投稿者「kazusa」のアーカイブ

龍溪寺-請西藩林家祖先累代の墓所

龍溪寺山門と本堂 請西藩林家祖先の墓域

龍溪寺と林家の墓所
四間の墓域の周囲にはかつて柵が在った。
林家系譜や寛政重修諸家譜等では林光政から数えて林家6代目忠政親子、7代吉忠、8代忠勝の墓所とされるが、龍渓寺には吉忠のみ埋葬されたと伝わっている。
貝渕藩請西藩の藩主となった林家の菩提寺は東京都の青松寺で、6~8代目の他は供養墓とみられる。
※幕末の請西藩主林忠崇は17代目

林吉忠(はやしよしただ)
藤四郎。元和元年(1615)5月7日に大坂夏の陣で29歳で戦死し、領地の殿辺田村(とのべた。義父忠政の隠居地ともされる)の従者が吉忠の首を持ち帰り龍渓寺に葬る。
【8/27:吉忠の説明文移動】→『請西藩林家祖先7代目林吉忠と大坂夏の陣

—————————————————-
林家の墓所の正面向かって右から

▼林忠晟(ただあきら。9代目忠隆の長子)の供養墓
實相圓光院の墓 實相圓光院 實相圓光院意
『實相圓光院殿』『天和二年 了悟日静居子 七月廿日』
※忠晟が部屋住で病死したため、林家は養子に出た横田家を継いでいた弟の忠朗(後に忠和)を呼び戻して継がせた

▼【十三代】林肥後守忠篤の供養墓
樹徳院の墓 樹徳院
『寛政八丙辰年 樹徳院殿従五位下 前肥州大守務参元滋大居士 三月廿七日』
※木造釈迦如来坐像(市指定文化財)の龍溪寺本尊は忠篤の寄進といわれる

▼【九代】林信濃守忠隆の供養墓
大享院墓 大享院 大享院の刻銘入りの燈籠
『元禄十丁丑年 大享院殿従五位下前信刕太守觸照遇光大居士 四月初九日』
※中央の一番大きな墓の為か郷土誌では吉忠の墓と紹介されているが、刻まれている内容は忠隆のもの

 

▼七代目吉忠の墓(左写真)と、隣(右写真)の實相院の墓
玄明院の墓 玄明院の意 實相院殿永寿日相大姉
【七代】林吉忠の墓
『元和元乙卯年 玄明院殿光山旧露大居士 五月七日』
意 旹元和元乙卯 三州住林藤四良□ 於大坂□死 光山旧露大居士 五月七日敬白
光山旧露大居士──三州に住む林藤四良(郎)が元和元年5月7日大坂で戦死した意が刻まれている。
京都伏見奉行として病死した16代忠交と同様に一心寺にも墓がある。

・實相院殿永寿日相大姉 延宝八庚申年三月廿八日
※吉忠の室という推測もされている

 

▼六代目忠政の墓(左写真)と、隣(右写真)の八代目忠勝の墓
忠政の墓 青山宗春の墓 青山宗春
【六代】林忠政の墓
『元和八年』圓明院月照道恕大居士 元和八年壬戌年四月十四日
※忠政は17歳で眼病を患い、領地の茂原郷殿辺村に道斎の名で隠居したとされる。この時、徳川家と林家の献兎賜盃の伝統が中断したようだ。従士の杉田七郎左衛門の介抱を受け59歳で没。

【八代】林忠勝の墓
『寛永十五戌虎年 □青山宗春居士 二月中旬二日』
※忠勝は父吉忠の討死の直後に生まれた。京都二条城守衛中に急死。常運院。

 

右側の並び
▼【十一代】林備後守忠勝の供養墓
仰樹院の墓 仰樹院の丸の内三頭左巴下に一文字家紋
『享保十七年 仰樹院殿前備州刺吏高嶽義堅大居士 九月』
※忠和の妹が嫁いだ溝口重時の次男。養子に入り林家を継ぐ。

