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松平郷[1]德川家康の祖・松平氏発祥の地

松平親氏の銅像 松平氏遺跡案内

松平太郎左衛門親氏像
松平郷は江戸幕府創始者德川家康の祖、松平氏の発祥の地とされ、松平氏館・松平城・大給城跡(大内町)と高月院の「松平氏遺跡」は国指定史蹟に指定されている。
館跡地に松平家代々の産湯の井戸高月院に親氏・泰親の墓所がある。

松平氏は新田源氏の流れの世良田(せらた)氏の末裔という系譜は、徳川家の権威を高めるための後付と憶測もされているが、松平郷では「時宗の遊行僧・徳阿弥(とくあみ)が松平郷に入り、還俗して婿入りし松平太郎左衛門親氏を名乗った」とし、流浪前の経歴には殆ど触れていない。
松平郷園地には、領内の巡視をしている日常姿の親氏像が平成5年に建てられてシンボルとなっており、資料館の松平郷館には僧形の木像松平親氏座像(豊田市指定文化財)が展示されている。

■松平郷と松平親氏
松平の地は、後宇多天皇に仕えた公家の武士の在原信盛(ありわらののぶもり)・信重(のぶしげ)父子が足助庄「外下山郷」と呼ばれるこの地を領有し、京都から移って館を構えた時、周辺の野辺に松の木が生い茂る様子から家門の繁栄を思い「松平郷」に改称したという。※信盛は在原業平(なりひら)の19代後裔等、諸説ある。

遊行僧の徳阿弥は、父の長阿弥(ながあみ。有親/ありちか)、弟の祐阿弥(ゆうあみ。泰親/やすちか。息子とも)と共に信州を経て三河国に至り大浜の称名寺に住み、後に松平郷に入ったとされる。
初め西三河の坂井郷の五郎左衛門(後に酒井氏)の婿となるが嫁は子を生んで亡くなってしまったという話(『三河物語』等)もある。
永享元年(1429)徳阿弥は五郎左衛門との連歌の縁で松平郷の太郎左衛門信重と親しくなり、次女の水女姫と結ばれて信重の婿養子となった。
還俗し「松平太郎左衛門親氏」と名乗り、松平城(郷敷城)を本拠とし松平氏の初代となったという。

親氏の子の信広、信光(泰親の子とも)は泰親と共に三河平野に進出する為に岩津城を攻略したが、兄の信広は足に重傷を負い松平郷に留まり松平太郎左衛門家の祖となった。
信光は岩津城主となって西三河に勢力を拡大し、松平家は大給・安城・岡崎城へ侵攻し約180年の歳月を経て9代目の元康(家康)が德川に改め天下統一を果たした。

松平太郎左衛門家は石高442石の寄合旗本の身分であったが、徳川幕府からは将軍家と同じ「葵の紋所」を許され大名(万石以上)と同格の江戸城への登城と将軍御目見得を許された。

笠掛の楓と見初井戸跡 復元した見初めの井戸

笠掛のかえで見初めの井戸(七つ井戸)跡地
在原家の屋敷にあった七つの井戸の一つで、徳阿弥が寂静寺(今の高月院)を訪ねる道すがらこの楓に笠をかけてアヤメの花に見入っていた時、アヤメを摘んでいた水女姫が井戸の水に花を一輪を添えて差し出したことが二人の出会いであった。
井戸は昭和7年の水害の土砂で埋まってしまい、右は観光用に場所を移して再現したもの。

 

松平東照宮拝殿 松平東照宮本殿

八幡神社松平東照宮拝殿と本殿
祭神:誉田別命(ほんだわけのみこと。八幡様と習合)・德川家康公・松平親氏公・天照大御神・須佐之男命他四神、屋敷神に市杵嶋姫命(いちきしまひめ。弁財天と習合)。
松平家の氏神として若宮八幡を奉り八幡宮と称し慶長16年(1613)に殿社(現在の奥宮)が造営された。
元和5年(1619)に松平太郎左衛門9代目の尚栄が駿河の久能山東照宮より家康公の御分霊を勧請して合祀して以降「松平の権現様」「松平の東照宮」と呼ばれるようになった。昭和40年に親氏公を合祀。
※古くは松平氏が屋敷の鬼門に祀っていたのを新たに大手口を正面として社殿を造営。本殿は山地を削平して建てられたが、渡廊、拝殿、饌所、篝火台、手洗水槽等は宅地内に建設された

