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土方歳三が湯治した東山温泉

東山温泉足湯 東山温泉

▲東山(ひがしやま)温泉地
慶応4年(1868)4月23日土方歳三は宇都宮の戦いで足(指か甲)を撃たれ、4月29日会津城下に入り、七日町の清水屋旅館に泊まる。
その間、傷や火傷に効くという天寧寺の湯(てんねい。今の東山温泉。天正年間頃天寧寺の寺領だったことによる呼称)に通い療養したという。

 

不動滝旅館 東山温泉由来

不動滝旅館(現在はくつろぎ宿新滝別館)
土方が利用した湯治場と思われるのは「きつねの湯」と称し会津藩士の保養所だった現『向瀧』、会津藩の共同湯があったとされる『瀧の湯』、東山温泉で最古の源泉「東山不動湯(猿の湯)」を有する現『不動滝旅館』の3館が上げられる。
東山不動湯は天平年間(729年)に行基上人が発見。

土方湯治の岩風呂 土方湯治の岩風呂の源泉

土方歳三戦傷湯治の岩風呂
東山温泉で最古の源泉。リハビリに温泉に浸かった後で、目の前の流れの速い川に飛び込んだ逸話も。

 

東山温泉観光協会サイト:http://www.aizu-higashiyama.com/
所在地:福島県会津若松市東山町湯本

■■伝習隊と新撰組■■

清水屋旅館-土方歳三が宿泊

慶応4年(1868)4月24日宇都宮の戦いで負傷した土方歳三は秋月登之助と共に裏街道から会津へ向かった。
26日会津領内の田島陣屋に到着。秋月は、田島代官(福島県南会津)の父のもとに残る。

29日土方らは会津若松城下に入って七日町(なぬかまち)の清水屋(しみずや)旅館に泊まり、医師松本良順(りょうじゅん)らの治療を受けた。
夕刻に唐津藩士の松川精一(大野右仲の変名)と面談する。

そして猪苗代に逗留していた山口次郎(斎藤一。副長助勤)ら先発の新撰組隊士・安富才助率いる新撰組本体と合流。総勢およそ130名。
療養中の土方に代わり山口を隊長、安富を副長に任命した。

閏4月上旬、病床に旧幕臣望月光蔵を呼び問答の末に土方が枕を投げつけたと、後に望月の子孫が語っている。

閏4月5日に登城し、容保が労いのため酒肴を振舞う。
かつて京都守護職配下として活躍したように、再び会津と共に戦うこととなった。

 

清水屋旅館跡 清水屋旅館案内板

清水屋旅館跡
東北旅行中の吉田松陰、戊辰戦争で負傷した土方歳三、故郷を訪問した新島襄・八重夫妻と山本覚馬の娘夫婦(伊勢時雄・峰)らが宿泊した。

所在地:福島県会津若松市大町一丁目1-38(現在は大東銀行会津支店)

■■伝習隊と新撰組■■

土方歳三と宇都宮城の攻防

宇都宮城址 宇都宮城址公園案内板

宇都宮城富士見櫓(うつのみやじょうふじみやぐら)
宇都宮城址公園は清明台・富士見櫓の櫓2基、高さ10mの土塁が復元されている

 

慶応4年(1868)4月12日伝習第一大隊の隊長秋月登之助(あきづき のぼりのすけ。本名は江上太郎)・参謀土方歳三率いる旧幕軍先鋒隊が、東照大権現の旗を掲げ鴻の台(千葉県市川市国府台)から北関東に出陣。
4月13日布施宿、15日水海道宿に宿営。
4月16日宗道宿に泊まり、下妻陣屋(下妻藩)を下す。
4月17日下館城を降伏させ、城下に宿陣。18日蓼沼に泊まる。

4月19日朝に宇都宮入りし、宇都宮城(新政府に恭順)を攻撃。先鋒は土方率いる桑名士官隊、他に回天隊の少数名。土方は激しい戦いの最中に逃げ腰になった自軍の兵を刀で斬り捨て士気を鼓舞したという。砲撃をあびせ城下に火を放った結果、夕刻までに城を落した。

20日、鹿沼方面から大鳥圭介軍も入城。前軍の秋月・中軍の大鳥・後軍の御料兵隊長加藤平内で席順を争う場面もあったという。
この日、徳川陸軍隊・秋月と内藤隼人(土方)の連名で笠間藩に重役の出頭を求める書簡を記している。

しかし21日に新政府軍の増援部隊が南方の壬生城(栃木県下都賀郡壬生町)に入り、翌22日に侵攻開始し安塚(やすづか)で両軍激突、弾薬等の補給が困難な旧幕軍が敗走。

23日新政府軍は宇都宮市街に突入。土方は城北の二荒山に布陣し防戦。
要請を受け松ヶ峰門の守備につくが小銃で右足(指か甲)を撃たれて今市方面に護送された。
同じく破裂弾の散丸でわき腹を負傷した秋月と日光口今市で落ち合う。

