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小笠原家の館「井川城」跡

井川城跡 井川城跡と濠

井川城跡(松本市特別史跡)
旧小島村(現松本市井川城)にあり、小島城とも呼び、井の字に四方を水流に囲まれているため井川館と名がついたとも言われる。
明治の地図で遺構は井川の流れの西沿いに位置し回字形、東向きで、南北72間・東西50間。
東南角に高さ六尺・南北6間・東西7間3尺の櫓台趾が残っている。

建武2年(1335)8月14日に伊那松尾館(長野県飯田市)の小笠原貞宗が信濃国の守護職となり、足利尊氏の命で井川館に新城を構えて移り統治したとされる。
以降守護職として小笠原政長─長基─長秀、政康(長秀の弟。家督を継ぐ)─持長─清宗と代々井川館に在った。
長禄年間(1457~1461)に清宗が金華山に林城を築いて井川城と兼帯する。清宗の長男長朝は林の館で誕生している。長朝の弟の光政が城代を勤めたともされる。

寛正6年(1465)長朝の代に井川城を修復して深志城と改名し、城代を置いた。府中(松本)は昔、深瀬と呼ばれ深志(ふかし)となったともされる。
永正元年(1504)長朝の子の貞朝の代に深志城の名のまま北方に築いた城に移した。
※移転した深志城は天文19年(1550)長朝の孫の長時の代に武田軍に攻められ開城し武田領となるが、天正10年(1582)に武田家が滅亡すると長時の子の貞慶が入って松本城と改名した。現在の松本城である。

井川城跡の祠 井川城跡案内板

櫓台跡の小祠と案内板
撮影時、ビニールシートの所は発掘調査を行っていた。

 小笠原貞宗は建武の新政の際、信濃守護に任ぜられ、足利尊氏に従って活躍し、その勲功の賞として建武2年(1335)に安曇郡住吉荘を与えられた。その後信濃へ国司下向に伴い守護として国衙の権益を掌握し、信濃守護の権益を守る必要からか、伊那郡松尾館から信濃府中の井川の地に館を構えたとみられる。
 井川館を築いた時期は明確ではないが、「小笠原系図」では貞宗の子長政が元応元年(1319)に井川館に生まれたと記されているので、鎌倉時代の末にはこの地に移っていたとも考えられるがはっきりしない。
 井川の地は、薄川と田川の合流点にあたり、頭無川や穴田川などの小河川も流れ、一帯は湧水が豊富な地帯である。現在の指定地は、地字を井川といい頭無川が濠状に取り囲んで流れており、主郭の一部と推定される一隅に櫓跡の伝承がある小高い塚がある。地域に残る地名には、古城、中小屋のように館や下の丁のように役所の存在を示すものもある。またこれらのほかに中道の地名もあり、侍屋敷の町割跡、寺などの存在から広大な守護の居館跡が想像される。(案内板より)

井川城跡所在地:松本市井川城1丁目

 

林古城 松本城天守閣

▲現代の林の城山と、松本城

林郷の兎田旧蹟碑

兎田旧蹟碑 兎田案内板

兔田舊蹟碑
江戸時代、徳川将軍家の正月元旦に出す兎の吸物の由縁、林藤助(とうすけ)が兎を得たという信州松本領内の廣澤寺門前、寺所有の5、6反程の田地を兎田(うさぎだ)と称して租税を免じられていたという。

明治8年に林村が里山辺村(現松本市里山辺)に編入される前まで「筑摩県筑摩郡林村[字]兎田」として兎田という小字が存在した。

筑摩郡古跡名勝絵図
▲古い絵図にも兔田が描かれている。

 徳川氏の始祖、松平有親・親氏父子がまだ世良田を名乗っていたころ、諸国放浪の途、この近辺に居を構えていた旧知の林藤助光政(小笠原清宗の次男)を頼ったのは、暮れも押し迫った雪の降りしきる寒い日であった。
 何をもてなすものとて無い藤助は、野に出てこの近辺の林でようやく一羽の野兎を見つけ、首尾よく捕まえて馳走したところ、父子は甚く感動して帰路についた。

 その後、家康の代に幕府を開くにおよび、「これはかの兎のお蔭」と正月に諸侯にお吸物を振舞うことを幕府の吉例にしたという。
 『林』の姓も徳川氏から賜ったものという。
 江戸時代この地は「免田」(めんでん)として税を免除されていた。

 徳川家年中行事歌合わせに、「をりにあえば 千代の例えとなりにけり 雪の林に得たる兎も」とある。
 林家は『松平安祥七譜代』の最古参家である。 (「兎田」案内板)