松平東照宮水濠 松平信博氏の歌碑

▲手前に水濠、鳥居右手に松平館、作曲家松平信博氏の碑
鳥居前の道は領民が領主の在原氏・松平氏を地につく程頭を下げて拝み敬った様子から額擦り(ぬかずり)の道と呼ばれる。
かつての松平氏宅址は中桐と呼ばれる地に建てられ、八幡神社の西南に接近する東西80m、南北53mの広い宅地で南面西寄りに大手口があり、西と南の上と北側に土塀の名残がある。
慶長5年(1600)関ヶ原役後に松平太郎左衛門9代尚栄が塀や石垣を整備したという。

歌碑は松平太郎左衛門家の第20代目にあたる松平信博氏の代表作「侍ニッポン」の最初の一節が刻まれている。文は作詞の西條八十氏による。昭和33年7月建立。

天下池 氷池跡

天下池(龍池)、氷池
親氏が助けた小蛇が龍となって雨を降らせ、旱魃で干からびた天下の畑を潤したので、その蛇を神龍と崇めてた伝説のある「龍池」がこの天下池の辺りにあったとされる。
氷池は明治20年(1887)から製氷が始められ、池に氷を張らせて切り取り、山かげの氷室に保存し夏に岡崎方面に運んだが、昭和16年(1941)の太平洋戦争で中止となった。

松平郷桜馬場跡地の駐車場 松平郷桜馬場

桜馬場

松平郷遊歩道に造られた室町塀 冠木門 松平城跡への入口

桜馬場跡から高月院までは「松平郷園地」として整備され、遊歩道には歴史をイメージした室町塀や冠木門が設けられている。松平館の東南500mの三斗蒔にお城山(写真右手)がある。

所在地:愛知県豊田市松平町

参考資料
・松平親氏公顕彰会『松平氏とその史蹟』
・平野明夫『三河松平一族~徳川将軍家のルーツ
・司馬遼太郎『街道を行く43 濃尾参州記
・『松平村誌』
・鈴木健『東三河の史蹟めぐり』西三河の項
その他案内板・調査報告書・松平東照宮の由緒書等

関連サイト
松平郷:http://matsudairagou.jp/
松平観光協会:http://www.matudaira-sato.com/

小豆坂古戦場

小豆坂古戦場跡 小豆坂古戦場の碑

▲史蹟小豆坂古戦場跡の碑石
県道26号線沿いに355㎡の緑地がある。小豆坂(あずきざか)古戦場碑は大正6年1月13日に建立されたものを昭和62年に移設し、平成5年に槍立松や血洗池の碑も該当地からここに移したもの。

 

■小豆坂の戦い
徳川家康登場以前の三河は、東は駿府の今川・西は尾張の織田両氏に挟まれ度々戦火に見舞われた。
三河を統一した松平7代清康(きよやす。家康の祖父)が天文4年(1535)に尾張の守山で家臣に殺され、家督をめぐる内紛がおこり、清康の遺児の千松丸(広忠/ひろただ。家康の父)は流浪の身となるが、今川氏に助力を頼んで天文6年(1537)に岡崎城に入ることが出来た。
織田信秀(信長の父)の三河侵攻が激しくなり天文9年(1540)6月6日に松平氏の重要な拠点の安祥城が落とされ、以降今川氏との結びつきをより深めて今川・松平軍と、織田軍の対立が明確となる。

天文11年(1542)8月10日、織田氏の矢作川東岸部への出撃を阻むために今川義元は兵4万を岡崎東部生田原(しょうだはら)に進め、小豆坂で織田勢4千と交戦したといわれる。
織田の小豆坂七本槍と呼ばれる将達の活躍が尾張側に語り継がれているが、この年に合戦については確証がない。

