忠崇と戊辰戦争」カテゴリーアーカイブ

請西長楽寺と万里小路(まて様)

長楽寺山門 まて様の墓

長楽寺と養子の実家の墓地にある万里小路の墓

 

■万里小路局
寿賀姫(すが。壽賀)。
文化10年(1813)に大納言池尻(いけがみ、いけがめ。藤原四家北家の出とし、萬里小路氏と同属にあたる)興房(おきふさ)の末娘として生まれる。
※文化9年とも。興房の名を示す記録は見当たらず権大納言池尻暉房(てるふさ)と見られる。

天保3年(1832)20歳頃、11代将軍徳川家斉(いえなり)の孫家祥(13代将軍家定/いえさだ)の正室として輿入れした8歳の鷹司任子(たかつかさあつこ。天親院/てんしんいん)の世話役として京から江戸へ出仕。
天保7年(1836)に大奥に入る。家斉の寵臣林忠英が寿賀姫の宿元(身元引受人)となった。
将軍付小上臈(こじょうろう)となる。

12代将軍徳川家慶(いえよし)の代(1837~1853)に、将軍付上臈御年寄(じょうろうおとしより。女中職の最高位)となる。
上臈は生家の公家の通り名で呼ばれる慣わしで、寿賀姫は万里小路(までのこうじ)と称した。

西の丸で13代将軍徳川家定にも仕え、家定の死後に年齢を理由に大奥を引退し桜田御用屋敷で暮らす。

よほど人望と手腕があったのか14代将軍徳川家茂(いえもち)の時に再び大奥への出仕を命じられた。
万里小路は将軍4代にわたり仕えたことになる。

元治元年(1864)5月29日に大奥を辞して、請西藩藩主林忠交江戸浜町藩邸のもとに移る。この時忠交は伏見奉行として京に上っていた。
忠交の急死後はその後を継いだ林忠崇の国元上総国望陀郡請西村(じょうざい。千葉県木更津市請西)を隠棲地に定め、元部屋方お局(つぼね)都山(つやま)と共に江戸を後にした。万里小路局55歳の頃である。
京へ帰れば裕福な暮らしが出来たが、林家のもとに身を寄せたのは徳川への想いが強かったのだろう。
※万里小路は京の権中納言町尻量輔(まちじりかずすけ)の正室となり、後に2人の養子を迎えている。

慶応4年(1868)に木更津の河岸に上陸した際の荷物は親船2杯もあり、仮宿の長楽寺まで長々と行列が進んだ。
長楽寺住職の與喜海明は本堂脇の離れ座敷に万里小路局を迎える。
万里小路局は「まて(まで)様」と呼ばれ、洗練された侍女も8人位伴っており、華やかな様子であった。
しばらくして寺の裏手の高台へ住居(真武根陣屋の部材を解体・一部移築か)を構えた。

長楽寺太子堂裏 長楽寺庭園
▲長楽寺裏手の高台から本堂裏の大師堂(明治18年建立)と庭園を撮影

閏4月3日に藩主自ら脱藩した林忠崇が出陣したため5日に長楽寺で忠崇の武運祈願に大般若経を転読、まて様は御下髪姿で祈念したという。そして長楽寺から万丈を使いとして忠崇の必勝祈願の護摩札や供物を贈った。
京の朝家に帰らず請西林家に身を寄せたまて様は徳川の為にと決起した忠崇を心の底から支援していたのだろう。
16日にはまて様の金百両もの多額な援助金を持って忠崇のもとへ広部周助(上根岸の豪農)が韮山を経て合流している。
5月26日の山崎の戦いの掃討戦として27日に箱根宿端で小田原藩兵によって討たれた請西藩士に、まて様が養子にした嘉之三郎(鹿次郎とも)の父(祖父?)重田信次郎がいる。
※伝聞では鹿次郎は信次郎の子、記録では信次郎の長男である長兵衛の次男

