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麹町教授所学頭・元飯野藩の儒者服部栗斎

服部栗斎(はっとりりっさい)
名は保命、字は佑甫、通称は善蔵
享保21年(1736)4月27日飯野藩領摂津国豊島(てしま)郡浜村で飯野藩上方領代官の服部梅圃の四男として生まれる。母は上月(こうづき)氏。※頼春水『師友志』では小曽根の人とする
寛延2年(1749)14歳の頃に懐徳書院(懐徳堂)の五井蘭洲(ごいらんしゅう)に儒学を学び、特に中井履軒(なかいりけん。中井竹山の弟)と親交を深めた。

 
▲懐徳堂(かいとくどう)跡地と懐徳堂舊址碑

宝暦5年(1755)11月12日に父梅圃が70歳で死去。父の跡は兄が継ぐが、善蔵は兄とは別に俸を受けて飯野藩江戸藩邸に在り、飯野侯(保科正富)世子(保科秀太郎、後の正率であろう)の伴讀(伴読。貴人に書を読み聞かせる教師)役に抜擢される。
後に病で役を辞して、浪人儒者として静養の傍ら学を深めた。

江戸では村士玉水(すぐりぎょくすい。名は宗章、号は一斎。通称行蔵または幸蔵)に学ぶ。玉水の家塾「信古堂」は駿河台下の水道橋の辺に在った。
玉水によると佑甫(善蔵)は善く崎門(きもん。山崎闇斎の学統)を学んだという。
師弟の名は「西に久米訂斎と西依成斎あり、東に村士一斎と服部栗斎あり」と言われる程に高まっており、善蔵は尾張侯に招かれ講じて十口糧を由優賜されるなど厚遇を受けた。

安永5年(1776)1月4日、病に罹った玉水は善蔵に後を託し48歳にして死去。
遺言通りに善蔵が信古堂を継ぎ、築地に移る。

天明4年(1784)愛宕下の三斎小路(現在の港区虎ノ門1丁目。三斎は細川忠興のことで細川邸に通じる路から由来)に転居。
高山彦九郎(正之、仲縄)や頼春水ら学者・思想家の日記にも善蔵との交友がみられる。
以下例として寛政元年の高山彦九郎江戸日記より抜粋
十月三日…(略)…赤坂田町壱丁目を出て 愛宕の下三齋小路服部善藏所へ寄りて 子錦中風のことを告ぐ ※佐藤子錦(尚綗)が中風に罹った話をする
六日…(略)…服部善藏今朝予を尋ね来りしよし 出でゝ新大橋を渡りて濱町秋元侯の邸 水心子正秀所に寄る
十一日…(略)…三齋小路服部善藏所に入りて黒沢東蒙を□訪ふ語りて ※11月
二十五日…(略)…服部善藏所へ寄りし時に壹分を借りる事あり ※12月。彦九郎が金銭を借用

寛政3年(1791)10月、陸奥白河藩藩主松平定信の支援もあり、幕府により麹町善國寺谷の服部織之助の地590坪の内250坪を貸渡され麹町教授所を設立。善蔵が学頭となった。
『御府内往還其外沿革図書』の「寛政四子年之形」には善国寺跡傍、善国寺谷通東側2軒目に「服部善蔵拝借地」が書かれている。※それ以前は小川左兵衛。
麹渓書院(郷土史では麹渓塾、麹渓精舎などもある)を称し、昌平坂学問所の付属の役割をし学生を広く受け入れ進学生徒を排出する。麹は麹町、渓は善國寺谷の谷であろう。

 
▲善国寺谷・麹町教授所跡を望む

寛政4年(1792)7月21日巳刻(午前10時頃)麻布笄橋より出火した火災の飛火により学問所借地が類焼。
9月に林大学頭(林羅山から続く儒家当主。幕府儒官)・柴野彦助(栗山)・岡田清助(寒泉)ら昌平黌の教授達により善蔵が火事の手当金50両を受取ることが勘定奉行に認められた。(『御触書』)