天文17年(1548)3月、織田信秀が大軍で三河に侵攻し、今川義元松平広忠を救うため太原雪斎(たいげんせっさい)を大手の大将・副将に朝比奈泰能・搦手に朝比奈泰秀・軍将を岡部長教として援軍を送った。
松平勢は今川軍を今切本坂まで迎えに出て合流し、二手に分かれて先陣の岡部隊は山中藤川に陣し、8日には小豆坂近くに陣を取った。
同日、織田勢は織田信広(信長の異母兄)・津田信光(信秀の弟)等四千騎で上和田(岡崎市上和田町)の砦に移る。
10日に今川勢は上和田城を攻めるために藤川を出て、織田勢は馬飼原へ向かい信光を軍将として小豆坂を登りかかった時に、今川勢と行き当たった。今川勢が坂の上から押しかかり乱戦となる。
今川勢が苦戦するが、松平勢が命がけで横合いから突入し今川勢は攻撃を休めず、持久戦は不利とみた織田勢は上和田城へ引き返した。

一進一退の織田家と今川家の対立は永禄3年(1560)5月の桶狭間の戦いまで続く。
そして桶狭間の戦い以降、独立を果たした松平(徳川)家康の最初の難関が三州一向一揆(いっこういっき)である。
永禄6年(1563)9月に一向一揆が各所で起こるが、松平氏と反目する豪族や、松平譜代の家臣の中でも現状に不満を持つ者や一向宗に帰依する者達が一揆側に加わってしまった。
家臣の半数が寝返り、門徒側についた三河武士は131人、一揆軍の総勢は1万人と伝えるものもある。
11月25日に針崎(はりさき)一揆軍が上和田に迫り、大久保忠世(ただよ)が大久保党170余人を率いて小豆坂に陣して一揆勢を食い止めた。

永禄7年(1564)正月3日、家康は大久保党に再び針崎の一揆勢の制圧をさせようと大久保弥三郎に案内をさせ、盗木戸から小豆坂を登った時に、作岡大平を焼いて帰って来た一揆軍と行逢い交戦。11日にも上和田を目がけ土呂(とろ)・針崎等の一揆軍と合戦となった。
13日、家康の出陣を内通者が漏らして伏兵が敷かれ、知らずに小豆坂に従者を残して進んだため窮地に陥るが家康は馬上から弓を射ながら単騎北へ逃げきったという。
2月に至り一揆側の将達が次第に討たれ、説得により松平への帰順を願う家臣も出て一揆は収束していく。家康は大久保忠俊らの勧めで和議へ運んで鎮静させた。

小豆坂合戦状況図 小豆坂古戦場案内板

▲天文11年の小豆坂合戦状況図と
麝香塚、絵女房山に並て小豆坂あり、千人塚あり。みな軍機にある戦場なり。七月十六日の夜はそのあたりの人々亡霊まつるとて、手ごとに巨松振りかざし、あまたうちむれのぼる也。千人塚は、千人の頭埋めし処といふ。此塚は大樹寺にもありて不断念仏堂あり。三年に一度回向あれば、仏舎を千日寺という。小豆坂の事は世に人知れり。
──菅江真澄『筆のまにまに 八巻』文政七年申申六月八日 日記(案内板より)

※井田古戦場の念仏堂・千人塚と別に、現在の東岡崎の明大寺町にも「千人塚」があり、松平5代長親の時に永正3年(1506)8月の伊勢新九郎(後の北条早雲)との戦いでの戦死者を埋葬したものとも伝わる

槍立松 血洗池跡

▲近年移設された「槍立松」「血洗池」の碑
かつて槍立松は頂の作手街道の東にあり、一度植え継ぎ足されて残っていた。小豆坂七本槍の者たちが槍を立てて休息したと伝わる。麓には「鎧掛松」もあった。
血洗池(ちあらいいけ)は小豆坂の前に細長い池があり、池の水で槍刀についた血を洗い清めたと伝わる。

所在地:愛知県岡崎市戸崎町牛転

大樹寺[3]請西藩林家祖先の林忠満・林忠時供養墓

松平家菩提寺の大樹寺には徳川家古参譜代の林家の墓域がある。
文化13年(1816)8月に林家14代の林肥後守忠英が、三河で松平家に仕えた林忠満・林忠時の墓の2基の供養塔を建てたという。
かつては一段高く門のある外柵と、それぞれの背後に宝塔が在ったようだが、今は墓碑のみが残る。