戊辰の役の戦後に身の拠り所を無くし、困窮した晩年は横田村の豪商の河内屋惣左衛門栄助の長女、川名里鹿(りか)がまて様を自宅に迎え入れて世話をした。
川名家に移ってからも大奥の作法でふるまったという。

明治4年(1871)重田鹿之次郎がまて様の養子となる。
明治10年(1877)10月16日鹿之次郎が15歳で病死。
明治11年(1878)5月7日にまて様が66歳で卒中で死去。松寿院殿雙円成心大姉。
明治13年(1880)に広部精の撰文で萬里小路大姉墓誌が作られる。

まて様の墓表 まて様の墓横
▲まて様の墓の側面には万里小路局(つぼね)について刻まれている。

松壽院雙圓成心大姉 位

大姉ハ京都池尻前大納言興房卿ノ末女 文化十癸酉誕生也。
壽賀姫ト称シ 幼年江府ニ下リ 天保七年申年徳川城ニ勤仕ス。
婦徳有テ萬里小路局ノ役ヲ続キ家齊公ヨリ家茂公迄四代ノ将軍ニ侍ス。
辞後重田鹿次郎ヲ養子トシ一家ヲ興シ 終ニ明治十二年五月七日卒。

真言宗豊山派清瀧山長楽寺
鎌倉時代に請西本郷に稲荷山長国寺と称して草創され、永禄年間(室町初期)に現在の場所に移り、長楽寺と改称した。本尊は平安初期御作の薬師如来坐像。
融源上人が立ち寄り法流を広めてから隆盛し60ヶ寺を統理し、中本寺、常法談林所として土地の信仰と学問の中心であった。天正18年に徳川家康が由緒ある当寺を守護するため制札を下し、続いて寺領を寄進した。

長楽寺の菅原道真公の石碑板 長楽寺の碑石の裏
▲古くから「山の神様」と呼ばれ長楽寺の丘から木更津の港町を見守ってきた菅原道真公の石碑。
萬里小路局も江戸湾を眺めて忠崇のことを心にかけていたことだろう。

清瀧山明王院長楽寺 所在地:千葉県木更津市請西982

甲府に向け黒駒へ

慶応4年(1868)閏4月19日、伊庭八郎の進言で、甲府城にの奥平・真田・水野等の兵達への対策として、遊撃隊の精鋭20人が難所の三坂峠を押さえた。
真田家の兵が黒駒まで来たが、三坂峠に請西藩林忠崇と旧幕府遊撃隊らの兵が既に陣取っていることを知り退却。

20日朝、忠崇一行は川口を出発。三坂峠を経て藤ノ木に進行。黒駒で逗留する。

御坂峠 御坂みち上黒駒

御坂峠を経て黒駒へ至る

 

5月に入り甲府へ軍を進めようとしたが、徳川家からの説得が伝わり、沼津表で10日を期限として命を待つことに同意した。

甲府城址 甲府城の発掘された石垣

甲府城址と発掘された石垣。忠崇らは甲府城を脅かさずに引き返した。

一行は5月2日から黒駒から道を南へ遡り、5日に沼津城下近くの香貫村に入る。

三島から河口へ

慶応4年(1868)閏4月16日の午前、請西藩藩主林忠崇伊庭八郎人見勝太郎旧幕府遊撃隊ら一行は韮山(静岡県伊豆の国市市)を出発。
甲府を窺うため三島(静岡県三島市)を経て深夜に御殿場(ごてんば。静岡県御殿場市)に着いた。

 三島から富士山までの展望図

三島宿の三嶋大社
右画像、山中(静岡県)からの展望図だと左手の三島から、右手の富士山が見える方向へ向かうこととなる

2御殿場と富士山 御殿場駅

▲現在の御殿場駅富士山口周辺と、箱根側(乙女口方向)

 

17日に、田安侯の使いとして山岡鉄太郎が説得に来訪。翌日忠崇は上意を新政府軍の総督府に差出を依頼し、甲府(山梨県甲府市)で10日再命を待つと取り決めた。
19日に御殿場を出発。巣走(須走。静岡県駿東郡)、山中(山梨県南都留郡)吉田(山梨県富士吉田市)等を過ぎ川口(山梨県南都留郡)に宿陣する。
須走 吉田