▼【十代】林土佐守忠和の供養墓
普門院の墓 普門院
『宝永二乙酉年 普門院殿 前土州刺吏理観禪入居士 三月十有二日』
※初め忠朗(ただあきら)。長崎奉行、江戸町奉行(南町奉行)等務めた。法名は禪定

 

左側の並び
▼【十二代】林忠久の供養墓
紹隆院の墓 紹隆院 紹隆院の墓と家紋
『宝暦十三癸末年 紹隆院殿本嶽浄智大居士 十月廿有八月』

和尚 倒壊した古い墓石 崩れた墓石
・『文化七庚午年 圓寂達道謙周和尚覚霊 十二月十四日』
その他、右の並びに崩れた墓石もある。
郷土誌には6代目忠政の子藤蔵(慶長16年4月に17歳で没・桃雲金林居子)の墓もあるとされるが…

—————————————————-

 

龍溪寺総門 龍溪寺本堂 龍溪寺鐘楼堂
▲龍溪寺の門、本堂、鐘楼堂
安寧山龍溪寺(りゅうけいじ)
曹洞宗。大永元年(1521)8月28日、益芝明周和尚が開山。
その後に池和田城(市原市池和田)城主の多賀蔵人(戦国時代里見義弘に属した)が開基。

龍溪寺縁起の碑 龍溪寺本尊の解説 龍溪寺参道
▲縁起と本尊白衣観音の解説、厳かな参道

所在地:千葉県市原市石川1121-1

林忠英寄進の石燈籠-日枝神社

日枝神社の従五位下林肥後守源朝臣忠英寄進の石燈籠 日枝神社の林忠英寄進の石燈籠

▲従五位下林肥後守源朝臣忠英寄進の石燈籠

 奉献 石燈籠 一座
 武州東叡山
最樹院殿 尊前
 文政十丁亥年二月廿日
  林肥後守源忠英

最樹院は第11代将軍徳川家斉(いえなり)の父、治済(はるさだ/はるなり。御三卿一橋家)の法諡。
文政10年(1827)2月20日に治済が亡くなり、3月5日に江戸東叡山(東京都台東区上野の寛永寺)に葬られた。
そして将軍家斉の寵臣であった林忠英(上総国貝淵藩1万石の祖)が、この石燈篭を最樹院殿の宝前に寄進したのである。

文政12年(1829)9月には忠英は最樹院の贈官宝塔内の銅位牌を鋳直させ、鋳物師椎名伊予に金十五両を与えた記録があり、その後も幕府の葬事や法会等の事務を管理している。

その後戊辰戦争を経て更に近年の開発で徳川家の墓域が潰された折に、その場に在った石燈籠は払下げられ、各地の寺院に譲渡されることとなった。
奇遇にも、富津市大堀の明澄寺の本堂新築の工事担当の鈴木工務店(東京都)が寄贈しようと運んでいたなかに、林忠英に因むこの石燈篭が見つかったという。

昭和25年(1950)8月30日、ここ忠英ゆかりの地の貝渕日枝神社(現木更津市文京)に献納された。

石燈篭西に三日月 04石燈篭東に丸 05石燈籠の解説

▲中央に火袋、前2面に徳川将軍家の三つ葉葵紋、西に三日月、東に円の浮彫り

貝渕日枝神社山王宮の鳥居 貝渕日枝神社

▲山王宮の鳥居と日枝神社拝殿

所在地:千葉県木更津市文京六丁目10番16号 日枝神社境内

木更津市文化祭「西上総文化展」へ

11月14日から今日までの3日間、木更津市立中央公民館にて「西上総文化展」が開かれました。
旧君津郡地域の郷土を研究する西上総文化会主催の第66回目になる展示会です。