林藤助忠満の墓 林藤助墓の刻文

林家四代 林忠満の墓
上部に林家の家紋丸の内三頭左巴下に一文字が刻まれている。墓はだいぶ傾いてしまっている。
「全忠院殿明徹道光大居子」
「天文九庚子年 六月初六日 林藤助」

■林藤助忠満(ただみつ)
藤五郎、後に藤八郎または藤助。政通(まさみち)・縁正(よりまさ)
林藤助光政から数えて4代目。代々続く侍大将で、正月の御酒盃をも御一門より先に罷り出て頂戴する家柄である(※大久保忠教『三河物語』の忠満についての要約)
松平信忠・清康・広忠に仕え、各所でよく戦い、森山崩れの後で流浪の身になった年若い広忠(千松丸。松平家8代目。家康の父)が家臣達の忠義と力で天文6年(1537)に岡崎城に入った際の御感書(感状)の5名に名を連ねている。

墓に刻まれている天文9年(1540)6月6日は織田信秀(信長の父)による安祥城攻めの日で、林藤助も出陣している。
林家に伝わる『林家過去帳』林家12代忠久による『林家系譜』に林忠満の死去の日は天文九庚子年六月と書かれている。

一方で『林氏系図』『参河記』『家忠日記』等では天文17年小豆坂の戦いで討死したとする。(林家15代忠旭の『林家系譜』は天文十年戊申年とあり干支の通りなら七の脱字か)

小豆坂の合戦はまず天文11年(1542)8月10日に今川義元が三河田原に侵攻し、織田信秀が豆小坂で迎えうって「小豆坂の七本槍」と呼ばれる将達の活躍で織田軍が勝利したことが織田側の史料には書かれている。

その後の天文17年(1548)3月、岡崎城を攻めるため織田信秀は庶子三郎五郎信広(信長の異母兄)と弟の津田孫三郎信光に四千騎の兵をつけて三河に進軍させた。信広達は8月に上和田の砦に入り、10日に信秀も安祥城に着陣する。
19日に織田勢は津田信光を将として進み、小豆坂で今川勢と鉢合わせの形で合戦となる。
今川勢は苦戦し、戦況を変えるため今川方の松平勢から松平伝十郎信勝(太郎左衛門信吉の弟)、小林源之助重次、そして林藤五郎忠満達が横合いから攻め入って戦い、討死した。
彼らの決死の突撃により織田が疲労したと見て攻め続け今川勢は織田勢を押し返すことが出来た。

 

林藤七忠時墓 林藤七墓の碑文

林家五代 林忠時の墓
忠満の墓と同じく上部に林家の家紋がある。
「榮林院殿天翁淨俊大居子」
「永禄十二年己巳五月二十二日 林藤七忠時墓」

■林藤五郎忠時(ただとき)
林家5代目当主。藤五郎。政忠(まさただ)・清忠(きよただ)
松平広忠・元康(徳川家康)に奉仕。
永禄6年(1563)に一向宗門徒による三河一揆がおこり、有力豪族や今川残党勢力を巻き込み本多正信ら松平家臣までも次々に一向一揆側につく窮地でも、林忠時は元康を裏切らずに諸方を守った。

死去の日は『林家過去帳』にも墓の刻字と同じく永禄十二年己巳五月(1569年)とあるが、忠旭の『林家系譜』では翌年の元亀元年六月九日と書かれている。

 

徳川家康の江戸移封に付き従った林家貝渕藩請西藩)の菩提寺は現在の東京都の青松寺となるが
病で上総国の領地に隠居した林家6代忠政・大坂の役で戦死した7代吉忠・京都二条城守衛中に急死した8代忠勝の墓と、以降13代忠篤までの供養墓が千葉県の龍溪寺にある。

井田野古戦場と千人塚

西光寺と井田野古戦場跡 西光寺本殿

西光寺井田野古戦場跡
長親山西光寺(さいこうじ)境内には永禄3年(1560)に松平9代元康(後の徳川家康)が桶狭間の戦いの後に大樹寺に逃げ込んだ際、追手の織田方と戦って倒れた多くの僧を葬った大衆塚もある。

