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飽富神社の不二心流奉額

袖ヶ浦飽富神社 飽富神社の不二心流奉額

▲飽富(あきとみ)神社と不二心流振武社奉額
明治24年(1891)10月奉献。
先頭に大河内縫之助不二心流正統二代目)や大河内正道(不二心流正統四世)の名。
藤代吉高・吉隆は、中村一心斎に剣を学んだ藤城吉高と吉隆親子と思われる。
上総国望陀郡根形村飯富(いいとみ)に「振武社」を起こした伊橋清三郎以下、飯富や奈良輪等、近隣の門人の名が連なる。
不二心流奉額左側 不二心流奉額左側

 

飽富神社(飫富神社)
祭神は倉稲魂命、相殿大巳貴神・少彦名神。
綏靖天皇(すいぜい。神武天皇の皇子)の即位元年(皇紀80年)4月に天皇の兄である神八井耳命(かんやいみみのみこと)が創建したと伝わり、平安時代の延喜式神名上に上総国五座大一座として記されている古刹。
古代の上総国望陀郡飫富庄の豪族飫富(おふ)氏にちなんだ飫富宮(おふのみや)で、いつしか飽富とも称されるようになった。
天慶2年(939)3月、平将門公の兵乱の時に朱雀天皇の勅使が鎮定祈願を修して太刀一振りを納めたという。飽冨神社には古くから太刀が奉納されており、平安時代末期のものとみられる無銘附太刀拵(つけたりたちこしらえ)が市指定文化財として指定されている。
現代の権現造りの社殿(有形文化財)は元禄4年(1691)再建。
明治6年(1873)2月27日郷社、5月30日に縣社に列する。
飽冨神社で毎年正月に行われる年占行事の筒粥(つつがゆ)は県指定無形民俗文化財。

所在地:千葉県袖ケ浦市飯富(字東馬場)2863

■■不二心流と木更津「島屋」■■

不二心流伊藤実心斎の供養墓

高谷延命寺仁王門 不二心流伊藤実心斎の供養墓

延命寺総門と「不二心流五代實心齊伊藤直行先生之墓
現在の総門はかつて参道にあった仁王門を移設したもの。
慶応4年(1868)8月に賊徒(旧幕臣と協力した村民による義兵)が延命寺に立て篭もり、上総諸藩の兵と交戦した。木更津近隣の村民が扇動されたのは、この地域で剣術修練が盛んであったことも起因するだろう。(飯野藩も出動しているため詳細は別途紹介予定)

 

伊藤実心斎直行
天保9年(1838)不二心流正統大河内氏と同じく、下総国匝瑳(そうさ)郡共興(きょうこう)村(千葉県匝瑳市)で生まれる。
上総国望陀郡木更津村(千葉県木更津市)の島屋(当主は大河内幸左衛門)の道場で不二心流2代目大河内縫殿三郎や木更津に隠棲中の不二心流開祖中村一心斎に剣術を学ぶ。
望陀郡高谷村(袖ケ浦市)の御園家の食客となり、下総・上総国内で広く不二心流の剣を教えた。

一方、大河内家は不二心流四代目大河内正道(縫殿三郎の三男)が結城藩に成東陣屋(山武市)へ招致され、直心影流の榊原鍵吉(さかきばらけんきち)らと撃剣興行にも加わり廃刀令後の撃剣再興に努めた。成東で正道の弟の家に養子に入った過去もある伊庭兵二(正高。成東出身)が正道から5世を継ぎ、実質の正統となる。
中村一心斎の「剣術」の門人は下総・上総に多く在り、免状を拝受した幾人かの皆伝者がそれぞれ5代目として不二心流の技を受け継いでおり、伊藤実心斎は上総郷里の伝承者として「不二心流五代」と刻まれたのだろう。

大正12年(1923)12月28日に伊藤実心斎は85歳で天寿を全うした。
多くの門人に指導し慕われた実心斎のため立派な供養碑が高谷延命寺(ご子息が住職となっている)の参道脇に建てられた。
伊藤直行の名は「剣道」指導者となった門人達が語り継いだ。

飯王山延命寺 所在地:千葉県袖ケ浦市高谷1234

■■不二心流と木更津「島屋」■■

不二心流「中村一心斎」成就寺供養墓

成就寺門石左 成就寺門石右 成就寺内石
成就寺の剣聖中村一心斎供養塔
南無妙法蓮華経 法界
安政二年四月建之  満足山 四十三世 日涼

一心淨念曇龍居士 中村一心斎為菩提
智徳院妙勇大姉 俗称芳為菩提
大河内氏  熱田氏

大河内 幸左エ門
同   孫左エ門
同   總三郎
友野 七左エ門

安政2年(1855)4月建立。紺屋「島屋」大河内幸左衛門と一族の名。島屋の当主は代々「幸左衛門」の名を継承している。『満足山成就寺史』によると熱田氏、友野氏は成就寺の有力檀家。
建立後に遭った南町の大火災「島屋火事」のためか右側が焼けているようである。

 

