林家と史蹟」カテゴリーアーカイブ

林家や史蹟のことなど。最後の大名と言われる林忠崇については→請西藩主 林忠崇※年表

呉服橋と貝淵潘林家江戸上屋敷

明治元年頃の呉服橋 呉服橋交差点

▲明治元年(1868)頃の呉服橋と現在の呉服橋交差点
この交差点から日本橋交差点辺りが江戸時代の呉服町(古くは後藤縫殿介の呉服所が在った)で、江戸城外堀にかかる呉服橋はこの交差点より西にありました。※左写真は鉄鋼ビルディング工事の仮囲いより

呉服橋門は江戸城三十六見附(見張り番所としての城門)の一つで寛永6年(1629)に築かれ、西丸外廓の正門にあたります。西丸で力のあった林肥後守忠英(ただふさ)がここに屋敷を賜ったのも頷けるわけです。

枡形のすぐ左手(南)に北町奉行所、道を挟んで松平丹波守上屋敷、林忠英邸が並んでいました。この城門の内側が呉服橋御門内(ごふくばしごもんない)と言い、大名屋敷が立ち並んでいたころから大名小路とも呼ばれます。

 

昭和22年の呉服橋 八重洲北口大丸前

▲林邸がこの大丸百貨店奥から東京駅構内辺りにありました。
林家と言ったら兎なのでバリケードの兎さんをパシャリ。古写真は林家側から呉服橋を振り返った構図

文化2年(1805)林忠英が1月12日に呉服橋門内に屋敷を授受されて2月5日に移り、翌日には二男の忠旭(ただあきら。請西藩初代藩主。林忠崇の実父)が生まれました。
文化3年版『分間江戸大絵図』の呉服橋門内に林ヒゴの文字、貝淵藩主となった後の天保年間の江戸大絵図には家紋付(上屋敷の意味)で描かれています。外堀側(東)に表門。松平因幡守邸があった場所です。

天保12年(1841)水野忠邦の改革で忠英が隠居を命じられ、林播磨守忠旭が家督を継いだ後は上屋敷が浜町に移ったので、この地は水野壱岐守(上総国鶴枚藩/千葉県市原市)上屋敷になっています。

明治の町名(1872~1929)だと東京市麹町区永楽町一丁目、現在は東京都千代田区丸の内一丁目です。江戸城御曲輪内としての「丸の内」ですね。
明治17年の地図では監獄署になっており、周囲に法学校や司法省、東京控訴裁判所が並ぶ司法の場であったようです。
その後は周囲に鉄道会社等が入り、東京控訴裁判所の土地に東京医術開業試験付属病院(永楽病院。明治41年小石川区雑司が谷に移転)が建ちます。
そして交通の便の都合で呉服橋門は明治6年(1873)10月10日に撤去されました。

1914年(大正3年)には東京停車場より東京駅が開業し、昭和4年12月に東口改札口が設置されました。
戦後に外堀が埋め立てられ、昭和29年に呉服橋も撤去されて、昭和37年7月には八重洲口広場拡張工事によってビルが立ち並びました。

東京駅周辺 江戸切絵図呉服橋近辺

▲現代の東京駅周辺地図と江戸切絵図の御曲輪内「大名小路絵図」の一部
切絵図の右上から常盤橋御門、銭瓶橋、呉服橋御門、鍛冶橋御門。呉服橋御門のそばに北町奉行所、その南の水野肥前守屋敷の場所に林肥後(林忠英)屋敷がありました。別記事の飯野藩保科邸・吉良邸の位置は松平三河守上屋敷の敷地内です。※画像は八重洲地域についての案内板より

所在地:東京都千代田区丸の内一丁目

林家の江戸屋敷
請西藩林家由来の本所林町-3千石旗本時代
請西藩江戸下屋敷と大久保紀伊守[本所菊川町]-もう一つの本所林邸
貝淵・請西藩江戸上屋敷[蛎殻町]-林忠崇の出生地
幕末の請西藩江戸上屋敷・蕃書調所跡[元飯田町]-最後の請西藩江戸上屋敷

