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日野と新撰組土方歳三[4]歳三の墓所石田寺

土方歳三資料館から用水路に沿って歩いていくと石田寺に辿り着きます。

石田寺

石田寺(せきでんじ)

石田寺は土方家の菩提寺で土方歳三の位牌を納めた高幡山金剛寺(高幡不動。位牌は本堂大日堂)の末寺で、土方家の墓所です。
こちらも歳三の墓参りに訪れる女性がちらほら。

 

土方歳三義豊之碑

土方歳三義豊之碑
兄喜六の子孫が建てた顕彰碑です。

 

土方歳三の墓

土方歳三墓所
歳三の戒名は「歳進院殿誠山義豊大居士」
彼が踏んだゆかりの地の土を骨壷に入れてこの墓に納めたそうです。
土方家の墓には家紋の丸に三つ巴が刻まれています。

 

・愛宕山地蔵院石田寺 多摩八十八ヶ所霊場第八十六番札所/日野七福神 福禄寿
所在地:東京都日野市石田1丁目1-10

 

石田寺の近くにとうかん森があります。
「稲荷」を音読、もしくはこの付近に住まう土方一族が十家余程あった「とうか」からとうかん森と呼ばれるようになったそうです。
森と言うには小規模ですが、ムクと榧(かや)の厳かな大樹がそびえその下に小さなお稲荷さんが佇んでいます。
江戸時代に土方一族の氏神として稲荷大明神が祭られ、この森の北東にあった土方歳三の生家は弘化3年(1846)の多摩川洪水の被害にあって現在の土方歳三資料館のある場所へ移築されたそうです。

日野と新撰組土方歳三[3]土方歳三資料館

移築した土方歳三生家

▲土方歳三が育った家を改築後、一部を土方歳三資料館としてゆかりの品を公開しています

土方歳三義豊(ひじかたとしぞうよしとよ)
歳三の父、土方義諄(隼人)は武州多摩郡石田村(現・東京都日野市石田)のとうかん森の北東に住む持高三十九石の裕福な豪農(上農)でその家は「大尽(だいじん)」と呼ばれた。

天保6(1835)年5月5日、10人目の子(六男)として生まれる。母恵津(えつ)の胎内にあるとき父が、6歳で母も亡くなり、実兄の妻に養育される。

11歳で江戸伊藤松坂屋呉服店(現・東京都台東区上野の松坂屋上野店舗)に丁稚奉公に行くも、店の上役と諍いを起こし、甲州街道を約九里(36km)夜通し歩いて生家に帰る。
通説では嘉永4年、17歳の時に再び江戸大伝馬町の商家に奉公に出たが女性店員と過ちを犯したことが知れ店を辞しているが、13歳から約10年間親戚の商家に奉公を続けた説もある。

17歳(前述の説だと20代)で天然理心流三代目近藤周助邦武に入門し、周助の養子の勝太(後の近藤勇)と親交を持った。
万延元年(1860)から谷保村(やほ。現東京都国立市)に住む親戚の本田覚庵(かくあん)に書を学ぶ。
多摩時代の歳三は「身長五尺五寸(165~7cm)眉目秀麗にそて頗(すこぶ)る美男子たり」と表わされている。

文久3年(1863)正月、徳川幕府は将軍家茂(いえもち)の上洛に際し、清河八郎の献策を容れ護衛の浪士を募集する。
同年2月4日、近藤勇と歳三はこれに参じて小石川伝通院(現東京都文京区)に会合し、同月8日、浪士組は中仙道(木曽路)を京に向け出発する。その後彼らは、反幕を表明した清河と決別し、清河らが江戸へ引き上げた後も京に残留し、壬生浪士組を結成した。
会津公松平京都守護職の下「新撰組」として御所の存す京の治安維持にあたる。

市中の警固と不逞浪士の摘発、元治元年(1864)6月5日天皇の長州への遷座を企てた浪士達を襲撃した池田屋事件等で名を上げるも、幕府は征長を遂げられず、墨染事件で近藤が狙撃され負傷。

慶応4年(1868)1月鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍は敗走。死傷者を多く出した新撰組は大坂から佐幕派の船順動丸・富士山丸に分乗し歳三は近藤に付き添い負傷者を乗せた富士山で江戸に下った。