飯野藩関連の資料も出品されるとのことで、昨日見学に行きました。
ホールの壁と机に文献や軸物、詩や画や写真、歴史系冊子(私が持っているものもいくつか有って、くすり)等がずらりと並んだ充実の展示会ながら、史料には別紙で手作りの解説が添えられていて個展のような温かみもしっかり感じられました。

請西の長楽寺出品の小松宮彰仁親王(戊辰戦争で官軍の指揮を執り、その後も多く軍事や公務を担った皇族ですね)筆の軸や、貝渕の伊藤川魚店出品の明治初期の高札や同店伊藤氏(先々代でしょうか)が昭和期に記した眞武根陣屋史、重城保日記でおなじみ重城保(じゅうじょうたもつ)の書簡等大きなものがぱっと目につきます。
若めの見学者は戦時の新聞記事や満州の頃の絵葉書の前で足をとめていた印象です。

 

至徳堂コーナーには、儒学者の片山兼山(かたやまけんざん)のお墓のある明福寺(東京都港区)所蔵の資料や、至徳堂之碑や墓参時の写真が陳列されていました。

※至徳(しとく)堂は、文化14年(1817)8月に旧望陀郡巖根村(木更津市岩根)高柳出身の鈴木元明が、重城継之(重城保の父。高柳の名主)、時田祐(教授。同地区久津間出身)、正木幽谷(まさきゆうこく。詩家。里見忠義子孫。旧神納村/袖ケ浦出身)らと共に高柳の茶臼塚(銚子塚)に建てた学舎。付近が金田庄と呼ばれたため金田庄黌(こう)とも。
元明が尊敬していたのが片山兼山で、元明は兼山の手澤本古文考経一巻を埋めて碑を建てて奉ったそうです。

 

飯野藩の資料は数種有り、保科正益時代の文書、特に森要蔵に関する項を開いて展示されていました。
私は今のところ飯野藩の原紙・原本資料は、複製古書以外はほぼ複写頼りなので、こうした形で見学できるのは嬉しいです。

史料ではないですが佐貫藩絡みもちらりと有り、展示品を通じて郷土愛が深まりました。
来年の開催も楽しみです。

 

* * *

写真は公民館を後にして向かった木更津駅の『レトロな“みなとまち木更津”へようこそ』パネル。

千葉縣木更津鳥瞰図

昭和4年当時の木更津町を描いた松井天山の「千葉縣木更津鳥瞰」は復刻版が販売されており、富士見町の飲食店でも貼られているのを見かけました。
他にも昔の街並み紹介のパネルが西口(港側)のいくつかの店舗に設置されているとのことで、今度のんびり散策してみようと思います。

講武所跡

講武所跡 講武所跡の案内パネル

講武所跡
ペリー来航後の政情から水戸中納言斉昭等を中心に軍制改革を提唱する動きがあり、旗本・御家人に剣術・槍術・砲術などを学ばせ士気をあげるために江戸幕府が武芸訓練場として設けた講武所(こうぶしょ)が、この案内板の前の道から神田川までの一帯に在った。

 

講武所の歴史
嘉永の末(1853頃)、直心影流の剣客男谷下総守精一郎(おたに。信友。勝海舟の伯父※系譜上は従弟)が武技の訓練所設立の建白を上申。

安政元年(1854)5月13日の老中阿部伊勢守正弘は、浜苑(現在の浜離宮)南側の泉水蓮池等を埋立てて幅1町半・長さ三町ほどの広場に大砲操練の場「校武場」を創るための調査を目付に命じたが、設立は中止となる。
10月8日に「講武場」建設場所の調査を行わせ、12月2日に鉄砲洲築地堀田備中守中屋敷の上地、越中島調練場、筋違橋門外四谷門外(設置見合わせ)にそれぞれ建設を命じる。

