秋月悌次郎詩碑

秋月悌二郎詩碑 秋月悌次郎北越潜行詩

▲秋月悌次郎「北越潜行之詩」碑

 

秋月悌次郎 胤永(あきづきていじろう かずひさ)

文政7年(1824)7月2日若松城下の米代二丁目に録150石の丸山五八郎胤道(かずゆき。逸八。丸山家は初代会津藩主保科正之から代々松平家に仕えた)の次男として生まれる。母はお伊野(杉本氏)。
丸山家は長男の胤昌(かずまさ)が継ぎ、悌次郎は分家として秋月姓を称した。

10歳で藩校日新館の素読所尚書塾に通い、秀才と賞され進級を重ね、15歳で武術を学ぶ傍ら詩作に励んだ。南摩綱紀(なんまつなのり)も優秀な学友であった。

天保13年(1842)19歳で江戸に上り、松平慎斎(しんさい)の麹渓書院で漢学を学ぶ。
江戸藩校で儒官に任じられる。
弘化3年(1846)に藩命で幕府の大学の昌平黌(しょうへいこう。昌平坂学問所)に入り、佐藤一斎、古賀謹一郎等ら大儒に学ぶ。古賀の門人には越後長岡藩士の河井継之助もいた。
後に大学頭林祭酒に入門。また経義を金子霜山、国史令格を栗原又楽、文詩を藤森天山に学んだ。
昌平黌書生寮舎長(生徒の指導監督)助役を命じられ扶持(給料)を賜わり、嘉永3年(1850)には書生寮舎長となる。

安政4年(1857)から藩命により諸国巡視のため、新潟・尾張・熱田・攝州・廣島・萩・薩摩等旅して「観光集」等を執筆。
書生寮舎長辞任の際、幕府から功労として官版書(幕府直営の出版)五部を授与されている。
安政6年(1859)8月23日から秋月は長州藩藩校萩の明倫館で七日間滞在して詩文を指導する。長州藩生徒には19歳の奥平謙輔(おくだいら けんすけ。居正)が居た。
またこの道中の備中松山で、同じく諸国を渡っていた河井継之助にも出会い、その後長崎に秋月が居るとこを知った河井は秋月を訪問して同じ宿に共に留まった。

文久元年(1861)3月に徳川宗家と水戸家の仲裁に常陸へ赴き、両者の調停を進めた。
文久2年(1862)8月1日に会津藩主松平容保(かたもり)が幕府から京都守護職に任命されると、秋月は会津藩公用役に抜擢され、先遣隊の一員として上洛。
藩主一行の部隊受入れのために働き、賀茂川ほとりの三本木町に住む。
12月24日に容保が藩兵千人を伴い京に入った後、秋月は容保の側近として公務に従事する。
また儒者見習兼侍読として又中川親王や二条関白の顧問をつとめた。

文久3年(1863)2月22日夜に足利三代の木像の首が三条河原に晒した容疑で会津藩は尊攘派志士を捕縛し、秋月が使者として朝廷に捕縛の正当性を説くことで彼の才名が高まった。
その後も宮中を護り操練を実施する会津藩の任務に携り、その傍らで秋月は薩摩藩士の高崎佐太郎正風)らと会薩間で長州勢を宮中から排斥する計画を練り、八月十八日の政変を起こした。

尊王攘夷派を一掃するクーデター成功により首謀者として長州藩の刺客に狙われるが狙撃は免れている。
こうして情勢を良く察していたために会津の行く末を案じてており藩外で様々な交流のあった秋月は後に会津藩内の佐幕派の反発を買われ、秋月をよく引き立ててくれていた家老の横山主税(ちから、常徳。白河口副総督常守の養父)が病により帰郷すると元治元年(1864)5月に秋月は公用役を降ろされてしまう。(常徳は8月に没する)
横山の病気見舞いに帰郷していた秋月は免職により会津に留まり、桑畑などの耕作をしながら母親を孝養して暮らした。

慶応元年(1865)9月に前代官の田中玄純が没した引継として蝦夷地舎利(北海道知床半島の斜里)の代官に任じられるが、実質左遷であった。
妻の美栄(遠藤氏。二男一女を生む)を伴って赴き、漁場の開設や開拓事業に努めた。

慶応2年(1866)12月に会薩同盟が破れて孤立した会津の窮地の為に京へ呼び戻され、極寒の気候にも関わらず急な事態とみて3日に出立する。
翌年3月に京に着く。既に長州と結び尊王討幕に傾いた薩摩藩との関係を繕う余地もなく、慶応4年(1868)鳥羽・伏見の戦いが勃発。

