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天寧寺[2]近藤勇の墓

天寧寺 山道途中の看板

天寧寺(てんねいじ)

近藤勇の遺体は東京三鷹市の竜源寺に埋葬されたが首は京都の三条大橋下流に晒された。
途中の看板には首を何者かが持ち去りこの地に埋め墓を会津藩士が建立したらしいと、墓所の看板には土方歳三の手によって建立された首塚と語り継がれていると書かれている。
他に土方歳三が遺髪や遺体の一部、遺品等を仮埋葬したという説もある。

 

会津近藤勇の墓 近藤勇の墓案内板

近藤勇藤原正宜之墓
慶応四戊辰四月二十五日卒、丸に三つ引きの近藤家の家紋が彫られている。
戒名「貫天院殿純義誠忠大居士」は松平容保から授かった。

 

土方歳三の碑 近藤勇の辞世

土方歳三慰霊碑近藤勇辞世の句
近藤勇辞世の句は漢詩
孤軍援絶作囚俘 顧念君恩涙更流
一片丹衷能殉節 雎陽千古是吾儔
靡他今日復何言 取義捨生吾所尊
快受電光三尺劔 只將一死報君恩

萬松山天寧寺
所在地:福島県会津若松市東山町石山天寧208

■■伝習隊と新撰組■■

土方歳三が湯治した東山温泉

東山温泉足湯 東山温泉

▲東山(ひがしやま)温泉地
慶応4年(1868)4月23日土方歳三は宇都宮の戦いで足(指か甲)を撃たれ、4月29日会津城下に入り、七日町の清水屋旅館に泊まる。
その間、傷や火傷に効くという天寧寺の湯(てんねい。今の東山温泉。天正年間頃天寧寺の寺領だったことによる呼称)に通い療養したという。

 

不動滝旅館 東山温泉由来

不動滝旅館(現在はくつろぎ宿新滝別館)
土方が利用した湯治場と思われるのは「きつねの湯」と称し会津藩士の保養所だった現『向瀧』、会津藩の共同湯があったとされる『瀧の湯』、東山温泉で最古の源泉「東山不動湯(猿の湯)」を有する現『不動滝旅館』の3館が上げられる。
東山不動湯は天平年間(729年)に行基上人が発見。

土方湯治の岩風呂 土方湯治の岩風呂の源泉

土方歳三戦傷湯治の岩風呂
東山温泉で最古の源泉。リハビリに温泉に浸かった後で、目の前の流れの速い川に飛び込んだ逸話も。

 

東山温泉観光協会サイト:http://www.aizu-higashiyama.com/
所在地:福島県会津若松市東山町湯本

■■伝習隊と新撰組■■

清水屋旅館-土方歳三が宿泊

慶応4年(1868)4月24日宇都宮の戦いで負傷した土方歳三は秋月登之助と共に裏街道から会津へ向かった。
26日会津領内の田島陣屋に到着。秋月は、田島代官(福島県南会津)の父のもとに残る。

29日土方らは会津若松城下に入って七日町(なぬかまち)の清水屋(しみずや)旅館に泊まり、医師松本良順(りょうじゅん)らの治療を受けた。
夕刻に唐津藩士の松川精一(大野右仲の変名)と面談する。

そして猪苗代に逗留していた山口次郎(斎藤一。副長助勤)ら先発の新撰組隊士・安富才助率いる新撰組本体と合流。総勢およそ130名。
療養中の土方に代わり山口を隊長、安富を副長に任命した。

閏4月上旬、病床に旧幕臣望月光蔵を呼び問答の末に土方が枕を投げつけたと、後に望月の子孫が語っている。

閏4月5日に登城し、容保が労いのため酒肴を振舞う。
かつて京都守護職配下として活躍したように、再び会津と共に戦うこととなった。

 

清水屋旅館跡 清水屋旅館案内板

清水屋旅館跡
東北旅行中の吉田松陰、戊辰戦争で負傷した土方歳三、故郷を訪問した新島襄・八重夫妻と山本覚馬の娘夫婦(伊勢時雄・峰)らが宿泊した。

所在地:福島県会津若松市大町一丁目1-38(現在は大東銀行会津支店)

■■伝習隊と新撰組■■

土方歳三と宇都宮城の攻防

宇都宮城址 宇都宮城址公園案内板

宇都宮城富士見櫓(うつのみやじょうふじみやぐら)
宇都宮城址公園は清明台・富士見櫓の櫓2基、高さ10mの土塁が復元されている

 