参考図書
・鈴木理生『江戸の橋
・大石学『地名で読む江戸の町
・江戸幕府普請方『御府内往還其外沿革図書』
他、千代田区教育委員会の案内板に拠る

参考古地図
『新添江戸之圖』『江戸大絵図』『江戸図正方鑑』『文化江戸図』『御江戸大名小路繪圖』
『五千分一東京図測量原図』他、現代までの航空写真等

幕末の請西藩江戸上屋敷・蕃書調所跡[元飯田町]

林忠崇の請西潘上屋敷 請西藩江戸上屋敷

林忠崇が藩主時の請西藩上屋敷林邸は元飯田町の九段坂下にありました。
慶応元年~2年(1865-66)頃に蛎殻町の上屋敷からここへ移ったようです。
(中屋敷とする本もありますが、当時の史料には上屋敷とあり尾張版江戸切絵図にも林家の家紋付で書かれているため上屋敷とします)
九段坂は旧飯田町一丁目から麹町区富士見町へ通じる坂で、江戸時代には坂上から品川の海や富士山が展望できたそうです。

 

蕃書調所跡 蕃書調所跡案内板

蕃書調所跡(ばんしょしらべしょ。東京都指定旧跡)
安政6年(1859)版の『安政江戸図』では後の林邸の地に「蕃書調所」と書かれています。

延享元年(1744)徳川吉宗が外神田に天文台を建て、文化8年(1811)に天文方から新しく蕃書和解(ばんしょわげ)御用方が設けられました。蕃書は洋書(蛮書。欧米の書物)の意味です。
嘉永6年(1853)に黒船(ペリー艦隊)が来航し翌年に日米和親条約締結するという情勢で蕃書和解御用方が多忙となり、安政2年(1855)に御用方は「洋学所」と改めて独立します。

安政3年(1856)2月11日に幕府は洋学所を「蕃書調所」と改称し13日(27日とも)に当地、江戸飯田町九段坂下の竹本正雅(図書頭、中奥小姓)屋敷地に設立。海外事情調査のため洋書を解読しました。
安政4年(1857)1月18日に開場し、幕府旗本・御家人等の子弟も洋学教育を受けられました。その後は陪臣の入学も許され、西洋画を学ぶ画学局も置かれます。

万延元年(1860)に小川町に移転、文久2年(1862)5月18日には一橋門外護持院原(神田一ツ橋通り)に移り「洋書調所」と改称して23日に開校しました。
文久3年(1863)8月29日に洋書調所を「開成所」に改称。
明治2年(1869)12月17日に大学南校となり(医学校が大学東校)、開成学校と改称しました。現在の東京大学法学部・文学部・理学部の全身です。

蕃書調所と林忠崇屋敷

蕃書調所移転後は遠山安芸守邸となり、そして請西藩林邸となります。

牛ヶ淵と昭和館 牛ヶ淵

牛ヶ淵に沿って林邸が建っていました(左写真)
田安御門をくぐった先の代官町(林邸の牛ヶ淵対岸)に徳川御三卿の田安徳川家清水徳川家の上屋敷が並んでいました。

維新後に新政府により鎮台兵(明治政府直属の軍隊)・近衛師団兵の営舎地となり、昭和の戦後に旧近衛連隊等の建物を撤去して北の丸公園になりました。昭和39年(1964)第18回東京オリンピックの年に日本武道館が建っています。
左写真の林邸側の建物は平成11年に建てられた昭和の戦中戦後の国民生活を伝える「昭和館」です。

 

請西藩主林昌之助忠崇は清水門警衛を任じられ、清水門の屋敷に移ったのでしょうか。
慶応4年(1868)3月7日に忠崇は九段坂の上屋敷を出て国元(千葉県)の請西に戻り、徳川家のためにと藩主自ら脱藩して箱根・東北を転戦したため、請西藩は取り潰しとなった唯一の藩となります。

明治の地図では九段坂の林邸の地は招魂社付属地になっています。
「東京招魂社」は明治2年(1869)6月29日に東京九段坂上に造営し鎮座され、戊辰以来の官軍戦死者を祀りました。明治12年(1879)に今の「靖国神社」に改称。

