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歴史人物の略歴や大河ドラマの話題

空知集治監と看守長伊藤常盤之助のこと

前列右から2番目久代樫郎看守長の子孫所持の写真「明治廿四年二月十一日 空知集治監構内ニ寫之」「千葉縣 伊藤常盤之助」裏書有り

明治24年に空知集治監構内で撮影された看守長達の写真
後列左から2人目が伊藤常盤之助(いとうときわのすけ)

常盤助は上総国木更津村(現千葉県木更津市)南町紺屋島屋当主・幸左衛門の次男として生まれた。大河内三千太郎の一か月後か)
文久3年(1863)7月17日大河内一郎(三千太郎の父)が死去。
慶応4年(1864)の戊辰戦争では4月に不二心流島屋道場の大河内兄弟と門下の町人達が義勇隊を組織して幕府撒兵隊に協力し閏4五井・養老川の戦いに敗退、戦死または本家の西小笹等へ走り散り散りとなった。
島屋は協力した嫌疑をかけられ、8月24日に一郎のあとを継いで最後の南町島屋当主となったと思われる幸左衛門が亡くなっている。後に南町島屋の土地は明治政府に接収された。

西小笹の本家大河内喜左衛門が明治2年伊藤と改め、常盤助ら木更津の幸左衛門一族も伊藤とした。(心形刀流伊庭軍兵衛に入門し伊庭八郎とも知己であろう三千太郎は彼と同様に箱館まで従軍し戦った。放免後は東京で榊原健吉の撃剣会興行に加わり、大河内のままである)
常盤助は妻さくと共に木更津寺町(後の伊藤染店・志摩屋の場所)で暮らす。

明治8年(1875)3月の寺町火事で家屋が類焼。それからは宮本栄一郎著『上総義軍』に「ときわのすけ」が幸左衛門の後妻きた(鈴木家娘)を伴い北海道に渡ったという聞き語りがある。
北海道に渡った常盤之助は明治15年(1882)石狩国空知郡市来知村(いちきしり。現三笠市)に開庁した空知集治監(そらちしゅうじかん、しゅうちかん。刑務所)に監獄官として勤めた。
明治24年(1891)2月11日に空知集治監構内での写真に写っており、5年間勤めあげた看守は試験を経て看守長に任用されること(明治23年公布。後に短縮)から、三千太郎と同時期の22年頃より空知監の看守であったと思われる。
そしてキリスト教に感化を受け、この年に空知監に赴任した教誨師(きょうかいし)留岡幸助(とめおかこうすけ)のもとで11月29日の夜に伊藤松太郎(後に常盤之助の家業を継ぐ)も洗礼を施されている。
明治26年夏に市来知の教会堂を岩見沢へ移転する臨時集金に常盤之助は50銭を寄付。8月28日に50銭寄付。(『留岡幸助日記』)
明治27年(1894)1月常盤助が空知分監看守部長に任命される。
3月北海道集治監判任官十級俸の看守長となる。
明治28年(1895)1月から判任官九級俸となり、30年頃には市来知村に転籍を済ませて定住していた。

 

▲1882年~市来知村近傍鳥瞰図と空知集治監典獄官舎レンガ煙突(鳥瞰図北西)
典獄(刑務所長)や集治監を訪れた要人達が宿泊する官舎跡に現存する高さ約8mの煙突。明治23年に官舎が改築された時のもので囚人達によって造られた。三笠市指定文化財。※鳥瞰図は三笠市立博物館展示パネルより

 

明治34年(1901)に空知集治監が廃監となり、三千太郎が上川尚武館の館長も務める旭川町へ移住した。
明治35年(1902)四條通七丁目右十號に転籍手続きを終え、屋号紋『』の伊藤海産問屋(鮮魚・干魚乾物商)を営んだ。
松太郎を店主として大正時代には師団通りの発展と共に栄えた。
常盤之助は家族と共に日本組合派旭川基督教会の会員として大正時代の名簿にも住所と名前が確認できる。

