林家と史蹟」カテゴリーアーカイブ

林家や史蹟のことなど。最後の大名と言われる林忠崇については→請西藩主 林忠崇※年表

林忠崇の書[2]熊野神社扁額

波岡熊野神社請西藩主林忠崇直筆の篆額 波岡熊野神社請西藩主林忠崇一夢翁直筆の篆額

請西藩林忠崇公直筆の扁額
一夢(忠崇の号)92歳の書。
 「 熊野神社  昭和十四盛夏 九十弐翁 一夢 」

 

寛文6年(1666)に烏田郷の一部を林光政から数えて9代目の林信濃守忠隆が領し、この地は上総国内で林家の最も古い采地にあたる。
                            
熊野神社は明治維新前は熊野大権現と呼ばれ、領主の林家の崇敬が厚く元禄8年(1695)9月に社殿修繕料を寄付し且つ社地山林の貢賦を免じた。※林家10代林土佐守忠和
明和4年(1767)10月に13代林肥後守忠篤が熊野略記一巻を謹書し社へ奉納。
天保9年(1838)11月に15代林播磨守忠旭貝渕藩林肥後守忠英の子)が銘「八幡大武神赤心報國天保九年八月日一心子利光」短刀一口、銘「濃州関孫六九代定藤原兼光」小抦一個を奉納している。

慶応4年(1868)閏4月3日戊辰の17代林忠崇の出陣時に病身で付き従い9日に館山で命尽きた請西藩士諏訪数馬の家は下烏田村で代々林家に仕えている諏訪家。
藩主自らが脱藩し、新政府軍と戦った請西藩の領地は22日に没収となった。  

長い月日を経た昭和14年(1939)縁は途切れず、忠崇が亡くなる二年前に熊野神社の額となる書を揮毫し、諏訪氏により奉献された。

 

波岡下烏田熊野神社鳥居 波岡下烏田熊野神社拝殿

熊野神社
祭神は伊邪那岐尊、素盞鳴尊、市杵島姫命、誉田別命。
宝暦6年(1756)4月社殿を造立し、慶応3年(1867)社殿再建。
明治6年(1873)に村社となる。
明治39年(1906)合祀令により八雲神社・厳島神社・八幡神社・中烏田八幡神社を合祀。
平成22年(2010)3月に本殿・幣殿・拝殿の改修と鳥居を建替えた。

熊野神社所在地:千葉県木更津市下烏田字熊野谷671

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旧領請西の日枝神社の昭和8年建立の石柱の社号も忠崇の筆です

鹿野山の請西藩殉難者「招魂之碑」

鹿野山の招魂之碑 招魂之碑裏面

招䰟之碑の文字は榎本武揚(えのもとたけあき)の書。
明治30年(1897)4月3日と4日に上総一の霊場といわれる鹿野山(かのうざん)で、旧請西藩林忠崇公を祭主として旧請西藩戦病死者祭典が営まれました。
旧請西藩の縁故者で委員会を設け、祭典に合わせて祭典場にこの招魂碑が建てられ、戦没した従軍者も併祭されました。