 
名刹鎮護山善国寺碑と善国寺坂上
坂の上に鎮護山善国寺があったことから善国寺坂と名付けられ、坂の下は善国寺谷や鈴振坂と呼ばれた。善国寺は寛政10年(1798)の火事で焼失して牛込神楽坂替地に移転。跡地は火除地に召上られた。

寛政5年(1793)10月、病死した兄の住む借地を返納。12月永続手当として平河町に165坪の町屋舗を賜り、その税を学校の費用に充てたという。

 
▲中坂から町屋敷跡を望む。案内板の古地図の現在地の箇所に「教授所附町屋敷

寛政8年(1796)5月に善蔵は病を患い、12月に教授を辞した。
善蔵の正妻(大橋氏)に子はなく、庶子のうち男子は順に長太郎、順ニ郎、彌三郎。
長太郎は夭折し、教授を継がせる子の順次郎は幼年(この時8才)であったため門人に托した。
文化5年の絵図には「服部順次郎拝借地」となっている。

寛政12年(1800)5月11日善蔵死去。65歳(66とも)。麻布山善福寺に葬る。
善成院喜道居士
(現在、磨耗の進んだ「栗齋服部先生之墓」は立替により墓前灯篭の先に置かれ、中央に新しく関係者子孫の方により栗齋服部先生之墓が建立されている。墓所は撮影不可)
善蔵の門下として頼春水、頼杏坪(らいきょうへい。芸藩)、櫻田虎門、秦新村、都ツ築訓次、宮原龍山、宮原桐月、池田貞助、集堂三五郎ら多くの学者を輩出した。

 

■その後の麹町教授所
文化4年(1807)2月、順次郎が教授を継いだ。
文化9年(1812)6月、順次郎は周囲の期待に沿わず禁固罪を蒙り、町屋敷を取上げ年々金30両ずつ地代金の内より被下とした。
文化12年(1815)順次郎が病死。弟もこの時既に亡くなっており、順次郎の子も幼く病弱であったため養子を願うが叶わず麹町教授所の後継が途絶えてしまった。
文化13年(1816)12月に教授地は学問所(昌平黌)の持地となる。

天保13年(1842)2月に林大学頭が摂津守へ教授所再設を進達。(麹町教授所御再建一件帳)
5月15日に松平謹次郎を教授方に任命し、6月6日麹町教授所の再開を布令。
松平謹次郎は、御所院番本多日向守組松平兵庫助の弟。この時38歳。
文久元年の絵図には「松平謹次郎 学問所持地」とあり、謹次郎は元治元年(1864)まで教授を勤めた。

その後も御牧又一郎、大島文二郎、大久保祐介(敢斎)他一人を順に教授とし継続。
明治元年7月20日に鎮守府により接収される。その後敢斎に預けられ8月23日教授再開を東京府に命じられ11月10日敢斎は大得業生となる。12月27日学制改革により免職。

尚、信古堂は玉水の同門下で善蔵の親友である岡田恕が善蔵の意志を継いで経営に努めた。

 
▲平河天満宮と麻布山善福寺(墓所は撮影禁止)
平河天満宮(平河天神)
 江戸平河城主太田道灌公が城内の北梅林坂上に文明十年(一四七八年)江戸の守護神として創祀された(梅花無尽蔵に依る)
 慶長十二年(一六〇七年)二代将軍秀忠に依り、貝塚(現在地)に奉還されて地名を平河天満宮にちなみ平河町と名付けられた。
 徳川幕府を始め紀州、尾張両德川井伊家等の祈願所となり、新年の賀礼に宮司は将軍に単独で拝謁できる格式の待遇を受けていた。
 また学問に心を寄せる人々古来深く信仰し、名高い盲学者塙保己一蘭学者高野長英の逸話は今日にも伝えられている。
 現在も学問特に医学芸能商売繁盛等の信仰厚く合格の祈願等も多い。(境内の御由緒書より)

