林家と史蹟」カテゴリーアーカイブ

林家や史蹟のことなど。最後の大名と言われる林忠崇については→請西藩主 林忠崇※年表

請西藩林家祖先「献兎賜盃」林藤助光政の屋敷跡

林光政雪中に兔を狩図 林藤助屋敷跡
▲「林光政 雪中に兔を狩」図と、伝承林藤助屋敷趾 (『善光寺道名所図会』挿絵/兎田の案内板より)

林光政(三河林家。貝渕藩請西藩林家の祖)
呼名は藤助。信濃国(長野県)守護・府中小笠原氏の小笠原清宗の三男(または次男)で小笠原長朝(父と同じ信濃守)の同母弟。母は武田信昌の娘。
林城(はやしじょう。金華山城。父清宗の築城とされる)最初の城代とされる。
はじめ西篠七郎。鎌倉の足利持氏(第4代鎌倉公方)に仕え、長門守中務小輔と称した。
致仕(引退)後は信州の林郷(長野県松本市里山辺)で暮らし、徳川将軍家の祖先有親(ありちか)とその子二郎三郎親氏(ちかうじ。松平家の祖)を匿い、正月元旦に自ら狩った兎の吸物を供した
その後林藤助と称し三河国に渡った松平親氏に仕え、東三河の野田郡に居住した。
康正元年(1455)5月10日に三河国野田にて没。法名は光政院白巌良圭大居子。
※松平家・林家の開祖は伝承の域なので、諸説あります

林藤助光政は小笠原清宗の次男で、「兄の長朝が井川の館にあり藤助が城代として林城を守った」と伝わる。<兎田(うさぎだ)伝説>が有名で、後の徳川幕府安祥七譜代家のひとつ林家の祖である。この地より礎石らしきものや古式五輪塔が幾つか出土している。
この地に「御屋敷畑」の地名が残り、江戸末期の『善光寺道名所図会』にも当地と思しき場所に「林藤助屋敷跡」と記載されているところから、少なくとも江戸末期まで伝承が残っていたと推測される。
(屋敷跡の解説文)

善光寺道名所図会巻之一
林村 林藤助宅址兎田が描かれている。林藤助旧趾は龍雲山廣澤寺(りゅううんざんこうたくじ。広沢寺)門前を北へ伝い5~6丁。更に少し北にある注連縄が引かれた石の小祠が「御府」。廣澤寺の鐘楼も描かれている。

廣澤寺の鐘楼堂 6廣澤寺から見た景色
▲現在の廣澤寺の鐘楼堂の傍らにある龍雲山開創550年記念の碑には兎のオブジェ付き。
鐘楼堂から(絵の右奥から左前面方向)は、白くそびえる飛騨山脈がくっきり見える。屋敷跡は右手。写真左手には千鹿頭社の鳥居。

里山辺の林古城 里山辺の御府古墳跡
▲左写真の左が林城(金華山城)の東城山で、右の山に林小城跡、中央奥が大嵩崎(おおずき、おおつき)。右は御府から林藤助屋敷跡地を望む。

林村
奈良~平安はじめの頃、林郷は六郎という者が里長であった。
永正年間(1504~20)建築の深志城(ふかし。今の松本城)に属して水上宗浮、小笠原長時らが領するが、桔梗ヶ原の戦に破れて武田領となる。武田家滅亡後は小笠原貞慶(さだよし。長時の子)が下総国栗端へ転封となるまで領した。
江戸時代は松本藩領、版籍奉還で明治4年に松本県に属して後、筑摩(ちくま)県筑摩郡林村となり、
明治8年(1875)に里山辺村に編入され(明治12年より東筑摩郡)、昭和29年(1954)に松本市に合併。
現在も長野県松本市[大字]里山辺[小字]林として、林の地名が残っている。

