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安楽寺-勤王の佐貫藩士相場助右衛門の墓

安楽寺 相場助右衛門の墓

安楽寺相場助右衛門の墓
開闡院一乗日松居士 相場助右衛門 五十八歳 慶應四年四月二十八日 寂
演寳院妙義日相大姉 妻 寿美子 明治三年 自害 四十八歳(慰霊碑より)

 

相場助右衛門(あいばすけうえもん)
佐貫藩の納戸役(80石)相場三右衛門茂隣の跡を継ぐ。
文武両道で文学は漢学者の大槻磐渓(おおつきばんけい)に学び、武道は斉藤弥九郎の門下で神道無念流の免許皆伝であった。
佐貫藩主阿部駿河守正身(まさみ、まさちか)、因幡守正恒(まさつね。後に駿河守)の二代に仕え、佐貫藩の江戸詰家老に昇進したとされている。

文久元年(1861)に藩主正恒は大坂加番を任じられ、側用人の資格で随行し伏見に居て上方の様子をよく知る助右衛門の尊王意見を在坂中に採った。

慶応4年(1868)前藩主菊山公(正身)の第四子で15歳の小十郎を養子に貰い受けた。100石持参で260石となる。
戊辰の動乱の色濃くなり、3月に佐貫藩は江戸屋敷(上屋敷が外桜田・中屋敷が愛宕下・下屋敷は霊南坂)を引き払って佐貫へ集まった。助右衛門は恭順を唱えたが、佐貫藩は徳川譜代であり江戸と上総で暮らしていた家臣達は佐幕を唱える者が多かった。

4月に木更津に駐屯する徳川脱走兵の撒兵隊が佐貫藩へ応援を要求し、助右衛門は協力に反対したが、28日に佐貫藩は撒兵隊の支援を決定した。

この日、栗飯原八百之進ら佐幕派同志31名は助右衛門の排除を実行する。
午後3時頃、佐幕派同志達20人程が佐貫城中の太鼓櫓のある大手門付近の石垣辺りの茂みに潜んで、助右衛門が帰宅するのを待った。
助右衛門は大手門を出て南の清水坂を下って古宿(ふるじく)の家へと向かう。

坂を下った正面の御厩(おうまや)で長岡勇(33歳の最年長とされる)ら10名程が待ち伏せ、窓から助右衛門とお供の中間を狙撃した。
不意に真正面から体を撃たれた助右衛門は屈せずに傷口を押さえながら抜刀する。

剣の腕が立つ上に拳銃を所持している助右衛門に対して、20歳の血気盛んな印東男也政方(いんどうおなりまさより。後に万次に改名)が臆せずに一太刀浴びせたのを皮切りに、山崎邦之助、相沢甲子次郎信秀ら若侍が続き、そして残りの同志達が一斉に斬り掛った。
助右衛門は体中無残に切り刻まれて悲運の最期を遂げたのである。
31人は勝隆寺に引揚げて、謹慎の意を示した御届書を藩主へ提出した。

襲撃事件の沙汰は、加害者31人は忠義からの行いとしてお咎め無しであったとされる。
一方、相場家は、阿部家からの養子小十郎は連れ戻しになってお家断絶・家族追放という重い処分を受けた。
妻の寿美子(すみこ。飯野藩物頭の西平之亟の娘)夫人は悲痛な思いで後処理をし、棺桶を買うことも憚られたので亡骸は長小持に入れられ、従妹や女中の助けを借りて夫を花香谷(はながやつ)の安楽寺に葬った。
そして14歳の養女米子(よねこ。安政2年の大地震で被災した弟相場助之亟の娘)と共に、実家(飯野藩の平之亟の家)へ帰ることとなる。

2年後の明治3年(1870)に寿美子は自害し、米子は平之亟の子の志津馬に嫁いだ。

相場助右衛門慰霊碑 相場助右衛門の案内板

▲近年建立された相場助右衛門慰霊碑と案内板。子孫冨田氏の寄贈。
墓石 佐貫藩主阿部正恒公建之 
相場助衛門子孫冨田清建立。上部に丸に桔梗の家紋。

昭和6年(1931)7月、NHKラジオにて小説家の江見水蔭(えみすいいん)作「隠れたる勤王家相場助右衛門」が放送された。

 

日蓮宗安樂寺
天正5年(1577)に僧日國が開山。
所在地:千葉県富津市花香谷167-1

萬里小路大姉墓誌と川名りか

横田の万里小路大姉墓誌 万里小路大姉墓誌

萬里小路大姉墓誌碑。明治13年広部精(くわし。せい)の撰文

 