・「平河天満宮」所在地:東京都千代田区平河町1-7-5
・「懐徳堂旧址の碑」所在地:大阪府大阪市中央区今橋3丁目5-12 日本生命本店

飯野藩上方領代官服部梅圃と上月氏の墓

服部梅圃(ばいほ。篤叟)
名は行命、通称は與右衛門、号は梅圃。
服部氏は播磨国加東郡穂積村(兵庫県加東市)の名族で、與右衛門の父である服部道存飯野藩領の浜村(大阪府豊中市)に移住したとされる。母は前川氏。

父を継いだ與右衛門は飯野藩上方領代官となり、40年勤続。
また京の三宅尚齋(みやけしょうさい)の門下となり儒学を修めた。
梅圃は職務・学問共に徳高く、摂州内で令名をはせたという。
宝暦5年(1755)11月12日に死去。觀音寺の服部家の墓所に葬る。70歳。

 

 

貞粛媪上月氏之墓
服部梅圃の妻の墓。
上月(こうづき)氏の娘で、子は四男三女を生む。長男與一郎は若くして亡くなる。次男の藤五郎、三男の源八郎、末子善蔵共に学問に秀で、善蔵こと服部栗齋は江戸の麹町教授所の学長となった。
明和7年(1770)に亡くなり、梅圃の墓の側に手厚く葬られる。

 

 

上月氏も服部氏と同じく播磨の出で、飯野藩上方領の代官を勤めた。
現在の大阪府豊能(とよの)地域の上月氏は、赤松氏遺臣の中村氏らと共に播磨(兵庫県)から旧岡山村(大阪府豊中市)に移住したとされる。

 

応頂山西琳寺中村重直之墓
浄土真宗西本願寺末。本尊阿弥陀仏。
中村治右衛門重直は本願寺第12代宗主准如(じゅんにょ。顕如上人の3男)の弟子となり、宗善と法名し寛永5年(1628)に岡山村辻野に西琳(さいりん)寺を創立した。

中村家の墓域には上月氏の墓碑も点在している。

上月元右衛門範存の墓碑
岡山村の出で保科侯に仕え、濱村で安永9年(1780)に55歳で病没、郷里岡山村に葬った旨が刻まれている。

 

上月氏は村上源氏流赤松氏の支族で、『上月系図』では赤松頼則の三男の赤松右馬充則景から起きる。則景は建久2年(1191)7月4日に西播磨の佐用荘園の地頭となった。
則景の子の上月刑部少輔景盛(上月次郎)が上月荘(佐用郡上月村)に住む。
建武元年(1334)上月山城築城。景盛の子の上月刑部少輔景忠が居城としたとする。
※建武3年(1336)11月築城、景盛の子上月三郎盛忠の居城、他異説あり。
嘉永年間に上月氏の宗家は絶え、永禄年間に傍流上月十郎が浮田の家臣として上月城を守る。

中村氏も上月氏と同様に赤松氏族で、赤松三十六家のうち御一族衆に上月氏、當方御年寄に中村氏。
『播磨鑑』では加東郡の服部氏祖の郷里近くに在る金鑵城(金釣瓶城、かなつるべ)城主の孫中村六郎左衛門尉景長を祖とする。
景長は赤松侍従季房の六世の孫。左馬助光景、弾正少弼正景と子孫が続く。

同じく加東郡の堀殿城(河合城の支城小堀城)は、上月伊予守盛時(系図の盛忠と異なるが、景盛の嫡子とする)の居城として「上月城」と呼ばれた。

観応3年(1352)の光明寺合戦で大将赤松刑部少輔正資の侍として上月四郎、上月五郎、中村駿河守らが集った。
嘉吉元年(1441)8月に赤松兵部少輔祐則(祐之)の岩屋城が、兄の赤松満祐の反逆により細川勢に襲われ、上月・中村氏が岩屋城防衛に加わり勝利した。
長禄元年(1457)12月2日夜に中村弾正忠貞友ら中村一族や上月左近将監満吉ほか赤松家の遺臣達が吉野の南方両宮を襲撃し、中村貞友と上月満吉は二宮の首級を討ち取った件(長禄の変)の注進状(文明10年8月)が『上月記』に記されている。