旧請西藩主林忠崇の来訪
明治37年9月25日に林忠崇侯が林家ゆかりの信州里山辺村を訪れ、広沢寺の祖先小笠原氏の廟に詣で、歌を詠んでいる。

信州祖先光政公の狩せし兎田を見て
 見るにつけ聞くにつけても忍ふかな しなのの山の兎田のさと

※現地に残された書画には「聞くものことに」とある

* * *

林の小鳥ハクセキレイ 林小城の鹿 
林藤助屋敷跡を撮影したのが旧暦での十二月・新暦での二十日正月。果たして獲物は?
兎田辺りで近寄ってきた小鳥、ハクセキレイは、藤助の時代には長野には居なかったようだ。
屋敷の裏山(林小城跡の城山)では……なんと鹿の群れに遭遇! だが地元の人の話によると、この鹿達も近年、ニホンオオカミが居なくなって他所から移ってきて繁殖したらしい。
この時期冬眠(もしくは冬ごもり)中の獣が多く、有親親子が訪れたと伝わる旧歴十二月下旬から更に雪が深まる旧正月の頃は有親父子の逗留の食材探しに苦労しただろう。

龍溪寺-請西藩林家祖先累代の墓所

龍溪寺山門と本堂 請西藩林家祖先の墓域

龍溪寺と林家の墓所
四間の墓域の周囲にはかつて柵が在った。
林家系譜や寛政重修諸家譜等では林光政から数えて林家6代目忠政親子、7代吉忠、8代忠勝の墓所とされるが、龍渓寺には吉忠のみ埋葬されたと伝わっている。
貝渕藩請西藩の藩主となった林家の菩提寺は東京都の青松寺で、6~8代目の他は供養墓とみられる。
※幕末の請西藩主林忠崇は17代目

林吉忠(はやしよしただ)
藤四郎。元和元年(1615)5月7日に大坂夏の陣で29歳で戦死し、領地の殿辺田村(とのべた。義父忠政の隠居地ともされる)の従者が吉忠の首を持ち帰り龍渓寺に葬る。
【8/27:吉忠の説明文移動】→『請西藩林家祖先7代目林吉忠と大坂夏の陣

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林家の墓所の正面向かって右から

▼林忠晟(ただあきら。9代目忠隆の長子)の供養墓
實相圓光院の墓 實相圓光院 實相圓光院意
『實相圓光院殿』『天和二年 了悟日静居子 七月廿日』
※忠晟が部屋住で病死したため、林家は養子に出た横田家を継いでいた弟の忠朗(後に忠和)を呼び戻して継がせた

▼【十三代】林肥後守忠篤の供養墓
樹徳院の墓 樹徳院
『寛政八丙辰年 樹徳院殿従五位下 前肥州大守務参元滋大居士 三月廿七日』
※木造釈迦如来坐像(市指定文化財)の龍溪寺本尊は忠篤の寄進といわれる

▼【九代】林信濃守忠隆の供養墓
大享院墓 大享院 大享院の刻銘入りの燈籠
『元禄十丁丑年 大享院殿従五位下前信刕太守觸照遇光大居士 四月初九日』
※中央の一番大きな墓の為か郷土誌では吉忠の墓と紹介されているが、刻まれている内容は忠隆のもの

 

▼七代目吉忠の墓(左写真)と、隣(右写真)の實相院の墓
玄明院の墓 玄明院の意 實相院殿永寿日相大姉
【七代】林吉忠の墓
『元和元乙卯年 玄明院殿光山旧露大居士 五月七日』
意 旹元和元乙卯 三州住林藤四良□ 於大坂□死 光山旧露大居士 五月七日敬白
光山旧露大居士──三州に住む林藤四良(郎)が元和元年5月7日大坂で戦死した意が刻まれている。
京都伏見奉行として病死した16代忠交と同様に一心寺にも墓がある。

・實相院殿永寿日相大姉 延宝八庚申年三月廿八日
※吉忠の室という推測もされている

 

▼六代目忠政の墓(左写真)と、隣(右写真)の八代目忠勝の墓
忠政の墓 青山宗春の墓 青山宗春
【六代】林忠政の墓
『元和八年』圓明院月照道恕大居士 元和八年壬戌年四月十四日
※忠政は17歳で眼病を患い、領地の茂原郷殿辺村に道斎の名で隠居したとされる。この時、徳川家と林家の献兎賜盃の伝統が中断したようだ。従士の杉田七郎左衛門の介抱を受け59歳で没。