 林家の家紋「左三巴下一文字」。徳川氏より賜ったもので、「正月並み居る諸侯の中で一番にお杯を頂戴する家柄を表す」という。
 請西藩(千葉県)の地元では「一文字侯」と呼ばれていた。 (案内板上部の家紋の説明)

旧兎田渡橋 里山辺林郷兎田の山々
▲復旧した旧兎田渡橋と、寺山を背にした兎田
古跡として兎田と共に「兔橋」が記されている史料もある。
兎田旧跡碑の遠景左手前に林小城の城山、奥(東方)に林大城(金華城)のある東城山。

■旧請西藩主林忠崇の来訪
明治時代に林忠崇侯が林家ゆかりの信州を訪れ「里山辺村の八景」歌を詠んでいる。
兎田暮雪
 さやけくも昔を今に照らしけり 袖に露よふ城山の月

 

また、長野県では松本一本ねぎを兎の吸物に因む葱として紹介している。

請西藩林家祖先「献兎賜盃」林藤助光政の屋敷跡

林光政雪中に兔を狩図 林藤助屋敷跡
▲「林光政 雪中に兔を狩」図と、伝承林藤助屋敷趾 (『善光寺道名所図会』挿絵/兎田の案内板より)

林光政(三河林家。貝渕藩請西藩林家の祖)
呼名は藤助。信濃国(長野県)守護・府中小笠原氏の小笠原清宗の三男(または次男)で小笠原長朝(父と同じ信濃守)の同母弟。母は武田信昌の娘。
林城(はやしじょう。金華山城。父清宗の築城とされる)最初の城代とされる。
はじめ西篠七郎。鎌倉の足利持氏(第4代鎌倉公方)に仕え、長門守中務小輔と称した。
致仕(引退)後は信州の林郷(長野県松本市里山辺)で暮らし、徳川将軍家の祖先有親(ありちか)とその子二郎三郎親氏(ちかうじ。松平家の祖)を匿い、正月元旦に自ら狩った兎の吸物を供した
その後林藤助と称し三河国に渡った松平親氏に仕え、東三河の野田郡に居住した。
康正元年(1455)5月10日に三河国野田にて没。法名は光政院白巌良圭大居子。
※松平家・林家の開祖は伝承の域なので、諸説あります

林藤助光政は小笠原清宗の次男で、「兄の長朝が井川の館にあり藤助が城代として林城を守った」と伝わる。<兎田(うさぎだ)伝説>が有名で、後の徳川幕府安祥七譜代家のひとつ林家の祖である。この地より礎石らしきものや古式五輪塔が幾つか出土している。
この地に「御屋敷畑」の地名が残り、江戸末期の『善光寺道名所図会』にも当地と思しき場所に「林藤助屋敷跡」と記載されているところから、少なくとも江戸末期まで伝承が残っていたと推測される。
(屋敷跡の解説文)

善光寺道名所図会巻之一
林村 林藤助宅址兎田が描かれている。林藤助旧趾は龍雲山廣澤寺(りゅううんざんこうたくじ。広沢寺)門前を北へ伝い5~6丁。更に少し北にある注連縄が引かれた石の小祠が「御府」。廣澤寺の鐘楼も描かれている。

廣澤寺の鐘楼堂 6廣澤寺から見た景色
▲現在の廣澤寺の鐘楼堂の傍らにある龍雲山開創550年記念の碑には兎のオブジェ付き。
鐘楼堂から(絵の右奥から左前面方向)は、白くそびえる飛騨山脈がくっきり見える。屋敷跡は右手。写真左手には千鹿頭社の鳥居。

里山辺の林古城 里山辺の御府古墳跡
▲左写真の左が林城(金華山城)の東城山で、右の山に林小城跡、中央奥が大嵩崎(おおずき、おおつき)。右は御府から林藤助屋敷跡地を望む。

林村
奈良~平安はじめの頃、林郷は六郎という者が里長であった。
永正年間(1504~20)建築の深志城(ふかし。今の松本城)に属して水上宗浮、小笠原長時らが領するが、桔梗ヶ原の戦に破れて武田領となる。武田家滅亡後は小笠原貞慶(さだよし。長時の子)が下総国栗端へ転封となるまで領した。
江戸時代は松本藩領、版籍奉還で明治4年に松本県に属して後、筑摩(ちくま)県筑摩郡林村となり、
明治8年(1875)に里山辺村に編入され(明治12年より東筑摩郡)、昭和29年(1954)に松本市に合併。
現在も長野県松本市[大字]里山辺[小字]林として、林の地名が残っている。

