十輪寺-請西藩士吉田柳助の墓所

十輪寺本堂 吉田柳助為一の墓

十輪寺本堂吉田柳助の墓

林家の総州以外の領地は貝渕請西藩共に武州と上州にもあり、徳川との絆を深めようと動きのある林忠英の時には徳川家ゆかりの上州新田郡(群馬県)も領していたのは興味深い。
これらの領地から仕えた藩士も多く、伏見林忠交を補佐した田中兵左衛門正己(玄蕃)が養子に入った家は武蔵国埼玉郡上大越村(かみおおごえ。埼玉県加須市)で、戊辰戦争で林忠崇の参謀として奔走した吉田柳助(りゅうすけ)は請西藩領の小鹿野村(おがの。秩父郡小鹿野町)の有力者である。
忠崇と共に転戦し『慶応戊辰戦争日記』を書き記した檜山省吾は小鹿野村に近い小森村(小鹿野町両神小森。松平因幡守領)の名主間庭家の出で、請西藩士檜山家に入った。

 

■吉田和泉守の系譜
吉田氏は武蔵七党(兒玉・横山・丹・猪俣・西と、野與・村山または綴・私市)の、兒玉党(こだま。児玉)の諸氏である。『児玉党系図』では児玉氏は関白藤原道隆の子伊周(これちか。内大臣)の次男遠峯を祖とし、庶流に吉田俊平の名があるが、俊平は武蔵を離れている。また伊周の家司の子が遠峰(こだま)氏を名乗ったともされる。
『吉田系図』でも児玉氏の血脈の説を採り児玉郡小嶋郷(埼玉県本庄市小島)を本領とする吉田氏に繋がる。

※出自には諸説あるが、吉田和泉守の政重の名等と共にここでは吉田氏の系図に拠る

吉田和泉守政重(まさしげ)は山内上杉管領家の上杉憲政(のりまさ。上杉謙信の養父)に仕え、天文年間の河越城の戦いで憲政が北条氏康(うじやす)に攻められると、政重は憲政と共に上州平井城(群馬県藤岡市)に退去している。
武州を北条氏が制すと、天神山城より鉢形城(はちがた。埼玉県大里郡寄居町)に入った藤田安房守氏邦(うじくに。北条氏康4男で藤田康邦の養子)に政重は従い、鉢形城北部の用土(ようど)の地を領した。
元亀2年(1571)9月15日、武州榛沢(はんざわ)で武田信玄の兵と北条氏政(うじまさ。氏康の嫡子)の兵が戦いで政重は戦功をあげ、天正7年(1579)正月4日にも氏政から感状を与えられ(『諸国古文書抄』)天正12年(1584)2月にも北条氏直(うじなお。氏政の嫡子)から賞された。

天正16年(1588)5月7日、政重の子の吉田新左衛門実重(真重。幼名新十郎。妻は甲州から武州に移った逸見重八郎の娘)が、北条領と真田領の境にある要所、権現山城(ごんげんやま。群馬県高山村)の在番を命じられる。北条家が権現山城周辺を制した時、名胡桃と知行替えをすることを前提に、郷(まゆずみ。埼玉県児玉郡上里町)の領地を預けられた。
同時に、父政重の所領であった小島郷も安堵される。

天正17年(1589)7月に豊臣秀吉が上野の真田領と北条領の配分を取り決め、沼田の地を割かれた沼田城(群馬県沼田市)城代の猪俣邦憲(いのまたくにのり。北条家家臣)が不服とし10月末に対岸にある真田昌幸の重臣鈴木主水重則の名胡桃城(なぐるみ。群馬県利根郡)を奪取。これが秀吉が私闘を禁じさせた思惑に反することとなり天正18年(1590)の小田原征伐の起因になった説もある。
慶長4年(1599)12月晦日、浪人となった実重は弟の乙次郎と共に会津の上杉景勝(かげかつ。中納言)に仕える。
実重の子の吉田源左衛門信重(初め善兵衛)は奥州取合時の戦功により感状を与えられた。

