藤沢御堂垣外宿本陣跡

藤澤御堂垣外宿本陣跡 藤澤御堂垣外宿本陣跡案内板

江戸幕府は江戸へ往来する交通路として甲州道中・東海道・中山道・日光道中・奥州道中の五街道を整え、街道沿いに宿場を設けた。
御堂垣外(みどがいと)は伊那部(いなべ)~高遠より金沢峠(松倉峠)を越え金沢から甲州街道を結ぶ金沢街道と、杖突(つえつき)峠を越え上諏訪へ至る杖突街道の合流点にあたる交通の要所にある。
当初御茶屋が置かれ、天和年間(1681~84)に宿場が整備されたといわれる。
大名は飯田藩2万7千石の堀侯、旗本は知久(ちく)、近藤、小笠原、座光寺(ざこうじ)氏等がこの街道を往来した。

本陣は大名・旗本・幕府役人の領内巡りや江戸への参勤交代時の宿所で、御堂垣外に正式に本陣が置かれた享保10年(1725)から明治維新まで藤沢八左衛門藤沢家が世襲で永代本陣役を務めた。
高遠藩3万3千石の内藤侯の参勤交代では、高遠城を出発した日に御堂垣外宿で一泊し、江戸まで通常六泊七日で江戸に参府した。

藤澤御堂垣外宿本陣跡の門の内 藤澤御堂垣外宿本陣跡表門

▲表門の外と内
本陣跡は一部改造したが表門や上段の間(殿様座敷)や庭園等は当時の面影を伝えている。
本陣の建物の建築や修繕は藩費で賄われ、食器や調度品、宿駕篭(しゅくかご)等は藩からの貸与品であった。

藤沢御堂垣外の古い町並み 藤沢御堂垣外の問屋越後屋

▲右写真の建物は問屋の越後屋
御堂垣外宿には脇本陣は置かれず「越後屋」「伊勢屋」等、問屋油屋が脇本陣役を務めた。

■御堂垣外宿での幸松丸
徳川秀忠の御落胤のとして老中土井利勝の保護のもと、武田信玄の娘の見性院(けんしょういん)と見性院の妹信松尼に預けられた幸松丸(後の保科正之)は、元武田家臣で今は徳川家からの信任も厚い高遠藩主保科正光の養子入りが決まった。

元和3年(1617)11月、母のお静と共に幸松は信州の高遠に向けて出発し、金沢峠を越え、13日に高遠領内の御堂垣外に着いた。
利発な幸松は、宿場の女中の様子の些細な違和感に気づいたのだろうか、お茶を汲む彼女達の噂話に耳を傾け、養父となる正光には既に左源太という養子がいると知ってしまった。
幸松は「肥州(正光)には左源太という子がいるから行かぬ」と言い張り、だだを捏ねた。
母のお静の説得で渋々高遠入りしたという。

御堂垣外宿本陣跡所在地:長野県伊那市高遠町藤澤御堂垣外