明治9年版『新撰區分東亰明細圖』では林邸跡は飯田丁一丁目、北向かいは陸軍省御用地となり、その隣(田安御門側)は国内初の洋式競馬、招魂社競馬場となっています。明治4年(1871)から明治31年まで例大祭で競馬が興行されました。
現在は靖国神社の大鳥居(第一鳥居)をくぐって、兵部大輔大村益次郎銅像(明治26年建立)のある参道(お祭りの時にずらりと屋台が並ぶあの通り)です。

明治後期の『東京印象記』で九段坂は「見るもの聞く物、悉く男性的だから…」と書かれているのは、江戸時代からの老舗と明治からの兵舎が入り混じった土地柄なためでしょうか。

 

九段会館 現在の九段下

▲軍人会館(九段会館)
昭和9年(1934)6月に備役軍人の訓錬の場として帝国在郷軍人会本部「軍人会館」が建ち、昭和11年(1936)の二・二六事件の際には戒厳司令部が置かれました。
戦後にGHQが接収して連合軍の宿舎となり、1953年から日本遺族会に貸し出され「九段会館」に改称。ホテルや貸ホール、レストラン等運営していましたが、2011年の東日本大震災での天井落下事故により遺族会は会館を国へ返却し、現在は閉館しています。

所在地:東京都千代田区九段南一丁目
都営地下鉄新宿線、東京メトロ東西線・半蔵門線「九段下」駅すぐ

林家の江戸屋敷
請西藩林家由来の本所林町-3千石旗本時代
呉服橋と貝淵潘林家上屋敷-大名初期の上屋敷
請西藩江戸下屋敷と大久保紀伊守[本所菊川町]-もう一つの本所林邸
貝淵・請西藩江戸上屋敷[蛎殻町]-林忠崇の出生地

参考図書
・東京市役所『東京市史稿-市街篇44巻
・東京外国語学校『東京外国語学校沿革
・石倉翠葉『東京案内』
・児玉花外『東京印象記』他、千代田区教育委員会案内板等

参考古地図
・江戸時代『江戸切絵図』『慶応改正御江戸大絵図』『安政江戸図』
・明治時代『改正増補東亰區分新圖』『新撰區分東亰明細圖』

林忠崇の出生地-貝淵・請西藩江戸上屋敷[蛎殻町]

江戸城大手より16丁の浜町蛎殻町上総国貝淵藩(のち請西藩)上屋敷がありました。

請西藩浜町上屋敷 江戸牡蠣殻町請西藩上屋敷林肥後守邸

▲隣の松平三河守下屋敷跡の蛎殻町公園から林邸跡を撮影。
江戸時代の絵図の緑色の部分が松平邸、左隣の林家の家紋「丸の内三頭左巴下に一文字」が描かれている所が林邸です※家紋は請西藩林家ページに掲載

 

家康入城の頃から江戸湾が埋め立てられ隅田川河口に浜町が陸地化、その砂浜辺りが「かきがら」と呼ばれていたようです。
各地の大名が国元から江戸への船荷の搬送先として蔵屋敷地となり、掘割工事が進むと大名屋敷の拝領地として武家屋敷が立ち並びました。

蛎殻町と箱崎町(上の絵図、林邸前の三角洲のような場所)の間に箱崎川が流れていましたが、昭和46年(1971)首都高速道路六号線と東京シティエアターミナル建設のため箱崎川本流、翌年に支流が埋め立てられ、今では川の面影はほぼ有りません。
この箱崎川に沿って徳川御三卿の清水殿の下屋敷、貝淵藩林家の上屋敷、徳川御三家の紀伊殿(紀州徳川家/和歌山)の蔵屋敷が連なっていました。

林邸の東、紀伊殿屋敷脇の紀伊国橋を渡ると箱崎川に架かる永久橋がありました。
永久橋を渡った徳川御三卿の田安殿下屋敷は古くは「箱ノ池」と呼ばれ、維新後に武家地が公収されて箱崎町三丁目・四丁目となりました。
(ちなみに幕末の請西藩上屋敷も、田安殿・清水殿の屋敷のそばですね!)