24日再起を図るため日光街道を会津に向かう。従う新撰組隊士は島田魁、漢一郎、中嶋登、畠山芳次郎、沢忠助、松沢乙造らわずか6人だった。
この時土方は、東照宮を警備していた天然理心流の同門の八王子同心・土方勇太郎を呼び、歳三が斬り殺した歩兵の為の供養と墓の建立を頼んでいる。
26日会津領内の田島陣屋に到着。秋月と別れる。
27日土方は会津城下七日町の清水屋に到着。

 

松が峰門跡 松が峰門跡案内板

▲秋月が指揮していた松ヶ峰門(まつがみねもん)跡
門の両側には城を守るための土塁が南北に続き、東側は城内武家屋敷の中では一番の高台になっていた。
南門付近で戦っていたとされる土方歳三も負傷した。

宇都宮城址公園
所在地:宇都宮市本丸町旭1丁目

■■伝習隊と新撰組■■

日野と新撰組土方歳三[4]歳三の墓所石田寺

土方歳三資料館から用水路に沿って歩いていくと石田寺に辿り着きます。

石田寺

石田寺(せきでんじ)

石田寺は土方家の菩提寺で土方歳三の位牌を納めた高幡山金剛寺(高幡不動。位牌は本堂大日堂)の末寺で、土方家の墓所です。
こちらも歳三の墓参りに訪れる女性がちらほら。

 

土方歳三義豊之碑

土方歳三義豊之碑
兄喜六の子孫が建てた顕彰碑です。

 

土方歳三の墓

土方歳三墓所
歳三の戒名は「歳進院殿誠山義豊大居士」
彼が踏んだゆかりの地の土を骨壷に入れてこの墓に納めたそうです。
土方家の墓には家紋の丸に三つ巴が刻まれています。

 

・愛宕山地蔵院石田寺 多摩八十八ヶ所霊場第八十六番札所/日野七福神 福禄寿
所在地:東京都日野市石田1丁目1-10

 

石田寺の近くにとうかん森があります。
「稲荷」を音読、もしくはこの付近に住まう土方一族が十家余程あった「とうか」からとうかん森と呼ばれるようになったそうです。
森と言うには小規模ですが、ムクと榧(かや)の厳かな大樹がそびえその下に小さなお稲荷さんが佇んでいます。
江戸時代に土方一族の氏神として稲荷大明神が祭られ、この森の北東にあった土方歳三の生家は弘化3年(1846)の多摩川洪水の被害にあって現在の土方歳三資料館のある場所へ移築されたそうです。

日野と新撰組土方歳三[3]土方歳三資料館

移築した土方歳三生家

▲土方歳三が育った家を改築後、一部を土方歳三資料館としてゆかりの品を公開しています

土方歳三義豊(ひじかたとしぞうよしとよ)
歳三の父、土方義諄(隼人)は武州多摩郡石田村(現・東京都日野市石田)のとうかん森の北東に住む持高三十九石の裕福な豪農(上農)でその家は「大尽(だいじん)」と呼ばれた。

天保6(1835)年5月5日、10人目の子(六男)として生まれる。母恵津(えつ)の胎内にあるとき父が、6歳で母も亡くなり、実兄の妻に養育される。

11歳で江戸伊藤松坂屋呉服店(現・東京都台東区上野の松坂屋上野店舗)に丁稚奉公に行くも、店の上役と諍いを起こし、甲州街道を約九里(36km)夜通し歩いて生家に帰る。
通説では嘉永4年、17歳の時に再び江戸大伝馬町の商家に奉公に出たが女性店員と過ちを犯したことが知れ店を辞しているが、13歳から約10年間親戚の商家に奉公を続けた説もある。

17歳(前述の説だと20代)で天然理心流三代目近藤周助邦武に入門し、周助の養子の勝太(後の近藤勇)と親交を持った。
万延元年(1860)から谷保村(やほ。現東京都国立市)に住む親戚の本田覚庵(かくあん)に書を学ぶ。
多摩時代の歳三は「身長五尺五寸(165~7cm)眉目秀麗にそて頗(すこぶ)る美男子たり」と表わされている。

文久3年(1863)正月、徳川幕府は将軍家茂(いえもち)の上洛に際し、清河八郎の献策を容れ護衛の浪士を募集する。
同年2月4日、近藤勇と歳三はこれに参じて小石川伝通院(現東京都文京区)に会合し、同月8日、浪士組は中仙道(木曽路)を京に向け出発する。その後彼らは、反幕を表明した清河と決別し、清河らが江戸へ引き上げた後も京に残留し、壬生浪士組を結成した。
会津公松平京都守護職の下「新撰組」として御所の存す京の治安維持にあたる。

市中の警固と不逞浪士の摘発、元治元年(1864)6月5日天皇の長州への遷座を企てた浪士達を襲撃した池田屋事件等で名を上げるも、幕府は征長を遂げられず、墨染事件で近藤が狙撃され負傷。

