萱野権兵衛・郡長正宅跡と国老殉節碑

萱野権兵衛邸跡 萱野邸跡地看板

▲萱野権兵衛・郡長正ら萱野家の屋敷跡地付近の看板
萱野邸は北出丸向かいの西郷頼母宅の東隣に在った。
会津戦争時、父萱野小太郎長裕・母ツナ・妻のたに(35歳)・次男乙彦(郡長正。13歳)・三男虎彦(郡寛四郎。11歳)・長女りう子(9歳)・次女いし子(7歳)・五郎(4歳)は前日泊まった親戚の林権助一家と籠城協力のため三の丸に入る。

 

萱野権兵衛長修(かやのごんのひょうえながはる)
萱野家の始祖萱野権兵衛長則は加藤嘉明の重臣で会津への国替えに従い、嘉明の子の加藤明成が石見に厳封された後に入部した会津藩祖の保科正之に登用された。
以来萱野家は会津の名門として会津藩を支え、9代目が萱野権兵衛長修(ごんべい、ながのぶ とも)である。

権兵衛長修は文政13年(1830、天保元年)に生まれ、文久3年(1863)に父長裕(ながひろ)から家督を継ぎ、元治元年(1864)で若年寄、翌慶応元年(1865)に家老に就任。
国家老(くにがろう)として、藩主松平容保が京都守護職任命で在京中の間、会津での内政の責任を担った。知行千五百石。
誠実温厚な性格といわれるが文武両道に秀で、一刀流溝口派(いっとうりゅうみぞぐちは)の奥義を極めた剣豪でもあった。

慶応4年(1868)戊辰戦争中は先頭に立って激務にあたり、鶴ヶ城が包囲された後は、高久宿に布陣し城内との連絡や糧食物資補給に勤めた。
9月22日午前10時頃、会津藩主松平容保・養子の喜徳(のぶのり。徳川慶喜の実弟。15歳)父子は大手門前の式場に出て降伏状を官軍の軍監中村半次郎(桐野利秋)に渡し、同席した家老萱野権兵衛ら重臣達の連名で、家臣の処罰の代わりに容保父子の助命を嘆願したため、容保の処遇は幽閉に留まった。

開城後は会津藩第10代藩主喜徳(慶応4年2月に家督を相続)に伴い滝沢村の妙国寺で謹慎する。
10月19日に新政府から容保父子が権兵衛ら重臣達と共に呼出され東京へ出立。
容保は因州藩池田邸に入り、喜徳と重臣達は久留米藩有馬邸での謹慎となる。喜徳をよく気にかけ、皆がくつろぐ中でも権兵衛は常に正座していたという。

明治元年(1868)11月、明治政府軍務官より「容保の死一等を許し、首謀者を誅して非常の寛典(かんてん)に処する」と下された。容保父子の助命の代わりに、戦争責任者の差出を求められたのである。
新政府は会津松平家の親戚であり、情報取次をしていた飯野藩保科弾正忠正益(まさあり)に取調べを命じ、正益は会津藩家老田中土佐(たなかとさ)・神保内蔵助(じんぼくらのすけ)を戦争責任者として選び、返答した。
田中・神保は8月の戦争中に甲賀町で既に切腹しており、死者の選出は政府に認められず、権兵衛が首謀者として候補にあがる。
このことが伝えられ、忠誠純義な権兵衛は藩に代わって死ぬのは本分であると語り、会津藩の罪を一身に背負うことを受け入れ、早く名前を書き加えるよう促したという。

権兵衛の潔さと決意に感じ入り、正益は先の二名に権兵衛の名を加えて軍務局へ提出する。
翌明治2年(1869)5月頃、政府は反逆首謀者として萱野権兵衛の処刑・打ち首を命じた。

この時青山の紀州藩邸に預けられていた松平容保の義姉・照姫保科正益の実姉)は、権兵衛へ「この度の儀、誠に恐れ入り候次第」の書き出しの手紙と共に
「夢うつつ思いも分ず惜しむぞよ まことある名は世に残れども」と歌を贈った。

