上総・安房の歴史」カテゴリーアーカイブ

上総・安房(千葉県の中~南部)地域の歴史

妙勝寺-水戸天狗党の乱と天狗党四士の墓

花香谷明谷山妙勝寺 妙勝寺の水戸浪士天狗党四士の墓所

妙勝寺水戸天狗党四士の墓
佐貫藩に預けられ処刑された天狗党の4人の墓。平成16年10月改修。
古い墓石の表には「南無妙法蓮華経」が刻まれている。文字は殆ど見えなくなっているが『富津市史』に右から「黒沢氏」「荒井氏 元治二丑年四月三日」(なし)「木村氏」とある。

 

■天狗党の乱

常陸国水戸藩(茨城県水戸市)の後継者争いで藩主の座に着いた徳川斉昭(なりあき)を擁立した派閥は頭勝で鼻高々な様子から天狗党と呼ばれた。
嘉永6年(1853)の黒船来航により海防をに関わる斉昭は国防の必要性を主張し、水戸藩は尊王攘夷派が台頭していく。
天狗党の中でも攘夷に意欲的な改革派は激派と呼ばれ(激派に反する派閥は鎮派)日米修好通商条約に調印した井伊直弼を襲う桜田門外の変にも加わった。その約半年後に斉昭が急死した後も攘夷運動は続けられた。

元治元年(1864)3月27日、横浜港の閉鎖を求めて天狗党激派の藤田小四郎(こしろう。藤田東湖の4男)は、町奉行田丸稲之衛門直允(いなのえもんなおあき)を大将に据え、自らは総裁として監察府として筑波山に旗揚げした。※以降「筑波勢」と記述
これに攘夷派の藩士や浪士達が呼応し、4月に正義党(水戸・江戸・京在勤の武田耕運斎ら水戸藩執行部が指導)と合わさり田丸を首領のまま遊軍監察府総轄と称して小栗村に集結した。
徳川家康を祀る日光東照宮を占拠するため、田丸は水戸藩前藩主烈公(斉昭)の位牌を背負い、天狗党一団は下野国(栃木県)日光山へ向かう。
日光奉行から知らせを受けた幕府は下野近隣の藩と水戸藩へ天狗党の警戒を命じる。筑波勢は戦闘を避けて太平山(栃木市)へ移動。

その頃朝廷では孝明天皇と禁裏御守衛総督の一橋慶喜(よしのぶ。後の15代将軍徳川慶喜。水戸藩前藩主徳川斉昭の7男)らが幕府に横浜鎖港を求め、20日に将軍徳川家茂は、水戸藩主徳川慶篤(よしあつ)と、幕府政事総裁職の川越藩主松平直克(なおかつ。慶喜と親しい)に鎖港を推し進めるよう命じた。

一方水戸では、天狗党鎮派の一部が保守派と組んで諸生組(水戸藩の学問所弘道館の書生が中心だったため書生・諸生党と呼ばれた)を結成し、激派の排除に乗り出した。
6月6月に筑波勢は水戸の情勢を案じて筑波山へ引揚げ大御堂(おおみどう)を本営とする。

天狗党激派を中心とする攘夷集団は膨れ上がり、別隊浪士の略奪等横行狼藉が目立った。
10日に幕府は関東の近隣諸藩に討伐を命じ、11日には高崎・笠間藩へ追討命令が出される。
水戸藩は藩主慶篤の居る江戸藩邸へ諸生組が詰めかけ、慶篤は改革派支援から一転して幕府の意向に従うことに応じた。
慶篤は佐幕派の幕僚を退けようとする松平直克を非難し、結果として直克は政事総裁職を罷免。横浜鎖港が頓挫して大義名分を失った筑波勢の排除に幕府が動くこととなる。

7月8日に幕府若年寄の田沼意尊(おきたか。玄蕃頭/げんばのかみ)が浪人追討総督に任命され、幕府は諸藩に筑波勢の追討を命じた。
水戸藩内では諸生組と筑波勢以外の天狗党が争っていたが、筑波勢の挙兵に直接参加していなかった耕運斎も諸生組に対抗するため筑波勢と合流する。
8月10日に筑波勢と水戸城の兵が交戦開始、14日に筑波山から天狗党が一斉に押寄せ連日激戦となる。