箱崎川の西は、江戸名所として錦絵に描かれる三俣(別れ渕・三渕・三又とも)です。江戸時代には浜町の新大橋・隅田川を渡る永代橋・そして永久橋の間で川が三方に分かれ、新大橋から林邸の方角に富士山も望める絶景地でした。

蛎殻町には安産祈願で有名な東京水天宮があります。林家が呉服橋から当地に移った頃、林邸北隣の大津屋敷を挟んだ久留米藩有馬式部少輔邸に水天宮神社がありました。一度江戸城下・芝赤羽根の久留米藩邸に移された後、明治時代になって赤坂を経て現在地に再び移って来たそうです。

蛎殻公園 ロイヤルパークホテル

▲蛎殻町公園とロイヤルパークホテル
ホテル正面あたりが紀伊殿の下屋敷、その奥が林邸の表門(林邸の西側)でしょうか。

大名庭園の景石 蛎殻公園案内板

▲蛎殻町1丁目遺跡から出土した大名庭園の景石
遺跡地は江戸時代初頭から延宝元年(1704)まで上野国前橋藩15万石の酒井雅楽頭、その後、伊予大洲藩6万石の加藤遠江守が屋敷を構えていました。

また維新後の箱崎には土佐の山内容堂が元田安殿下屋敷を買収して居住(明治2年の地図で土州・山内家。その後3丁目を開拓使御用地として貸付)し、対岸の牡蛎殻町には先物取引の場である米穀商品取引所や運輸業・問屋が並び、繁華街の交通をより便利にするため明治38年に山内家が土州橋を架け、明治42年東京市に寄附しました。
木橋のため老朽し新しい橋を大正3年に起工、翌年鉄筋の橋が完成しました。箱崎川の埋め立てと共に消滅しましたが大正時代発行の地図には、かつての林邸のそばに土州橋が描かれています。

所在地:東京都中央区日本橋蛎殻町2丁目・半蔵門線「水天宮前」駅そば

林家の江戸屋敷
請西藩林家由来の本所林町-3千石旗本時代
呉服橋と貝淵潘林家上屋敷-大名初期の上屋敷
請西藩江戸下屋敷と大久保紀伊守[本所菊川町]-もう一つの本所林邸
幕末の請西藩江戸上屋敷・蕃書調所跡[元飯田町]-最後の請西藩江戸上屋敷

参考図書
・土州橋開通祝賀会『土州橋開通祝賀会記念』
・三島政行『葛西志
・向上社編輯部『大正博覧会と東京遊覧』他、中央区案内板等

参考古地図
・江戸時代『浜町秋元但馬守中屋敷周辺絵図』弘化,天保改正版『御江戸大絵図』安政三年版『万宝御江戸絵図』万延元年版『萬延江戸図』文久二年版『万世御江戸絵図』
・明治大正『明治二年東京全図』『新撰區分東亰明細圖』『東亰區分全圖』『明治四十年東京全図』
他、現代までの航空写真や錦絵等

関連サイト
・東京水天宮:http://www.suitengu.or.jp/

請西藩江戸下屋敷と大久保紀伊守[本所菊川町]

遠山金四郎邸 菊川の方向

▲本所菊川町(東京都墨田区菊川)が請西藩江戸下屋敷のあった場所です。
林邸の東に町名の由来である小さな溝渠「菊川」が流れ、菊川を渡ると町屋が並び大きな「横川」に架かるのは中之橋(菊川橋)です。


▲『文久二年本所深川絵図』の「林肥後守」の西に「遠山金四郎」、北に「榎稲荷」

西には長谷川平蔵遠山金四郎住居跡。
池波正太郎「鬼平犯科帳」の鬼平こと火付盗賊改役・長谷川平蔵宣以(のぶため)が明和元年(1764)から住み、孫の代の弘化3年(1846)から時代劇「遠山の金さん」こと江戸町奉行・遠山左衛門尉影元(かげもと。金四郎)の下屋敷となりました。

請西藩林邸の北向かいが大久保紀伊守の屋敷で、古くは土手稲荷と呼ばれていた小祠を邸内社として手厚く祀り、榎が鬱蒼と生えていたことから「榎稲荷大明神」と称されました。
関東大震災で焼失後に区画整理で現在地に移転、復興を遂げた榎稲荷が今も鎮座しています。

 