▲一行は須走(写真左)から山中を経て吉田(写真右)まで北上する

河口湖駅 河口湖と富士山

河口湖駅と河口湖。「川口村」は、現在の現在の富士河口湖町

士魂商才の小柳津要人

M35小柳津要人の写真 小柳津要人(おやいづ かなめ)
士魂商才」は、福澤諭吉が「元禄武士の魂を以って大阪商人の腕ある者、即ち西洋のマーチャント(商人)の風ある者は小柳津要人」と評している通り士魂商才の新語を創って小柳津にあてた、または丸善創業者の早矢仕が番頭の小柳津の人柄に対し表した言葉とも伝わる。
徳川の恩義のため戊辰戦争を戦いぬいた後、丸善と出版界の発展の大きな力となった小柳津に相応しい言葉である。

 

■岡崎藩の西洋流大砲方として江戸へ
弘化元年(1844)2月15日に三河国額田郡岡崎で岡崎藩士小柳津宗和の長男として出生。母は光子。
要人は小柳津家の九代目。

岡崎藩(5万石)は三河国額田郡岡崎(愛知県岡崎市康生町)の岡崎城(徳川家康の出生地)を居城とし、この時の岡崎藩の藩主は本多忠民(ほんだただもと。美濃守、中務大輔。万延元年/1860に老中)。
忠民の本多家は本多平八郎忠勝を租とし、徳川譜代の重鎮であったため、子弟教育は厳しく幼くして武士としての教養を身に付けさせていたという。
小柳津も本多忠勝の遺訓「惣まくり」を生涯の信条としていた(總捲、残らず論じる意味)

17歳で御料理の間詰として藩に出仕し、間もなく側役の御次詰となる。
この頃、先輩同輩と将来における洋学・漢学の是非を論じて小柳津は洋学を採る方針を固め、従来の武芸のほか洋式砲術も修練した。

文久3年(1863)3月、20歳でに岡崎藩西洋流大砲方として江戸詰を命じられ江戸に赴く。
江川英龍の「繩武館」に入り教授の大鳥圭介、箕作貞一郎(麟祥)に兵学・洋学の教えを受ける。
秋より幕府開成所に学び、英学得業士となって新しい知識を身につけた。

慶応2年(1866)4月に藩に呼び戻される。

 

■戊辰戦争では脱藩して箱根から箱館まで転戦する
慶応3年(1867)10月徳川慶喜上洛とともに岡崎藩本多家は伏見の豊後橋の警護を命ぜられる。14日に慶喜が大政奉還を上奏。
12月に小柳津は藩を脱して江戸に向かう。

慶応4年(1868)3月23日に藩主忠民は養嗣子の忠直(ただなお)を上京させ親子連盟の勤皇誓書を提出し恭順を示した。

徳川譜代の藩として恭順に対し反発も多く、小柳津は藩の上役で佐幕派である儒者の志賀熊太(重職。重昴の父)に血判状を提出し、脱藩する。
和多田貢ら岡崎藩士23名で林忠崇・遊撃隊らが宿陣する沼津香貫村に至り、5月6日に加盟。第三軍に編入される。
26日の箱根山崎の戦の撤退戦で小柳津は左の脛を負傷。
その後も奥州を転戦し、更に榎本武揚率いる旧幕府艦隊で10月22日に蝦夷鷲の木へ上陸。11月5日に松前を落とす。

明治2年(1869)正月の仏式改編で遊撃隊の差図役となる。新政府に対しての和解案は受け入れられず、掃討のため4月に官軍が来襲し11日札前村付近で戦闘後、木古内に引揚。
20日に木古内に官軍千人ばかり押し寄せ火を放つ。この戦いで伊庭八郎はじめ負傷者が多く出て泉沢まで撤退。立て直すも追撃はなく22日に五稜郭帰営。
その後も抗戦するも5月11日に総攻撃を受け遊撃隊は桔梗野口で戦い小柳津は負傷する。その後に遊撃隊は五稜郭の表門を守備につく。