同じ教会員として、映画化もされた三浦綾子著『塩狩峠』の主人公永野信夫のモデル長野政雄(ながのまさお)と伊藤家が親交があったことが中島啓幸著『塩狩峠、愛と死の記録』に紹介されている。
明治42年(1909)2月27日、旭川鉄道運輸事務所書記の長野政雄は名寄に出張へ行く途中で伊藤海鮮魚店に立ち寄り、友である伊藤光子に挨拶をしたという。
翌28日夕方に長野は名寄駅発4両編成の汽車の最後尾に乗る。塩狩峠の頂上付近で最後尾の連結が外れ、乗客22人を乗せたまま分離車両が峠を逆行して滑り加速していく……脱線転覆を恐れる乗客を鉄道員の長野が落ち着かせデッキに飛び出してハンドブレーキを回し、大惨事を免れたが、乗客達の命を救った長野は車両の下敷きとなり29歳の若さで殉職。常盤之助が住む伊藤家が、旭川の街で長野政雄が最後に訪れた場所となったのである。

 
▲現在の旭川の伊藤海鮮魚店跡付近

■■不二心流と木更津「島屋」■■

 

■空知集治監
 内務省は郁春別(いくしゅんべつ)川筋に沿い、東はポンベツ川・西は石狩川を境とする約10万6千haを直轄地として開拓使から引渡しを受けた。空知集治監は監獄としての役割の他、開拓・行政の責任も担い、道内の集治監のなかで最大の約三千人もの囚人が収監されていた。
 空知集治監創設時の建物は、獄舎2棟(各247坪)、事務所1棟、ほか浴室・死体室・米搗場・米庫・調度庫・小買物渡場・物置・理髪所・菜焚所・塩味噌設置所・賄所・門番所・炊事場各1棟・合宿所2棟・交番所4棟・高見張所2棟・官舎7棟等。空知集治監の建築経費は10万円(現在の約4億5千万円)と見積もられている。獄舎は直径1尺(約30cm)程のトドマツ丸太を組合せ、当時のロシア式建築による堅牢な構造。本監構内の敷地はおよそ12町余(約12万㎡)で、外側に張巡らせた黒塀の三方の隅に脱走に備えた高見張所が設けられた。

明治12年(1879)12月石狩国空知郡幌内炭礦(ほろないたんこう。炭鉱)開坑。
明治13年(1880)10月石狩国樺戸郡須部都(後の月形村)に樺戸集治監を設置。
明治14年(1881)9月3日内務省直轄樺戸集治監開庁式。
明治15年(1882)2月に開拓使が廃止し札幌・函館・根室3県を置く。
札幌県下石狩国空知郡市来知村が開村。人口908人・戸数87戸。村名は“それ[熊]の足跡がたくさんある所”を意味するアイヌ語の地イ・チャル・ウシからとり、開墾前は原野であった。
6月15日市来知に空知集治監を設置し7月5日開庁。。反政府思想の革命運動に参加・扇動した国事犯の受入れや、道路開削・炭鉱採掘の囚人労働力の需要が見込まれた。9月に空知集治監幌内外役所を設置。11月13日に幌内鉄道が開通。
明治16年(1883)空知集治監に教誨師が置かれる。7月に囚人による幌内炭礦の採掘が開始。
囚人は周辺の土地開拓を進め、炭鉱従事の他、5月~10月まで農業、11月~4月まで山林の材木または監内の工芸を課役とした。
明治17年(1884)4月17日、樺戸・空知両集治監の看守に銃器の携帯を許され、短騎兵銃50挺借用。
明治18年(1885)11月10日釧路集治監開庁。
明治19年(1886)1月26日に北海道庁を置き3県を廃止、空知集治監は北海道庁管轄に入る。
5月、市来知村から上川郡忠別太に至る上川仮道の開墾(8月竣工)
この年、市来知に札幌基督教会系の講義所が設立される。
明治20年(1887)1月4日、樺戸・空知・釧路の集治監を監獄署に改称。4月に上川仮道の改築。
7月28日新島襄・八重夫妻が空知監獄を訪れキリスト教について講話する。
明治21年(1888)囚人労役により市来知水道完成。
明治22年(1889)上川道路改築。
明治23年(1890)7月22日、樺戸・空知・釧路の監獄署を集治監の名称に戻す。
明治24年(1891)7月30日北海道集治監官制が制定され樺戸に本監、空知・釧路・網走に分監を置くとし、北海道集治監空知分監となる。
明治25年(1892)炭鉱労役が軽減。8月13日自由党総理の板垣退助らが空知分監を訪れ獄中の同志を慰問。
明治27年(1894)空知監幌内外役所を廃し、採炭事業の囚人使役を廃止。
明治29年(1896)4月1日に拓殖務省が置かれ、空知分監は拓殖務省へ移管。
明治30年(1897)9月2日拓殖務省官制廃止。空知分監は内務省直轄に戻る。
明治33年(1900)4月司法省官制が改正し、監獄局が司法省管下となる。
明治34年(1901)9月30日に空知分監廃止。