安政3年(1856)春に築地堀田邸の地に総建坪1601坪余、1609畳・細畳3畳の講武場が落成。
3月24日に阿部正弘が「講武所」として創建を布達。
4月4日に久貝因幡守正典(くがいまさのり。旗本。娘が林忠交に嫁ぐ)・池田甲斐守長顕を総裁方とし、次席に跡部甲斐守良弼・土岐丹波守頼旨、先手に男谷精一郎等各役を定め、教授方として剣術は伊庭軍兵衛(惣太郎。心形刀流。伊庭八郎の養父)ら、砲術の頭取に下曾根金三郎・勝麟太郎(海舟)・江川太郎左衛門(英敏)らが任命されている。
4月13日講武所開場を前に、将軍徳川家定が私的に来臨。
4月25日に講武所の開場式が行われる。多くの来賓や見物人が集まり、教授方の弟子達による槍剣の試合や砲術打方演武が披露された。
5月6日に男谷精一郎が先手過人となり剣術師範役として出仕。
11月5日に将軍家定が公式に来臨。以降移転前まで年々臨場があった。
12月28日幕府は合薬座を設け、講武所附属とする。

安政4年(1857)閏5月に築地講武所構内に軍艦教授所(後に軍艦操練所)が設けられ、手狭になった講武所は移転を余儀なくされた。

安政5年(1858)正月14日深川越中島調練場完成。講武所の大規模な砲術調練は越中島で行われることになる。
10月、神田小川町(千代田区三崎町)の越後長岡藩(藩主牧野備前守忠恭)上屋敷周辺の土地7千坪への移転が決まり、翌年7月11日より起工。

安政7年(1860)正月15日講武所総裁を講武所奉行に改称。
26日小川町牧野邸の地に1970余坪の建物が完成し、講武所を移転。
2月3日に大老井伊掃部頭直弼(いい かもんのかみ なおすけ)らの臨席で開場式が行われる。

築地の講武所では剣槍砲の三術に水泳を加えて教授したが、場所の関係で水泳は軍艦操練所で行われここでは三術に柔術と弓術が加わった。(文久2年10月に柔弓術は廃止)
また兵学の講義は西洋流よりも伝統的な山鹿流が主流であったという。

3月3日に桜田門外で大老井伊直弼が暗殺され、この騒動の万一の備えとして11日より講武所に臨時泊番を置く。

文久元年(1861)4月5日、桜田門外の変を受けて将軍周辺の警護の強化が必要となり幕府は新たに親衛職の「奥詰」を新設し、講武所から伊庭軍兵衛ら50余人が登用された。
7月に稲葉兵部小輔正巳(いなばまさみ。安房館山藩藩主)が講武所奉行となる。

文久2年(1862)3月19日移転後初めて将軍徳川家茂が来臨。
4月8日、大関増裕(おおぜきますひろ。下野黒羽藩藩主)が講武所奉行となる。
11月15日大久保忠寛(ただひろ。一翁/いちおう)が講武所奉行に任じられるが、沙汰あって23日に罷免。
12月、講武所奉行大関増裕が陸軍奉行に転じる。

文久3年(1863)家茂上洛の際には伊庭八郎ら講武所の者達が随伴した。
家茂は大坂滞在中、玉造に臨時講武所を開設する。大坂講武所は城代1、加番2の3藩があたり、定番に武術稽古をつけるため講武所世話役45人を世話役とした。(飯野藩からは勝俣音吉等)

慶応2年(1866)11月18日、講武所が陸軍所へ引き渡される形で、講武所は廃止となる。
砲術師範達は陸軍所修業人頭取となり、残りの剣槍師範と職員達は遊撃隊に編入された。

維新後、講武所の地は陸軍の練兵場として使用される。
明治23年(1890)三菱会社に払い下げられて三崎町(みさきちょう)の市街地が開発された。

講武所の江戸復原図 江戸飯田町駿河臺小川町繪圖の講武所

▲江戸時代の切絵図と江戸復原図(案内パネルより)

