中野竹子(なかのたけこ)
嘉永3年(1850)3月、竹子は会津藩江戸常詰の勘定役・中野平内の長女として江戸和田倉の会津藩藩邸で生まれ江戸で育った。母考子(こうこ)は下野国足利藩戸田家の家臣生沼喜内の娘。
7、8歳の頃から中野家と同じ会津藩上屋敷に住む赤岡大助(忠良)に手習いや剣術などを学び、赤岡忠良が大坂の御蔵奉行として赴任の際、養女に懇願され共に大坂へ赴く。
その後竹子は会津の行く末を案じて中野家に復籍し、戊辰の役(戊辰戦争)の三年程前まで松山藩主板倉勝清(かつきよ)の姫君の祐筆として仕えていた。
明治戊辰の役が始まり、会津に帰国すると若松城下米代の田母神兵庫家(山本家案内板の現在の若松商業高校校舎のあたりに名前が見える)の書院を借りて住む。
赤岡忠良も坂下で道場を開き、竹子も剣道の稽古に通った。
慶応4年(1868)8月23日朝、官軍が鶴ヶ城下へ侵入したと知らせを受け、母の考子(44歳)・竹子(22歳。18とも)・妹の優子(ゆうこ。16歳)らは、依田まき子(30歳)・菊子(18歳。のち水島)姉妹と岡村すま子(35歳)ら薙刀を手に、後に娘子軍(じょうしぐん)と呼ばれる婦女子隊を結成し追手門て向かう。
考子とすま子は鼠、まき子は浅黄、竹子は青味の縮(ちぢみ)、優子は紫の縮、菊子は縦縞のあずき色の、一目で女性と分かる着物を纏っていた。
しかしすでに城門は閉ざされており、藩士から「照姫(藩主容保の義姉)様は坂下宿(ばんげじゅく)に避難された」と竹子達にも西に逃げるよう促される。照姫を護ろうと河原町口の郭から坂下へ向かうが、これは誤報であった。
坂下で照姫が城内に居ることを知り、坂下宿の法界寺(ほうかいじ)の板の間で過ごす。
24日、再度入城を目指した途中で城下西北の高久(たかく。現会津若松市神指町大字高久)宿に駐留していた家老の萱野権兵衛に参戦を願い出るが婦女子の参戦は許されず、竹子たちは「許されなければ自刃する」と押し切って、越後口から転じていた旧幕府軍の衝鋒隊(しょうほうたい。幕府陸軍歩兵指図役頭取の古屋佐久左衛門指揮)に加わった。
25日早朝に七日町を目指し三方向から進軍するも新政府軍の守備兵を突破できず12時頃には高久に後退。
午後4時頃、衝鋒隊400名余が2隊に分かれて進撃、娘子軍は最後尾の義勇兵と共に越後街道を南に進んだ。
(この時の娘子軍は全員斬髪・白羽二重・鉢巻・女性物の着物に襷をし、細い兵児帯で裾を括った義経袴・脚絆に草履を紐で絞め、大小の刀をさし薙刀を持っていたと依田菊子が回想している)
夜になり、柳橋(涙橋)の北600mで長州藩・美濃大垣藩との戦いとなった。
新政府軍は相手が婦人と分かると討たずに生け捕りを命じ、娘子軍は先に殉じた家族の仇を前に生け捕りを恥じとして必死に戦ったが、ついに竹子は額(胸という説もあり)に被弾してしまう。
竹子は母考子と妹優子に介錯を頼んだ。(16歳の優子ではうまく首が切れず上野吉三郎の手伝い、農兵が切り取った説も有り)享年22歳。
娘子軍は高瀬村(現会津若松市神指町高瀬)に引き揚げ、翌日坂下の法界寺に着く。
竹子の首は法界寺の梅ノ木の根元に懇ろに埋葬された。
竹子が出陣の際に薙刀に結び付けた短冊に書いた辞世の句は
「武士(もののふ)の猛き心にくらぶれは 数には入らぬ我が身ながらも」
娘子軍は萱野権兵衛に城内で負傷兵の看護其他で働くことを薦められて28日に鉄炮を持った足軽の護衛付で入城した。
▲中野竹子殉節之地碑
竹子が戦死した柳橋近くの湯川端に昭和13年(1938)建碑
所在地:福島県会津若松市神指町大字黒川字薬師堂川原(バス停「黒川」から徒歩3分)
▲越後街道の湯川にかかる柳橋(涙橋)
上杉景勝の築造と刑場にちなむ涙橋と呼ばれる由来
▲会津新撰組記念館蔵「中野姉妹柳橋出陣の図」
(撮影可でしたので個人日記使用として掲載させて頂きました)
参考図書
・阿達義雄『会津鶴ヶ城の女たち』
・『カメラが撮らえた会津戊辰戦争』
・『会津人群像 第13号』
・『歴史REAL八重と会津戦争』
ちなみに大河ドラマ「八重の桜」のキャストは
中野竹子:黒木メイサさん
中野コウ(考子):中村久美さん
中野優子:竹富聖花さん
が演じています