「空知集治監典獄官舎レンガ煙突」所在地:北海道三笠市本郷町205-23

【不二心流四代目】大河内正道と戊辰戦争義勇隊


大河内正道藤原安吉(おおこうちまさみち)
天保14年(1843)12月25日に上総国望陀郡木更津村で大河内縫殿三郎の三男として生まれ、阿三郎と名付けられる。
嘉永3年(1850)正月には8歳にして父や兄総三郎から不二心流の剣を学んでいた。
安政2年(1855)6月に13歳江戸にて神道無念流斉藤弥九郎に入門。
安政2年(1859)2月17歳で去り、3月に木更津村と西小笹村の大河内道場で初めて門人を取り立てて剣を教える。その後関東を遊歴し更に剣の腕を磨いた。
慶応2年(1866)2月に甲州甲府郭内旗本菅沼米吉邸(山梨県甲府市)で道場を開き、江戸に随行もしたが、病で辞して木更津で静養する。

 

戊辰戦争、撒兵隊に協力し義勇隊を結成

慶応4年(1868)正月に鳥羽・伏見の戦が勃発し德川慶喜が恭順の意を示すが、処遇に抗おうとする佐幕派の者達は方方で協力を求め、2月下旬に幕府撒兵(さんぺい)頭の福田八郎右衛門道直の使者が大河内家を訪ねてきた。
大河内兄弟は徳川のために立ち上がりたいと希望するが、縫殿三郎は79歳の老齢であり事態を静観した。
3月に福田の使者が再び訪れたのを機に、阿三郎は覚悟を決め、妻を実家に帰した。
老父縫殿三郎が詠んだ「行先はめいどの花と思へども 雪の降るのに桜見物」を以って決別し、江戸へ福田との面会に発つ。

4月9日に江戸を脱走した撒兵隊(さんぺいたい。さっぺいたいと呼ばれていた)が、寒川(千葉市)を経て木更津村に入った。
──房総には徳川恩顧の大名や旗本が多く、大多喜藩主大河内正質(島屋大河内家とは無関係)は老中格で鳥羽伏見の戦いの幕府軍総督を務めた。飯野藩は会津藩松平家の親族筋で藩主保科正益は第二次長州征伐の石州総督を務め德川慶喜の助命嘆願所にも連名している。
彰義隊が江戸に在り、歩兵奉行大鳥圭介ら伝習隊・新撰組が下総に、榎本武揚の艦隊は安房館山湾に向かっている。その間にあって江戸への海路となり阿三郎のように熱意のある剣士もいる上総方面を目指したのであろう。
実際は時勢に合わせて大多喜・飯野藩をはじめ殆どの藩主が恭順の意思を示していたが、隠居中の先代藩主や土地の者にとって幕府の影響は薄れていなかった。

撒兵隊は「徳川義軍府」を名乗り選擇寺に本営を置いたとされ、「義」の字を染めた小切れを肩につけた隊士達が付近に分宿し、福田は島屋を宿所とした。
撒兵隊の後に木更津へ上陸した人見勝太郎伊庭八郎ら遊撃隊も島屋の側の成就寺に陣営を設けたという。大河内一郎(島屋当主幸左衛門。3年前に死去している)の息子大河内三千太郎は過去に江戸で伊庭道場に入門していたとされ知己であったのだろう。