9月2日に幕府軍が水戸書生組と連携して攻撃を開始。水戸・棚倉・高崎・二本松・佐倉・宇都宮・新発田・館林・川越・安中・岡部藩と他幕府歩兵隊の大軍が筑波勢の各拠点を包囲した。

10月には筑波勢は追い詰められ、大子村に集い耕雲斎を主将とし田丸と藤田は副将として一軍七隊に再編成し、軍規を整え粗暴な行いを禁じた。
11月1日に天狗党一軍七隊は、一橋公を頼り(かつて烈公が望んでいたように一橋公を盟主にする目的もあったとされる)京へ向けて中山道を行軍する。

中山道付近の小藩では天狗党に対抗できず見過ごされたが、上州高崎藩(群馬県高崎市)は攻撃体勢に入った。
天狗党は16日に下仁田で高崎藩兵を破り、信州(長野県)で小諸・上田藩兵と対峙し高島(諏訪藩)・松本藩兵と交戦。20日に和田峠で諏訪勢を破り、東山道を進む。
27日美濃大垣藩(岐阜県大垣市)を避けて迂回するために木曽街道から北へ進路を変えて12月11日に越前国の敦賀(つるが。福井県敦賀市)に到着した。

対する幕府軍は加賀・小田原・桑名・大垣・会津・水戸・海津(一橋慶喜本営)・大野・鯖江・福井・彦根藩兵が各要所に布陣した。
頼りの一橋公が幕府軍側に付き、命運尽きた天狗党は15日に遂に加賀藩へ投降する。
元治2年(慶応元年/1865)2月4日に来迎寺境内で耕運斎・田丸らを斬首し300余人を処刑。日を改め幹部を中心に次々に処刑し、23日には藤田らを斬首。水戸では諸生党らが、賊徒となった天狗党の家族を処刑した。

耕運斎らより先に降伏した天狗党のうち、士分116名の身柄を諸藩に……例えば請西藩に13人、飯野藩に25人といった具合に分けて預けることとなった。

 

■佐貫藩が処刑した天狗党四士

佐貫藩では銚子藩から23人の引渡しが決まり、12月2日に相場助右衛門ら100余名が武装して銚子へ向かっている。
4日に銚子に着き身柄を引取るが、天狗党の9名は大怪我をしていた。
12日に佐貫城外の長屋に拘留。天狗党藩士は佐貫藩主にも敬意を示し、長屋で学問をや弁論をしたため、佐貫藩士も刺激を受けて藩校誠道館の名を選秀館と改め学問に打ち込んだという。禁固中に新井(荒井)源八郎と村田理介は騒動の記録「国難顛末」を書き残した。

4月3日、幕府から新井と村田に切腹を申し付けられる。
木村三保之介(三穂介)と黒沢覚介(学介)にも斬首の処罰が下る。

▼切腹
新井源八郎直敬…龍雲院義直日周居士。42歳。郡奉行。
村田理介政興…随順院量意日相居士。58歳。郡奉行。

▼斬首
黒沢覚介成憲…直成院学純信士。47歳。小住人組。
木村三保之介善道…得法院淨円信士。55歳。高田村の名主の長男。弟の善雄は館山藩で斬首された。

処刑された4士の遺体は妙勝寺に託され、住職のはからいで水戸に縁が深い梅の木の下に葬ったと伝わっている。
残りの19人は5月26日に江戸の監獄へ護送された。

大正4年11月に木村を除く3名に贈従五位。

 

日蓮宗明谷山妙勝寺
寛正6年(1465)5月、僧日通の開山。
所在地:千葉県富津市花香谷137

安楽寺-勤王の佐貫藩士相場助右衛門の墓

安楽寺 相場助右衛門の墓

安楽寺相場助右衛門の墓
開闡院一乗日松居士 相場助右衛門 五十八歳 慶應四年四月二十八日 寂
演寳院妙義日相大姉 妻 寿美子 明治三年 自害 四十八歳(慰霊碑より)

 

相場助右衛門(あいばすけうえもん)
佐貫藩の納戸役(80石)相場三右衛門茂隣の跡を継ぐ。
文武両道で文学は漢学者の大槻磐渓(おおつきばんけい)に学び、武道は斉藤弥九郎の門下で神道無念流の免許皆伝であった。
佐貫藩主阿部駿河守正身(まさみ、まさちか)、因幡守正恒(まさつね。後に駿河守)の二代に仕え、佐貫藩の江戸詰家老に昇進したとされている。