新撰組は甲陽鎮撫隊を結成するも再起を期した甲州勝沼の戦闘に敗れ、下総流山(千葉県流山市)に陣したが、近藤勇は捕らわれ板橋宿庚申塚において斬首される。
その後も歳三は宇都宮、会津、仙台に転戦後、仙台湾に停泊中の榎本武揚らと箱館五稜郭に入城。
蝦夷地開拓と北辺の護りに就く独立国と認めて貰うべく新政府に嘆願するも認められず、激しい攻撃を受けることとなる。
明治2年5月11日、松前街道一本気関門に於いて馬上諸兵隊を指揮中に戦死。享年35歳。

 

土方歳三胸像

▲歳三の胸像

土方歳三資料館から見てモノレール線を渡った向こう側、石田寺の北にあり稲荷(とうかん)森の東方向にあった歳三の生家は天保11年の多摩川の洪水の被害にあい、残った母屋等を今のある場所へ移築したそうです。
風呂あがりに相撲の張り手の稽古をしたという大黒柱も、資料館の天井の梁として残っています。

資料館は先日記事にした日野駅周辺の老若男女な客層とは違い、女性客とカップルで溢れかえっていました。
入ってすぐのコーナーに歳三生家の模型があります。
一定の来場者が入ったところで、歳三の兄喜六の子孫の土方愛(めぐみ)さんが展示品の案内を一つ一つ丁寧にアナウンスして下さいました。

まず目に付くのが歳三が家伝の石田散薬(いしださんやく)を得意先に卸す時に背負った薬箱(葛篭)と、散薬製造の道具、帳簿と散薬そのもの。
近くの浅川の河原に自生する牛革草(ぎゅうかくそう)から漢方薬が製造される石田散薬は酒で服用するもので打ち身捻挫に効用があるとし、展示されている明治期の行商先記録の村順帳には広い範囲で多くの顧客先が記録されています。

有名な豊玉発句集は、文久3年春に41句を自薦して編まれた句集。「志れハ迷い 志なけれハ迷わぬ 恋の道」の句が丸で囲まれているのが見られます。

土方家伝来の武器、そして「義」が彫られた天然理心流の木刀が展示されていますが、同じ重さでつくったレプリカの木刀が資料館の脇にかけてあります。スタッフの方に声をかければ振らせてもらうこともできますよ。
現代のものと、より太くて重い従来のもの二本とも思ったよりは軽く片手で振れましたが、これを鍛錬として何回も振るとなると相当の腕力が必要です。

佐藤彦五郎に届けた歳三の遺品の品々、鎖帷子と籠手は生々しく破れていて、裏に「盡忠報国志(じんちゅうほうごくのし)土方義豊」と刻まれた鉢鉄(はちがね)も使い込まれています。
愛刀の和泉守兼定は刀身公開初日に拝見しました。
京都時代の愛刀は戦国の「之定」ではなく会津の十一代目和泉守兼定が松平容保公上洛の際に従い、京で拵えた二尺八寸のものといいます。
展示の兼定はその後の佩刀になり、十二代目の作で二尺三寸一分六厘。会津塗の鞘、鍔に梶の葉の装飾が施されています。写真の刀と同じようで、歳三が最期の間際まで佩びていたものなのでしょう。

土方歳三手植えの矢竹
▲歳三手植えの矢篠

幼い頃から武を好み、「われ壮年武人となって名を天下に上げん」と言い庭園に矢篠(弓矢の原料となる竹)を植えたそうです。今も矢篠は青々と茂っています。

帰り際には門前に売店ブースが出来ていて、それまで石田散薬の行商のことを話していたばかりなので新撰組や土方歳三ラッピングのお土産を威勢よく売る女性がより商売人肌に見えました。
お隣の古風で立派な門構えの土方家は、歳三の兄喜六の妻ナカのご実家です。

土方歳三資料館サイト:http://www.hijikata-toshizo.jp/
所在地:東京都日野市石田二丁目一番地ノ三(モノレール万願寺駅から徒歩2分)

土方愛さんが携わった書籍
子孫が語る土方歳三」「英傑たちの肖像写真」「新選組永倉新八のひ孫がつくった本

  