■井田野合戦
井田野は岡崎市岩津町から井田町地内にわたる古戦場で、松平氏が発展していく過程で周辺各地勢力との戦いが繰り返され、戦死者達の霊の苦悶の声が聞こえるため魂魄野や魂場野とも呼ばれていた。

応仁元年(1467)8月23日、松平3代信光(のぶみつ)と子の親忠(ちかただ。松平4代目)が、尾張の品野・三河の伊保の兵と井田野で戦い勝利。

明応2年(1493)10月2日(13日とも)、碧海郡上野城(うえの。豊田市上郷町)の阿部孫次郎と、加茂郡(豊田市)──挙母城(ころも。豊田市中心部)中條出羽守・寺部城(てらべ。寺部町)鈴木日向守・伊保城(いぼ。伊保町)三宅加賀守・八草城(やくさ。八草町)那須宗左衛門──の土豪の軍が三千騎で岩津城を攻め、松平親忠が二千(または千・千五百)の兵を率いて井田野で奮戦し勝利。

天文2年(1533)12月、松平7代清康が、三河に侵入した信濃兵を井田野で撃破。

天文4年(1535)12月5月に松平清康が尾張の織田弾正忠信秀(信長の父)を攻める最中に守山(名古屋市)の陣中で急死したため、織田信秀が三千騎を率いて三河に押し寄せて大樹寺に陣取り岡山城を攻めようとした。
清康の子の広忠はまだ10歳のため、広忠の伯父の三木蔵人信孝・松平十郎三郎康考兄弟が12日に兵八百を率いて井田野で食い止め撃退した。
※ここでは岡崎市の郷土史料・案内板を参考に、松平側の視点で書いています

 

千人塚 千人塚の南無阿弥陀仏

千人塚
応仁元年(1467)の井田野合戦に勝った松平親忠は、戦死者のために念仏堂(今の西光寺)を建て、敵味方区別無く埋葬して塚を築いて弔い、後に千人塚と呼ばれるようになった。

今も西光寺の南方の林中に低い円墳状の地の墳頂に約2m程の石碑が建てられている。
碑銘は「南無阿彌陀佛」左側面「井田埜戰亡精靈金臺」
右側面「元禄九丙子年八月五日 大樹寺廿八世忍譽碑銘焉」
その他小さな碑や墓が二十基程たち並ぶ。市指定史蹟。

西光寺所在地:愛知県岡崎市鴨田町向山38-1

 

井田城跡 井田城跡解説

井田城址と晴明白龍大神の由緒書
岡崎城と大樹寺を結ぶ直線上に位置する井田城跡の側に、三河武士魂を晴明白龍大神と神格化して奉斎した神社がある。

酒井氏の居城で、伊田城とも記される。後世徳川四天王と呼ばれる酒井忠次もここで生まれた。
かつて井田城の傍に有った回向院は大樹寺に移ったが、現在も回向院は大樹寺に隣接し、酒井氏2代氏忠(うじただ)から7代忠善(ただよし)まで酒井家六代の墓がある。

井田城址所在地:愛知県岡崎市井田町城山
※辺りが暗くなってしまったので再来訪時に撮りなおします

大樹寺[2]松平家八代の墓と略歴

大樹寺松平八代墓 大樹寺松平八代墓の葵紋の門

松平八代墓(まつだいらはちだいぼ)岡崎市指定文化財
元和元年(1615)徳川家康松平家菩提寺の大樹寺に、前三代親氏公来の廟所(信光明寺/岡崎市岩津町)を模して追修し、4代親忠以下清康に至る先祖三河八代の墳墓を再建。
元和3年(1617)に天領代官畔柳寿学が奉行となり、家康の一周忌が大樹寺で営まれた際に、信光明寺の松平三代墓の宝篋印塔をここに移転し、現在の姿に整備した。

 