文久元年(1861)に藩主正恒は大坂加番を任じられ、側用人の資格で随行し伏見に居て上方の様子をよく知る助右衛門の尊王意見を在坂中に採った。

慶応4年(1868)前藩主菊山公(正身)の第四子で15歳の小十郎を養子に貰い受けた。100石持参で260石となる。
戊辰の動乱の色濃くなり、3月に佐貫藩は江戸屋敷(上屋敷が外桜田・中屋敷が愛宕下・下屋敷は霊南坂)を引き払って佐貫へ集まった。助右衛門は恭順を唱えたが、佐貫藩は徳川譜代であり江戸と上総で暮らしていた家臣達は佐幕を唱える者が多かった。

4月に木更津に駐屯する徳川脱走兵の撒兵隊が佐貫藩へ応援を要求し、助右衛門は協力に反対したが、28日に佐貫藩は撒兵隊の支援を決定した。

この日、栗飯原八百之進ら佐幕派同志31名は助右衛門の排除を実行する。
午後3時頃、佐幕派同志達20人程が佐貫城中の太鼓櫓のある大手門付近の石垣辺りの茂みに潜んで、助右衛門が帰宅するのを待った。
助右衛門は大手門を出て南の清水坂を下って古宿(ふるじく)の家へと向かう。

坂を下った正面の御厩(おうまや)で長岡勇(33歳の最年長とされる)ら10名程が待ち伏せ、窓から助右衛門とお供の中間を狙撃した。
不意に真正面から体を撃たれた助右衛門は屈せずに傷口を押さえながら抜刀する。

剣の腕が立つ上に拳銃を所持している助右衛門に対して、20歳の血気盛んな印東男也政方(いんどうおなりまさより。後に万次に改名)が臆せずに一太刀浴びせたのを皮切りに、山崎邦之助、相沢甲子次郎信秀ら若侍が続き、そして残りの同志達が一斉に斬り掛った。
助右衛門は体中無残に切り刻まれて悲運の最期を遂げたのである。
31人は勝隆寺に引揚げて、謹慎の意を示した御届書を藩主へ提出した。

襲撃事件の沙汰は、加害者31人は忠義からの行いとしてお咎め無しであったとされる。
一方、相場家は、阿部家からの養子小十郎は連れ戻しになってお家断絶・家族追放という重い処分を受けた。
妻の寿美子(すみこ。飯野藩物頭の西平之亟の娘)夫人は悲痛な思いで後処理をし、棺桶を買うことも憚られたので亡骸は長小持に入れられ、従妹や女中の助けを借りて夫を花香谷(はながやつ)の安楽寺に葬った。
そして14歳の養女米子(よねこ。安政2年の大地震で被災した弟相場助之亟の娘)と共に、実家(飯野藩の平之亟の家)へ帰ることとなる。

2年後の明治3年(1870)に寿美子は自害し、米子は平之亟の子の志津馬に嫁いだ。

相場助右衛門慰霊碑 相場助右衛門の案内板

▲近年建立された相場助右衛門慰霊碑と案内板。子孫冨田氏の寄贈。
墓石 佐貫藩主阿部正恒公建之 
相場助衛門子孫冨田清建立。上部に丸に桔梗の家紋。

昭和6年(1931)7月、NHKラジオにて小説家の江見水蔭(えみすいいん)作「隠れたる勤王家相場助右衛門」が放送された。

 

日蓮宗安樂寺
天正5年(1577)に僧日國が開山。
所在地:千葉県富津市花香谷167-1

萬里小路大姉墓誌と川名りか

横田の万里小路大姉墓誌 万里小路大姉墓誌

萬里小路大姉墓誌碑。明治13年広部精(くわし。せい)の撰文

 

■川名里鹿(りか)
天保10年(1839)横田村(袖ヶ浦市横田)中下(なかしも)の豪商河内屋の川名惣左衛門栄助頼信(よりのぶ)とお鐐(りょう)の長女の里鹿が生まれる。