参考図書
・相川司『新選組隊士録』『土方歳三
・鈴木亨『新選組100話
・永倉新八『新撰組顛末記
・木村幸比古『新選組日記
日野関連共通
・菊地明『土方歳三日記 上』『土方歳三日記 下』『土方歳三の生涯
・新人物往来社『新選組写真集
・双葉社ムック『新選組と土方歳三
他資料館配布の案内等

最後は歳三の墓所へ。

日野と新撰組土方歳三[2]佐藤彦五郎と土方家

■日野本郷名主佐藤彦五郎
佐藤彦五郎は文政10年(1827)に生まれ、幼名は庫太(くらた)、通称は彦五郎、名乗は俊正。天保8年(1837)11歳で名主(なぬし)見習役に就く。
下佐藤十二代目を継ぎ日野本郷三千石を管理していた彦五郎は、近隣治安の為に天然理心流三代目近藤周助邦武に入門し、周助の養子の嶋崎勝太(後の近藤勇)と義兄弟の契りを交わす。
その後4年半で免許皆伝となり、屋敷内に佐藤道場を開いた。稽古は殆ど屋外だったが、その後長屋門に稽古場(道場)を設ける。

佐藤道場には近藤勇・土方歳三・沖田総司・井上源三郎・山南敬助等が出入りし、その後新選組を結成してからも彦五郎は精神的・財政的に彼らを支え続けた。

名主の役目のため京には上れなかった彦五郎も、新選組が甲陽鎮撫隊と名を改め行軍した甲州勝沼の戦いにおいて農兵隊「春日隊」を組織して参加。
明治元年(1867)から彦右衛門を襲名し、新選組隊士達の顕彰に尽した。

■土方家との関わり
石田村の豪農、土方義諄(よしあつ。隼人)の長男で盲目の為次郎は浄瑠璃三味線の趣味を通じて彦五郎と親しくよく佐藤家に訪れ、土方家を継いだ三男の喜六(義巌)が亡くなった万延元年(1860)頃からは佐藤家に寄宿していた。
四女のぶ(前名とく)は彦五郎に嫁いでいる。
六男の歳三は11歳で現在の松坂屋に奉公に出るが、番頭との諍いで戻ってからはほとんど佐藤家で暮していた。

 

佐藤彦五郎新選組資料館

日野宿本陣跡の裏手にある佐藤彦五郎新選組資料館
歳三の故郷石田村にも繋がる日野用水に沿って建てられています。

歳三が京から郷里に送ったものはほとんど佐藤彦五郎宛なので、佐藤家の貴重な歳三ゆかりの品が展示されています。
私達が来館した日は佐藤家十六代目の福子さんが板橋での近藤勇146回忌の供養祭出席のため、お婿さんがとても分かりやすい解説とこぼれ話で場を和ませながら展示品を案内して下さいました。

天然理心流神文帳の滲みが血判であること。
力強く整った筆跡の近藤勇の書は頼山陽(らいさんよう。江戸時代後期の歴史学家で漢詩人)の漢詩をよく参考にしたこと。
沖田総司が山南敬助の死を報告した書簡の報告部分のさりげなさの真意、そして沖田が努力家であった逸話。永倉新八の書について。
土方歳三の手紙は短いのが特徴な中ひときわ長い手紙について。京で使用した鉢金を彦五郎へ送った歳三の思いや、長州征伐の折に死を覚悟し形見に日記を彦五郎に送ったのは歳三のこれまでの勤めと戦いを知らせることに等しいこと。

刀身の中子に葵御紋の刻まれ珍重な土方歳三の愛刀「越前康継」は、勝沼戦争後に捕まり拷問に耐えた気概で釈放された源之助(彦五郎の長男、歳三の甥)が官軍に刀を取られてしまったであろうと気遣った歳三が贈った刀で、会津松平容保公から拝領したものと伝わっており、試し切りをした印は、有名な切師の試し切りは刀の価値が上がるとの説明。

歳三愛用の龍笛(横笛)は穴が大きく彼の器用さが感じられます。京から姉ノブへ送られたお土産の猪口のような可愛らしい陶器は何に使うかよく分からなかったけれど「景徳鎮」の高級茶器と鑑定されたそうです。
歳三愛用の黒地に金文字の鉄扇は彦五郎愛用の鉄線よりも小ぶりなもの。その場にいた新撰組ファンが芹沢鴨の名を出して盛り上がりました。