慶応4年(1868)1月鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍は敗走。死傷者を多く出した新撰組は大坂から佐幕派の船順動丸・富士山丸に分乗し歳三は近藤に付き添い負傷者を乗せた富士山で江戸に下った。

新撰組は甲陽鎮撫隊を結成するも再起を期した甲州勝沼の戦闘に敗れ、下総流山(千葉県流山市)に陣したが、近藤勇は捕らわれ板橋宿庚申塚において斬首される。
その後も歳三は宇都宮、会津、仙台に転戦後、仙台湾に停泊中の榎本武揚らと箱館五稜郭に入城。
蝦夷地開拓と北辺の護りに就く独立国と認めて貰うべく新政府に嘆願するも認められず、激しい攻撃を受けることとなる。
明治2年5月11日、松前街道一本気関門に於いて馬上諸兵隊を指揮中に戦死。享年35歳。

 

土方歳三胸像

▲歳三の胸像

土方歳三資料館から見てモノレール線を渡った向こう側、石田寺の北にあり稲荷(とうかん)森の東方向にあった歳三の生家は天保11年の多摩川の洪水の被害にあい、残った母屋等を今のある場所へ移築したそうです。
風呂あがりに相撲の張り手の稽古をしたという大黒柱も、資料館の天井の梁として残っています。

資料館は先日記事にした日野駅周辺の老若男女な客層とは違い、女性客とカップルで溢れかえっていました。
入ってすぐのコーナーに歳三生家の模型があります。
一定の来場者が入ったところで、歳三の兄喜六の子孫の土方愛(めぐみ)さんが展示品の案内を一つ一つ丁寧にアナウンスして下さいました。

まず目に付くのが歳三が家伝の石田散薬(いしださんやく)を得意先に卸す時に背負った薬箱(葛篭)と、散薬製造の道具、帳簿と散薬そのもの。
近くの浅川の河原に自生する牛革草(ぎゅうかくそう)から漢方薬が製造される石田散薬は酒で服用するもので打ち身捻挫に効用があるとし、展示されている明治期の行商先記録の村順帳には広い範囲で多くの顧客先が記録されています。

有名な豊玉発句集は、文久3年春に41句を自薦して編まれた句集。「志れハ迷い 志なけれハ迷わぬ 恋の道」の句が丸で囲まれているのが見られます。

土方家伝来の武器、そして「義」が彫られた天然理心流の木刀が展示されていますが、同じ重さでつくったレプリカの木刀が資料館の脇にかけてあります。スタッフの方に声をかければ振らせてもらうこともできますよ。
現代のものと、より太くて重い従来のもの二本とも思ったよりは軽く片手で振れましたが、これを鍛錬として何回も振るとなると相当の腕力が必要です。

佐藤彦五郎に届けた歳三の遺品の品々、鎖帷子と籠手は生々しく破れていて、裏に「盡忠報国志(じんちゅうほうごくのし)土方義豊」と刻まれた鉢鉄(はちがね)も使い込まれています。
愛刀の和泉守兼定は刀身公開初日に拝見しました。
京都時代の愛刀は戦国の「之定」ではなく会津の十一代目和泉守兼定が松平容保公上洛の際に従い、京で拵えた二尺八寸のものといいます。
展示の兼定はその後の佩刀になり、十二代目の作で二尺三寸一分六厘。会津塗の鞘、鍔に梶の葉の装飾が施されています。写真の刀と同じようで、歳三が最期の間際まで佩びていたものなのでしょう。

土方歳三手植えの矢竹
▲歳三手植えの矢篠

幼い頃から武を好み、「われ壮年武人となって名を天下に上げん」と言い庭園に矢篠(弓矢の原料となる竹)を植えたそうです。今も矢篠は青々と茂っています。

帰り際には門前に売店ブースが出来ていて、それまで石田散薬の行商のことを話していたばかりなので新撰組や土方歳三ラッピングのお土産を威勢よく売る女性がより商売人肌に見えました。
お隣の古風で立派な門構えの土方家は、歳三の兄喜六の妻ナカのご実家です。

土方歳三資料館サイト:http://www.hijikata-toshizo.jp/
所在地:東京都日野市石田二丁目一番地ノ三(モノレール万願寺駅から徒歩2分)

土方愛さんが携わった書籍
子孫が語る土方歳三」「英傑たちの肖像写真」「新選組永倉新八のひ孫がつくった本

  

参考図書
・相川司『新選組隊士録』『土方歳三
・鈴木亨『新選組100話
・永倉新八『新撰組顛末記
・木村幸比古『新選組日記
日野関連共通
・菊地明『土方歳三日記 上』『土方歳三日記 下』『土方歳三の生涯
・新人物往来社『新選組写真集
・双葉社ムック『新選組と土方歳三
他資料館配布の案内等

最後は歳三の墓所へ。