初代松平親氏の墓 2代松平泰親の墓 3代松平信光の墓
▲松平初代~3代の宝篋印塔(ほうきょういんとう)……岩津松平家の発祥
■初代 親氏(ちかうじ。生没年不詳。芳樹院)
諸説あるが時宗の流浪の僧徳阿弥(とくあみ)が三河(愛知県)に入り、大浜(西尾市)・矢作(やはぎ。岡崎市)等を経て松平郷(豊田市)に至り郷主松平太郎左衛門信重の婿となり、郷敷城を築く。
子(弟とも)の泰親と共に近隣山間部の林添、麻生等を攻略して勢力を拡大し、中山郷7名(17名とも)も支配したという。この頃信州から林藤助が来て親氏の靡下に属す。
大樹寺には康安元年(1361)4月20日逝去と伝わるが諸説あり。松平郷の高月院に葬。

■二代 泰親(やすちか。生没年不詳/良祥院)
親氏の弟、もしくは子。松平信広・信光と共に岩津(岡崎市岩津町)に進出。
泰親の代に本多平八郎助時が松平家に仕える。
大樹寺には永和3年(1377)9月20日逝去と伝わるが、信光の年代と合わず不明。

■三代 信光(のぶみつ。1404~1488/崇岳院)
泰親(もしくは親氏)の子。左京亮、後に和泉守を称した。
応永28年(1422)8月15日泰親と協力し夜襲で岩津の中根大膳を討ち取る。
伯父(もしくは兄)信広は岩津攻めで足を負傷したため松平郷に残り、信光が今後の本拠地となる岩津城の城主となる。
泰親と共に円川(つぶらがわ。中垣町)合戦に勝利して大給城(おぎゅう。豊田市)を占領し、保久城(ほっきゅう。岡崎市)を焼いて下し、勢力を拡大する。
永享3年(1431)3月、洞院大納言実熈が三河大河内に配流となった折に泰親が京都まで守護した縁から、子の信光が室町幕府政所執事伊勢貞親の被官となったとも伝わる。
宝徳3年(1451)親氏・泰親の菩提を弔うため信光明寺を創建。
寛正5年(1464)5月に伊勢貞親の命を受けて井口砦(岡崎市井ノ口町)に篭る郎党鎮圧のため深溝(幸田町)に出陣し大場次郎左衛門を誅した。
この頃、宇津(後の大久保)八郎右衛門昌忠や榊原主計清政が信光に仕える。
文明3年(1471)7月15日夜、踊りの行列で偽装して油断させ、安祥城(あんしょう。安城市)を攻略。※『三河物語』による。諸説あり
続けて岡崎城主西郷弾正左衛門頼嗣と交渉し岡崎城を譲り受け、西三河の半ばを治めた。
長享2年(1488)7月22日に85歳で没。

 

4代松平親忠の墓 5代松平長親の墓 6代松平信忠の墓
▲4代~6代の五輪塔(ごりんとう)……安城松平家
■四代 親忠(ちかただ。1431~1501/松安院)
信光の3男。左京進、左京亮、蔵人を称した。
應仁元年(1467)8月23日、第一次井田野合戦(岡崎市井田・鴨田)で尾張品野・三河伊保の大軍に対し信光は500騎で交戦して勝利。その後、戦死者を弔うために念仏堂(今の西光寺)と千人塚をつくる。
文明(1469~)の初年に家を継ぎ安祥城に住む。
文明7年(1475)菩提寺として大樹寺を建立。
長享元年(1489)8月に麻生城を攻め天野弥九朗を下す。
長享2年(1488)に父信光が亡くなったことを悼んで親忠は仏門に入り西忠と称した。
明応2年(1493)10月第二次井田野合戦。上野の阿部・寺部の鈴木・挙母の中條・伊保の三宅・八草の那須氏の連合軍(全て豊田市)が岩津城を襲撃し岡崎へ迫ったため、親忠が兵2千を率いて井田野で食い止め、撃退。
文亀元年(1501)8月10日、71歳で没。※諸説あり

