上総・安房の歴史」カテゴリーアーカイブ

上総・安房(千葉県の中~南部)地域の歴史

官軍の間諜「義商 仁呑喜平次」

東岸寺 三河屋喜平次の墓

▲東岸寺・三河屋喜平次の墓

「善誉諦念釼生信士 位」「慶應四辰年六月四日」
喜平次の胴は横田地蔵堂「義商喜平治之墓」に、この東岸寺(とうがんじ)に首が埋葬されている。

 

天保2年(1831)または4年、高水村(君津市高水。前橋藩の領地であった)で生まれ、後に木更津村北片町(木更津市中央)の船宿三河屋仁呑(にのみ)家の養子となり、三河屋喜平次(喜平治)と呼ばれた。

慶応4年(1868)4月~5月に木更津に駐屯した徳川義軍府を称する撒兵隊が官軍に鎮圧され、官軍が上江戸へ引き上げた直後である5月16日の夜に、新政府側として請西村祥雲寺を警護していた飯野藩兵が「義軍」を名乗る一味に襲撃された。
18日未明には義軍は、新政府に城を明け渡していた佐貫藩の城に攻め入って警護していた佐倉藩兵2名を討ち、木更津へ退却。
20日に佐倉藩兵数百名が木更津に向かったが義軍の行方は掴めなかった。

そこで喜平次が武州川越藩(埼玉県川越市。後に前橋藩)の侍と交友があった縁で、前橋藩(群馬県前橋市。富津陣屋の守備にあたった)藩主の松平大和守直克(なおかつ。川越藩から前橋藩へ移封)の命により義軍について調べて欲しいと頼まれ、行商人に扮して探りいれた。
義軍は、脱走武士の浅野作造頼房が残兵を集め木更津の村民からも義勇兵を募って吾妻村(木更津市吾妻)に駐屯していた貫義隊であると突きとめた。

喜平次が富津陣屋(富津市)に報告した頃、貫義隊は久留里街道から横田村まで移動し、泉瀧寺に陣を置いていた。木更津は徳川恩顧の地であり、横田の村人は義軍を温かく受け入れた。

喜平次は引き続き探索を依頼され、相重を伴い横田方面へ赴いた。
6月2日、喜平次は泉瀧寺の様子を報告するため富津陣屋に戻ろうとしたが、素性を疑われていた喜平次は義軍に付けられ、菅生(清川)付近で捕まり、寺に連行されてしまう。捕縛地は大鳥居の渡しを渡った椿のたてば(休憩所)・横田小路の上田(じょうだ)等諸説ある。
寺の門柱に縛られた喜平次は拷問に近い扱いを受けたと伝わっている。

夜になって喜平次が捕われたことを知った松平大和守は、3日午前に富津陣屋と共に川越藩の三本松陣屋(君津市大戸見)から、西と東南から泉瀧寺を挟み込むように兵を出させた。
4日の朝食時に弾を打ち込まれた貫義隊は狼狽し(住民の茂左衛門が官軍の襲撃を知らせたともされる)、両手が縛られたままの喜平次を寺の南の小櫃川の畔の沼地で斬り付け、首を刎ねてしまう。
享年は生まれ年の通り37か39歳、または53歳ともいわれる。

喜平次が斬られた小櫃川畔
▲喜平次が斬られたとされる小櫃川畔

貫義隊は観音堂で戦うも、雇われた腕利きの猟師七右衛門に浅野が狙撃され、総崩れとなった。
この後に久留里藩(君津市久留里)にも賊軍が官軍の探偵を惨殺し放火したと伝わり、真里谷村へ兵を向かわせている。

義軍は潰え、喜平時の亡骸は野辺に捨て置かれたため、哀れんだ村人が喜平時の亡骸を集めて地蔵堂前に埋め、土を盛って葬ったが、官軍の間諜であったことを快く思わずに墓参する者は居なかったという。

やがて安房上総知県事(房・総・常州の旧幕府領を管轄)となった監察の柴山典(しばやまてん。文平。久留米藩士)が喜平次のことを聞きつけ、役人の佐藤信照に命じて村人が手厚く葬った義軍の墓を打ち壊させた。
浅野の首級は見せしめのため吾妻村へ運ばれ、胴は村人が地蔵堂へ運び墓を建てたが、この浅野の墓石を役人が小櫃川に投げ入れてしまう。
そして喜平次の亡骸を埋めた場所に松の樹を植えて「義商」の墓碑を建て、新政府へ忠順であるよう村民に示しつけた。