18日に榎本らは謝罪を決め、箱館称名寺で謹慎。称名寺で一泊し、翌日病院へ。
7月3日に出院して弁天台場に謹慎。
9月1日土州蒸気船の夕顔丸に乗り翌日出航。風模様が悪く南部釜石港に翌朝まで錨泊。
5日に品川着。
その後岡崎脱藩士は岡崎に呼び戻されて郷里で謹慎となる。

 

■英学を修め慶応義塾を経て丸善商社に入社
明治3年(1870)3月に謹慎を赦され東京へ向かう。
その途次に静岡──駿府に移封となった徳川家が人材育成のため駿府の学問所(静岡学問所)や沼津兵学校など教育機関を設立認可し、かつての有能な幕臣達が教鞭を執っていた──で沼津兵学校で英学教授の乙骨太郎乙(おつこつたろうおつ)のもとで英学を修め、また外山正一(とやままさかず。後に文部大臣)の知遇を得る(金拾円の援助を受ける)

東京で大学南校(開成所跡に開校した洋学校)に学び、後に慶応義塾(福澤諭吉の築地鉄砲洲の中津藩中屋敷に開いた蘭学塾が英学塾となり芝新銭座に拡大移転後慶應義塾に改称)に入る。

明治4年(1871)小柳津は藩の貸賃生であったが7月の廃藩置県に際し藩費が途絶えたので筑後柳河(福岡県柳川市)英学校の教師となる。
後に郷里の岡崎へ戻って英語を教授。

明治6年(1873)1月に横浜の丸屋に入り、書籍部門を担当する。
※慶応義塾生の早矢仕有的(はやしゆうてき。医師。美濃武儀郡笹賀村出身、幼名左京)が福沢諭吉の提案に基き明治2年1月1日横浜新浜町に和洋書籍と西洋医品を商う「丸屋」を創業。名義人を仮名の丸屋善八にしたため「丸善」と呼ばれるようになった。
小柳津について諭吉伝にも明治6年頃入社し丸善の基礎を成す大きな力になったことはその歴史上忘れるべからずものであろうと記されている。

明治5年11月9日に明治政府は太陰太陽暦から太陽暦(西暦、グレゴリオ暦)への改暦の詔書を発表し、明治5年12月3日を明治6年1月1日と定めた。
布告からひと月も満たない急な改暦に混乱する状況を見かねた福澤諭吉は太陽暦を庶民に受け入れやすく解説した『改暦辨』を急編。
改暦辨に明治六年一月一日発兌(はつだ、発行すること)とあるように短期作業のため三田の印刷所から刷りたてのバラ丁を丸善に運び小柳津ら社員大勢で綴じたという逸話もある。

9月9日に長男の邦太が生まれる。

明治9年(1876)8月7日に長女とくが生まれる。

明治10年(1877)3月大阪支店(北久宝寺町の丸屋善蔵店)支配人となる。
この頃から大鳥圭介・外山正一・志賀重昂など小柳津と面識や係りのあった旧幕臣の学識者の著作もしばしば出版されるようになった。

明治11年(1878)8月14日に次女の銈(けい)が生まれる。

※明治13年3月30日、東京日本橋通の丸屋善七店を本店とし責任有限「丸善商社」に改称。

明治14年(1881)5月12日に三女の京が生まれる。

明治15年(1882)7月に東京本店支配人となる。
旧岐阜藩士林有適らと丸善の経営改革、洋書の輸入に先鞭をつけ文明開化に貢献する。

7月に外山正一等の『新體詩抄』を出版。出版の相談を受けると小柳津が独断で丸善での出版を承諾。これが早々に売り切れるほど好評で多く売れたので「士魂商才」の商才…商売の道に誠実巧みな様子が窺える。