【八代】林忠勝の墓
『寛永十五戌虎年 □青山宗春居士 二月中旬二日』
※忠勝は父吉忠の討死の直後に生まれた。京都二条城守衛中に急死。常運院。

 

右側の並び
▼【十一代】林備後守忠勝の供養墓
仰樹院の墓 仰樹院の丸の内三頭左巴下に一文字家紋
『享保十七年 仰樹院殿前備州刺吏高嶽義堅大居士 九月』
※忠和の妹が嫁いだ溝口重時の次男。養子に入り林家を継ぐ。

▼【十代】林土佐守忠和の供養墓
普門院の墓 普門院
『宝永二乙酉年 普門院殿 前土州刺吏理観禪入居士 三月十有二日』
※初め忠朗(ただあきら)。長崎奉行、江戸町奉行(南町奉行)等務めた。法名は禪定

 

左側の並び
▼【十二代】林忠久の供養墓
紹隆院の墓 紹隆院 紹隆院の墓と家紋
『宝暦十三癸末年 紹隆院殿本嶽浄智大居士 十月廿有八月』

和尚 倒壊した古い墓石 崩れた墓石
・『文化七庚午年 圓寂達道謙周和尚覚霊 十二月十四日』
その他、右の並びに崩れた墓石もある。
郷土誌には6代目忠政の子藤蔵(慶長16年4月に17歳で没・桃雲金林居子)の墓もあるとされるが…

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龍溪寺総門 龍溪寺本堂 龍溪寺鐘楼堂
▲龍溪寺の門、本堂、鐘楼堂
安寧山龍溪寺(りゅうけいじ)
曹洞宗。大永元年(1521)8月28日、益芝明周和尚が開山。
その後に池和田城(市原市池和田)城主の多賀蔵人(戦国時代里見義弘に属した)が開基。

龍溪寺縁起の碑 龍溪寺本尊の解説 龍溪寺参道
▲縁起と本尊白衣観音の解説、厳かな参道

所在地:千葉県市原市石川1121-1

林忠英寄進の石燈籠-日枝神社

日枝神社の従五位下林肥後守源朝臣忠英寄進の石燈籠 日枝神社の林忠英寄進の石燈籠

▲従五位下林肥後守源朝臣忠英寄進の石燈籠

 奉献 石燈籠 一座
 武州東叡山
最樹院殿 尊前
 文政十丁亥年二月廿日
  林肥後守源忠英

最樹院は第11代将軍徳川家斉(いえなり)の父、治済(はるさだ/はるなり。御三卿一橋家)の法諡。
文政10年(1827)2月20日に治済が亡くなり、3月5日に江戸東叡山(東京都台東区上野の寛永寺)に葬られた。
そして将軍家斉の寵臣であった林忠英(上総国貝淵藩1万石の祖)が、この石燈篭を最樹院殿の宝前に寄進したのである。

文政12年(1829)9月には忠英は最樹院の贈官宝塔内の銅位牌を鋳直させ、鋳物師椎名伊予に金十五両を与えた記録があり、その後も幕府の葬事や法会等の事務を管理している。

その後戊辰戦争を経て更に近年の開発で徳川家の墓域が潰された折に、その場に在った石燈籠は払下げられ、各地の寺院に譲渡されることとなった。
奇遇にも、富津市大堀の明澄寺の本堂新築の工事担当の鈴木工務店(東京都)が寄贈しようと運んでいたなかに、林忠英に因むこの石燈篭が見つかったという。