その後、木更津北片町の知人達が喜平次の首を引き取り、東岸寺に改葬した。
明治11年7月23日に新政府方探索役仁呑喜平治として官からも祭祀料が年75円、掃除料若干が支給され、明治19年に墓を改修したという。
昭和年代になって、今のように立派な墓所となったようだ。

佐幕派の村民から支持された「義軍」は明治の新政府にとっては「賊徒」であり
その村人からは官軍側についたとして快く思われなかった間諜商人は、官軍側には義商なのである。

浄土宗光明山東岸寺
所在地:千葉県木更津市中央1-13-3

木更津最後の義軍「貫義隊」浅野作造頼房

平等院 浅野作造の墓

平等院浅野作造頼房供養墓
平等院(びょうどういん)の墓は英霊供養として大正時代に作られた。裏には「慶応四年辰年六月四日」

 

慶応4年(1868)4月、戊辰の役の際に江戸を脱走した撒兵隊(さっぺい・さんぺいたい)が徳川義軍を名乗り、久留里・大多喜・請西藩等の上総諸藩に協力を要請するため真里谷村(まりやつ。木更津市真里谷)真如寺(しんにょじ)に駐屯していたが、その後本隊が市川~姉ヶ崎方面で官軍に破れて四散し、5月8日に再び木更津に入る。
直ちに岡山・津藩の官軍が真如寺に迫ったため残兵は遁走し、官軍は寺を焼いて久留里を経て、佐貫に向かっていた薩摩・大村・藤堂藩らと合流し江戸へ引き上げた。

その頃、25歳前後の武士浅野作造頼房が吾妻村(あづま。木更津市吾妻)の南の名主鈴木市郎右衛門のもとを訪れていた。
浅野はこの徳川恩顧の地である木更津を中心に同志を募って義軍の旗をあげ、箱根へ出陣した請西藩主林忠崇らを助け官軍と戦うため、豪農の市郎右衛門に援助を求めたのだ。
浅野達は散り散りになった残兵を集め、成就寺に居た染谷勘八郎(そめやかんはちろう)、紺屋(こんや)島屋大河内四郎兄弟ら村人から義勇兵を募り、貫義隊(かんぎたい)を名乗った。
※逆に大河内四郎兄弟らは貫義隊の襲撃から村を防衛したという伝えもある

5月16日の夜に、貫義隊は小高い天然要害の地請西村(木更津市請西)祥雲山にある祥雲寺(しょううんじ)を新政府側として警護していた飯野藩兵を急襲。死傷者7名を出したという。

17日の夜には一晩一両で雇った傭兵を加えた30余名で、新政府に城を明け渡していた佐貫藩の城(さぬき。富津市佐貫)の裏手の牛蒡谷(ごぼうやつ)に潜んだ。横穴が多い絶壁で死角となり、城の地形に詳しく官軍に不満を持つ佐貫の者が手引きしたともされる。
18日未明、佐貫城の正面に回り、厩と役人宿舎を放火。攻め入って警護していた下総国佐倉藩兵2名を討った。他30名余りを負傷させ軍馬に損害を与えたという。
佐倉藩の砲兵隊が発砲すると撤退し再び木更津へ戻った。

22日に佐倉藩(さくら。佐倉市)が木更津村包囲のため国許から兵500名(250名とも)が海路で南下。
これを江川の漁師が浅野へ事前に知らせ、前日夜半から貫義隊は久留里街道から横田村(袖ヶ浦市横田)まで移動し、交戦を回避できた。
義軍は横田の村人に温かく受け入れられ、小坪(おつぼ)の泉瀧寺に陣を置いた。

横田神社 横田神社拝殿
横田神社。北側から拝殿(焼かれたため明治4年に再建)を撮影。
真言宗智山派泉瀧寺は妙見様(現横田神社)の北側にあった。貫義隊は泉瀧寺のお堂とこの妙見堂を宿所としたようだ。