明治17年(1884)3月7日に次男の脩二が生まれる(田中家養子)
※この年、大蔵省のデフレーション政策により丸善銀行をはじめ閉店する銀行が相次ぐ

明治18年(1885)1月20日に銀行破綻の整理のため退任した早矢仕に代わり松下鉄三郎が社長に就任し、小柳津は取締役に選任される。
小柳津はこの丸善の危機に社長松下と供に社業の回復につとめた。

明治20年(1887)東京書籍出版営業者組合(後の東京書籍商組合)の創立の発起人に加わる。

明治21年(1888)12月18日の出版条例で奥付に実名が必要となったため、丸善出版代表者に小柳津の名を記載するようになる(退任する大正まで続く)

明治22年(1889)東京書籍出版営業者組合副頭取となる。

明治23年(1890)大日本図書株式会社創立に際し取締役

4月26日に4女の駒が生まれる※上に二人の夭折の兄あり

明治25年(1892)東京書籍出版営業者組合頭取となる(人望のためか明治42年まで在任)

明治26年(1893)丸善商社から「丸善株式会社」と改称。小柳津は取締役に選任。
2月27日に五男の宗吾(昭和5年~丸善監査役・15年~取締役・22年~社長となる)が生まれる。

明治30年(1897)専務取締役。

 

■専務取締役として丸善二代目社長の後を引き継ぐ
明治33年(1900)1月16日に丸善社長の松下が急逝し20日の取締役会で小柳津が後任に当選。三代目社長にあたるが定款により専務取締役として統括した。
2月25日に六男の六蔵が生まれる。

※明治34年2月3日に福沢諭吉、18日に早矢仕が死去。

明治35年(1902)5月7日 駒込メリヤス工場の名義人となる。
※この頃学校教科書の採用時の賄賂が横行し12月17日に関連会社が一斉検挙された「教科書賄賂事件」でも無関係なうえ新聞でも専務取締役小柳津の名が一度も出なかった。

昭和37年(1904)1月に小柳津は正金銀行が信用状を謝絶した事を銀行側に問いただしている。対露戦争に向けた資金を海外支店の政府の預金から引き出され為替金支払いの準備金が欠乏したためであった。2月に日露戦争勃発。
日本の連勝に国民の生活全般が軍国調になったが、小柳津が軍隊への献金・国債応募・軍人遺族の救済等日露戦争には協力的であった一方で「書籍の武装は断じてせず」と丸善店舗は通常通り文学や美術の良書を取り揃えていたたことを感心する声もあった。

志賀重昂が従軍記者として乃木軍中に在った『旅順攻囲軍』9月4日の項に、岡崎出身である第十一師団長土屋光春中将を訪ね、参謀長石田大佐の案内で戦線をめぐるった折に、露兵の落とした軍隊手帳2帖を贈られた。
日本兵なら軍隊手帳を落とすことは恥辱として肌身離さないが、露兵は複数人落としている。日本側は書きだしに天皇陛下より下賜された御勅論、以降軍人の心得を揚げるが、露側は全く精神上の教育について触れられていない。この比較は教育家として面白い倫理研究題材になるのではと、手帳の1冊を小柳津に贈りたい旨と小柳津の功績や人柄について語り合ったことが記されている。
土屋・石田・志賀の三人ともに小柳津のよく知る間柄である。