■講武所付町屋敷(こうぶしょづきまちやしき)
幕府は筋違御門(すじかいごもん。現在の秋葉原にある万世橋と昌平橋の中間)外の加賀原(本郷代地~四ヶ町代地)を町屋に編入して講武所の維持費にあてたという。
明治2年に神田旅籠町(はたごちょう)と改称される。
この講武所上納代地は後に芸者街となり、俗に「講武所」と呼ばれていた。

講武所跡案内板所在地:東京都千代田区三崎町2-3-1 日本大学法学部図書館前

参考図書
・かみゆ歴史編集部『大江戸幕末今昔マップ
・東京市『東京市史外編3 講武所
・清水晴風『神田の伝説』
・勝安芳『海舟全集7

江戸の軍艦操練所跡

軍艦操練所跡 軍艦操練所跡地

軍艦操練所跡
ペリーによる黒船艦隊の来航後、西洋式海軍の必要性に迫られた江戸幕府が
旗本や御家人、諸藩の藩士等から希望者を集めて、航海術・海上砲術の講習やオランダから輸入した軍艦の運転練習をさせるため、この地に軍艦操練所を設立した。

安政4年(1857)4月11日、幕府がこの地に在った築地講武所内に軍艦教授所を創設。
永井尚志(ながいなおゆき。旗本)が総督、長崎海軍伝習所修業生の矢田堀鴻(やたぼり こう。景蔵。後に讃岐守)を教授方頭取、佐佐倉桐太郎(浦賀奉行与力)・小野広胖(こうはん。友五郎。笠間藩士)・鈴藤勇次郎・浜口與右衛門・岩田平作・山本金次郎・石井修三・中濱萬次郎を教授方
尾形作右衛門(鉄砲方)・土屋忠次郎・関川伴次郎・村田小一郎・鈴木儀右衛門・小川喜太郎・塚本恒輔、近藤熊吉を教授方手伝となる。
7月19日から有志者を入所させ始業。日割で測量並算術、造船、蒸気機関、船具運用、帆前調練、海上砲術、大小砲船打調練の稽古が行われる。
実習には観光丸・昌平丸・君澤丸などが使われた。

安政6年(1859)2月に長崎海軍伝習所が閉鎖され、実習で使用されていたオランダ製軍艦「咸臨(かんりん)丸」「朝陽(ちょうよう)丸」、運搬帆船「鵬翔(ほうしょう)丸」等が築地に移る。

万延元年(1860)正月26日に講武所が神田小川町(現千代田区)に移転後、跡地一帯が軍艦操練所の専用地となる。
文久2年(1862)7月4日船手を向井将監(むかいしょうげん)とし、勝麟太郎(海舟。講武所砲術師範)が頭取となる。

元治元年(1868)3月10日築地西本願寺西隣の火事で類焼し焼失。25日に南隣の広島藩(藩主浅野安芸守長訓/ながみち)下屋敷のあった場所(下の絵図では松平安芸守蔵屋敷)へ仮移転する。

慶應元年(1865)7月、新たに海軍奉行を置く。
慶應2年(1866)7月、海軍所と改称。
11月に類焼し、現在の浜離宮庭園の地に移る。

京橋南築地鐵炮洲絵図

▲案内パネルの『京橋南築地鐵炮洲絵図』

跡地には慶應3年日本最初の洋式ホテルである築地ホテル館(東京築地異人館)を竣工。翌年、中央に塔を立て前面に木造平屋を付属させる木造二階建て煉瓦張りの洋式建築が建設されるが、明治5年2月26日の大火で焼失。再び海軍用地となる。

采女橋 采女橋案内

▲采女橋
かつてこの地に在った松平采女正の屋敷跡が采女ヶ原と呼ばれ、明治2年に采女町となる。
現在の采女橋は築地ホテル館と銀座の柳を題材にした意匠で高欄等が整備されている。

所在地:東京都中央区築地6丁目20番地域