■川名里鹿(りか)
天保10年(1839)横田村(袖ヶ浦市横田)中下(なかしも)の豪商河内屋の川名惣左衛門栄助頼信(よりのぶ)とお鐐(りょう)の長女の里鹿が生まれる。

利発な里鹿は嘉永の頃に幼くして12代将軍徳川家慶(いえよし)の頃の江戸城二の丸の御女中に出仕した。貝淵藩林家の口添えも有ったのかも知れない。
大奥で老女(高位の女中職三役の総称)万里小路局(までのこうじ。まて様)に出会う。

嘉永5年(1852)13歳の時に祖父と父親が相次いで無くなり、嫡子の政之助がまだ幼児のため、川名家は大奥へ里鹿の宿下がりを申請する。
嘉永7年(1854)15歳の時に家督を相続するため横田へ帰郷した。
その後婿をとって5人の子を産む(3人は夭折)。

慶応4年(1868)にかつて大奥で面識のあったまて様が請西に移り住み、29歳の里鹿は横田から長楽寺まで往復して世話をした。
戊辰の役の後には、身の置き場を無くしたまて様を横田の川名家に迎え入れる。

明治5年(1872)に33歳で亡くなる。
その6年後にまて様も死去し盛大な葬式が営まれた。

 

萬里小路大姉墓誌 所在地:千葉県袖ケ浦市横田

* * *

碑文には矛盾が見られ、万里小路の出自が虚偽(将来的に大奥で権威をもつことになる、次期将軍の正室のお付きになるには京の公家から選ばれた慣わしのため)であった説もあります。
その他史料を照らし合わせると、大奥に入った後の万里小路が非常に有能で結果的には長く徳川家の支えとなったことは事実に近いはずなので、決定的な記録が発見されるまでは歴史に残した結果を重視したいと思います。

請西長楽寺と万里小路(まて様)

長楽寺山門 まて様の墓

長楽寺と養子の実家の墓地にある万里小路の墓

 

■万里小路局
寿賀姫(すが。壽賀)。
文化10年(1813)に大納言池尻(いけがみ、いけがめ。藤原四家北家の出とし、萬里小路氏と同属にあたる)興房(おきふさ)の末娘として生まれる。
※文化9年とも。興房の名を示す記録は見当たらず権大納言池尻暉房(てるふさ)と見られる。

天保3年(1832)20歳頃、11代将軍徳川家斉(いえなり)の孫家祥(13代将軍家定/いえさだ)の正室として輿入れした8歳の鷹司任子(たかつかさあつこ。天親院/てんしんいん)の世話役として京から江戸へ出仕。
天保7年(1836)に大奥に入る。家斉の寵臣林忠英が寿賀姫の宿元(身元引受人)となった。
将軍付小上臈(こじょうろう)となる。

12代将軍徳川家慶(いえよし)の代(1837~1853)に、将軍付上臈御年寄(じょうろうおとしより。女中職の最高位)となる。
上臈は生家の公家の通り名で呼ばれる慣わしで、寿賀姫は万里小路(までのこうじ)と称した。

西の丸で13代将軍徳川家定にも仕え、家定の死後に年齢を理由に大奥を引退し桜田御用屋敷で暮らす。

よほど人望と手腕があったのか14代将軍徳川家茂(いえもち)の時に再び大奥への出仕を命じられた。
万里小路は将軍4代にわたり仕えたことになる。

元治元年(1864)5月29日に大奥を辞して、請西藩藩主林忠交江戸浜町藩邸のもとに移る。この時忠交は伏見奉行として京に上っていた。
忠交の急死後はその後を継いだ林忠崇の国元上総国望陀郡請西村(じょうざい。千葉県木更津市請西)を隠棲地に定め、元部屋方お局(つぼね)都山(つやま)と共に江戸を後にした。万里小路局55歳の頃である。
京へ帰れば裕福な暮らしが出来たが、林家のもとに身を寄せたのは徳川への想いが強かったのだろう。
※万里小路は京の権中納言町尻量輔(まちじりかずすけ)の正室となり、後に2人の養子を迎えている。

慶応4年(1868)に木更津の河岸に上陸した際の荷物は親船2杯もあり、仮宿の長楽寺まで長々と行列が進んだ。
長楽寺住職の與喜海明は本堂脇の離れ座敷に万里小路局を迎える。
万里小路局は「まて(まで)様」と呼ばれ、洗練された侍女も8人位伴っており、華やかな様子であった。
しばらくして寺の裏手の高台へ住居(真武根陣屋の部材を解体・一部移築か)を構えた。