彰義隊の副長、天野八郎忠告が獄中で記した『斃休録』の「大久保紀伊守なる者、東照宮の御旗を持て真先に進みたり。此人年五十ばかり、元大監察を勤めしものなり」という経歴から、彰義隊で戦った「大久保紀伊守」は旗本「大久保紀伊守忠宣」とされています。
徳富蘇峰(猪一郎)も『近世日本国民史』で「彼(忠宣)やまた徳川武士の人たるを辱しめなかった」と記しています。
山崎有信『彰義隊顛末』の戦死者一覧の筆頭に大久保紀伊守の名が見え、篠沢七郎『彰義隊戦闘之始末』によると、この戦いで紀伊守の次男も戦死してしまいました。

 

──新政府軍は上野寛永寺に立て籠もる彰義隊の討伐を決行した。一時は持ちこたえるも、佐賀藩のアームストロング砲等、火力で圧され、ついに黒門口が破られてしまう。
新政府軍が押し寄せ、総崩れとなる中で、大久保紀伊守が東照宮の御旗を掲げて真先に進んだ。

しかし中堂脇で血戦に差し掛かった時、新政府軍の砲弾が紀伊守の額の上に命中する。
約三寸(9センチ強)の深い傷口は、まるで柘榴のようだった。陣笠を落ち打とし、紀伊守は東照宮の御旗を持ったまま仰向けに倒れた。

これを見た味方、予備隊の百人余りは逃げ去り、天野と新井と紀伊守の家来の3人のみが踏みとどまる。まだ息のある紀伊守を本坊の門番所へ運んだ。
この時すでに輪王寺宮と兵達は退避した後だったため、天野も輪王寺宮のあとを追って脱出することとなる──…

 

箱根へ向かった林忠崇の請西藩兵と遊撃隊は、東の彰義隊との呼応も考えていたそうです。
彰義隊の大久保紀伊守が向に屋敷があった大久保紀伊守と同一なら、きっと忠崇とも面識が有ったことでしょう。

岡田霞船『徳川義臣伝 明治戦記』では偶然にも林昌之助(忠崇)の次が大久保紀伊守の頁です。

・林昌之助
林昌之助上総貝淵にて一万石余を領したり
幕府瓦解の時に臨み自ら陣屋を焼払ひ脱走されし時は十九才なり
本国を去り小田原に至り大久保家と相謀り箱根の険阻に拠りて薩長土の大軍を引受数度勝利を得たるといへども大久保家の官軍降りて豆州に走り気船に乗じて水戸に上陸し
それより仙台に落ち江戸脱兵とともに数度戦争に及びしが後官軍に降られたり

・大久保紀伊守
大久保紀伊守は幕府において大監察使なり
君家を再度興さんと謀り上野山内に屯集せる彰義隊を指揮し群り寄たる官軍をば落花の如く打ちらし ますます死力尽して戦ひしが昼過る頃中堂その他に砲火の燃上り味方戦ひ難儀と見しゆへ又侯黒門口を差して進み来しに官軍より打放せし砲丸頭上に当りて頭未塵に相成ければ何をかもって堪るべきその場を去らず死したりとぞ

請西藩江戸下屋敷跡 屋敷の北

▲現在の請西藩跡地
東照宮の御旗を握り締めて斃れた大久保紀伊守のように、最後の大名と呼ばれる林忠崇も徳川のために戦争に身を投じ、そのために請西藩は滅ぶという結末でしたが、今ではこんなに和やかな場所です。
所在地:都営新宿線菊川駅近く

林家の江戸屋敷
請西藩林家由来の本所林町-3千石旗本時代
呉服橋と貝淵潘林家上屋敷-大名初期の上屋敷
貝淵・請西藩江戸上屋敷[蛎殻町]-林忠崇の出生地
幕末の請西藩江戸上屋敷・蕃書調所跡[元飯田町]-最後の請西藩江戸上屋敷

参考図書
・徳富猪一郎近世日本国民史-第70巻 彰義隊の項
・山崎有信『彰義隊戦史』-「斃休録」の項・『彰義隊顛末
・岡田霞船『徳川義臣伝 甲・乙』他、墨田区教育委員会案内板

参考古地図
・弘化三年版『天保改正御江戸大絵図』
・文久二年版『江戸切絵図・尾張屋版』
・文久二年版『本所深川絵図』
・慶応三年版『万寿御江戸絵図』『慶応改正御江戸大絵図』
他、明治~現代までの地図・航空写真等