招魂之碑説明板 鹿野山の石祠
招魂之碑案内板========================================================
【表】招魂之碑 明治三十年二月 日
        正二位勲一等 子爵 榎本武揚書
【裏】
慶応戊辰之変大勢既革焉然旧夢未醒之徒奔走於国事者数十名皆多戦死病没三十年来
未嘗一慰英魂毅魄抑開港攘夷其論雖異佐東援西其業雖殊至於性命供犠牲以計国利民
福何有所撰藩主林君前既蒙   恩命又授栄爵則      天意所在瞭然可知矣
死者冀小安頃同志相謀建招魂碑乃録其姓名以伝不朽云爾
 北爪 貢  大野禧十郎 廣部與惣治 政田 謙蔵 吉田 柳助 木村嘉七郎
 高橋 護  秋山 宗蔵 小倉鍨三太 篠原九寸太 重田信次郎 西森與助
 清水 半七 小倉由次郎 諏訪 數馬 大野 静
明治三十年四月三日 前陸軍経理学校教官従六位勲五等 廣部 精識
          陸軍経理学校嘱託教授   癸山 劉 雨田書  井龜泉刻
【左】
三十年祭典薫事者
  祭主     林 忠崇
  副祭主 男爵 林 忠弘
  委員長    広部 精
    各委員姓名別刻
【右】
廣部周助 大野尚貞 長谷川源右衛門 北爪善橘 中村三十郎 加藤雄之助
篠原愛之助 篠原竹四郎 磯部克介 酒井定之進 丸山悦太郎 友部雄蔵 淺生雄仙
小倉左門 小幡輪右衛門 逸見庫司 織本新助 滑川彦質 以上病没
大野友彌 伊能矢柄 檜山省吾 岩瀬銓之助 小幡直次郎 安藤信三郎 中野秀太郎
橋本松蔵 加納佐太郎 小林清太郎 水田萬吉 木村隼人 宮崎龜之助 逸見静馬
渡邊勝造 杉浦銕太郎 岩田弘 吉田収作 岩垂謙輔 外山源之丞 高浦新平
以上皆従軍者
□□□右衛門 □□兵左衛門 野口登作 山口曹参 廣部軍司 以上五名病没
□□精 國吉惣兵衛 大野喜六 田中彦三郎 松崎蔵之介 廣部文助 善場雄次郎
善場雄次郎 大野春貞 □□□光 大竹徳國 西尾斧吉 國吉龜次郎

To Kazusa
 招魂之碑は、戊辰戦争の際、旧幕府軍について敗れた上総国請西藩藩士の英霊の少安を願い、明治30年に建てられたもので、招魂之碑という文字は幕府海軍副総裁であった榎本武揚の書。江戸城のあった方角を向いており、明治大正時代の詩人、評論家、随筆家として有名な大町桂つきは、鹿野山二十詠の中で「臺(台)ノ畑高く聳(そび)ゆる招魂面するは皇城にして」と詠っています。
 戊辰戦争当時の上総国請西藩の藩主は「林忠崇」(はやしただたか)。若くして家督を相続し、文武両道で、将来老中になりうる器であると評価されていたそうです。
 なお、碑文は概ね次のような内容となっています。
 戊辰戦争の関係で多くの者が戦・病死したが、30年来、未だかつて一度も英霊の猛々しい魂をしずめていない。そもそも、開港派、攘夷派、その考えや行ったことは異なるが、国や民のことを考え、命を懸けて戦ったことに違いはなく、分け隔てる必要はないはずである。林家は既に情けある処置により家格再興を果たしたが、これはつまり、天皇の意志がそうであることを示している。
 ゆえに、死者の少安を願い、招魂碑を建て、後世に伝える。
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碑は案内板にあるように、大町桂月の鹿野山二十咏「臺ノ畑高く聳ゆる招魂碑面する方は皇城にして」と詠まれ、皇城(皇居)すなわちかつての江戸城に向けて建っています。
臺ノ畑は、碑の在る場所の土地の名前(旧君津郡秋元村鹿野山字臺畑)でしょうか。

富津岬と富士山 鹿野山九十九谷

左写真は碑が向かう方角を、分かりやすいようにマザー牧場(富津市田倉)前の鬼泪山(きなだやま。江戸時代は佐貫藩領)辺から撮影。
左手に富士山、右手に富津岬とその向こうに東京湾を挟んで江戸城跡があるわけです。
天気の良い日は浦賀水道や請西藩主・藩士達が渡った箱根の役の地までぐるりと見渡せます。
碑の背は鹿野山の南面、房総の山々が望める九十九谷(くじゅうくたに)に向いています。右写真は九十九谷展望公園で撮影。

招魂之碑所在地:千葉県君津市鹿野山

請西藩林家祖先7代目林吉忠と大坂夏の陣

一心寺の林籐四郎墓 林籐四郎吉忠墓の碑文

▲大阪一心寺の林籐四郎墓
玄明院殿光山舊露大居士」「元和元乙卯年」「五月七日
俗名林籐四郎吉忠 元和元年五月七日戰死
 今歳文化十一甲戌年相當二百年之遠忌因而為追福新造立石碑者也
 文化十一年甲戌年五月