長楽寺太子堂裏 長楽寺庭園
▲長楽寺裏手の高台から本堂裏の大師堂(明治18年建立)と庭園を撮影

閏4月3日に藩主自ら脱藩した林忠崇が出陣したため5日に長楽寺で忠崇の武運祈願に大般若経を転読、まて様は御下髪姿で祈念したという。そして長楽寺から万丈を使いとして忠崇の必勝祈願の護摩札や供物を贈った。
京の朝家に帰らず請西林家に身を寄せたまて様は徳川の為にと決起した忠崇を心の底から支援していたのだろう。
16日にはまて様の金百両もの多額な援助金を持って忠崇のもとへ広部周助(上根岸の豪農)が韮山を経て合流している。
5月26日の山崎の戦いの掃討戦として27日に箱根宿端で小田原藩兵によって討たれた請西藩士に、まて様が養子にした嘉之三郎(鹿次郎とも)の父(祖父?)重田信次郎がいる。
※伝聞では鹿次郎は信次郎の子、記録では信次郎の長男である長兵衛の次男

戊辰の役の戦後に身の拠り所を無くし、困窮した晩年は横田村の豪商の河内屋惣左衛門栄助の長女、川名里鹿(りか)がまて様を自宅に迎え入れて世話をした。
川名家に移ってからも大奥の作法でふるまったという。

明治4年(1871)重田鹿之次郎がまて様の養子となる。
明治10年(1877)10月16日鹿之次郎が15歳で病死。
明治11年(1878)5月7日にまて様が66歳で卒中で死去。松寿院殿雙円成心大姉。
明治13年(1880)に広部精の撰文で萬里小路大姉墓誌が作られる。

まて様の墓表 まて様の墓横
▲まて様の墓の側面には万里小路局(つぼね)について刻まれている。

松壽院雙圓成心大姉 位

大姉ハ京都池尻前大納言興房卿ノ末女 文化十癸酉誕生也。
壽賀姫ト称シ 幼年江府ニ下リ 天保七年申年徳川城ニ勤仕ス。
婦徳有テ萬里小路局ノ役ヲ続キ家齊公ヨリ家茂公迄四代ノ将軍ニ侍ス。
辞後重田鹿次郎ヲ養子トシ一家ヲ興シ 終ニ明治十二年五月七日卒。

真言宗豊山派清瀧山長楽寺
鎌倉時代に請西本郷に稲荷山長国寺と称して草創され、永禄年間(室町初期)に現在の場所に移り、長楽寺と改称した。本尊は平安初期御作の薬師如来坐像。
融源上人が立ち寄り法流を広めてから隆盛し60ヶ寺を統理し、中本寺、常法談林所として土地の信仰と学問の中心であった。天正18年に徳川家康が由緒ある当寺を守護するため制札を下し、続いて寺領を寄進した。

長楽寺の菅原道真公の石碑板 長楽寺の碑石の裏
▲古くから「山の神様」と呼ばれ長楽寺の丘から木更津の港町を見守ってきた菅原道真公の石碑。
萬里小路局も江戸湾を眺めて忠崇のことを心にかけていたことだろう。

清瀧山明王院長楽寺 所在地:千葉県木更津市請西982

横田地蔵堂「義商喜平治之墓」

義商喜平治之墓 喜平次墓碑

▲義商喜平治之墓・喜平次墓碑

官軍の間諜として、義軍を称する貫義隊を探り横田村(袖ケ浦市横田)で命を落とした三河屋喜平次こと仁呑喜平次の胴体が埋葬されている地にある墓碑です。
慶応4年(1868)6月4日に貫義隊に小坪(おつぼ)の小櫃川の畔で斬り捨てられ、村人が地蔵堂へ運んで埋めて土を盛った墓とし、後に明治政府の役人が「義商」としてこの碑を建てました。
碑文は明治2年(1869)正月に県令附属中野光実の撰文と刻まれています。

当時の場所のままなら、この碑の付近に貫義隊の浅野作造頼房の胴体も埋まっていると思われます。
喜平次の埋葬地に松の木を植えたと伝わりますが、現在それらしい松はありませんでした。

 

義商喜平治之墓 所在地:千葉県袖ケ浦市横田

官軍の間諜「義商 仁呑喜平次」

東岸寺 三河屋喜平次の墓

▲東岸寺・三河屋喜平次の墓

「善誉諦念釼生信士 位」「慶應四辰年六月四日」
喜平次の胴は横田地蔵堂「義商喜平治之墓」に、この東岸寺(とうがんじ)に首が埋葬されている。

 