慶応4年(1868)4月12日伝習第一大隊の隊長秋月登之助(あきづき のぼりのすけ。本名は江上太郎)・参謀土方歳三率いる旧幕軍先鋒隊が、東照大権現の旗を掲げ鴻の台(千葉県市川市国府台)から北関東に出陣。
4月13日布施宿、15日水海道宿に宿営。
4月16日宗道宿に泊まり、下妻陣屋(下妻藩)を下す。
4月17日下館城を降伏させ、城下に宿陣。18日蓼沼に泊まる。

4月19日朝に宇都宮入りし、宇都宮城(新政府に恭順)を攻撃。先鋒は土方率いる桑名士官隊、他に回天隊の少数名。土方は激しい戦いの最中に逃げ腰になった自軍の兵を刀で斬り捨て士気を鼓舞したという。砲撃をあびせ城下に火を放った結果、夕刻までに城を落した。

20日、鹿沼方面から大鳥圭介軍も入城。前軍の秋月・中軍の大鳥・後軍の御料兵隊長加藤平内で席順を争う場面もあったという。
この日、徳川陸軍隊・秋月と内藤隼人(土方)の連名で笠間藩に重役の出頭を求める書簡を記している。

しかし21日に新政府軍の増援部隊が南方の壬生城(栃木県下都賀郡壬生町)に入り、翌22日に侵攻開始し安塚(やすづか)で両軍激突、弾薬等の補給が困難な旧幕軍が敗走。

23日新政府軍は宇都宮市街に突入。土方は城北の二荒山に布陣し防戦。
要請を受け松ヶ峰門の守備につくが小銃で右足(指か甲)を撃たれて今市方面に護送された。
同じく破裂弾の散丸でわき腹を負傷した秋月と日光口今市で落ち合う。

24日再起を図るため日光街道を会津に向かう。従う新撰組隊士は島田魁、漢一郎、中嶋登、畠山芳次郎、沢忠助、松沢乙造らわずか6人だった。
この時土方は、東照宮を警備していた天然理心流の同門の八王子同心・土方勇太郎を呼び、歳三が斬り殺した歩兵の為の供養と墓の建立を頼んでいる。
26日会津領内の田島陣屋に到着。秋月と別れる。
27日土方は会津城下七日町の清水屋に到着。

 

松が峰門跡 松が峰門跡案内板

▲秋月が指揮していた松ヶ峰門(まつがみねもん)跡
門の両側には城を守るための土塁が南北に続き、東側は城内武家屋敷の中では一番の高台になっていた。
南門付近で戦っていたとされる土方歳三も負傷した。

宇都宮城址公園
所在地:宇都宮市本丸町旭1丁目

■■伝習隊と新撰組■■

伝習隊と新撰組

慶応4年(1868)4月から旧幕府軍伝習隊(でんしゅうたい)と共に戦った新撰組の戦歴を
まずは会津戦まで追います  土方歳三 ◆斎藤一
※説が多様につき、改めてまとめるため一時中断しています

 

・3/12 甲州で甲陽鎮撫隊敗走(3/6)後、新撰組伍長粂部正親に負傷隊士二十数名を会津に直行させる
・4/3 流山で近藤勇投降。土方歳三は夜に隊長付相馬主計を連れ江戸へ
◆4/4 斎藤一・安富才助ら新撰組本隊百数十名は土方歳三の指示で流山から会津へ向かう(利根川を船で下り銚子港から常陸へ渡り猪苗代へ)
★4/5 土方、江戸に登城し勝海舟・大久保一翁を訪ね近藤解放を嘆願。相馬に勝の新書を届けさせる

★4/11 土方、島田魁・中島登・沢忠助ら残存隊士6名と下総鴻の台(千葉県市川市国府台)で旧歩兵奉行大鳥圭介総督の旧幕府軍2千余の兵に合流
★4/12 土方は元会津藩士の秋月登之助率いる先鋒部隊(伝習隊第一大隊・砲兵隊・回天隊・桑名士官隊等1000人)参謀として北関東に出陣、下妻陣屋・下館城を降伏させ宇都宮城を目指す。後に永倉新八「靖共隊」(3/11離脱し結成)も大鳥が統括し日光を目指す後軍(中軍に伝習第二大隊400人、後軍に七聯隊・御料兵・別伝習隊・土工兵等600人)に編入