※明治41年4月5日に第一回名士講演会開催。講師に江原素六・海老名弾正。

明治42年東京書籍監査役に就任し帝都書籍界に重きをなす。

明治45年(1912)1月24日総支配人

大正4年(1915)3月31日 特別議員に推薦される。

大正5年(1916)1月24日に総務取締役を辞任し、相談役に就任。

大正8年(1919)6月に軽度の脳溢血を病む。

大正11年(1922)6月21日東京で死去。79歳。菩提所は谷中の加納院、おくつきは青山墓地。

※明治5年までは旧暦表記です

▼青山霊園(東京都港区南青山二丁目)の小柳津家の墓と側面

小柳津家の墓 墓石側面

参考図書
・『丸善百年史
・『三百藩戊辰戦争事典上
・須藤隆仙『箱館戦争史料集
・『丸善外史
・『岡崎商工会議所五十年史』
・小柳津要『遊撃隊戦記』
・富沢淑子『小柳津要人追遠』
・『慶應義塾百年史』
・福沢諭吉『改暦弁』
・志賀重昂『旅順攻囲軍』
関連・参考サイト
・丸善株式会社Webサイト:http://www.maruzen.co.jp/top/
・慶應義塾:http://www.keio.ac.jp

山中城跡と山中新田[1]

山中城跡公園 山中新田

▲山中城跡(やまなかじょうあと)と山中新田の道標
慶応4年(1868)5月、沼津藩下の香貫村林忠崇・遊撃隊らは待機していたが、東西での連携を企てていた彰義隊が上野で破れ、西の遊撃隊への警戒も次第に強まる中、人見勝太郎が旗下の第一軍を率いて箱根関門へ出陣する。
残る本隊も先鋒を追い三島を経て19日に箱根間近で要路にあたる豆州山中村に本営を構えたという。
伊庭八郎は箱根湯本に陣を構え、林忠崇は山中本営で箱根方面を睨みながら、同時に背後の三島方面からの沼津兵の進軍を警戒した。

山中新田は元和年間(江戸時代の初め)に成立した新田集落の一つで、三島宿と箱根宿の間の宿として茶店や旅籠が営まれた。※それまでは現在の元山中(関所跡の碑がある)が「山中」と呼ばれていた。

箱根旧街道 箱根旧街道の解説

箱根旧街道
箱根旧街道は慶長9年(1604)江戸幕府が整備した五街道の中で、江戸と京都を結ぶ一番の主要街道である東海道のうち、小田原宿と三島宿を結ぶ、標高845mの箱根峠を越える箱根八里(約32km)区間である。
旧街道には通行する人馬の保護のため松や杉並木が作られ、正確に道のりを示す一里塚が築かれた。またローム層上の滑りやすい道なので竹が敷かれたが、延宝8年(1680)頃には石畳の道に改修された。
平成6年度に三島市がこの腰巻地区約350m区間を復元整備した。発掘調査で石畳は付近で採掘したと思われる安山石を用いて幅2間(約3.6m)を基本とし基礎を造らずローム層上に敷き並べられ、道の両側の縁石は比較的大きめの石がほぼ直線状に配置されていたとみられる。

遊撃隊らもこの街道を経て出兵、そして5月26日の山崎の戦の追撃を受けることとなる。

富士山に臨む山中城 三島市街と駿河湾方面

▲西ノ丸付近は標高580mで、富士山、愛宕山、そして三島市街と駿河湾を見渡せる。
戊辰戦争から時代は遡って戦国時代の山中城は箱根山の地形を利用し、北条の出城の徳倉城・獅子浜城・泉城、そして豊臣軍の北条征伐に耐えた韮山城を俯瞰できる位置に築城した。

 

史蹟山中城
山中城は小田原に本城を置いた後北条氏により戦国時代末期の永禄年間(1560年代)小田原防備のために創築された。
天正17年(1589)10月に北條氏直により修築が行われ、豊臣秀吉の小田原征伐に備えて西の丸や岱崎出丸等の増築が始まった。
しかし翌年天正18年(1590)3月29日に増築が未完成のまま、豊臣軍4万の総攻撃を受けた。
羽柴秀次が中村一氏、田中吉政、堀尾吉直(吉晴、)山内一豊、一柳直末等を率いて包囲し、家康を小田原口の先鋒として元山中の間道より進軍させた。
必死の防戦も約17倍の人数には適わず、北條氏勝は相模玉縄城に逃れ、山中城はわずか半日で落城したと伝えられる。
この時の北条方の守将松田康長(まつだやすなが)・副将間宮康俊(まみややすとし)の、豊臣方の一柳直末等の武将の墓は今も三の丸跡の宗閑寺に苔むしている。