義勇隊頭に選抜された阿三郎は島屋門を中心に参戦意思がある者を義勇兵として纏め、八劔八幡神社の拝殿を義勇隊の陣営とした。
境内には神主の八劔氏が大河内家に提供した町道場があり、当時は三千太郎と神官八劔勝秀の息子勝壽が剣を教えていた。若い三千太郎も義勇隊頭取として島屋門の者たちを率いた。

 

五井戦争敗退

4月下旬に撒兵隊は本営を砦に適した山間の真里谷村(まりやつ。木更津市真里谷)天寧山真如寺(しんにょじ)に移し福田が第四・第五大隊を率いて移動。第一隊長の江原鋳三郎は国府台進出を作戦とし、第一~第三大隊を北上させた。そして新政府軍は幕府脱走兵の掃討のため総州へ兵を向けた。
閏4月3日に市川・船橋方面で撒兵隊第一・第ニ大隊が敗退し、薩摩・佐土原・備前・大村・津・長州各藩兵が北姉崎に北上中の第三大隊を討つため南下する。
7日早朝、五井(市原市)根山(ねやま)で再集結した撒兵隊他義軍が養老川を背に新政府軍を迎え撃つも11時過ぎには敗退。

養老川を渡り真里谷へ向け押し寄せる新政府軍を食い止めんとし、中村一心斎の薫陶のもと幼い頃から剣の腕を磨いてきた大河内一族からは少年剣士も義勇隊に加わり19人斬りで敵味方を圧巻させた勇猛さが伝わっている。
…木更津の里に年頃剣術の道場を開き数夛門弟を集めて指南を業とし大河内某といふ者父子あり、閏四月七日五位、姉ヶ﨑辺の戦争中に門弟八十人を引連 横合より宦軍へ打て出て、花々しく血戦し、子某は歯纔(齢わず)か十五才なりしか、眼前敵兵十九人を斬伏せて、其身も討死し、父某も数十人と戦ひて、終に討蓮(れ)たり、此一手の目覚しき働き、敵も味方も皆肝をつぶし、只茫然と静まり…」(『日〃新聞』慶応四年「閏四月」記事。新聞なので誇張はあろう)

しかし剣の腕では新政府軍の砲撃に敵わず、退きながら抗戦または撤退し散り散りになった。
参戦した大河原一門は戦死した者、郷里の小笹村に身を寄せる者、箱館まで従軍する者と様々であった。

阿三郎は危機を掻い潜って真里谷村に帰還するが、馬上で敵に囲まれていた福田を見失ってしまった。
阿三郎は已む無く300人程で決死隊を結成し、新政府軍が捜索を続ける木更津村方面に押し出て江戸に渡る。

江戸に至ると福田も出府していた。
8月上旬、福田の出廷に阿三郎も同道し、尋問の上で放免となった。

 

結城藩成東陣屋の撃剣教授となる

明治2年(1869)6月に阿三郎は両親を訪ねて成東村に逗留した後、南房総へ発った。
その後、結城藩の水野日向守により成東陣屋へ撃剣教授として招致の知らせが届き承諾。
>※常陸国行方(なめがた)郡大生原村(おうはら。現茨城県潮来市)より成東に移住したともされる元倡寺の興譲館道場の師範役となり、弟の四郎信明と共に指導。
報国社を結成し社長として維新の廃刀令で衰退していく撃剣の再興に努め、直心影流榊原健吉らと撃剣会を開催した。明治12年(1879)8月25日上野公園で催された明治天皇の上野行幸における槍剣天覧試合に一族の大河内三千太郎が剣術で出場している。

 

富津村で旧忍藩士田代家に養子に入る

明治13年(1880)陸軍工兵第一方面(東日本の軍用建築を担当)派出所出仕。
周准郡富津村で阿三郎の親族の旧忍藩士田代兵七郎氏方の養子となり、苗字が田代となった。
明治14年(1881)9月6日に兄の宗三(総三郎)が亡くなり嫡流が途絶えた(宗三の実娘が入婿と離縁し子がなく、養子家族は紺屋を継ぐ)ため、阿三郎が不二心流4世を継承