★4/19 秋月・土方ら宇都宮城を奪取するが4/23に新政府軍に奪還され土方と秋月は負傷し今市へ移動。翌日会津へ向かう
・4/25 近藤、板橋で斬首
★26日会津領内の田島陣屋に到着し秋月と別れる。
★4/29 土方は清水屋旅館に入り、会津城下で新撰組約130名余集結

◆閏4/5 登城。松平容保、山口次郎(二郎、斎藤一。負傷した土方に代わる隊長)に白河出撃を命じる
◆閏4/22 山口率いる新撰組130人余が白河小峰城下に着き白坂口関門に配属
◆閏4/25 新撰組ら東軍が新政府軍による小峰城攻撃を撃退
◆閏4/29 新撰組、脇本陣柳屋に宿陣
◆5/1 小峰城落城、新撰組敗走。その後も奪還戦が続く

・5/2 会津軍・伝習隊・飯野藩兵ら大田原城襲撃
・5/15 上野彰義隊へ新政府軍が総攻撃。新撰組助勤原田左之助戦死
・5/30 沖田総司病死
★土方、7月頃まで天寧の湯(東山温泉)で湯治。その間に愛宕神社へ戦傷祈願、天寧寺に近藤勇の墓を建てる
・6/24 一時戦線復帰するも病の秋月に対し歩兵達の不満が起きたとして、元幕府若年寄並陸軍奉行の竹中重固(しげかた。7/1より輪王寺宮を奉じる奥羽越列藩同盟勢の主力)が伝習隊第一大隊総督となる。

◆7/1 山口、飯野藩兵と出撃するが敗れ撤退
・7/10 竹中の後任として土方が伝習隊第一大隊総督、元七聯隊で書記の大嶋寅雄が分隊長に任命される
・8/17 土方部隊、大鳥圭介らと合流し猪苗代城下に移動(土方は同行せず)
◆8/21 母成峠の戦い、母成口配置の諸兵と伝習隊・新撰組およそ800人が守備するも大敗
★◆8/22 土方ら鶴ヶ城に戦況報告。松平容保は救援のため残存兵を率いて滝沢本陣に入る
★◆8/23 戸ノ口原の戦い後白虎隊士が飯盛山で自刃新政府軍が鶴ヶ城包囲。大塩宿に土方ら新撰組・桑名藩・旧幕府軍集結。
★8/25 土方、会津救援を求めるため米沢庄内へ

◆9/2 山口ら、長岡藩兵と共に陣ヶ峰峠(喜多方市)付近で戦闘
★9/3 庄内藩が新政府軍に恭順したため、土方ら仙台へ入る
◆9/4 山口ら、木曾(喜多方市)で戦闘。旧幕府軍衝鋒隊と合流すべく如来堂に向かう
◆9/5 山口率いる新撰組一隊、如来堂で新政府軍の大軍に襲撃される

その後9/8大鳥率いる伝習隊・衝鋒隊ら旧幕府は小田付代官所(喜多方市)で会津からの退却を決定。9/22会津藩降伏、以降も山口は一ノ瀬伝八・藤田五郎と名を変え旧会津藩士達と共に歩む。
仙台藩が新政府に恭順したため土方らは榎本武揚の軍艦で仙台より蝦夷地箱館に渡航、翌明治2年(1869)5/11箱館戦争で土方戦死。5/18五稜郭降伏。

いずれ仙台以降も制作したいと思います。
※脱藩士も参考図書の通りに藩士で統一しています

各記事参考図書(一般に流通している書籍)
・『歴史REAL新選組最後の戦士 土方歳三と斎藤一
・『全国版 幕末維新人物事典
・穂積忠『落城―戊辰戦争の勝敗を分けた白河口の戦い
・『カメラが撮らえた会津戊辰戦争
・野口武彦『幕府歩兵隊
・星亮一『奥羽越列藩同盟』『大鳥圭介
・『会津藩と新選組
・『三百藩戊辰戦争事典〈上〉
・『会津戊辰戦史
・荒井忠秋『戊辰の墓標』『続・戊辰の墓標』
・金子誠三『新撰組 戊辰戦争奥州白河口』
他、日野の記事に同じ
※古書等は郷土資料と共に別途リスト化する予定です