旧請西藩主林忠崇の来訪
明治37年9月25日に林忠崇侯が林家ゆかりの信州里山辺村を訪れ、広沢寺の祖先小笠原氏の廟に詣で、歌を詠んでいる。

信州祖先光政公の狩せし兎田を見て
 見るにつけ聞くにつけても忍ふかな しなのの山の兎田のさと

※現地に残された書画には「聞くものことに」とある

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林の小鳥ハクセキレイ 林小城の鹿 
林藤助屋敷跡を撮影したのが旧暦での十二月・新暦での二十日正月。果たして獲物は?
兎田辺りで近寄ってきた小鳥、ハクセキレイは、藤助の時代には長野には居なかったようだ。
屋敷の裏山(林小城跡の城山)では……なんと鹿の群れに遭遇! だが地元の人の話によると、この鹿達も近年、ニホンオオカミが居なくなって他所から移ってきて繁殖したらしい。
この時期冬眠(もしくは冬ごもり)中の獣が多く、有親親子が訪れたと伝わる旧歴十二月下旬から更に雪が深まる旧正月の頃は有親父子の逗留の食材探しに苦労しただろう。

里山辺の御府社・御府古墳跡

御府古墳跡 御府古墳跡案内板

▲御府(みふ)・里山辺九号古墳跡
古くより「六郎墓」の伝承があり、明治41年に千鹿頭神社に合祀されるまで、独立社の「御府社」として祀られていた。

千鹿頭神社に合祀された林六郎はこの近辺の林郷の里長で、延暦年間(782~806)に雨宮藤原諸継と共に蓬莱山鶴ヶ峰に千鹿頭神(ちかとうのかみ。諏訪の守矢神の御子)を勧請したとされる。
※案内板では田村将軍利仁(坂上田村麻呂と鎮守府将軍藤原利仁がモチーフか)の副将軍・藤原緒継(おつぐ。征夷大将軍坂上田村麻呂の後を受けて陸奥按察使となった藤原緒嗣か)としている

横穴式・無石槨の円墳で、縄文中期の土器の欠片が多数出土しているが出土品の時代差が大きく年代特定が困難だが、総じて6世紀中期頃と推定されている。
未確認ながら近くから古い墓石の「七基の五輪塔が出土した」とも伝わっている。

また、林城跡と林小城跡の間の大嵩崎(おおずき)辺りに林六郎屋敷跡がある。

請西藩林家の兎の吸物に因む松本一本葱

長野県認定「信州の伝統野菜」の一つ、太くて根元が曲がったのが特徴の「松本一本ねぎ」は、江戸時代から江戸への信州土産として親しまれてきたそうです。
それも請西藩林家と献兎乃記念碑記事で紹介した「兎の吸物」にまつわる、正月の吉祥を意味する野菜として知られていたとか。(長野県HP参照)

新まつもと物語プロジェクト内『松本一本ねぎ』ページ(http://youkoso.city.matsumoto.nagano.jp/food/?page_id=5043)で徳川家の先祖の有親(ありちか)親子を林藤助(はやしとうのすけ)がもてなした吉例として将軍家で正月に出す『兎の吸物といっしょに使われたのが、松本一本ねぎ』と、詳しく書かれています。

そば処吉邦の鴨南蛮蕎麦 そば処吉邦使用の松本一本ねぎ

▲早速、松本市のそば処 吉邦 (きっぽう)さんで松本一本ねぎ入りの鴨南蛮蕎麦を食べてきました。
葱といえば鴨。なかなかお目にかかれない肉厚の鴨がさっぱりとした一本ねぎと合って、脂もほどよく熱を溜めて体が芯まで温まります。

葱に興味があることを示すと、店主さんが松本一本ねぎのあれこれをお話してくださいました。
なんと厨房用の一本ねぎも見せて貰えました! 特徴通りに曲がっていて、泥を落とした白い肌がとてもつややかで綺麗ですね。霜にうたれた寒い時期、今が食べごろとのこと。
美味しいお蕎麦とためになるお話をありがとうございました!

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松本一本葱佃煮

松本から江戸……新宿へ帰る際のお土産には信州芽吹堂の『松本一本葱佃煮』を買いました。
青さ海苔との佃煮で、とってもご飯に合うんですよ~

信濃人の誇れる伝統の葱が、現代人にも広く伝わるといいですね。