────摂播にはいくつかの上月、中村氏(清和源氏多田氏族等)が存在する中、碑文等から推測すると共に岡山村に移ったのは上記の服部氏の故郷近辺を領していた東播磨の上月、中村氏ではないかと思われる。
※浜村陣屋の飯野藩士については模索中。時間をかけて調べていきます

 

▲西琳寺門前の天保2年(1831)建立のおかげ燈篭に「岡山村」
岡山村は寛永年間船越駿河守から明治まで代々旗本船越氏が領した。

西琳寺所在地:大阪府豊中市曽根東町5-4-5

メッセージありがとうございました


ブログの更新が滞っておりますが、歴史散策や収集にとあちこち飛び回っております。

▼メッセージありがとうございました

某会のH様(5/23着)
興味深い情報とお声かけありがとうございます。
まずは古文書が救済されたことに感謝ですね。
後ほどメールにて返信致します。
今後ともよろしくお願いします。

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私個人へのメッセージでなく、ブログ内容に関するお問合せには全てメールにて返信済です。
返信のない方はもう一度送信お願いします。

大河内三千太郎[3]篤志・教育家としての後半生

(前の記事→[2]明治の北海道に渡った剣客、監獄看守となる

神居村総代人となる
明治24年(1891)6月に看守を退職し、空知監囚人外役所があった神居村番外地(ニ通り1丁目、後の美瑛町1丁目)に移住して荷物の運搬業を営んだ。
※上川市街地計画上での神居第一・第二市街の測量区外。第三市街地は旭川
三千太郎の住む二通り1丁目は、美瑛駅逓所から1町(約109m)程の距離で、神楽(25年2月4日に神楽村となる)には新しく忠別川に忠別橋、美瑛川に美瑛橋(後の両神橋)が仮設され、翌年旭川に旭川駅逓所が置かれて運輸の需要が大いにあった。
そして三千太郎は神居村の第1期の総(惣)代人を引継ぎ、33年3月(第5期)までの全期間を歴任した。
※この頃の総代人は村民から2名が選ばれ村の事業等について評決し、戸長が施行した

明治27年(1892)12月4日に疋田新助、掛場吉右エ門らと共に村民72名の連署を以って忠別太53万3500坪を共有地として貸下出願が認可される。
明治28年(1895)4月、札幌連隊区徴募区徴兵参事員となる。8月、神居村に公立忠別小学校(10月に忠別尋常高等小学校に改称)の分校を開くため三千太郎所有の倉庫と金二十円を寄付
9月27日に三千太郎らが申請していた雨紛原野2万3325坪の基本財産貸下が認可。

明治30年(1897)8月31日忠別尋常高等小学校の神居分校が開校。
明治31年(1898)8月15日旭川に鉄道(空知太間の上川線)が開通。三千太郎は開通式の発起人の一人である。
明治32年(1899)2月10日に三千太郎らは神居分校の独立を決議し3月13日認可、4月に神居尋常小学校と改称、新築して開校となった(ロ通り右6、ハ通り右6左6)

 
▲現在の神居小学校と北海道庁立上川二等測候所跡
総代人らの協議会は神居尋常小でされ、三千太郎は村の共有財産確保や教育に貢献した。
「候所跡」は『明治ニ十三年旭川地図』市街予定区画外(番外地)にある空知監獄署出張所のすぐ西の区画内に書かれている。明治21年7月1日に樺戸監獄署忠別太派出所事務所の一室で気象観測を始め、23年7月23日に新築移転し31年7月末までこの地(ホ通り4丁目/3号)に在った。

測候所が旭川に移った頃に旭川駅が開通し翌年には第七師団の旭川移駐が内定、次第に旭川市街が上川郡の中心街となっていく。

 