文化11年(1814)5月に三百遠忌追福のため林家14代林忠英が建立。
忠英は2年後の文化13年8月にも大樹寺に4代忠満・5代忠時の供養墓を建立している。

 

林吉忠(はやしよしただ)藤四郎。初めは吉正(よしまさ)。妻は河村善七郎重信の娘。

天正15年(1587)三州で家康の家臣上林越前政重(竹庵。又市、良清)の長男として生まれる。林家6代目忠政の弟忠定の妻(上林政重の娘)の弟にあたる。
慶長16年(1611)に忠政の長子藤蔵が病没したため、林家の養子となった。
吉忠は林家7代目当主となり徳川秀忠に仕え扶持米200俵を賜わる。

元和元年(1615)4月9日、300俵加増し番組に入る。
4月下旬に徳川勢が大坂へ進軍を開始。
5月5日、徳川家康・秀忠が伏見を出発、一番組の水野勝成らが国分に至る。
吉忠は大番頭高木主水正次(まさつぐ。河内丹南藩初代藩主。家紋は高木鷹)隊に属して出陣する。
6日に家康は岡山口の先鋒を七番手前田利常、天王寺口の先鋒を五番手本多忠朝に命じる。この日、水野勝成ら大和口の諸将の道明寺の戦い。

7日午前2時、秀忠は千塚を出発。大番六隊の左は阿部正次・内藤大和守・松平定綱ら、右に高木正次・青山忠俊・水野正忠。
10時頃に平野の家康と来会した秀忠は岡山への出向を命じられる。

岡山こと御勝山古墳 岡山から見た天王寺方面

岡山(御勝山)と岡山から見た天王寺方面

岡山方面の布陣は秀忠の前備えに藤堂高虎、井伊直孝、前田利常らが平野道を挟み中間に細川忠興。
秀忠の麾下は、前に高木正次、阿部正次らが大番組を率いた。
二番として書院番組は書院番頭青山忠俊、次に水野忠清、内藤清次、松平定綱。
左に旗本組頭酒井忠世、土井利勝の両隊が並び、その後ろに本多正信、高力忠房、鳥居成次、日根野吉明、前田利考、立花宗茂ら諸隊。前田隊の後ろに黒田長政、加藤嘉明。
秀忠は岡山の南方に位置する平野道(ひらのみち。大坂道。中高野街道)の西に在り、安藤重信隊が後拒となった。
※平野道…大阪天王寺から奈良街道(明治以降の名称で現国道25号線相当)と分岐し高野山へ向かう道。

正午に天王寺口で豊臣方先鋒が逸り発砲し、開戦。
秀忠には家康に指示を待つよう軍令があったが、天王寺口で徳川方の本多・小笠原等の諸隊が破れて西軍が突入すると、先手の松平利常らが進軍し大野治長の銃隊(治長本隊より東に布陣)を攻撃した。
阿部野側に陣していた水野隊は、前田利常隊へ続き青山隊と先駆けを争いながら書院番組を率いて北上する。
第二の左備えの藤堂・井伊隊、旗本組も平野道沿いの桑津村から進軍し先頭は天王寺の側面を狙うが、毘沙門地辺りで毛利勝永隊に阻止され、岡山口の大野治房の兵らが呼応して秀忠麾下を狙い護衛隊も防戦となる。

高木隊も大番組を率いて天王寺表で戦功をあげた。
茶臼山の南に布陣する福島正鎮(まさしげ)・福島正之(まさもり)を松平忠直(越前北ノ庄藩主。結城秀康の長男)の兵が撃破。
高木勢も真田信繁(幸村)らと戦い、忠直隊が信繁を討ち取る。

豊臣勢は10町ほど退き玉造稲荷社(真田山の北)前で踏留まり、これを追う高木隊は目前の沼を避けて迂回し、青山隊は沼を直進し突撃した。

茶臼山・天王寺口の豊臣勢が敗れると徳川本陣に決死の突撃をかけるため南下する明石守重(あかしもりしげ。掃部。関ヶ原では宇喜多勢の先鋒であったが大坂の役では豊臣方)と高木勢が生玉宮の坂で交戦し、林吉忠が討死
吉忠、この時29歳。