三島市が公園化を企画し、昭和48年から全面発掘に踏み切り山城の規模・遺構が明らかになった。特に掘や土塁の構築法、尾根を区切る曲輪(くるわ)の造成法、架橋や土橋の配置、曲輪相互間の連絡道等の自然の地形を巧みに取り入れた縄張りの妙味と、空堀(からぼり)・水掘(みずぼり)・用水池・井戸等、山城の宿命である飲料水の確保に意を注いだことや、石を使わない山城の最期の姿を留めている点等、学術的にも貴重な資料を提供している。

 

載せきれないのでまず山中城の特徴の畝掘(うねぼり)・障子掘(しょうじぼり)を中心に…

西櫓掘 西ノ丸畝掘から曲輪

▲西櫓掘(にしやぐらぼり)と、西ノ丸畝掘から曲輪の様子
西ノ丸の畝掘は五本の畝により区画され、畝の高さは堀底から約2m、更に西ノ丸の曲輪に入るには9m近くもよじ登らなければならない。
ローム層を台形に掘り残しほぼ9m間隔に8本の畝が堀の方向に直角に作られている。畝の傾斜度は50~60度と非常に急峻で平均した掘底の幅は2.4m、中央の長狭9.4m、頂部の幅は約0.6mで丸みを帯びている。
西ノ丸掘は「北条流掘障子」の変形でより複雑に谷に連なっている。
現在は遺構保護の為に芝や樹木を植林しているが、当時は滑りやすいローム層が露出しており、人が落ちれば脱出不可能であったと推測される。

西ノ丸畝掘 西ノ丸掘

後北條の城独自の特徴「障子掘」は、障子のように堀の中を区画して畝を掘り残されている。中央区画には水が湧き出て南北の堀へ排出され、水掘と用水池を兼ねた珍しい構造である。

元西櫓下の堀 三の丸掘 山中城跡案内板

▲元西櫓下の堀、三ノ丸掘
三ノ丸掘は、自然地形を加工して作る他の曲輪掘とは異なり自然の谷を利用した二重掘で、長さ約180m、最大幅約30m、深さ約8m。中央の畝を境に西側の堀は空堀として活用していた。

掛橋のある二の丸虎 箱井戸跡 田尻の池

▲左写真の二ノ丸(北条丸)虎口から降りた湿地帯に在った箱井戸と田尻の池
三ノ丸掘東側の堀は水路として箱井戸・田尻の池からの排水を処理した。高地の箱井戸から広い田尻の池(約148m²、馬用の飲み水として使われたようだ)へ水を落すことにより水の腐敗や鉄分による変色を防いだと思われ、用水地として工夫がなされている。
箱井戸・本丸の間の下った場所が現在の山中新田の地域。

山中の芝切地蔵尊 山中城跡縄張りと案内図

▲かつての旧箱根街道沿いに在る芝切地蔵(しばきりじぞう)
山中新田の旅籠に泊まった巡礼姿の旅人が急な腹痛をおこして死に際に、この旅人の故郷の常陸が見えるように芝塚を積んで地蔵尊として祭れば村人の健康を守りましょうと遺言を残したという。村人はその通りに地蔵尊を祭り毎年7月1日を縁日として供養した。
縁日に出された腹掛けや参拝者の接待用の「小麦まんじゅう」が美味しいと評判になり、沼津方面からも参拝者が集まり山中村が潤ったといわれる。
山中城跡の案内図は右側が北。

饅頭ではないが、現在は観光案内所売店の「寒ざらし団子」が名物になっている。
上新粉を冬場の寒気にさらして作ったことによるネーミングだ。
表面はシャクシャクと歯ごたえがあり、蓬の風味と合っている。じっくり温めたタレをかけた焼団子を寒空の下食べると殊更美味だった。

山中城跡公園(国指定史跡・日本100名城選定)
所在地:静岡県三島市山中新田、田方郡函南町字城山