旭川に私立校を設立、中学校警察師団等の嘱託教師として剣術、剣道を教授
明治33年(1900)4月10日水田開発のための灌漑溝の開墾についてので熱弁。
6月に学科と剣道の教授の場として、藤本本蔵・馬場泰次郎等と旭川市街予定地宮下通14丁目右5号に「文武館」を設立し、三千太郎が塾長となる。
※8月に旭川村は旭川町に改称

明治34年(1901)7月に有志家の援助を得て、旭川町一条通9丁目左7号に「上川尚武館」として大河内剣道道場を移転し、三千太郎が館主となる。門下は300余名を数え、60余名が通学したという。
文武館は来海實を館長として私立中学「上川文武館」として引継ぎ、三千太郎も剣道を教えた。夜学を開始し生徒約80名となるが、3年後に休館。

 
▲上川尚武館跡地と文武館跡地付近
明治36年(1903)5月1日に上川中学校(現旭川東高等学校)が開校、剣道教師となる。
6月に尚武館に講道館流柔道部新設、教師は齋木藤之助。

……明治34年昨年6月21日東京市会議所で星享を短刀で暗殺した伊庭想太郎へ9月10日に酌量減等の上無期徒刑の判決、翌年4月19日の控訴審で無期徒刑が決まり東京の小菅監獄に収監。
この想太郎が網走に送還された時に三千太郎が付き添った風聞もあるが、想太郎は明治40年10月31日に小菅監獄で胃癌で病死している。付添いを裏付ける資料は無く、三千太郎は少年時代に伊庭道場の門下であったともいわれ箱館戦争では想太郎の兄の伊庭八郎らと共に戦っており無期徒刑からの連想だろうか。

 
▲現在の旭川東高等学校。また三千太郎は第七師団の工兵隊にも剣の指導をした

大正2年(1913)8月4日に伊藤くにが亡くなり、9月一郎とくにの墓を建てる。
大正5年(1916)妻のみや(みと)が64歳で亡くなる。
大正7年(1918)4月まで上川中学校に勤続した。三千太郎は長い白髭を蓄えた晩年まで近隣の学校、旭川警察署などにも出張指導し、時には式典で直心影流剣術や鎖鎌術の演武を披露したのである。
11月24日に上川尚武館にて73歳で卒去。尚徳院大與武道居士。

 
▲養子の武雄と門人の建てた三千太郎の墓(正面は前編に掲載)
大河内三千太郎墓」「大正七年十一月廿四日 逝享年七十三 法諡 尚徳院大與武道居士
男 大河内武雄  門人一同 謹建焉

**前の記事**
[1]上総義勇隊頭取、箱館戦争に従軍
[2]明治の北海道に渡った剣客、監獄看守となる

■■不二心流と木更津「島屋」■■
[2018.6/3 記事を分けました]

大河内三千太郎[2]明治の北海道に渡った剣客、監獄看守となる

(前の記事→大河内三千太郎[1]上総義勇隊頭取、箱館戦争に従軍

北海道空知監獄署に奉職(前半続)
明治22年(1889)5月空知監獄署の看守長代理となる。
この年の8月奈良縣吉野郡十津川郷の大洪水で被災し依る所のない住民600戸は官費での集団渡道を決め、最初の十津川移民789人が小樽港に上陸、10月31日に市来知に到着し、空知監附属の撃剣場等を移民の宿泊所に充て囚人が炊出しを行った。移民達は天長節の祝賀を願い出て11月3日まで滞在する。
この天長節について川村たかし(ドラマ化された『新十津川物語』作者)の新聞連載『十津川出国記』に、空知監の看守と十津川移民とで剣術試合を行ったことが書かれている。
幕末剣士達が看守となっているため腕自慢の郷士達でも歯が立たなかったが、中でも「看守長の大河原は鎖鎌の妙技を披露して驚かせた」という。三千太郎は剣術と共に鎖鎌術にも優れ度々披露していることから、この「大河原」という看守長は「大河内」のことであろう。
※この後、老人や子供は囚人の手で運ばれ空知太に入植し新十津川村(現在の新十津川町)が開かれる

 