生国魂神社鳥居 生国魂神社拝殿

生玉北門坂 真言坂 奥が生国玉神社表

▲生国魂神社への坂。千日前通りからの参道「生玉北門坂」と七坂の「真言坂」と神社表への坂
※林吉忠決戦地の生玉(いくたま)坂については、大坂城の大手の生玉門(生国魂神社は豊臣秀吉が大坂城の築城に際に現在地に移す前に難波宮や石山本願寺のそばにあった名残)付近や玉造宮等の可能性もあるが、戦況や地形から7日当時の生玉宮在所を採った

林家領地の殿辺田村(とのべた。義父忠政の隠居地ともされる)の従者が吉忠の首を持ち帰り、龍渓寺に葬る。玄明院殿光山旧露大居士。
『寛政重修諸家譜』では天王寺で火葬し遺骨を龍渓寺に葬った(法名久露)とする。

吉忠討死後、水野勝成らが明石掃部を敗走させ、玉造稲荷社の戦も徳川方が制する。
やがて周知の通り徳川方が取り囲み大坂城は陥落。
林家では吉忠の討死の直後、出陣中に腹の中に居た八代目となる林忠勝が出生した。

大阪一心寺の林籐四郎墓 林籐四郎墓の林家家紋

▲吉忠の墓正面と石扉の林家家紋「丸の内三頭左巴下に一文字」

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合戦記や家伝は正確な史実とは言えませんが、林吉忠の戦いは各家に伝わるそれらを中心に推測しました。
また、一心寺には林家16代林忠交の墓、吉忠と同じく大坂の陣で戦死した本多忠朝の墓や徳川家康の臣松平助十郎正勝の墓等もあります。

大樹寺[3]請西藩林家祖先の林忠満・林忠時供養墓

松平家菩提寺の大樹寺には徳川家古参譜代の林家の墓域がある。
文化13年(1816)8月に林家14代の林肥後守忠英が、三河で松平家に仕えた林忠満・林忠時の墓の2基の供養塔を建てたという。
かつては一段高く門のある外柵と、それぞれの背後に宝塔が在ったようだが、今は墓碑のみが残る。

林藤助忠満の墓 林藤助墓の刻文

林家四代 林忠満の墓
上部に林家の家紋丸の内三頭左巴下に一文字が刻まれている。墓はだいぶ傾いてしまっている。
「全忠院殿明徹道光大居子」
「天文九庚子年 六月初六日 林藤助」

■林藤助忠満(ただみつ)
藤五郎、後に藤八郎または藤助。政通(まさみち)・縁正(よりまさ)
林藤助光政から数えて4代目。代々続く侍大将で、正月の御酒盃をも御一門より先に罷り出て頂戴する家柄である(※大久保忠教『三河物語』の忠満についての要約)
松平信忠・清康・広忠に仕え、各所でよく戦い、森山崩れの後で流浪の身になった年若い広忠(千松丸。松平家8代目。家康の父)が家臣達の忠義と力で天文6年(1537)に岡崎城に入った際の御感書(感状)の5名に名を連ねている。

墓に刻まれている天文9年(1540)6月6日は織田信秀(信長の父)による安祥城攻めの日で、林藤助も出陣している。
林家に伝わる『林家過去帳』林家12代忠久による『林家系譜』に林忠満の死去の日は天文九庚子年六月と書かれている。

一方で『林氏系図』『参河記』『家忠日記』等では天文17年小豆坂の戦いで討死したとする。(林家15代忠旭の『林家系譜』は天文十年戊申年とあり干支の通りなら七の脱字か)

小豆坂の合戦はまず天文11年(1542)8月10日に今川義元が三河田原に侵攻し、織田信秀が豆小坂で迎えうって「小豆坂の七本槍」と呼ばれる将達の活躍で織田軍が勝利したことが織田側の史料には書かれている。

その後の天文17年(1548)3月、岡崎城を攻めるため織田信秀は庶子三郎五郎信広(信長の異母兄)と弟の津田孫三郎信光に四千騎の兵をつけて三河に進軍させた。信広達は8月に上和田の砦に入り、10日に信秀も安祥城に着陣する。
19日に織田勢は津田信光を将として進み、小豆坂で今川勢と鉢合わせの形で合戦となる。
今川勢は苦戦し、戦況を変えるため今川方の松平勢から松平伝十郎信勝(太郎左衛門信吉の弟)、小林源之助重次、そして林藤五郎忠満達が横合いから攻め入って戦い、討死した。
彼らの決死の突撃により織田が疲労したと見て攻め続け今川勢は織田勢を押し返すことが出来た。