大御所時代の大奥-林忠英は「侫人」か

江戸幕府第11代将軍徳川家斉(いえなり)の死の直後から水野忠邦が行った天保の改革で失脚した林肥後守忠英(ただふさ。林若年寄)水野美濃守忠篤(ただあつ。御側御用取次)美濃部筑前守茂育(みのべもちなる。小納戸頭取)は、家斉の権威のおかげで地位を保った3人として、俗に西丸派の「三侫人」と言われ
忠邦を善玉として創作された『眠狂四郎』等、時代劇や小説で悪役のイメージがついています。
※侫人は口先がうまいおべっか使いのこと

林肥後守の経歴は貝淵陣屋と林忠英に書きましたが、家斉の身の回りの世話をする西丸の小姓から出世し、呉服橋門内に屋敷を賜り、大御所(隠居後の家斉)夫妻が西丸に移ってからも地位を保ちました。

その後の改革で厳しく取り締まられた町人たちは華やかだった大御所時代(徳川家斉の権威時代)を懐かしむ程でしたから、本丸派(本丸に居る第12代将軍家慶サイド)で厳しい倹約指導者の忠邦からみれば、浪費の多かった大御所時代を象徴する西丸派は綱紀粛正の対称であったことでしょう。
さすがに大奥には手が出せませんが、家斉あってこその側近達を一斉に失脚させたため、町人達の間で多くの風刺や噂が流布したのです。

林肥後守・水野美濃守の免職を洒落にした落首の例
御停止が明いて太鼓にばちあたり林どころか居る處もなし
ほとゝぎす此頃不得手飛びはやし八千石は鳴いてかへらぬ
林方太鼓もばちも打ちすてゝ 人にはやされ肥後なめに逢ふ
※林・肥後(守)・家紋の三つ巴に見立てた太鼓や、林と囃子(はやし)をかけている

 

将軍家斉の寵妾お美代の方(専行院)と、感応寺事件
まだ家斉が将軍職にあった天保4年(1833)12月17日、かつての日蓮宗の名刹であり天台宗に改宗している谷中の長耀山感応寺の日蓮宗帰宗のための経緯で、谷中感応寺は護国山天王寺と改称し、雑司谷の鼠山(現東京都豊島区目白)に感応寺を新たに造る許可が下りました。
天保7年(1836)12月28日に本堂が完成したとされます。
しかし天保12年(1841)正月晦日に家斉が薨去、その年の10月5日に幕府は感応寺を廃棄し、新しい大寺院がたった5年で更地に戻ってしまったのです。
また同じ時期に主玄院日啓・智泉院日尚ら僧徒が処罰されました。

東京市(東京都が設置される前の東京府の市。現在の23区相当)編纂史料に記載されている範囲ではここまでで、感応寺廃却に関する経緯は幕府の記録にはありませんが、随筆(当時を語るエッセイ)にまで目を向けると、大坂に住むとされる著者が当時の世相や伝聞を記録した『浮世の有様』の天保12年に「感應寺不如法奥女中を犯し、美濃守・肥後守・筑前守など心を合わせ、及ばざる工み事有りしを、御老中脇坂侯に見顯はされし故、比の者共申合せ、醫者両人に申付け、殿中に於て之を毒殺せしなど種々の取沙汰なり、如何なる事かは知らね共、皆々御咎にて知行を減ぜられ、奥中中大勢仕くじり、感應寺は申すに及ばず、醫者両人も入牢せしといふ事なり」と記されています。

この感応寺の事件は、明治時代の江戸文化論者・三田村鳶魚も引用している大谷木醇堂の思い出話『燈前一睡夢』に描かれ「文恭公升遐の後、林・水野・美野部が謫せられしも、荘内・川越・長岡等が領知替の事も、みなこれより起こりし事なりと聞く」と、文恭公(家斉)薨去後の西丸派の失脚の起因として噂されていたようです。

『燈前一睡夢』は水野忠邦を英傑と賞し、対立する者は賊臣とはっきり書かれているのでかなり著者の偏見が含まれていそうですが、当時から忠邦の改革により同時期に消されたすべてを繋げて想像した噂自体は有ったのでしょう。三田村鳶魚の『江戸の女』(伝聞が主で事実と明らかに異なる部分が見られますが…)での解釈も交えて事件を要約しますと──

