▲稲荷山、頂上から奥州街道を望む
白河口の戦い激戦地。稲荷山からは西軍が攻めてきた奥州街道・小丸山方面が一望できる
慶応4年(1868)閏4月5日、前会津藩主松平容保により山口次郎(二郎。斎藤一)が負傷した土方歳三に代わり隊長として新撰組130人余を率いての白河出陣が命じられる。
赤津に泊まり、6日に250人余兵を率いて白河方面に出陣、猪苗代湖西岸の白河(会津)街道を南行し7日から三代村で休陣し21日に白河小峰城に向かう(20日旧幕府軍小峰城を落とす)。
22日に城下に着いた隊士達は「白坂口関門」に配属。稲荷山に防塁を構え、会津藩遠山伊右衛門指揮の遊撃隊と共に防衛の任につく。
25日薩摩・長州・大垣(おおがき。美濃国、岐阜県)・忍(おし。武蔵国、埼玉県)藩兵約250名が門奥州街道芦野宿(栃木県那須町)より白坂宿を経て白河へ進撃し大砲5(4)門の砲撃。
砲声を聞き会津藩兵・旧幕府歩兵純義隊らが駆けつけ応戦し昼頃に撃退、新政府軍は芦野宿まで退却した。
この戦いで新撰組では菊池央・伊藤鉄五郎・横山鍋三郎(鍋二郎とも)が討死。
また、この夜偵察中に撃ち殺された新政府軍兵の一人、薩摩四番隊の武川直枝(竹川)は元新撰組隊士で伊東甲子太郎派として分かれた清原清(元伊東派でかつて近藤勇を狙撃した加納道之助と共に大久保大和が近藤勇と見破ったとされる)
26日白河口総督として会津藩家老西郷頼母、副総督として若年寄横山主税常守(ちから つねもり)入城。仙台・二本松(にほんまつ。岩代安達、福島県)・棚倉(たなぐら。磐城、福島県)藩の援軍も到着。
山口はこの機を見て白河方面総督の会津家老西郷頼母に白坂宿への進軍作戦を進言するが、白河の守備力が削がれることを危惧して却下される。
29日夕方に新撰組は担当の関門詰を仙台藩兵と交代。
▲小峰城方面と、稲荷山に鎮座する権兵衛稲荷神社
所在地:福島県白河市九番町西裏
■■伝習隊と新撰組■■
※5/1の白河口戦記事→稲荷山[2]5.1白河口激戦