利発な里鹿は嘉永の頃に幼くして12代将軍徳川家慶(いえよし)の頃の江戸城二の丸の御女中に出仕した。貝淵藩林家の口添えも有ったのかも知れない。
大奥で老女(高位の女中職三役の総称)万里小路局(までのこうじ。まて様)に出会う。

嘉永5年(1852)13歳の時に祖父と父親が相次いで無くなり、嫡子の政之助がまだ幼児のため、川名家は大奥へ里鹿の宿下がりを申請する。
嘉永7年(1854)15歳の時に家督を相続するため横田へ帰郷した。
その後婿をとって5人の子を産む(3人は夭折)。

慶応4年(1868)にかつて大奥で面識のあったまて様が請西に移り住み、29歳の里鹿は横田から長楽寺まで往復して世話をした。
戊辰の役の後には、身の置き場を無くしたまて様を横田の川名家に迎え入れる。

明治5年(1872)に33歳で亡くなる。
その6年後にまて様も死去し盛大な葬式が営まれた。

 

萬里小路大姉墓誌 所在地:千葉県袖ケ浦市横田

* * *

碑文には矛盾が見られ、万里小路の出自が虚偽(将来的に大奥で権威をもつことになる、次期将軍の正室のお付きになるには京の公家から選ばれた慣わしのため)であった説もあります。
その他史料を照らし合わせると、大奥に入った後の万里小路が非常に有能で結果的には長く徳川家の支えとなったことは事実に近いはずなので、決定的な記録が発見されるまでは歴史に残した結果を重視したいと思います。

請西長楽寺と万里小路(まて様)

長楽寺山門 まて様の墓

長楽寺と養子の実家の墓地にある万里小路の墓

 

■万里小路局
寿賀姫(すが。壽賀)。
文化10年(1813)に大納言池尻(いけがみ、いけがめ。藤原四家北家の出とし、萬里小路氏と同属にあたる)興房(おきふさ)の末娘として生まれる。
※文化9年とも。興房の名を示す記録は見当たらず権大納言池尻暉房(てるふさ)と見られる。

天保3年(1832)20歳頃、11代将軍徳川家斉(いえなり)の孫家祥(13代将軍家定/いえさだ)の正室として輿入れした8歳の鷹司任子(たかつかさあつこ。天親院/てんしんいん)の世話役として京から江戸へ出仕。
天保7年(1836)に大奥に入る。家斉の寵臣林忠英が寿賀姫の宿元(身元引受人)となった。
将軍付小上臈(こじょうろう)となる。

12代将軍徳川家慶(いえよし)の代(1837~1853)に、将軍付上臈御年寄(じょうろうおとしより。女中職の最高位)となる。
上臈は生家の公家の通り名で呼ばれる慣わしで、寿賀姫は万里小路(までのこうじ)と称した。

西の丸で13代将軍徳川家定にも仕え、家定の死後に年齢を理由に大奥を引退し桜田御用屋敷で暮らす。

よほど人望と手腕があったのか14代将軍徳川家茂(いえもち)の時に再び大奥への出仕を命じられた。
万里小路は将軍4代にわたり仕えたことになる。

元治元年(1864)5月29日に大奥を辞して、請西藩藩主林忠交江戸浜町藩邸のもとに移る。この時忠交は伏見奉行として京に上っていた。
忠交の急死後はその後を継いだ林忠崇の国元上総国望陀郡請西村(じょうざい。千葉県木更津市請西)を隠棲地に定め、元部屋方お局(つぼね)都山(つやま)と共に江戸を後にした。万里小路局55歳の頃である。
京へ帰れば裕福な暮らしが出来たが、林家のもとに身を寄せたのは徳川への想いが強かったのだろう。
※万里小路は京の権中納言町尻量輔(まちじりかずすけ)の正室となり、後に2人の養子を迎えている。

慶応4年(1868)に木更津の河岸に上陸した際の荷物は親船2杯もあり、仮宿の長楽寺まで長々と行列が進んだ。
長楽寺住職の與喜海明は本堂脇の離れ座敷に万里小路局を迎える。
万里小路局は「まて(まで)様」と呼ばれ、洗練された侍女も8人位伴っており、華やかな様子であった。
しばらくして寺の裏手の高台へ住居(真武根陣屋の部材を解体・一部移築か)を構えた。