明治15年(1882)11月3日元洲堡塁砲台建築所勤務中に成東で弟の四郎が37歳の若さで亡くなり、道場維持のため辞職を申し出るが聞き入れられなかった。

富津元洲堡塁砲台跡 富津元洲堡塁砲台跡通気口 富津元洲堡塁砲台跡

富津元洲堡塁砲台跡(富津公園「中の島」)と地下掩蔽部
砲座6門を東西に配置し両端に観測所を設けたという。大正4年除籍。中の島の他に富津岬の各所に現存するコンクリート製の観測所、警戒哨、隠顕式銃塔等はほぼ大正11年設置の第一陸軍富津射場(試験場)のもの。

 

復籍し正道と名を改め町会議員、成東中学校の撃剣教師となる

明治16年(1883)初夏に許可を得て成東へ帰省。自宅敷地内に道場を新築する。
明治17年(1884)原籍に復帰。田代家は息子の精一郎を相続人とした。
明治21年(1888)名前を正道と改める
明治22年(1889)4月25日成東町町会議員となる(明治25年4月24日退任)
明治24年(1891)10月望陀郡根形村飽富神社に振武社が献じた不二心流奉額に連名。
明治26年(1891)12月26日正道の練武場で一本町物産比較会を開く。
明治31年(1898)4月25日成東町町会議員となる(17点で補欠議員当選。明治40年4月24日まで)
6月9日午後8時20分に正道の宅地内の椎名三乕の保有地から発火し近隣に類焼、11時30分に鎮火した。
明治33年(1900)2月6日に佐倉中学校成東分校教諭田中玄黄が出張事務所開設の相談をし、正道の宅地から借受けて仮事務所を開始(『田中哲三家文書』※6月に法宣寺に移る
4月佐倉中学校成東分校(翌年成東中学校に改称。現在の県立成東高等学校)が開校し正道が学事世話掛(学務委員)となる。撃剣教師として剣を教授した。
大正2年(1913)5月に病を発症。
大正4年(1915)10月に中学校教師を辞職。
大正12年(1923)3月25日に東京府目黒町千番地にある嫡子の田代精一郎宅で没。享年81。
麻布山善福寺に葬る。超證院襗正道居士。

麻布山善福寺勅使門 麻布山善福寺本堂

麻布山善福寺勅使門と本堂
所在地:東京都港区元麻布1丁目6-21

* * *
※善福寺は墓地の写真撮影不可。
大河内友蔵(嘉永元年1月10日生。無刀流。剣道教士。総州出身で福島県へ移る)が正道の養子となったという話があるようだが、友蔵とは5歳しか年齢が違わないため誤記か?(調査中)

■■不二心流と木更津「島屋」■■

【不二心流三代目】大河内総三郎と寺町「志摩屋」

大河内総三郎藤原幸経
文政7年(1824)下総国匝瑳郡西小笹村縫殿三郎と恵以子(のち喜佐子)の間に生まれ、幼少より中村一心斎に不二心流の剣を学ぶ。
長じて水戸藩剣術指南役宮田助太郎清喜(千葉周作門下。宮田一刀流)に随身し水戸と江戸水戸藩邸を往来した。総三郎は剣の腕を認められ、塾頭となる。
後に常陸国で不二心流の流れを継ぐ大河内家は、ここから繋がりが出来たのかもしれない。

天保13年(1842)9月22日、江戸で結ばれた鶴(砲術家の幕臣桜井啓介の次女)との間に娘豊子が生まれる。
安政2年(1855)上総国木更津村で4月建立の中村一心斎供養塔に連名。

慶応4年(1868)4月に江戸を脱して木更津を本営に定めた幕府撒兵隊南町の島屋大河内道場の者達が義勇隊として協力。
五井・養老川の敗戦後に皆北総へ逃げる中、総三郎は危険な木更津方面へ戻り、大寺(おおてら)村の商家「こうや・彌太べえ」に身を寄せ、乞食などに変装して義軍の支援活動を続けていたという。(宮本栄一郎著『上総義軍』より要約)

戦後は伊藤姓に戻し、伊藤宗三郎(後に宗三/そうぞう)と改名し再び染物屋を始めた。
明治4年(1871)6月24日に縫殿三郎が死去。
9月6日に不二心流正統三世を継承し、祇園村・大寺村に道場を開く。
一族で剣の腕も見込める新太郎を娘婿に迎え道場の継承者として考えていたが、不仲であったらしい。
そこで甥伊太郎の娘うたを養女として婿(福太郎)をとり孫の宗太郎が誕生する。