昭和25年(1950)8月30日、ここ忠英ゆかりの地の貝渕日枝神社(現木更津市文京)に献納された。

石燈篭西に三日月 04石燈篭東に丸 05石燈籠の解説

▲中央に火袋、前2面に徳川将軍家の三つ葉葵紋、西に三日月、東に円の浮彫り

貝渕日枝神社山王宮の鳥居 貝渕日枝神社

▲山王宮の鳥居と日枝神社拝殿

所在地:千葉県木更津市文京六丁目10番16号 日枝神社境内

請西藩林家と献兎乃記念碑

献兎乃記念碑と道祖神 献兎乃記念碑

献兎乃記念碑(木更津市上根岸の八坂神社)
徳川家の代々御嘉例(めでたい吉例)として林家が兎を献上し、年始の儀式で兎の吸物を共に祝った。
江戸時代の儀礼では正月元旦、白書院(儀式時の将軍出御の間)の上段に将軍が着座し、土器(からわけ)に盛った汁無しの兎の吸物と御酒を三方に載せて下され、吸物は足打膳に載せて御三家及び大廊下詰の諸侯に下された。礼者は、三献又は一献頂戴し、吸物の兎肉を各々白紙に包み、懐中にして退下する。
また老中、若年寄も登城して、政所に出づる以前に兎の吸物にて御酒三献を厨を掌る者が勤め、大目付の者が相伴する。

 

■献兎賜盃の発祥
家康より9代の祖先の得川有親(ありちか。世良田とも)は足利持氏(第4代鎌倉公方)の近臣であったが、永享10年(1438)6月の乱で持氏が敗北してしまう。有親は二郎三郎親氏(ちかうじ)と供に鎌倉を逃れ、故郷の上野国新田(群馬県の旧新田郡)世良田村得川へ帰る。しかし国許も安穏とは言えなかった。
永享11年(1439)3月上旬に有親父子は上州を去り、相模国(神奈川県)藤沢の清浄寺で剃髪し、有親は長阿弥(ちょうあみ)、親氏は徳阿弥(とくあみ)の名で出家する。
10月に藤沢を発ち、12月に信濃国に至る。
そしてかつては同じように持氏に取り立てられていたが讒言に遭って林郷に隠れ住んでいた小笠原長門守光政を頼って身を寄せた。

歳の暮れの29日、隠遁中で大したもてなしもできないがせめて正月の膳は豊かにしようと光政は、有親父子のために雪深い山に入る。冬場で得物の姿は無かったが、奇跡的に一疋の兎が現れ、持ち前の弓の腕で見事に狩ることができた。
翌正月元日朝、麦飯に田作の膾と兎の吸物を供した。

4月下旬に有親父子は三河国に渡り坂井郷に寓居する。この地で有親は亡くなった。
親氏は還俗して加茂郡松平村の豪族に婿入りして家を継ぎ、松平太郎左衛門と名乗り松平家の祖となる。
家を興した親氏は光政を召抱えた。
光政は親氏から林姓と丸の内三頭左巴の家紋を授かり、東三河の野田郡に居住した。

三河では長篠の菅沼の郷侍土岐大膳が親氏の敵となり、光政と協力して攻め落とす。土岐大膳は菅沼小大膳と改名して味方となる。
その後親氏は隆盛し、林郷で兎を供されたことが松平家の開運の基として代々年始の祝宴の儀となる。兎を狩った地も「兎田」として免租を許された。
一番に盃を頂戴し、御盃を一番下に置かれる儀が、林家家紋の丸の内三頭左巴の下に、一文字を加えた由来とされる。
※松平家・林家の開祖は伝承の域で、他の系譜史料との年代の違いがあります
 

■献兎賜盃の中断と再開
光政の子光友以降も林家は松平家古参の譜代としてよく仕え──三州の五本槍(岩津、安祥譜代衆者の一つとする説もあり)、光政から4代目の忠満岡崎五人衆とされ──戦功をあげた。
永禄9年(1567)家康は松平から徳川に改める。
天正18年(1590)8月から家康が関東に移封となっても翌年の正月には献兎賜盃の御祝は行われ、林家は白銀三十枚と呉服を拝領している。
                            
光政から6代目の林藤五郎忠政は17歳で眼病を患って勤めが困難になり、毎年行われていた御盃頂戴と兎献上の儀を辞して、領地に籠居したため嘉例は一時中断された。

文政8年(1825)第11代将軍徳川家斉に重用され林肥後守忠英(光政から14代目)が1万石に加増されて大名となる。
文政9年(1826)11月18日、忠英は嘉例再開を願い「兎御献上之儀留」を差し出しだ。
これを許されて、以降は領地の上総国望陀郡上根岸村(現千葉県木更津市上根岸)で兎を用意した。