 

林藤七忠時墓 林藤七墓の碑文

林家五代 林忠時の墓
忠満の墓と同じく上部に林家の家紋がある。
「榮林院殿天翁淨俊大居子」
「永禄十二年己巳五月二十二日 林藤七忠時墓」

■林藤五郎忠時(ただとき)
林家5代目当主。藤五郎。政忠(まさただ)・清忠(きよただ)
松平広忠・元康(徳川家康)に奉仕。
永禄6年(1563)に一向宗門徒による三河一揆がおこり、有力豪族や今川残党勢力を巻き込み本多正信ら松平家臣までも次々に一向一揆側につく窮地でも、林忠時は元康を裏切らずに諸方を守った。

死去の日は『林家過去帳』にも墓の刻字と同じく永禄十二年己巳五月(1569年)とあるが、忠旭の『林家系譜』では翌年の元亀元年六月九日と書かれている。

 

徳川家康の江戸移封に付き従った林家貝渕藩請西藩)の菩提寺は現在の東京都の青松寺となるが
病で上総国の領地に隠居した林家6代忠政・大坂の役で戦死した7代吉忠・京都二条城守衛中に急死した8代忠勝の墓と、以降13代忠篤までの供養墓が千葉県の龍溪寺にある。

林郷の兎田旧蹟碑

兎田旧蹟碑 兎田案内板

兔田舊蹟碑
江戸時代、徳川将軍家の正月元旦に出す兎の吸物の由縁、林藤助(とうすけ)が兎を得たという信州松本領内の廣澤寺門前、寺所有の5、6反程の田地を兎田(うさぎだ)と称して租税を免じられていたという。

明治8年に林村が里山辺村(現松本市里山辺)に編入される前まで「筑摩県筑摩郡林村[字]兎田」として兎田という小字が存在した。

筑摩郡古跡名勝絵図
▲古い絵図にも兔田が描かれている。

 徳川氏の始祖、松平有親・親氏父子がまだ世良田を名乗っていたころ、諸国放浪の途、この近辺に居を構えていた旧知の林藤助光政(小笠原清宗の次男)を頼ったのは、暮れも押し迫った雪の降りしきる寒い日であった。
 何をもてなすものとて無い藤助は、野に出てこの近辺の林でようやく一羽の野兎を見つけ、首尾よく捕まえて馳走したところ、父子は甚く感動して帰路についた。

 その後、家康の代に幕府を開くにおよび、「これはかの兎のお蔭」と正月に諸侯にお吸物を振舞うことを幕府の吉例にしたという。
 『林』の姓も徳川氏から賜ったものという。
 江戸時代この地は「免田」(めんでん)として税を免除されていた。

 徳川家年中行事歌合わせに、「をりにあえば 千代の例えとなりにけり 雪の林に得たる兎も」とある。
 林家は『松平安祥七譜代』の最古参家である。 (「兎田」案内板)

 林家の家紋「左三巴下一文字」。徳川氏より賜ったもので、「正月並み居る諸侯の中で一番にお杯を頂戴する家柄を表す」という。
 請西藩(千葉県)の地元では「一文字侯」と呼ばれていた。 (案内板上部の家紋の説明)

旧兎田渡橋 里山辺林郷兎田の山々
▲復旧した旧兎田渡橋と、寺山を背にした兎田
古跡として兎田と共に「兔橋」が記されている史料もある。
兎田旧跡碑の遠景左手前に林小城の城山、奥(東方)に林大城(金華城)のある東城山。

■旧請西藩主林忠崇の来訪
明治時代に林忠崇侯が林家ゆかりの信州を訪れ「里山辺村の八景」歌を詠んでいる。
兎田暮雪
 さやけくも昔を今に照らしけり 袖に露よふ城山の月

 

また、長野県では松本一本ねぎを兎の吸物に因む葱として紹介している。