慶長5年(1600)関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康により翌年景勝が減封され米沢藩主となると吉田父子は浪人となり、実重は妻を実家の逸見氏に預けて越前に赴き、北ノ庄藩(福井県福井市)藩主結城秀康(ゆうきひでやす。越前宰相)の家臣本多伊豆守(本多富正か)の寄騎となる。
信重は暇を請い、弟の藤左右衛門重秀に越前の家を相続させて本国武州(埼玉県)へ戻り、吉田郷塚越(秩父市吉田町)に住んだ。妹は逸見四郎左衛門に嫁いだという。
その後小鹿野で暮らし寛文5年(1665)8月25日に86歳で没し十輪寺に葬られた。
信重の子の左馬之助重基(内記。一学)、孫の時重と続き以降代々上小鹿野村の名主を務めた。そして時重の嫡男新平守詮の弟、善兵衛重喜(藤太輔。幼名三平)が分家する。

 

■請西藩士吉田柳助
吉田重喜から数えて6代目が文政2年(1819)に生まれた吉田藤太柳助為一である。
小鹿野村は貝渕藩・請西藩の領地であり、柳助は請西藩主林肥後守忠交に仕えて郡奉行となった。
妻は甲府城下の大竹孫八郎(大竹院殿武英親章居士)の娘。

慶応4年(1868)3月に房州が不穏なため藩地の請西へ藩主林忠崇が赴こうとすると、熱心な佐幕派であった柳助は江戸に留まり徳川の行く末を見守るよう諭したが聞き入れられなかった。
閏4月ついに忠崇が脱藩し出陣する際に、柳助は小鹿野村に居る息子の信太郎(後に埼玉県会議員、小鹿野町長。貫山と号して漢学塾を開く)に武具を預けていたが、吉田家の居候ノブが不届きにより追われた恨みから官軍に武具の貯えを密告し火にかけさせたという。(『秩父史話』掲載の伝聞)

柳助は林軍の参謀として付き従い、小田原城で忠崇の重臣として面会に加わり、または使いとして小田原や江戸に交渉へ出向いている。
5月19に一行が交渉の返答待ちとして香貫村に期日が過ぎても止め置かれた際に、切迫した情勢の危機感を持った人見勝太郎が遊撃隊を率いて箱根方面へ出陣したので、請西藩士で甲源一刀流の使い手の檜山省吾が病身でありながら加勢に発った。この檜山の捨て身の行為を、闇雲な戦いでなく命は主君のために使うべきだと後に柳助が諭している。

奥州に転戦となると平(福島県いわき市)では6月9日より一隊を任され、その後藩兵を纏めるため相馬中村(福島県相馬市)に向かう。忠崇には仙台、庄内、会津藩等に声がかかり、その中で7月20日に旧幕府陸軍奉行竹中重固の要請を受けて若松へ向かい23日に入城。29日に藩兵を檜山に預けて庄内藩(山形県鶴岡市)へ連絡へ出る。
その後忠崇は仙台に移ることとなり8月5日柳助は中村の藩兵達の元を経て仙台へ合流した。
9月10日再び柳助は庄内藩へ使いに出され、高橋護を供に出立したのを最後に消息不明となった。
10月に、旧幕府の奥医者浅田宗伯から遺品の髪の毛と愛刀が届けられ、小鹿野馬上の十輪寺の墓地に納め、信太郎が墓碑を建立した。

吉田柳助の墓刻字下 吉田柳助の墓刻字上

▲柳助夫婦の墓の側面の刻字
松静院柳昌䜯寿居士
灋誓院貞鏡明栄大姉
 請西郡宰 藤原為一
 文久二壬戌 八月二十二日
 大竹氏女 同人室
       享年四十一歳
 嫡子吉田信太郎氏之建立

十輪寺の門 十輪寺山門

▲十輪寺の総門と山門

新義真言宗智山派常木山十輪寺
所在地:埼玉県秩父郡小鹿野町小鹿野1823