●上根岸村の兎捕り
上根岸村では毎年12月初旬から30戸の村人達は藩から拝受した狩猟網を使い、公儀の「御兎御用」の旗を立てて貢物の兎の捕獲をしてた。
毎日二三里の山野で探し、あるいは小高い丘の山岸に罠を張って兎を追い立てて、5疋を得ると生きたまま御用かごに入れて担がせ、江戸藩邸の林侯に貢いだ。
運搬中は帯刀を許されて士分となった村役人が付き添い、上根岸から姉ヶ崎までは村人が担ぐが、姉ヶ崎からは宿場ごとに人足を継立てて、市川の御番所では番所役人はひざまずいて敬礼し、江戸川・中川を渡る時は特別仕立ての船を一艘用意して一般の乗客は許されなかった。
林侯は12月29日までに官府に献上する。
上根岸村には林侯から褒賞として毎年米一石を下賜される。

兎の彫刻 兎瑞兎奇談の兎
▲献兎乃記念碑に刻まれた兎と元の画

碑文※原文は註釈等無し
昔、徳川将軍家にて元旦の吸物に兎を用ひたる慣例は三河後風土記・瑞兎奇談等の文献に徴すべく、普く人口に膾炙したる(人々の話題にのぼって持てはやされ広く知れ渡る)事実也。
而して眇たる(そして小さな)我上根岸の里は、幾百年の久しき此兎を献納したる歴史を有する処、由来は遠く家康公九代の祖有親と其子親氏とが、故あって信州林郷なる林藤助光政の家に客たりし、其歳も尽きんとし光政雪中に兎を狩り、之を翌永享十二年元旦の吸物として供せしが、不思議にも有親父子開運の基と成り、終[つい]に家康に至って覇業を遂げたる故、徳川家に在りては無上の吉例として永世絶つことなかりし者也。
扨[さて]家康大将軍と為り、林氏も恩賞に預り、後年一万石諸侯の班に列したれど、乱夷ぎて先づ授與されたる采地三百石の旧此村は林家の宗領地とて、啻(ただ。強調)に献兎の命を蒙りたるのみならず、新年の賜宴には領内の首坐[座]を占め、御倉開の式は我村人の手にて行ひ、又名主は世襲ならで公選なりし等、治者被治者の間に隔なく、師走に入れば公儀への御用として、葵の旗に給附の網にて、遠近兎狩に何憚[はばか]る処なく、五口を揃へ駕籠に乗せ、附添の名主は両刀を佩し、供一人を具し、姉崎迄[まで]は村人夫に、同所より沿道人夫に舁[か]かせ(運ばせ)、道中威儀正しく、其月廿日に江戸九段の林侯邸へ送り附くるが恒例にて、為めに年米一石を給せられ、幕末迄踏襲したる美談なるも、星移り物換り、今は當[当]時を記憶する村の老人も残り少なに成り、可惜(あたら。惜しいことに)郷土誌も後世忘れらるべきを憂ひ、今歳卯年に因み、一は青年子弟の為め、一は世道人心の為め、我等識る処を録し、痩碑を樹つること如此[かくのごとし]  昭和二年丁卯三月 米崖松﨑九郎平撰

※献兎の永享12年に光政との関係は確証できず、別の代の逸話である可能性も示唆されている。

毛詩の国風 裏には『粛ヽ兎罝 施于中林 赳ヽ武夫 公侯腹心
粛粛たる(しゅくしゅく/引き締めた)兎罝(としゃ/罝は網)、中林(ちゅうりん/林の中)に施す。
赳赳たる(きゅうきゅう/勇ましい)武夫(武人)は、公侯(周の文王)の腹心(心と徳を同くすること)。

毛詩(詩経)の国風(諸国民謡編)の文王の徳化の盛んな様子を詠んだ詩が、徳川と林家の古事と重なるとして引用している。
粛粛兎罝は雪中に兎を得たこと、施于中林は信州林郷に住居すること
赳ヽ武夫は光政の武勇が優れていたこと、公侯腹心は互いに忍び暮す境遇の時に力を合わせ、そして徳川家が戦乱を収束し太平をもたらし、ついに林氏の武名を世に輝かせたことに比べているという。