戊辰戦争で秋月は、幔役(ほろやく。参謀役)で3月に越後水原(すいばら)に出陣。5月に窮地の長岡城へ入り河井と協議する。
その後猪苗代方面に転戦するが8月22日に近くの石筵口が破られ鶴ヶ城に入り、軍事奉行添役(副奉行)に任命される。

鶴ヶ城籠城も苦境を強いられ、9月中旬ごろ容保宛てに降伏を勧める米沢藩主上杉斉憲の書簡が高久屯所の軍事奉行萱野権兵衛に託され、これを秋月が受取り進呈する。
慎重に周辺同盟藩の情報を収集するため同じく公用人の手代木直右衛門勝任(てしろぎすぐえもん かつとう)と米沢藩陣営に赴くが、既に米沢藩は新政府に恭順していた。
城へ戻り仙台・庄内の動向と照らし合わせて協議し、容保は降伏を決意する。

秋月は再び米沢藩屯所の森台村へ向かい降伏条件を確かめた後、土佐藩士板垣退助に降伏を申し出た。
9月22日正午の降伏式で容保・喜徳父子と会津の重臣達が新政府軍の軍監中村半次郎(桐野利秋)らを迎える。秋月の装いは熨斗目上下を着用し無刀であった。式で甲賀町通りの内藤家・西郷家間に敷かれた緋毛毯は苦汁を共にした会津藩士達で切り分けられた。

23日猪苗代に謹慎。謹慎中に密かに旧知の長州藩士奥平謙輔(干城方参謀)が届けさせた労わりの書簡を受け取った秋月は、10月7日に会津藩主助命の仲介願いと友の温情に報いるために寺使いに変装して小出鉄之助と共に猪苗代を抜け出し、越後(新潟地方)水原駐留中の奥平に直接面会を果たした。
越後からの帰途、越後街道束松(たばねまつ)峠(現在の会津坂下町の一部)で北越潜行之歌一遍を作った。

有故潜行北越帰途所得
行無輿兮帰無家 国破孤城乱雀鴉
治不奏功戦無略 微臣有罪複何嗟
聞説天皇元聖明 我公貫日発至誠
恩賜赦書応非遠 幾度額手望京城
思之思之夕達晨 愁満胸臆涙沾巾
風淅瀝兮雲惨澹 何地置君又置親

故ありて北越に潜行し帰途得る所
行くに輿(こし)無く帰るに家無し 国破れて孤城雀鴉(じゃくあ)乱る
治は功を奏せず戦略無し 微臣罪有り複貫日(かんじつ。一貫して)至誠に発す
恩賜の赦書応(まさ)に遠きに非(あら)ざるべし 幾度か手を額(ぬか)にして京城を望む
之を思い之を思うて夕晨(ゆうべあした)に達す 愁(憂い)胸臆に満ち涙巾(きん。手ぬぐい)を沾す(うるおす。濡らす)
風は淅瀝(せきれき)として雲惨澹(さんたん)たり 何(いず)れの地に君を置き又親を置かん

面会時に有望な会津の青年らを奥平の書生として預けるよう頼んでおり、11月12日に山川健次郎(山川大蔵(浩)の弟、西郷頼母の甥。白虎隊士中二番隊。後に東京・京都・九州帝国大学総長となる)と小川亮(伝八郎。白虎隊寄合一番隊として越後口に出陣。後に陸軍士官となり西南戦争・日清戦争等に出征し大佐に就任)
の二人を無事越後に送り出した。

12月13日に新政府から呼び出され26日に東京伝馬町の揚屋(牢獄)に送られた後、熊本藩細川邸に移る。
明治2年(1869)6月には会津戦争の責任を問われ、萱野権兵衛の処刑に次ぐ重罪の永預かり(終身禁固刑)に処され、7月5日に美濃高須藩に移った。

明治3年(1870)旧会津松平家の再興が認められ青森に三万石を賜わり、明治4年(1871)新領を斗南藩と名付け、藩士の移住が始まる。
秋月は10月13日に名古屋、11月9日に元津軽藩上屋敷、12月27日に下北郡野辺地の長崎尚志家に転々と移され、斗南藩で幽囚生活を送った。