6月2日、木更津村北片町の船宿三河屋の仁呑喜平次前橋藩(群馬県前橋市。富津陣屋を守備)藩主松平大和守克(なおかつ。川越藩から移封)の依頼で間諜として義軍を捜索し、富津陣屋へ報告に戻ろうとした際に喜平次を捕縛。
3日午前、喜平次が捕われたことを知った松平大和守は選擇寺に陣を置き三本松陣屋(君津市大戸見。川越藩の陣屋)からも富津陣屋と共に泉瀧寺を挟み込むように兵を出させた。本隊は夜半に北から迂回。併せて北・東西の3方からの包囲となる。

4日の朝に村人から官軍の急襲を知らされた貫義隊は寺の門を出て迎えうつ。
小坪に進入した官軍は西から泉瀧寺の正面に向けて銃で撃ちかかった。刀や槍が武器の貫義隊は、樹木の陰で銃撃をやり過ごしながら歩兵の接近を待った。

ついに泉瀧寺の西の観音堂で白兵戦となったが、官軍は剣の腕の立つ浅野を討つ策として熟練の猟師を雇っていた。
浅野は猟師七右衛門(現君津市小糸大谷に住み1日5両で雇われたともいう)に火縄銃で狙撃され、下半身に弾を受けた。
最期には諸説あるが、浅野が撃たれると義軍は総崩れとなった。

横田観音堂跡 横田の古戦場
浅野の戦死地辺りと西から見た主戦場の風景 【5/9追記】付近の方に声をかけて観音堂跡の場所に通らせて貰いました
浅野は瘤のある大銀杏の近辺で撃たれたと伝わっている。この瘤のあるひときわ大きな切り株辺りか。
戦場となった観音像は村人が火の中から持ち運んで保護し、戦が終わると観音堂付近に戦死者が多く転がっていたと、後に住人が語っている。

浅野の首級は見せしめのため吾妻村へ持ち去られ、残された胴は村人が東の地蔵堂へ運んで手厚く埋葬し墓を建てた。
やがて安房上総知県事(房・総・常州の旧幕府領を管轄)となった監察の柴山典(しばやまてん。文平。久留米藩士)が横田での経緯を知り、役人の佐藤信照に命じて村人が建てた義軍の墓を打ち壊させ、浅野の墓石を小櫃川に投げ入れた。
間諜喜平次は戦のさなかに義軍に殺されおり、浅野の墓に替えて義商の墓を建てた。

吾妻神社 吾妻神社の東の景色
吾妻神社と東側の小道
かつて吾妻(あづま)神社の東の道端に小さなお堂があり、そこに釘で浅野の首級が晒された。
義軍贔屓であった村人達は浅野の死を哀れみ、小堂の前の茂みに首を埋めて、小さな石を立ててささやかに供養をし、やがてはやり神「浅野さま」として信仰された。

その後、「浅野さま」は今の浅野の祠に移され、大正時代には、慰霊のため平等院に供養墓が建てられた。戒名は「頼房院殿諦心義生居士」と刻まれている。

木更津吾妻の浅野神社と喜平治の墓の場所
▲昭和11年の木更津鳥瞰図の吾妻神社脇「浅野神社」と東巖寺「喜平治之墓」 ※観光パネルより

浅野は背は高くなく恰幅が良いが、高飛びのように槍を突いて選擇寺の屋根に上がれるほど凄まじい脚力を持ち、剣と槍と乗馬の達人で村人達に心服されていたという。

 

・真言宗豊山派 海上山平等院(旧東光院) 所在地:千葉県木更津市吾妻1-1-14
横田神社 所在地:千葉県袖ヶ浦市横田2470
吾妻神社 所在地:木更津市吾妻2-7-55

 

* * *

浅野作造の首は「浅野さま」に、胴は横田に埋まっていますが、横田では墓石を捨てられたために浅野の墓標は無く、この記事を書いている現在吾妻の浅野の祠は倒壊しています
人任せで心苦しくも早く祠が修繕されることを願っています。