お美代の方の実父日啓は、長男の日量(お美代の兄)が継ぐ智泉院(中山法華経寺の子院。日蓮宗)を、東叡山寛永寺(天台宗)のような将軍家の御祈祷所にしようという大それた野望を持っていました。
しかし子院レベルの寺では許されず、それならばと由緒はあるが今は天台宗に改宗している谷中感応寺を日蓮宗に戻させる計画を立てました。

その頃大奥では、家斉の数多い側室の一人おいとの方の子、千三郎(仙三郎)の眼病を中延法蓮寺の日詮(にっせん)が祈祷で治したことで日蓮宗の祈祷の人気が高まっていたので、将軍家の御祈祷所が出来ることを喜びました。
家斉の奥方達の要望を家斉の寵臣が無下に出来るはずはありません。
お美代の方の口添えと寵臣の林・水野・美野部の庇護もあって、計画が運びます。

東叡山の輪王寺宮舜仁法親王(りんのうじのみやしゅんにん。皇族の子息である住職)の計らいで計画は止められましたが、谷中感応寺は天王寺へと改称し、新しい感応寺を造ることとなりました。
天保5年5月に雑司ヶ谷鼠山の安藤対馬守下屋敷の広大な敷地(二万八千百九十三坪)を下付され、地鎮を中山智泉院が承りました。建設地の整地・地固めは、なんと大奥の女中達がやってきて華々しく行ったので、驚いた町人達はこぞって見物に来ました。

天保7年12月に完成した豪華で大奥の女中達も信仰する大寺院に、美男子な僧侶ばかりが揃えられたなどと多くの噂が流れます。
鼠山はかつてなく賑わいましたが、ある時、感応寺に運ばれた長持に生人形が入っていたのが見つかりました…つまり大奥の女性が長持に隠れて運ばれ僧と密通していたことが明るみに出てしまったのです。
以後は長持の重量を確かめるようになり、大奥女中の頭目が監視不届きで御暇処分となりました。
長持を見破って風紀を注意した寺社奉行脇坂大人が突然死したため(脇坂が死んだのは天保12年2月で家斉が亡くなってすぐです)毒殺されたのではと噂が立ちました。

水野忠邦の改革で智泉院と感応寺は摘発され、日啓と長男は「密通女犯」の罪を告発されて遠流が決まりましたが、実行前に獄死しました。
感応寺は取り潰され、大御所の寵臣であった林・水野・美野部は失脚し、お美代の方は押込処分となりました。
忠邦が、大奥を中心とした権力と乱れたの風紀をまとめて粛正したのです。

※実際には揉消しか虚構か、鼠山感応寺の顛末について幕府公式記録には記載されておらず、智泉院と感応寺の関係も不明です

 

──更に、家斉とお美代の間にできた娘、溶姫と加賀藩主前田斉泰の間に生まれた犬千代(前田慶寧)を次期将軍に据える西丸派の計画が本丸派に寝返った者の暴露で明るみになった、などと噂は尽きません。
いずれも林肥後守達は感応寺建立を容認したと思われるのみで、お美代と西丸派のイメージの土台は当時の噂を記した随筆を更に三田村鳶魚が大衆に広めた結果が大きいでしょう。

* * *

昭和16発行小山松吉の『名判官物語』はこれらのことを分けて扱っています。

■智泉院の事件
水野忠邦は、智泉院日尚(24歳)・守玄院日啓(71歳)を、祈祷で人民を惑わせ、婦女を姦し、大奥に通じ、奢侈に耽り僧侶としてあるまじき行為の疑いで、寺社奉行阿部正弘(23歳)に内偵による「風聞書」を制作させ、両僧を逮捕し取り調べさせます。
自白により日啓に関係する本丸西丸の奥女中達は30余名にのぼり、このまま取調べが進めば大奥のどこに及ぶか計り知れず、この関係者には一切取調べをせず民間関係者のみを取り調べました。
尼妙榮が密通のため押込50日・下女ますが押込30日の処分を下しましたが、日尚・日啓が彼女達の密通を知らなかったことが不埒として逼塞30日を言い渡しました。(日尚に対して三日間晒しの上、谷中妙法寺へ引渡す間寺法通り取調べるべしとあります)