上川郡道路開削従事囚徒の引率
明治23年(1890)4月に三千太郎は石狩国上川郡(現旭川市)の忠別太(ちゅうべつぶと。忠別/チュップペツ)から伊香牛までの北見道路開鑿のため囚徒270名を引率する。(鈴木規矩男『上川発達史』の三千太郎本人談)
永山屯田兵地の開拓も進められ、永山屯田本部と官舎や授業場等の建築が行われる。兵屋400戸のうち、樺戸・空知監は300戸を請け負い(監獄署は二中隊の200戸、札幌の北海商会が一中隊の200戸を担当したが頓挫し100戸を監獄署が引継ぐ)永山本部の後方に囚徒小屋を建てた。
山で木材を伐採するために監獄署出張所が牛朱別川畔と宇園別(当麻町)に置かれ、石狩川や牛朱別川に流して永山で製材した。
三千太郎は永山に居て、時々忠別太に置かれた空知監派出所へ赴いたという。
7月22日に監獄署は集治監に名称を戻す。9月20日に神居(かむい)村・永山村・旭川村の三村が置かれる。

 
空知監獄署出張所の跡碑と出張所があったとされる付近
明治22年6月に神居村に中央道路開削と屯田兵屋建設のため出張所が置かれた。
『明治ニ十三年旭川地図』美瑛川端に空知出張所が書かれている。現在は当時と川筋が変わり中洲にあたるという

『神居村神楽村村史』に明治32年に榎本武揚が旭川を訪れ、かつて箱館戦争に加わっていた三千太郎も神居から駆けつけ謁見し土地の価格について等に答えたと書かれているが、その頃は政界を引退し個人で学会等の会長を兼任し公的な記録が乏しく真偽不明。
『旭川史誌』等に明治23年9月に樞密顧問官榎本武揚が上川を視察とあり、再会が事実ならこの年であろうか。

 

明治24年(1891)永山村の樺戸出張所第一外役所の炊所勤務であった樺戸看守白石林武(しげたけ。明治19年9月1日樺戸監職員に採用)の勤務記(『北海道集治監勤務日記』)4月3日に「空知出張所看守大河内氏ヘ過日押送相成候囚七拾弐名、朝飯壱度分相渡置候事、拙者囚弐名引率ノ上渡済…」とあり「空知看守大河内 氏太刀鎌能シ」と、日々撃剣稽古に励んでいた白石らしい付記を加えている。

 
屯田歩兵第三大隊本部跡碑永山屯田兵屋(旭川市博物館展示)
三千太郎の引率した囚人達は裏に小屋を建てて本部や兵屋建設に従事した

5月に永山屯田兵舎落成。
6月屯田兵歩兵第三大隊本部が置かれる。7月2日に永山屯田兵の入地が完了。
7月25日に月形から永山・神居・旭川3村の戸長役場が永山に移り、屯田兵本部官舎に仮住して開庁。

 
樺戸監獄署出張所の跡碑(事務所等跡地)と初め事務所があった農作物試験事務所棟
明治20年5月、上川仮新道の改修に囚徒を従事させるため農作物試験所建物(現神居1条1丁目忠別太駅逓第一美瑛舎)に樺戸監獄署出張所が置かれた。ただし、獄舎、看守詰所等監獄署としての施設はこの一帯に置かれ、後には事務所もここに移った。囚徒は、新道工事のほか屯田兵屋の建築にあたるなど、陰ながら上川開拓に大きな足跡を残した。
上川郡農作物試験所は明治19年に建ち20年に樺戸監に移管され忠別派出所事務所となり、22年に貸下げられ官設駅逓(人馬車継立兼休泊所)となり、8月15日に忠別太驛逓第一美英舎が開駅した。

白石林武の勤務記にみられる通り、空知出張所の三千太郎は樺戸監とのやり取りもあった。

 

大河内三千太郎[3]篤志・教育家としての後半生へ続く
(前の記事→[1]上総義勇隊頭取、箱館戦争に従軍

■■不二心流と木更津「島屋」■■
[2018.6/3 第三大隊本部跡碑追加。長いので記事を分けました]