明治14年(1881)9月6日に木更津で死去。57歳。三晃院幸経日宗居士。
一心斎供養塔のある成就寺にかつては夫妻の墓があり、現在は他所に改葬されている。

 

■木更津寺町の志摩屋(しまや)

昭和4年千葉縣木更津町鳥瞰圖 千葉県木更津市中央の田面通り志摩屋跡付近

▲昭和4年鳥瞰図の田面通り(たもどおり)と志摩屋跡付近 ※鳥瞰図・下の古写真共に観光案内パネルより
鳥瞰図西(右下)の伊藤染店が「志摩屋」、東(左上)の伊藤染店が「紺茂」

木更津村寺町(現木更津市中央)の伊藤宅は明治の寺町家事で類焼してしまったようだ。
その後、昭和初期に総三郎の孫の宗太郎伊藤染店を経営しており当時の『大日本商工録』に流行・染物・印物一式を扱う「志摩屋」として屋号紋(の右上に┓)と共に記載されている。

木更津古写真田面通り紺茂跡地 紺茂跡から志摩屋を望む田面通り

▲昭和中期の田面通りの古写真と、紺茂跡から志摩屋跡に向けて撮影
古写真の若竹筆店(一番左の文具店)の場所に紺茂があった。
現在は平戸理髪店の建物のみ残り中村洋服店は私有地通路、紺茂の場所は月極駐車場になっている。

●大河内孫左衛門
孫左衛門の息子の茂三郎が天保11年(1840)生まれなので総三郎より年上であろう。
一心斎供養塔には総三郎の前(島屋当主幸左衛門の次)に名前が刻まれている。
戊辰の総州騒乱時に孫左衛門も義勇軍として出陣したが、五井・養老川の戦いで銃弾が右眼かすめ、下総に逃れた後に亡くなったという。
茂三郎が新しく出店した紺屋は彼の名前から「紺茂」と呼ばれた。
茂三郎の次男の伊藤竹次郎は海外で医学を研究し伊藤病院の院長となる。
孫の伊藤勇吉も剣道を嗜み日露戦争で戦功をたて大正8年から昭和8年まで木更津町長に連続就任し木更津町の発展に貢献した。

■■不二心流と木更津「島屋」■■

【不二心流二代目】大河内縫殿三郎

不二心流大河内縫殿三郎の夫妻の墓所

大河内縫殿三郎と妻喜佐子の墓標
※現在は個人の方が管理しており撮影・WEB公開許可を得た墓碑のみ掲載しています。
 詳細を求める問合せはご遠慮下さい。

 

万延元年(1860)の『武術英名録』に不二心流二世の縫三郎(縫殿三郎)の名が記されている。幸左衛門と市郎(一郎)は弟親子で木更津島屋当主として島屋道場で不二心流の剣術を教えた。
冨士心流 上総国望陀郡木更津
     大河内 縫三郎
      同  幸左衛門
      同  市郎


大河内縫殿三郎藤原幸安
おおこうちぬいさぶろう。縫殿之助、縫之助とも。号は三朗。
寛政2年(1790)下総国小笹村で伊藤喜左衛門安吉の嫡子として生まれる。母は豊子。
後に地域の領主である旗本の菅沼氏から大の字を賜り大河内(河内は祖先為安の河内守から取ったと思われる)と姓を改めた。
妻は河津信行の娘、恵以子(のち喜佐子に改める)。

不二心流開祖中村一心斎門下一の剣の腕を持ち、一心斎の猶子となって正統二代目として文政年間に江戸八丁堀不二心流道場を継承した。

上総国望陀郡木更津の南町で弟の大河内幸左衛門藤原幸芳が営む紺屋島屋の敷地内と、八幡町の八劔八幡神社境内に道場をつくり、一心斎が木更津に隠棲している間共に指導にあたった。
縫殿三郎は周准郡富津村の代官森覚蔵(上総での任期1823~1840)管理下富津陣屋にも出向き、また請西藩士にも教授したという。
西小笹の実家の道場にも一心斎を招いて、上総・下総地域に広く不二心流を広めた。
慶応2年(1866)10月、嘉永7年に没した一心斎の碑を西小笹に建立