中村一心斎藤原正清
幼名は八平。通称は左膳(さぜん)、宮門(くもん)。名は正清。字は一知。号は一心斎、不二剣翁、加藤曇龍(どんりゅう)、不退転曇龍。行者名は藤開行。
碑文に「身長六尺二寸美髪三尺五寸」とあり長身の偉丈夫であったようだ。
中村家は加藤清正を祖先とし、代々高力(こうりき)家に仕え、寛文8年(1668)島原藩主高力左近太夫隆長が改易されると浪人となるが、高力家にかわって島原に移封された松平家に仕える。

天明2年(1782)八平は肥前国島原藩(長崎県)藩士中村八郎左衛門一直(かずなお。中村喜兵衛4代目)の次男として生まれる。
寛政元年(1789)8歳で島原藩士の板倉勘助勝武に浅山一伝流の兵法を学ぶ。
寛政10年(1798)17歳で島原藩士の花村小三郎の婿養子になり花村宮門と称す。
寛政11年(1799)6月21日、八平は20人扶持「中小姓」となる。12月8日江戸詰の義父に従い江戸に移る。江戸では都築(つづき)與平治と津田武太夫三全から武術を学んだ。
享和元年(1801)3月1日「御通番」となる。
文化元年(1804)病気を理由に島原に帰郷し実家で療養。花村家を離れたため中村宮門中村八郎左衛門一知を名乗る。
江戸に戻り剣術で丹羽家に仕えた後、神道無念流戸賀崎(とがざき)知道軒暉芳に随身。
文化3年(1806)麹町六番町鈴木派無念流道場・鈴木大学(鈴木斧八郎重明)の高弟となり3年の間「塾頭」となる。文政元年までに18の流派を極めたという。

文政元年(1818)6月10日に富士山へ単身登頂し100日の過酷な修行により9月26日不二心流(ふじしんりゅう)を立てた。富士浅間流(ふじせんげんりゅう)とも呼ばれる。
江戸八丁堀に構えた道場は門下が2千名ともされ隆盛した。
文政3年(1820)9月から10月まで島原に滞在した時の風貌は被布(ひふ)を纏い長剣を横たえ、頤から胸の下まで長く髭を伸ばし、象牙の環の耳飾を通し、錦の袋を垂れて髪を納めて、山伏のようだったと描写されている。この頃から一心斎と呼ばれるようになったようだ。
そして江戸に戻るも八丁堀道場を大河内縫殿三郎に任せ、東北を廻る。水戸笠間方面より下総へ向かう。
文政5年(1822)2月15日に下総国海上郡足川村で代官の岩井市右衛門とその子重兵衛に剣術教授。近隣の有力者にも指導した。

『日本武術神妙記』に伝聞であるが水戸藩での鵜殿力之助、若き海保帆平(かいほはんぺい)との仕合いについて、勝負つかずであったが老齢ながらの精力と、一心斎の神妙な立ち回りで精神的に圧倒し水戸公に賞賛された(直心影流の山田次朗吉談、ここでは要約)逸話が収録されている。
伝聞ではなく飯野藩剣術指南役の北辰一刀流森要蔵本人が「予弱年の頃、八州を遊歴せしに、中村一心斎と暫く剣友となり、相交はりたるなり。一心斎朝暮内観の法を修す。予又これに随ひて学び得たり」と、一心斎との交友と練気養心を学んだことを記しているように、内観の法の成果か老いても気力は冴え、不二心流を継承した大河内家が店を出した上総国望陀郡の木更津に在り、大河内家の本拠下総国匝瑳郡小笹村(千葉県匝瑳市)の道場と木更津の道場で指導した。

森要蔵と中村一心西斎
▲森景鎮(森要蔵)『劒法擊刺論』中村一心斎の記述

晩年の嘉永の頃(1848~)は妻を同伴して上総国武射郡屋形村(現山武郡横芝光町)の漁家、海保惣兵衛正義(海保沙崖)方に来訪、その後は忠左衛門の元に移る。屋形では十数人の門下がいたが、極意を授けたのは正義と忠左衛門のみであった。

忠左衛門家に妻を預けて、次は香取大宮司家を訪れ、最後は下総国埴生郡赤荻村(あこぎ、あかおぎ。千葉県成田市)の鵜沢家に移る。
嘉永7年(1854)10月3日鵜沢覚右エ門宅で死亡。享年73歳。赤荻村善福寺に葬った後、小笹村に分骨し大河原家を中心に門人達が葬儀を行い、碑を建立した。
木更津成就寺にも門人多数が集まり三日間剣道大会を開いて葬儀を行い分骨した遺骨を納めた供養墓を建立。戒名「一心清念曇龍大居士」

逸話として、一心斎はいつも蓬の粉末を飲んで壮健さを保っていたという。
後の有名な創作として、中里介山の時代小説『大菩薩峠』の甲源一刀流の巻で、中村一心斎が試合の行司役として登場している。

成就寺正面 成就寺俯瞰地図

▲現在の成就寺と門石、木更津鳥瞰絵地図の成就寺 ※鳥瞰図は木更津駅前パネルより
昭和4年『千葉縣木更津町鳥瞰』の門にも一心斎の供養塔が描かれている。

満足山寶珠院成就寺 (まんぞくざん ほうじゅいん じょうじゅじ)
応永33年(1426)2月8日に日運上人により創建。
所在地:千葉県木更津市富士見1-9-17

■■不二心流と木更津「島屋」■■