まさもり)を松平忠直(越前北ノ庄藩主。結城秀康の長男)の兵が撃破。
高木勢も真田信繁(幸村)らと戦い、忠直隊が信繁を討ち取る。

豊臣勢は10町ほど退き玉造稲荷社(真田山の北)前で踏留まり、これを追う高木隊は目前の沼を避けて迂回し、青山隊は沼を直進し突撃した。

茶臼山・天王寺口の豊臣勢が敗れると徳川本陣に決死の突撃をかけるため南下する明石守重(あかしもりしげ。掃部。関ヶ原では宇喜多勢の先鋒であったが大坂の役では豊臣方)と高木勢が生玉宮の坂で交戦し、林吉忠が討死
吉忠、この時29歳。

生国魂神社鳥居 生国魂神社拝殿

生玉北門坂 真言坂 奥が生国玉神社表

▲生国魂神社への坂。千日前通りからの参道「生玉北門坂」と七坂の「真言坂」と神社表への坂
※林吉忠決戦地の生玉(いくたま)坂については、大坂城の大手の生玉門(生国魂神社は豊臣秀吉が大坂城の築城に際に現在地に移す前に難波宮や石山本願寺のそばにあった名残)付近や玉造宮等の可能性もあるが、戦況や地形から7日当時の生玉宮在所を採った

林家領地の殿辺田村(とのべた。義父忠政の隠居地ともされる)の従者が吉忠の首を持ち帰り、龍渓寺に葬る。玄明院殿光山旧露大居士。
『寛政重修諸家譜』では天王寺で火葬し遺骨を龍渓寺に葬った(法名久露)とする。

吉忠討死後、水野勝成らが明石掃部を敗走させ、玉造稲荷社の戦も徳川方が制する。
やがて周知の通り徳川方が取り囲み大坂城は陥落。
林家では吉忠の討死の直後、出陣中に腹の中に居た八代目となる林忠勝が出生した。

大阪一心寺の林籐四郎墓 林籐四郎墓の林家家紋

▲吉忠の墓正面と石扉の林家家紋「丸の内三頭左巴下に一文字」

* * *

合戦記や家伝は正確な史実とは言えませんが、林吉忠の戦いは各家に伝わるそれらを中心に推測しました。
また、一心寺には林家16代林忠交の墓、吉忠と同じく大坂の陣で戦死した本多忠朝の墓や徳川家康の臣松平助十郎正勝の墓等もあります。

飯野藩「浜屋敷」

飯野藩浜屋敷跡 飯野藩浜屋敷案内板

上総国(千葉県)飯野藩は慶安元年(1648)飯野陣屋に藩庁を置いたが、同じ頃に上方所領の代官所を摂津国豊島郡浜村(大阪府豊中市浜)の天竺(てんじく)川東岸に置き、豊島・能勢・河辺・有田の四郡、丹波国天田郡、近江国伊香郡の租を輸した。
土地の者は浜屋敷と呼んだ。
安政年間に発行された飯野藩の藩札(藩が発行する紙幣)の銀札摂津飛地札に「攝州濱村 預り切手・摂州濱屋舗(摂州豊嶋郡濱屋舗・摂刕濱屋舗)引替會所」等、浜屋舗(屋敷)の文字がある。

東西約35間(約64m)、南北約51間(約93m)の長方形の屋敷で、東側中央に門があり、その正面に役所、北に接して牢屋敷もあったとされる。

浜村陣屋推定位置

▲古地図からの浜屋敷推定位置(2013年現在の地図、上が北)
文化7年制作と言われる『小曽根郷六箇村絵図之写』に描かれた「御屋敷(やしき)」と、名神高速道路が通る前の航空写真、今西氏屋敷の史料・絵図と比較すると現在の浜3丁目5番地辺りに重なります(絵図が元なのでおおよその位置です)

浜屋敷の北東の今西屋敷は中世の荘官(目代)屋敷で、春日社の社家出身の目代今西氏36代目である今西春房は明智光秀の娘を娶り、弟の今西春光が山崎の戦いにで明智方についたため豊臣秀吉に所領を没収されてしまったと伝承されています。
その後、浜の領主となった飯野藩保科氏の庇護で復興を許されたそうです。
明治時代に再び廃されましたが府指定史跡として屋敷が残されており、現在も今西家の方が住まわれています。

 

浜屋敷東側 浜屋敷西側中央

▲浜屋敷の東側と、西側中央
左写真の白い老人ホーム建物向かいのアパート付近に浜屋敷正門、天竺川を背にして撮った右写真の小道の先の付近に役所が在ったと思われます。

名神高速道路の高架下 浜屋敷西側

▲浜屋敷跡の碑遠景と天竺川堤
碑の背後の草地には石や溝がありますが、道路や名神高速の高架工事時のものでしょうか。
浜屋敷西沿いにあたる天竺川の堤も高架の高さに積まれた岩が露出しています。

新天竺橋 天竺川

▲新天竺橋と天竺川
古地図には橋は無いですが、この新天竺橋辺りが浜屋敷敷地南西の角であったと思われます。
右の写真は橋から高架に向かって流れを撮影。現在は岸・川底共にコンクリートで固められています。

光久桂治氏の敷地 旧浜村集落の古民家

旧浜村の集落は今も民家がたち並んでいます(右写真)
左写真、地主さんの蔵と奥の家宅は近年建替のようですが、手前二棟の場所には昭和初期から建物が在りました。

 

飯野藩浜屋敷跡案内板
飯野藩上総国飯野二万石保科氏は 大坂夏の陣で天王寺表に功あり
よく大坂定番をつとめ 慶応四年鳥羽伏見の戦いの前の動乱時
藩主正益が京橋口定番であったので 領民も大坂城につとめたという。
慶安年中当地に代官所をおき浜屋敷と称し 藩札を発行し 天田郡一揆を解決する。

所在地:大阪府豊中市浜3丁目

参考図書
・佐野英山『藩札図録
・豊中市史編さん委員会『新修豊中市史』(付録「小曽根郷六箇村絵図之写」)
・豊中市教育委員会『春日大社南郷目代今西氏屋敷総合調査報告書』
・橘田正徳『大阪府指定史跡春日大社南郷目代今西氏屋敷』