慶応4年(1868)戊辰戦争の幕開のこの年2月下旬に幕府撒兵隊の福田八郎右衛門の使者が大河内家を訪ねてきた。
勤王勢力に徹底抗戦する主張に高齢の縫殿三郎は静観したが、息子や甥達は撒兵隊に協力する意思を固めて義勇隊を結成する。縫殿三郎の「行先はめいどの花と思へども 雪の降るのに桜見物」の句を以って見送ることとなった。

戦後の明治2年(1869)に、戊辰戦争の義勇隊長を務めた三男の阿三郎(大河内正道)と上総武射(むさ)郡成東で再会を果たす。
明治4年(1871)6月24日に東京市芝区芝山内旧粟田口青蓮院宮入黒道役所(現東京都港区)内で没した。82歳。
駒込蓬莱町海蔵寺(かいぞうじ)に葬られ、成東元倡寺(がんしょうじ)にも分骨した。宝樹院成壇幸安居士。
死後20年後に飽富神社に奉献された不二心流振武社の奉額には縫之助の名で筆頭に記されている。

駒込大智山海蔵寺山門 大智山海蔵寺社殿
▲曹洞宗大智山海蔵寺
海蔵寺所在地:東京都文京区向丘2-25-10

 

尚、『函館戦争記』等複数の箱館戦争史料に従軍者として大河内三千太郎と共に記され戦死している「大河内縫殿三郎(縫之助)」は不二心流門人達の証言では誤記ではないかとされている。大河内一門で実際に義勇隊として戦った「大河内縫之進」のように似た名前の別人の誤記か、縫殿三郎幸安から継いだ通称かは不明。(現在調査中)

■■不二心流と木更津「島屋」■■

不二心流伊藤実心斎の供養墓

高谷延命寺仁王門 不二心流伊藤実心斎の供養墓

延命寺総門と「不二心流五代實心齊伊藤直行先生之墓
現在の総門はかつて参道にあった仁王門を移設したもの。
慶応4年(1868)8月に賊徒(旧幕臣と協力した村民による義兵)が延命寺に立て篭もり、上総諸藩の兵と交戦した。木更津近隣の村民が扇動されたのは、この地域で剣術修練が盛んであったことも起因するだろう。(飯野藩も出動しているため詳細は別途紹介予定)

 

伊藤実心斎直行
天保9年(1838)不二心流正統大河内氏と同じく、下総国匝瑳(そうさ)郡共興(きょうこう)村(千葉県匝瑳市)で生まれる。
上総国望陀郡木更津村(千葉県木更津市)の島屋(当主は大河内幸左衛門)の道場で不二心流2代目大河内縫殿三郎や木更津に隠棲中の不二心流開祖中村一心斎に剣術を学ぶ。
望陀郡高谷村(袖ケ浦市)の御園家の食客となり、下総・上総国内で広く不二心流の剣を教えた。

一方、大河内家は不二心流四代目大河内正道(縫殿三郎の三男)が結城藩に成東陣屋(山武市)へ招致され、直心影流の榊原鍵吉(さかきばらけんきち)らと撃剣興行にも加わり廃刀令後の撃剣再興に努めた。成東で正道の弟の家に養子に入った過去もある伊庭兵二(正高。成東出身)が正道から5世を継ぎ、以降も不二心流「剣道」として各代の高弟達が伝承している。
中村一心斎の「剣術」の門人は下総・上総に多く在り、免状を拝受した幾人かの皆伝者がそれぞれ5代目として不二心流の技を受け継いでおり、伊藤実心斎は上総郷里の伝承者として「不二心流五代」と刻まれたのだろう。

大正12年(1923)12月28日に伊藤実心斎は85歳で天寿を全うした。
多くの門人に指導し慕われた実心斎のため立派な供養碑が高谷延命寺(ご子息が住職となっている)の参道脇に建てられた。

飯王山延命寺 所在地:千葉県袖ケ浦市高谷1234

■■不二心流と木更津「島屋」■■