天保2年(1831)または4年、高水村(君津市高水。前橋藩の領地であった)で生まれ、後に木更津村北片町(木更津市中央)の船宿三河屋仁呑(にのみ)家の養子となり、三河屋喜平次(喜平治)と呼ばれた。

慶応4年(1868)4月~5月に木更津に駐屯した徳川義軍府を称する撒兵隊が官軍に鎮圧され、官軍が上江戸へ引き上げた直後である5月16日の夜に、新政府側として請西村祥雲寺を警護していた飯野藩兵が「義軍」を名乗る一味に襲撃された。
18日未明には義軍は、新政府に城を明け渡していた佐貫藩の城に攻め入って警護していた佐倉藩兵2名を討ち、木更津へ退却。
20日に佐倉藩兵数百名が木更津に向かったが義軍の行方は掴めなかった。

そこで喜平次が武州川越藩(埼玉県川越市。後に前橋藩)の侍と交友があった縁で、前橋藩(群馬県前橋市。富津陣屋の守備にあたった)藩主の松平大和守直克(なおかつ。川越藩から前橋藩へ移封)の命により義軍について調べて欲しいと頼まれ、行商人に扮して探りいれた。
義軍は、脱走武士の浅野作造頼房が残兵を集め木更津の村民からも義勇兵を募って吾妻村(木更津市吾妻)に駐屯していた貫義隊であると突きとめた。

喜平次が富津陣屋(富津市)に報告した頃、貫義隊は久留里街道から横田村まで移動し、泉瀧寺に陣を置いていた。木更津は徳川恩顧の地であり、横田の村人は義軍を温かく受け入れた。

喜平次は引き続き探索を依頼され、相重を伴い横田方面へ赴いた。
6月2日、喜平次は泉瀧寺の様子を報告するため富津陣屋に戻ろうとしたが、素性を疑われていた喜平次は義軍に付けられ、菅生(清川)付近で捕まり、寺に連行されてしまう。捕縛地は大鳥居の渡しを渡った椿のたてば(休憩所)・横田小路の上田(じょうだ)等諸説ある。
寺の門柱に縛られた喜平次は拷問に近い扱いを受けたと伝わっている。

夜になって喜平次が捕われたことを知った松平大和守は、3日午前に富津陣屋と共に川越藩の三本松陣屋(君津市大戸見)から、西と東南から泉瀧寺を挟み込むように兵を出させた。
4日の朝食時に弾を打ち込まれた貫義隊は狼狽し(住民の茂左衛門が官軍の襲撃を知らせたともされる)、両手が縛られたままの喜平次を寺の南の小櫃川の畔の沼地で斬り付け、首を刎ねてしまう。
享年は生まれ年の通り37か39歳、または53歳ともいわれる。

喜平次が斬られた小櫃川畔
▲喜平次が斬られたとされる小櫃川畔

貫義隊は観音堂で戦うも、雇われた腕利きの猟師七右衛門に浅野が狙撃され、総崩れとなった。
この後に久留里藩(君津市久留里)にも賊軍が官軍の探偵を惨殺し放火したと伝わり、真里谷村へ兵を向かわせている。

義軍は潰え、喜平時の亡骸は野辺に捨て置かれたため、哀れんだ村人が喜平時の亡骸を集めて地蔵堂前に埋め、土を盛って葬ったが、官軍の間諜であったことを快く思わずに墓参する者は居なかったという。

やがて安房上総知県事(房・総・常州の旧幕府領を管轄)となった監察の柴山典(しばやまてん。文平。久留米藩士)が喜平次のことを聞きつけ、役人の佐藤信照に命じて村人が手厚く葬った義軍の墓を打ち壊させた。
浅野の首級は見せしめのため吾妻村へ運ばれ、胴は村人が地蔵堂へ運び墓を建てたが、この浅野の墓石を役人が小櫃川に投げ入れてしまう。
そして喜平次の亡骸を埋めた場所に松の樹を植えて「義商」の墓碑を建て、新政府へ忠順であるよう村民に示しつけた。

その後、木更津北片町の知人達が喜平次の首を引き取り、東岸寺に改葬した。
明治11年7月23日に新政府方探索役仁呑喜平治として官からも祭祀料が年75円、掃除料若干が支給され、明治19年に墓を改修したという。
昭和年代になって、今のように立派な墓所となったようだ。

佐幕派の村民から支持された「義軍」は明治の新政府にとっては「賊徒」であり
その村人からは官軍側についたとして快く思われなかった間諜商人は、官軍側には義商なのである。

浄土宗光明山東岸寺
所在地:千葉県木更津市中央1-13-3