■五代 長親(ながちか。1473~1544/掉舟院)
親忠の3男。忠次-長忠-長親と改名。蔵人または出雲守を称した。安城松平家2代目。
文亀元年(1501)9月、父親忠の死の直後に駿河今川氏親の軍が西三河に侵入し、松平一族は結束を固めて警戒する。※今川軍の侵攻時期は諸説あり。この頃に仏門に入り道閲と号したという。
永正3年(1506)8月21日、駿河今川氏親の軍が再び西三河に侵入し、氏親の客将伊勢新九郎盛時(長氏。後の北条早雲)が一万騎余で岡崎に入って一部を甲山において岡崎城をおさえ、伊勢盛時本隊は大樹寺を本陣として岩津城に攻めかかった。※11月とも。『大三川志』は文亀元年9月
安祥城の長親は一族郎党を集めて最期の酒宴を催し、そして僅か500余の軍で矢作川を越えて岩津城を狙う今川勢の背後を攻めた。
夜戦となり疲弊した両軍が一時兵を収めた時に、陣中で裏切り者が出たと噂が流れた今川勢は駿河へ撤退した。
永正年間の連戦で松平惣領の岩津家が衰退し、安城家が惣領となる。
天文13年(1544)8月22日没。

■六代 信忠(のぶただ。1486~1531/安栖院)
長親の長男。次郎三郎。左近、蔵人、左京亮とも。安城松平家3代目。
大永3年(1523)に早くも家督を嫡男の竹千代(清康)に譲り、大浜郷に隠居して祐泉と号し、また泰考・道忠と改める。
信忠派・弟信定派と分かれた家督騒動の渦中にいたため『三河物語』では叛く者を誅殺する残忍な性格に書かれてしまっているが、内紛を収めるため潔く引退し陰ながら若い清康を援けた説もある。
享禄4年(1531)7月27日に没。

 

7代松平清康の墓 8代松平広忠の墓 松平家9代徳川家康の墓
▲7代清康の五輪塔と8代広忠の無縫塔(むほうとう)、近年建立の9代家康の墓
■七代 清康(きよやす。1511~1535/善徳院)
信忠の長男。次郎三郎。
大永3年(1523)13歳で安城松平家4代目となる。
大永4年(1524)14歳で、岡崎城主松平(西郷)信貞の持つ山中城(羽栗町)を攻めた。信貞は大草に隠居し、清康は安祥城から岡崎城に移る。
大永5年(1525)足助(豊田市)鈴木氏を攻略。
享禄2年(1529)5月27日、牧野氏の吉田城(豊橋市)攻めのため岡崎城を出発し赤坂を本陣として、翌日進攻し激戦の末に牧野勢を打破る。この年、小島城(西尾市)も攻略。
享禄3年(1530)熊谷氏の宇理城(新城市)攻を攻め、熊谷実長の迎撃に一度は崩されるが、城内の者が内応して火をかけたため落城。
享禄4年(1531)三宅(周防とも)氏を攻め伊保城(豊田市)を手中にする。
天文2年(1533)3月20日、広瀬城主三宅・寺部城主鈴木氏らとの岩津合戦で勝利。12月に三河に侵入した信濃兵を井田野で撃破。
天文4年(1535)2月22日に大樹寺の多宝塔を起工させ4月に完成。真柱銘に「世羅田次郎三郎清康安城四代岡崎殿」とある。
12月3日、尾張進出を図り一千余騎で岡崎城を出発し、翌日に尾張織田信秀(信長の父)の守山(森山とも。名古屋市)へ侵入。この夜、守山の陣中で家臣阿部大蔵定吉(正澄とも)が謀反の疑いで処罰されると誤った噂が立つ。
5日早朝、噂を信じた子の阿部弥七郎が清康を背後から刺殺。享年25歳。
岡崎勢は撤退を余儀なくされ、若い雄渾の宗家当主の急死により松平氏の三河支配が揺らいだ。この事件は後世守山崩れと呼ばれる。
大樹寺の他に随念寺(岡崎市門前町。養女お久の墓も)と大林寺(魚町)等にも墓がある。