明治5年(1872)正月6日に特赦によって赦免される。
老母を養うために会津に帰郷し、友人である若松県参事の南摩綱紀を介して学校の副教授となるが、3月には新政府からの要請で左院少議生(さいんしょうぎせい)として月給七十円で出仕することとなる。
この際に特赦任官と題した「囚余措大余栄 九死何図得一生 地下故人応笑我 厚顔復入帝王城」と、九死に一生を得て囚人からの誉ある抜擢であるが、戦死や苦難の末先だったた仲間たちは、朝廷に仕える厚顔さを笑うだろうと、やるせない思いを込めた詩を残している。

明治7年(1874)1月に左院五等議官、明治8年2月に正七位に叙される。5月に左院が廃された後は太政官七等出仕として内務課に配属となるが、これも廃止となった。
かつての会薩同盟を策した高崎左太郎(正風)のいとこの高崎五六(ごろく。猪太郎・兵部)が明治8年(1875)10月に岡山県権令(副知事)となり秋月を監事に招こうとしたが、老母の孝行を理由に断り、これを退官の機会と考えたのか同時に官を辞した。

翌明治9年(1876)11月に妻子と共に若松へ戻り、老母の傍で田畑を耕して暮し孝養に尽した。
奥平謙輔が10月に萩の乱を起こし11月末頃捕えられて刑場に送られた際の辞世の漢詩が届く。北越潜行の歌になぞらえたと思われ、12月の処刑を知り秋月は涙したという。

明治11年(1878)母88歳の寿筵を開いて祝うが、明治13年(1880)1月4日に母が90歳で死去。
喪が明けた4月に再び上京し四谷大番町に家塾を開き斯文学舎と名付けて学監となる。
明治14年(1881)文部省管下の教導職役、明治15年(1882)に中教正、明治16年(1883)に文部省御用掛、明治18年(1885)に東京大学予備門の教諭となる。

明治19年(1886)第一高等中学校(東京大学の前身)から教諭を務める。
9月に娘の閑衛(しずえ)の婿養子として塚原六助(胤継。文学博士となり、第六高等学校教頭、大坂の学問所の懐徳堂講師を務めた)を迎える。
11月に秋月は「弘毅斎遺稿」(弘毅斎は奥平謙輔の号)の跋文(後書き)を寄せた。

明治23年(1890)9月に第五高等中学校(熊本大学の前身校)教授に招かれた。
古き良き精神を重んじて漢文・倫理を教え、教育勅語演説を担当し、国のための人材育成に励んだという。
英文学の教授であった夏目漱石・小泉八雲(パトリック・ラフカディオ・ハーン)らと同僚であり、特に小泉に父の如く親われて「神のような人」と称賛を受けている。

明治26年(1893)北白川宮能久親王殿下が熊本師団長に着任され、副官の高崎正風の推薦で秋月が週一回進講申し上げた。
4月に菊池方面の小旅行の際に菊池川の畔で菊池勤王の事績を詳らかに説いて、自ら木刀を持って北越潜行之歌を吟じ舞って見せたという。

翌年からの日清戦争で鹿児島行軍からの帰途の難所加久藤越(かくとうごえ)で大雨に見舞われ生徒の足取りが鈍ると、秋月はエイエイと一歩一歩掛け声をかけながら、道端に刈って積まれていた枯草をつかんで道に棄てていき、後から来る者が滑らないよう機転を利かせた。

明治28年(1895)辞職し会津に帰郷。
明治30年(1897)正六位に叙せられる。
明治32年(1899)秋に息子の居る東京に移る。12月に病を患う。
明治33年(1900)1月4日特旨従五位に進む。翌5日、75歳(77)で死去。
東京都港区の青山霊園に墓所。彼を称えた墓碑「秋月子錫之碑」の文章は親友の南摩綱紀(当時高等師範学校教授従五位勲五等)が撰した。(子錫は秋月のあざな。また韋軒と号す)

上に記した他の家族として、はじめ兄胤昌の次男の胤浩を養うが没し、長男の浩次はアメリカに遊学した後に商いを営み、次男の胤逸は陸軍少尉となった。

秋月悌次郎詩碑所在地:福島県会津若松市追手町4 鶴ヶ城三の丸入口

参考図書
・松本健一『秋月悌次郎 老日本の面影
・『山本覚馬と幕末会津を生きた男たち
・習学寮史編纂部『習学寮史』
・会津武家屋敷『近代日本に生きた会津の男たち』『北辺に生きる会津藩』
・『会津人群像 第6号』『会津人群像 第13号

※河井継之助についてはいずれ記事にします。