印象に残ったのが彦五郎の刀。見るからに戦場で肩にかつぐ野太刀かと思うほど逞しいもので、説明によると長さ2尺7寸4分・重さ3キロ近くあるそうです。
参戦時に実際に人を斬ったもので歯こぼれや生々しい血痕が錆になっています。このままでは錆が広がり保存が難しいのですが、表面を研磨する手入れをすると刃が細く痩せてしまうため当時のままで残したいとのことです。文化人でありながら鉄扇の大きさといい彦五郎の腕っぷしが名主として贔屓された疑惑(を御茶目にぼそりと呟いていらした)は謙遜でしかないと思いました。

古式銃好きな私が嬉しかったのが文久元年に近藤勇から譲られた短銃の展示です。単発銃だったので没収されずに済んだそうです。

ちなみに都庁に銃の登録に行った際の担当が漫画家松本零士氏だったそうですが、氏は新撰組のファンで喜ばれたそうです。「宇宙戦艦ヤマト」等手がけた作品に隊士の名前が元になったキャラクターも居るとのトリビア。見学客はここで「へー、へー」とリアクション。地球防衛軍に土方、斎藤始、沖田、藤堂、山崎奨…なるほど!
展示物の他に大河ドラマ「新撰組!」出演者さんとの記念写真が飾られ、その時のエピソードも楽しく聞かせてもらいました。そして奥に有るお土産販売コーナーの隊士の肖像絵葉書が彼(佐藤さん)の手描きとのことで一同驚き。プロ並みです。

日野宿周辺の古写真パネルも面白く解説してもらい、資料館でありながら楽しく有意義な時間を過ごせました。この場を借りてお礼申し上げます。こういう和やかな資料館大好きです。

佐藤彦五郎新選組資料館サイト:http://sato-hikogorou.jimdo.com/
所在地:東京都日野市日野本町2-15-5

※記事は資料館で頂いた案内リーフレット等を多く参考にさせて頂きました

参考図書
・相川司『土方歳三
・双葉社ムック『新選組と土方歳三

次の記事は石田村の歳三がそだった家(土方歳三資料館)です。

日野と新撰組土方歳三[1]日野宿本陣

武蔵国多摩郡(東京多摩地域)は新撰組中心人物を多く輩出し、新選組局長近藤勇は上石原村(調布市野水)、副長土方歳三は石田村(日野市石田)、六番隊組長井上源三郎とその甥の井上泰助は日野宿北原(日野市本町)等の出身地です。
そして日野宿(ひのじゅく)に彼等を支えた名主の佐藤彦五郎が天然理心流道場を開き、彼等が集いました。

日野宿本陣表門 日野宿脇本陣跡

日野宿本陣
都内に残る唯一の本陣建築で日野市指定有形文化財。屋根は切妻瓦葺。

 

日野宿本陣広間 広間の南

▲主屋
土間から上がる正面の広間(18畳)は名主の仕事部屋。
右の写真、南隣に茶の間と仏間と納戸。光源の向こうに庭が広がっています。

 

玄関の間

土方歳三が昼寝をした玄関の間(10畳)
佐藤彦五郎は歳三の姉のぶの夫で、歳三は実家よりもこちらに訪れていたそうです。
この「玄関の間」が土方歳三が急いで日野に帰った折に横になって義兄の彦五郎の帰りを待っていたとされる部屋です。
「昼寝をした部屋」と書かれると道場時代のほのぼのした雰囲気に取られがちですが、話を伺うとそうではなく新撰組結成後時勢が急変し多忙を極めた歳三の様子が伝わってきました。
姉夫婦を慕っていた歳三のごく短いつかの間のやすらぎであったのでしょう。
北側の広い縁が式台。身分の高い物はここから上がって中に入ったようです。

 

控えの間と中廊下

▲6畳ずつ連なる控えの間
中廊下を経て南に上段の間。襖の文は歳三が書を学んだ本田覚庵(かくあん)の孫の本田石庵(せきあん)の筆、手前の襖の絵は丹崖(たんがん)作。