上根岸八坂神社 三頭左巴紋
▲八坂神社
祭神:須佐之男命、奇稲田姫命、八柱御子神
地元では天王さま(牛頭天王・須佐之男命)と呼ばれていたようだ。
手洗い石の大きな三つ巴紋は、林家の家紋(丸の内三頭左巴下に一文字。請西藩ページに画像あり)が初めは盃に因んだ一文字が無かったともされるのを思わせるが、これは八坂神社の神紋の三つ巴紋であろう。

富士塚 立像庚申塔
富士山を模して石を積みあげた富士塚。富士大神の石は明治期のもの。
石像が彫られているのは庚申塔。

児守神社等摂社 上根岸橋と小櫃川
お社の裏手の左右に児守神社等の摂社。献兎乃記念碑の傍らにある石祠は道祖神。
神社の傍らに流れるのは上根岸橋の架かる小櫃川。

八坂神社所在地:千葉県木更津市上根岸171

参考図書
・井原頼明『禁苑史話
・『木更津市史
・『君津郡誌
・大畑春国『瑞兎奇談』
・『三河古書全集』
・小野清『史料徳川幕府の制度
※他、郷土史料として別途まとめます

伏見奉行所と伏見奉行

江戸伏見地図伏見奉行所

北方に奉行屋敷。道路を隔てた西方(京町裏)と奉行所南方に与力・同心等の組屋敷があった。
北門は大阪町通りの突き当たり、南門は平戸橋北方弾正町の入口に設かれた。
立石門の北に御囲米倉、立石通突当りは庭口にあたり南矢倉を置く。
本郭は中央は役所玄関口、役所の後方に火見櫓があった。

伏見奉行所跡の碑 伏見奉行所址の古写真
伏見奉行所跡
歴史のある土地に合わせたデザインを取入れた桃陵団地の入口に碑が佇む。
伏見奉行所址の古写真を見ると立派な石垣の塀で囲まれていたことが分かる。

伏見奉行所跡の石垣 伏見奉行所と兵営舎の石垣パネル
付近に石垣が残る。案内掲示板の上写真は江戸時代の石垣、下は明治期に陸軍が奉行所前の道路部分を西へ広げて建設した石垣。

 

■伏見奉行の役目
伏見奉行は伏見及び八ヶ村の政務を行った。
訴訟に関しては京都町奉行・奈良奉行・大津代官と共に京都所司代の監督下に属す。

城下町の伏見は廃城後も宿場町として栄え、西国から京に入る伏見街道・竹田街道が通り、また山科盆地から東海道に合流する地点でもある交通・経済の重要な地であった。
※西国大名が朝廷との接触を避けるため、参勤交代の大名行列は京都ではなく伏見宿を経た経路を使わせたという
港町でもあり、石川備中守時代(1714~1720)からは宇治・木津・伏見の各川筋の船舶も伏見奉行が管轄する。

伏見奉行は大名(1万石以上)が多く、万石以下の者も他の奉行と待遇が異なり役料は三千俵を給され芙蓉間詰従五位に叙される。
与力(よりき。町奉行を補佐。現米80石)10騎、同心(どうしん。与力の下で見廻り等警備に就く。現米10石3人扶持)50人、牢番1人が属す。
伏見奉行から町民に公布する幕府の法令は高札に掲げ、幕府の触書や奉行所の掟触書は奉行所詰合町村役人総代与頭に必要な分を写して更に各組で一通ずつ回達させた。常時掲げる重要な御高札場は京橋北詰西側に設けられた。

伏見奉行所の古図

■歴代伏見奉行
慶長5年(1600)9月の関ヶ原の役後、伏見は松平下野守忠吉(ただよし。家康4男)の支配下となり、忠吉の舎人の源太郎左衛門が新たに開いたとされる。伏見には伏見城の城代と奉行二人が置かれた。
慶長7年(1602)~元和元年(1615)の両奉行:柴山小兵衛定好長田喜兵衛義正
元和元~5年(1619)の両奉行:門奈左衛門宗勝山田清太夫重次
元和5年8月に伏見城が廃されて城代が無くなる。奉行に任じられた山口駿河守直友以降は1人(寛文5~8年までは3人か)となる。