また容保からも懇ろな手紙と、喜徳より葵紋のついた衣服一式を賜ったが、紋服を汚すのは畏れ多いと着用しなかった。
5月18日の処刑の日の朝、浦川藤吾に普段と変わらない様子で斬首に際して襟元などを入念に整えさせ、茶の仲間であった会津藩士井深宅右衛門重義(いぶかたくうえもんしげよし。容保の御側付)が茶を点じる。
また戊辰戦争で一刀流溝口派師範の樋口隼之助光高が行方不明になり流儀が途絶えることを憂いていたため、流派免許を得ている権兵衛は、長い竹の火箸(最後の膳の箸とも)を持って宅右衛門に一刀流溝口派の奥義を伝授したという。

麻布広尾の飯野藩保科家下屋敷へ移され、飯野藩大目付玉置予兵衛、隊長中村精十郎ら八人が処刑に立ち会った。
しかし保科正益は政府の命令の罪人としての処刑をさせず、飯野藩士沢田武治の介錯をもって、切腹の作法通りに扇腹(おうぎばら、扇子腹とも。三宝(三方とも。神饌や献上品を載せる台)に載せた白扇を取り上げた時に首を落す)で、政府の斬罪の要望と、権兵衛に対し会津武士の面目両方を保させた。

享年42歳(40とも)、戒名は報国院殿公道了忠居士。墓所は東京都港区白金の興禅寺と福島県会津若松市の天寧寺
介錯を務めた沢田武治の子孫の仏壇には代々萱野権兵衛の位牌が祀られたという。
また本来家老席順で責を負うべきであったが行方不明として死を免れた保科近悳(西郷頼母)が明治24年2月20日に興禅寺をの墓に参り「あはれ此人のみかくなりて己れは長らひ居る事は抑如何なる故にや、実に栄枯の定りなき事共思ひ続くるに堪す」と記している。

※保科邸での切腹については「飯野藩保科邸・会津藩家老萱野権兵衛の切腹」記事にて

 

郡長正(こおりながまさ)
萱野権兵衛の次男、乙彦。安政3年(1856)生まれ。
成績優秀で戊辰戦争後の明治3年に会津の教学復興を担い他の旧会津藩士の子弟6名と共に小笠原藩(九州の福岡県)に留学。
豊津の藩校育徳館で学ぶが、伝わる逸話によると母親に食べ物が合わないことを嘆いたことを諌められた手紙を同級生に大衆の面前で嘲笑されて(会津藩をなじられた説も)面目を潰されてしまう。
後日会津武士の誇りをかけて藩対抗の剣道試合に出場し全勝したが、屈辱を晴らすために明治4年(1871)5月1日育徳館南寮の一室で自刃した。享年16。
小笠原藩は長正の死を悼み、会津の方向に向けて長正の墓を建立。
会津には父と共に福島県会津若松市の天寧寺に墓が在る。

 

鶴ヶ城内萱野国老殉節碑 萱野国老殉節碑案内板

萱野国老殉節碑(かやのこくろうじゅんせつひ)
鶴ヶ城本丸に、天守閣を見守るように建立された殉節碑。
また阿弥陀寺(会津若松市七日町)にも萱野長修遥拝碑が建てられている。

 

・会津藩家老萱野権兵衛邸址
所在地:福島県会津若松市追手町5(現在は「蕎八かやの」店舗)
・萱野国老殉節碑
所在地:会津若松市追手町1(鶴ヶ城城址公園内)

参考図書
・『会津人群像 第6号』『会津人群像 第13号
・『歴史読本2013年07月号
・宇都宮泰長『会津少年郡長正自刃の真相
・牧野登『保科氏800年史』
・阿達義雄『会津鶴ヶ城の女たち
・村井弦斎・福良竹亭『西郷隆盛一代記』
・西郷頼母研究会『西郷頼母近悳の生涯』