鉄之助を匿う

市村鉄之助を匿っていた控えの間
歳三は箱館戦争で新政府軍の総攻撃を前に、側に残っていた市村鉄之助に写真と刀等の遺品を「使いの者の身の上、頼み上げ候 義豊」の文と共に佐藤彦五郎宅に届けさせ、彦五郎へ「われ、日野・佐藤に対し、なにひとつ恥ずるべきことなきゆえ、どうかご安心を」との伝言を託しました。
そして佐藤家はこの奥の控えの間に、市村鉄之助を匿っていたそうです。

 

※撮影禁止なので写真は有りませんが、土間と勝手や台所のあった場所にも展示物が公開されています。

 

下佐藤家の古写真 日野宿本陣案内板

日野宿脇本陣跡
日野宿は江戸時代の初めに定められた甲州街道の宿場の一つで、宿内には日野本郷の名主を代々務めた2軒の佐藤家があり西の佐藤隼人家(通称「上佐藤家」)に本陣(公家・大名・旗本や幕府役人専用の宿所)、東の佐藤右衛門家(通称「下佐藤家」)に脇本陣(本陣に次ぐ宿所)が置かれた。

嘉永2年(1849)正月18日の大火によって日野宿本陣の主屋が焼失したため、当主佐藤彦五郎俊正が10年の歳月を費やして竣工し文久3年(1863)4月15日に上棟、翌元治元年(1864)12月28日に家移りをした。

佐藤彦五郎は火事の翌年嘉永3年(1850)に天然理心流三代近藤周助邦武(近藤勇の養父)に入門し、その後この屋敷の東側に天然理心流佐藤道場を開いた。
家移りの後に長屋門を改修し「稽古場」を付設し慶応2年11月朔日(1日)に稽古始を行う。

この道場で土方歳三はその後新撰組を結成する近藤勇・沖田総司・井上源三郎らと稽古に励んだ。
※日野宿案内板・パンフレット等参照

日野宿本陣サイト:http://www1.hinocatv.ne.jp/shinsenr/honjin/
所在地:東京都日野市日野本町二丁目15番9(日野駅より徒歩10分程)

 

* * *

日野宿本陣の現在の建物は下佐藤家の日野宿脇本陣跡です。
ガイドの方が建物の構造や質問に対して丁寧に説明してくれます。
新撰組に興味があることを知ると、佐藤家と土方歳三の関係や逸話を話して頂けました。
皆さん親切で、かつての宿場そして土方歳三ゆかりの地であるとしみじみ感じられる場所です。彼の「豊玉発句集」で度々詠んでいる梅の句は、この旧佐藤彦五郎邸に残る老梅と思われるとのことで梅の季節に訪れるのも良いかもしれませんね。

 

日野宿本陣の道路斜め向かいに新撰組グッズ販売や日野宿関係資料を展示する「日野宿交流館」が有り
北西の井上源三郎(新撰組副長助勤・六番隊組長)の生家の土蔵を利用した「井上源三郎資料館」には井上家や新撰組ゆかりの品を展示されています。
井上源三郎資料館サイト:http://genzaburo.web.fc2.com/

裏手の「佐藤彦五郎新選組資料館」は次の記事にて。

参考図書
・菊地明『土方歳三日記 上』『土方歳三日記 下』『土方歳三の生涯
・新人物往来社『新選組写真集

日野と新撰組・土方歳三

日野宿本陣

[1]日野宿本陣 – 歳三達が稽古した「佐藤道場」
[2]佐藤彦五郎と土方家 – 歳三のゆかりの品を展示「佐藤彦五郎新選組資料館」
[3]土方歳三資料館 – 歳三の育った家
[4]歳三の墓所石田寺 – 土方家の墓所「石田寺」

 昨日は土方歳三の命日(明治2年5月11日箱館一本木にて戦没。現在の歴では6月20日)として歳三忌、菩提寺・高幡山金剛寺の大日堂で新選組隊士総慰霊法要がしめやかに行われ、この土日は「第16回ひの新選組まつり」で賑わったことでしょう。
 先日土方歳三の和泉守兼定(京都守護職会津藩主松平公より授かった十一代和泉守兼定は土方歳三の最期の佩刀とされる)刀身公開に合わせて日野に訪れたのでいくつかに分けて土方歳三ゆかりの地を紹介します。

 

過去の函館記録もそのうち…

雪の五稜郭jpg 土方歳三記念館 五稜郭土方歳三像