元和9年(1623)12月に小堀遠江守政一(こぼりまさかず。小堀遠州/えんしゅう。松山藩第2代・近江小室藩初代藩主。遠州流茶道の租)が伏見奉行となる。
それまで奉行所は清水谷(しみずだに。旧堀内村。御陵石段下あたり)に在った。
寛永2年(1625)7月に豊後橋(現観月橋)の北の富田信濃守邸跡に伏見奉行所を築き移転。9年に緑と水が豊かな伏見の景観に合う風雅な館舎が完成した。
11年(1634)7月の将軍徳川家光上洛の折に家光は新築の奉行所屋敷に入り小堀遠州に茶を所望し、立派な庭園を賞賛した。
正保4年(1647)2月6日に69歳で亡くなる。

正保4年3月1日~寛文9年(1669)4月10日までの伏見奉行:水野石見守惟忠貞
この間の寛文5年(1665)7月6日~8年(1668)7月13日に宮崎若狭守政泰・雨宮対馬守正胤も名目上の奉行に任じられるが京の役宅に在り、両者は京の司法を任され京町奉行の初代(宮崎は東町、雨宮は西町)となる。

寛文9年7月3日に千石因幡守久邦が伏見奉行に任じられ、天和元年(1681)10月21日伏見で死去。
天和2年(1682)正月11日~貞享3年(1686)11月11日までの伏見奉行:戸田長門守忠利
貞享3年11月11日岡田豊前守善次が伏見奉行に任じられ、元禄7年(1694)2月13日に死去。
元禄7年3月28日~9年(1696)正月15日までの伏見奉行:青山信濃守幸豊
元禄9年~11年(1698)まで京都町奉行が分任。

元禄11年11月15日に再び伏見奉行を置き、建部内匠頭間政宇に任じる。
在任中に土地開拓を進め、中書島を開拓し蓬莱橋・今福橋(現在は埋立)が架かる。

正徳4年(1714)7月11日に石川備中守總乗が伏見奉行に任じられ、享保5年(1720)5月24日に病没。
享保5年6月~19年(1734)10月15日の伏見奉行:北條遠江守氏朝
享保19年10月20日~延享3年(1746)3月1日までの伏見奉行:小堀和泉守政峯(まさみね。小室藩第5代藩主)
延享3年3月1日~宝暦元年(1751)10月15日までの伏見奉行:管沼織部正定用
宝暦元年10月15日~8年(1758)11月18日までの伏見奉行:堀長門守直寛
宝暦8年11月18日に久留島信濃守光通が伏見奉行に任じられ、明和元年(1764)9月4日に死去。
明和元年10月15日に本多対馬守忠栄が伏見奉行に任じられ、安永7年(1778)9月20日に死去。

安永7年11月8日に小堀和泉守政方(まさみち。政峯7男。小室藩第6代藩主)が伏見奉行に任じられる。過去に奉行を務めた小堀家として期待されながら翌年2月27日に伏見に着任。
天明5年(1785)9月16日に後に伏見義民と称される町民達が政方の悪政を直訴し12月27日に罷免となる。      
政方は田沼意次に協力的であったため松平定信の粛清を受けたとみられ、その後親子で改易となった。

天明6年(1786)1月21日に久留島信濃守通祐(光通の子)が伏見奉行に着任し、京の東町奉行所で京町奉行丸毛和泉守政良と共に直々に、前任の奉行側と入牢中の九助ら多くの取調べをした。
寛政3年(1791)5月13日に死去。

寛政3年5月24日~7年(1795)12月8日までの伏見奉行:本荘甲斐守道利
寛政7年12月12日~12年(1800)12月28日までの伏見奉行:松平但馬守昌睦

寛政12年12月28日に加納遠江守久周が伏見奉行となる。
この頃の伏見奉行邸宅内には藤花があり、仙洞(せんとう。退位した天皇)の御覧に供す。文化4年(1807)12月20日解任。