■八代 広忠(ひろただ。1526~1549/大樹寺・瑞雲院)
清康の長男。幼名千松丸、のち次郎三郎。
天文4年(1535)12月、10歳の時に父清康が殺され、家督をめぐる内紛がおこり、叔父の松平信定(桜井松平家)が岡崎城に入り、千松丸は流浪の身となる。
28日に阿部定吉が息子の罪の償いのため千松丸を護って伊勢の神戸(三重県鈴鹿市)へ。
天文4年(1535)3月17日に海路で遠州縣塚に渡る。阿部大蔵や、清康の妹婿の東條吉良持広は駿府の今川氏に助力を請う。8月26日に形ノ原に移る。
天文5年(1536)9月10日に茂呂城に入り、閏10月に吉田を経て駿府の今川義元に面会する。
天文6年(1537)5月岡崎に残る大久保新八郎忠俊と弟甚四郎忠員・弥三郎忠久らに岡崎帰城を促され、千松丸は茂呂城に戻る。
29日、岡崎を執っていた松平蔵人信考が有馬温泉に赴いた隙に、大久保忠員・八国甚六詮実・林藤助忠満・瀬又太郎正頼・大原近右衛門惟宗が千松丸のもとに集った。
6月1日岡崎城を攻め、大久保忠俊が本丸の石川兄弟を討って開門し、千松丸は入城を成し遂げた。12月9日に元服。
天文9年(1540)織田信秀の三河侵攻が激しくなり6月6日に松平左馬介長家(親忠の子)の安祥城が包囲され、松平長家・信康(広忠の弟)・信忠をはじめ譜代の林藤助忠満渡辺右衛門照綱・本多弥八郎正貞・弥七郎正行(正貞弟)・内藤善左衛門・近藤与一郎・足立弥市郎等将達が奮戦するが守りきれず、50余人が戦死し落城した。以降、広忠は駿河の今川義元の援助を受けて安祥城の奪還を試みることとなる。
天文10年(1541)於大の方(伝通院。家康の母。刈谷城主水野右衛門大夫忠政娘)を娶る。
天文11年(1542)8月10日松平勢は今川義元の翼下として織田信秀軍と小豆坂で合戦する。※織田の小豆坂七本槍の奮戦で織田軍の勝利とするが虚構ともされる
8月27日叔父の松平信孝が、信孝の弟康孝の旧領三木(岡崎市三ツ木町)を横領したとして、広忠は信孝の留守を狙って三木城を占領。合議で追放された信孝は織田氏につく。
12月26日に次男の竹千代(後の徳川家康)誕生。
天文12年(1543)9月に水野氏が織田方についたため、於大の方を離縁する。
天文14年(1545)9月20日安祥城奪還のため清縄城に出陣するが織田勢の挟撃に遭い敗走。
天文15年(1546)9月6日広久手に兵を出す。
天文16年(1547)8月2日に6歳の竹千代を今川家の人質として駿河に送るが、竹千代は途中で織田方に奪われてしまう。
天文17年(1548)4月15日耳取縄手合戦──3月19日に小豆坂で今川勢と織田勢が合戦し織田勢が安祥城まで退いたため、に大岡の山崎砦の松平信孝が単独で岡崎城を落とそうと500騎を率いて妙大寺(岡崎市明大寺町)表へと迫った。200騎の兵で迎え撃った広忠は、予め伏兵として絵女房山に弓の精鋭を配置して山を下る信孝軍へ射らせてから妙大寺へ退かせた。一直線に伏兵達を追いかけた信孝軍を、広忠家臣の隊が左右から挟撃。信孝は半弓で脇腹を射られて討死した。
天文18年(1548)3月6日、広忠の側に仕えていた岩松八弥が城内で突如広忠を刺し殺す。
岩松は織田方の広瀬城主佐久間九郎左衛門全考の刺客であった。享年24歳。
大樹寺の他に密葬した松應寺(松本町)、広忠寺(桑谷町。永禄5年家康が建立)、大林寺(魚町)、法蔵寺(本宿町)にも墓がある。

広忠の死後は今川勢が岡崎城に入り、主君を失った松平家中は今川氏の指揮下に入る。
8歳の竹千代は織田信広との人質交換で駿河へ(家康の生涯は著名なので省略)
かつては広忠までの8基が並んでいたが、昭和44年に家康公の墓も日光東照宮の廟に模して岡崎市民により宝塔が建てられた。墓碑の法名は徳川18代当主徳川恒孝(つねなり)氏の筆。

岩津松平家供養塔と歴代住職の墓
▲松平八代墓のそばに岩津松平家供養塔。奥の開山堂の敷地には歴代住職の墓が並ぶ。