長楽寺太子堂裏 長楽寺庭園
▲長楽寺裏手の高台から本堂裏の大師堂(明治18年建立)と庭園を撮影

閏4月3日に藩主自ら脱藩した林忠崇が出陣したため5日に長楽寺で忠崇の武運祈願に大般若経を転読、まて様は御下髪姿で祈念したという。そして長楽寺から万丈を使いとして忠崇の必勝祈願の護摩札や供物を贈った。
京の朝家に帰らず請西林家に身を寄せたまて様は徳川の為にと決起した忠崇を心の底から支援していたのだろう。
16日にはまて様の金百両もの多額な援助金を持って忠崇のもとへ広部周助(上根岸の豪農)が韮山を経て合流している。
5月26日の山崎の戦いの掃討戦として27日に箱根宿端で小田原藩兵によって討たれた請西藩士に、まて様が養子にした嘉之三郎(鹿次郎とも)の父(祖父?)重田信次郎がいる。
※伝聞では鹿次郎は信次郎の子、記録では信次郎の長男である長兵衛の次男

戊辰の役の戦後に身の拠り所を無くし、困窮した晩年は横田村の豪商の河内屋惣左衛門栄助の長女、川名里鹿(りか)がまて様を自宅に迎え入れて世話をした。
川名家に移ってからも大奥の作法でふるまったという。

明治4年(1871)重田鹿之次郎がまて様の養子となる。
明治10年(1877)10月16日鹿之次郎が15歳で病死。
明治11年(1878)5月7日にまて様が66歳で卒中で死去。松寿院殿雙円成心大姉。
明治13年(1880)に広部精の撰文で萬里小路大姉墓誌が作られる。

まて様の墓表 まて様の墓横
▲まて様の墓の側面には万里小路局(つぼね)について刻まれている。

松壽院雙圓成心大姉 位

大姉ハ京都池尻前大納言興房卿ノ末女 文化十癸酉誕生也。
壽賀姫ト称シ 幼年江府ニ下リ 天保七年申年徳川城ニ勤仕ス。
婦徳有テ萬里小路局ノ役ヲ続キ家齊公ヨリ家茂公迄四代ノ将軍ニ侍ス。
辞後重田鹿次郎ヲ養子トシ一家ヲ興シ 終ニ明治十二年五月七日卒。

真言宗豊山派清瀧山長楽寺
鎌倉時代に請西本郷に稲荷山長国寺と称して草創され、永禄年間(室町初期)に現在の場所に移り、長楽寺と改称した。本尊は平安初期御作の薬師如来坐像。
融源上人が立ち寄り法流を広めてから隆盛し60ヶ寺を統理し、中本寺、常法談林所として土地の信仰と学問の中心であった。天正18年に徳川家康が由緒ある当寺を守護するため制札を下し、続いて寺領を寄進した。

長楽寺の菅原道真公の石碑板 長楽寺の碑石の裏
▲古くから「山の神様」と呼ばれ長楽寺の丘から木更津の港町を見守ってきた菅原道真公の石碑。
萬里小路局も江戸湾を眺めて忠崇のことを心にかけていたことだろう。

清瀧山明王院長楽寺 所在地:千葉県木更津市請西982

横田地蔵堂「義商喜平治之墓」

義商喜平治之墓 喜平次墓碑

▲義商喜平治之墓・喜平次墓碑

官軍の間諜として、義軍を称する貫義隊を探り横田村(袖ケ浦市横田)で命を落とした三河屋喜平次こと仁呑喜平次の胴体が埋葬されている地にある墓碑です。
慶応4年(1868)6月4日に貫義隊に小坪(おつぼ)の小櫃川の畔で斬り捨てられ、村人が地蔵堂へ運んで埋めて土を盛った墓とし、後に明治政府の役人が「義商」としてこの碑を建てました。
碑文は明治2年(1869)正月に県令附属中野光実の撰文と刻まれています。

当時の場所のままなら、この碑の付近に貫義隊の浅野作造頼房の胴体も埋まっていると思われます。
喜平次の埋葬地に松の木を植えたと伝わりますが、現在それらしい松はありませんでした。

 

義商喜平治之墓 所在地:千葉県袖ケ浦市横田