文化5年(1806)3月~7年(1810)まで京都町奉行が分任。
文化7年10月24日に本多大隅守政房が伏見奉行に任じられ、11年(1814)10月30日に死去。
文化12年(1815)正月11日~文政2年(1819)8月8日までの伏見奉行:丹羽長門守氏昭
文政2年8月24日に仙石大和守久功が伏見奉行に任じられ、6年(1823)3月4日に死去。
文政6年3月24日~10年(1827)9月12日までの伏見奉行:堀田加賀守正民
文政10年10月12日~天保4年(1833)6月までの伏見奉行:本庄伊勢守道貫

天保4年6月24日に加納遠江守久儔(ひさとも。上総一宮藩初代藩主)が伏見奉行となり10月1日に着任。7年(1876)天保の大飢饉の被害を受けて大坂から伏見に毎日40石の給米。
天保8年(1837)2月の大坂町奉行所の元与力大塩平八郎の乱の際は与力・同心達を率いて東町奉行役宅に入り応援した。

天保9年(1838)9月24日より内藤豊後守正縄(まさつな。信濃岩村田藩第6代藩主)が伏見奉行となり12月23日着任。荒地を利用した利益を諸費用に宛てがい、桑栽培の奨励等の産業促進や、疫病の流行時は自らの資財で薬を施する等の善政を行った。安政5年(1858)に城代格に昇格し京都御所取締兼務を命じられる。安政6年(1859)8月11日に解任。

安政6年8月28日に林肥後守忠交が伏見奉行となり、寺田屋での坂本龍馬の捕縛の指揮等を執るが、慶應3年(1867)6月24日に死去(京の激動期の急死のため5月24日から一ヶ月黙されていた説あり)
※奉行時代は「請西藩第2代藩主林忠交-最後の伏見奉行」記事参照
以降伏見奉行所を廃し、維新後に奉行所が廃止となるまで京都町奉行の支配となる。

 

■明治以降
慶應4/明治元年(1868)正月3日の鳥羽伏見の役で、伏見方面の戦いでは薩摩軍が御香宮神社に陣を布き、会津藩兵と新撰組隊士ら幕府側が入った奉行所に官軍の砲火が浴びせられ、奉行所は焼け崩れた。
明治4年(1871)に親兵(後に近衛兵に改称)が置かれ、10月の東幸と共に東に移り、以降荒廃した。
明治5年(1872)兵制改革で第四師団大津歩兵第九連隊の分営の鎮台(陸軍屯所)となる。
明治19年(1886)5月20日に第四師団工兵第四大隊の兵営となり、第十六師団の深草に設置となると共に明治43年(1910)3月22日に第四大隊は攝津高槻に移り、新たに工兵第十六大隊の兵営地となった。
第二次世界大戦後は米軍に接収され米軍キャンプ場となり、後に日本に変換されると市営住宅が建ち今の桃陵(とうりょう)団地となった。
伏見奉行所跡周辺 伏見工兵第十六大隊跡の碑
伏見工兵第十六大隊跡の碑
左手にある桃陵団地の歴史解説掲示板の上の笠石は陸軍時代の門に使用されていた石。
※地図はクリックで拡大。古絵図との比較なので誤差あり

常盤就捕處の碑 大正時代の伏見桃山地図
常盤就捕處の碑
『頭角藏懐未嶄然 龍門母子此迍遭 老椎獨在興亡外 雪辱風餐八百年
 従四位勲二等岩崎奇一題』
この地の東の常磐町は源義朝の妻常盤御前ゆかりの井戸が由来とされ、牛若丸ら3人の子を携えた常盤御前が平清盛の捜索者にここで捕われたとして明治44年に建立。
平治物語には常磐は伏見の伯母を訪ね、伏見から大和宇多郡龍門へと伯父を頼って行く話がある。

維新戦跡碑 現代の伏見との重ね

京都市立桃陵中学校に維新戦跡と伏見奉行所跡の碑があり(見学許可必須)この校舎辺りに与力・同心の組屋敷があった。
伏見公園運動施設辺りが庭口、中学校グラウンド辺りが役所の敷地の南にあたる。
また市営団地建設の際に小堀遠州が手がけた奉行所の庭園の一部が見つかり、昭和32年御香宮神社に庭園の石を移して庭園が再現されさた。境内には伏見奉行が献納した燈篭もある。

「伏見奉行所跡の碑」所在地:京都市伏見区奉行町の市営桃陵団地内