■お美代と感応寺の事件
雑司谷感応寺という小寺の住職の娘は中野播磨守の養女となって大奥に出仕し、将軍の寵愛を受けたため、養父や感応寺は取立てられました。
感応寺は雑司谷に新たに七堂伽藍を建立し幕府の御祈祷所として御朱印を賜ったため参詣人が増え隆盛を極めました。
住職と僧侶達が奥女中と繋がりを持っていると察した老中脇坂安菫は、長持に潜んで寺に運ばれた女中を発見し注意しますが、他の老中達は大御所が健在だったため大奥に対して遠慮し検挙は憚られました。
大御所が薨去すると忠邦が大奥関係も粛正し感応寺を取調べさせ、お美代の方は表向きは押込処分となりましたが実際は優遇されたといいます。

■忠邦の対立者の処分
次に前将軍の勢いで権威をほしいままにし愛憎によって政治を行ったため粛清を受けた三人の股肱として、忠邦が信任していた鳥居忠輝・渋川六蔵・後藤三右衛門を挙げています。
林・水野・美野部の3人については、忠邦の改革に反対するであろう家斎時代の寵臣の免職としてだけの記載です。
また寺社と賄賂については、別の事件として牛込横寺町聖天別当南蔵院の賄賂の罪に水野美濃守が関与との噂が示されています。

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賄賂は当時頻繁に行われていた(善玉に描かれる水野忠邦にすら賄賂疑惑がある)ようなので、失脚の理由として想像されやすかったことでしょう。

主に祖父・父からの伝聞を小冥野夫が明治7年に記した『しづのおだまき』に三名の免職に対し「おのれの私多くて賄賂専ら行はれし故に此輩を免職なし給ふ」とあり、続くあらましで忠英については簡単な経歴に「退隠後文恭大君の御墓参拝をも許されたり」と締め括っているだけで、驕奢や賄賂について書かれているのは著者と多少ゆかりがあるため話に聞いていたという水野美濃守とお美代の方の養父の中野碩翁(隠居前は小納戸頭取)です。美濃部筑前守は「実に無見識の人なり」と書かれています。

天保14年(1843年)に一勇斎国芳(歌川国芳)が描いた錦絵『源頼光公館土蜘作妖怪図』は、江戸の古本屋須藤(藤岡屋)由蔵の日記『藤岡屋日記』等によれば
平安時代の源頼光の土蜘蛛退治を、当時の将軍徳川家慶と大名達や天保の改革に当てはめ風刺した判じ物ではないかと評判になりました。

・早稲田大学図書館古典籍総合データベース「源頼光公館土蜘作妖怪図」
http://www.wul.waseda.ac.jp/kosho/bunko10/b10_8285/

天保の改革の一環で政治を誹謗した戯作者やその販売者が罰せらている(特に水野忠邦派の批判ができない)状況下のため、風刺と分からないように描かれていて明確な答えが無く、当時から様々な解釈がされていています。
文化史家の石井研堂が大正15年に記した『天保改革鬼譚』で土蜘作妖怪図に着目し、モチーフの解釈の一つにされる林肥後守・水野美濃守、美濃部筑前守について「当時三侫人の称あった…」と書いています。

ここでようやく「三侫人」の言葉に行きつきました。
錦絵に三侫人の落書があったようなので、当時の町人か、後の時代の所有者が推理した落書でしょうか。三侫人の呼び名はごく最近ついたものではなさそうです。

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当時は賄賂や弁舌の巧みさで、代々決められた身分と土地から出て新しい地位を得ることは、完全に悪とも言いきれないでしょう。
そして私が現在自宅で調べられる範囲では、侫人・林肥後守のイメージも、今の時代劇で描かれるような心から憎まれての揶揄でなく憶測で生まれた噂からつくられたものでした。まだ掘り起こしていく必要がありそうです。
今後また林肥後守の関連資料を見つけたら記事にしますね。

参考図書
・石井研堂『天保改革鬼譚
・小冥野夫『しづのおだまき』
・国史研究会編『浮世の有様』
・三田村鳶魚『江戸の女』
・大谷木醇堂『燈前一睡夢(鼠璞十種 )』
・東京市『東京市史稿 遊園篇』
・小山松吉『名判官物語