以下、補足として。

現在の小路観音堂
▲現在の横田小路(しょうじ)にあるこの「観音堂」は、戦となった観音堂の場所ではありません。

※上総関連の記事全体の参考資料として郷土史料リストを後でまとめる予定です。

三宝寺[2]-佐倉藩士小谷金十郎と三浦蔵司の墓

佐倉藩士小谷金十郎と三浦蔵司の墓 佐倉藩士の碑

▲佐倉藩士小谷金十郎と三浦蔵司の忠死墓
石碑の篆額は下総国佐倉藩(千葉県佐倉市)藩主堀田正倫(ほったまさとも)による。
旧佐倉藩士依田百川(よだひゃくせん。學海。森鷗外の師)撰文。

 

慶応4年(1868)閏4月14日上総国佐貫藩(富津市佐貫)藩主は、家臣の脱走を見過ごし請西藩藩主林忠崇らの軍に加入させ富津陣屋を脅嚇した罪を問われ、城と兵器を明け渡し謹慎することとなった。

19日には佐倉藩が佐貫藩の領地取調べを命じられ、岩滝伝兵衛が総勢150人を率いて佐倉を出発し、21日に佐貫城に入った。

翌5月18日の未明、木更津で結成された義軍を名乗る貫義隊に突如佐貫城を襲撃され、佐倉藩兵の小谷金十郎(37歳)と三浦蔵司(24歳)が討死した。
戦死した両者は佐貫の地で弔われ、忠死墓が佐貫城の西の勝龍寺(三宝寺)に建てられている。

小谷金十郎の墓 三浦蔵司の墓
「北総佐倉臣小谷金十郎忠死墓」「北総佐倉臣三浦蔵司忠死墓」

三宝寺(三宝山勝龍寺)については三宝寺[1]-勝山藩士福井小左衛門と楯石作之丞の墓

請西祥雲寺の戊辰の戦火

祥雲寺 祥雲寺本堂

祥雲寺と本堂
八幡山祥雲寺は永平道元禅師により開かれた曹洞宗(禅宗)の寺。本尊は釈迦牟尼仏。嘉吉の頃(1441年頃)大網氏により創建され、鐵山受白大和尚を開山と仰ぐ。
本堂は明治元年に戦火で焼かれ、その後大正12年にも倒壊し、再建されたもの。
境内から富士山が眺められ、一際高い小山に富士塚が設けられている。眺望の他、桜の名所であり、「祥雲寺の秋月」は木更津八景の一つ。

 

慶応4年(1868)戊辰の役の際は飯野藩は倒幕・佐幕に揺れたが藩主保科正益は恭順を示す。
閏4月18日、請西藩藩主林忠崇(恭順せず8日に藩主の身で脱藩し箱根へと出陣した)の旧領を預かり、小高い天然要害の地、請西村祥雲山の祥雲寺には飯野藩兵30人余が駐屯した。

5月16日は夕方頃まで滞陣慰労の演芸会を開いていた。
その夜の10時頃に突如、寺の屋根に松明が投げられ、寺の前後から喊声をあげた19人程の武装者が斬りかかってきた。
浅野作造頼房率いる一党、義軍を称する貫義隊の急襲である。

本堂はみるみる火が回り、酒宴直後であった飯野藩兵は隙をつかれて応戦もままならず退避し、武装していた数名の番兵達が各持ち場から立ち向かった。
この戦いで少年武士三宅茂之助17歳・飯野藩仲間(奉公人)仙蔵56歳・市蔵42歳・倉吉51歳の4名が討死。
後に飯野藩は祥雲寺再建の為に献金している。

祥雲寺の八幡神社 祥雲寺の富士塚

▲境内の八幡神社と富士塚・石板群
八幡様に向かって左の坂道に一人で刀を握ったまま倒れていたというのが茂之助だろうか。他に二人が右側の井戸の傍らで亡骸を目撃されている。

八幡山祥雲寺
所在地:千葉県木更津市請西1012-1

貫義隊「浅野さま」の祠が倒壊しています

吾妻の浅野様の祠

戊辰の役で、木更津の地元で最後の義軍として貫義隊を結成して官軍に抗い敗れ、晒し首にされた浅野作造頼房を弔い、その後もはやり神として信仰された「浅野さま」の祠です。

首が埋められた吾妻神社の東の場所から、現在の地(木更津自衛隊前)に移された当初はもっと小さな石祠で、近年石祠を安置する殿舎に建て直されていたのですが、現在樹木が伸び放題で背後の木が倒れて押し潰されていました。

樹木の倒壊は道路には影響は無く(祠が身代わりになってくれたとも言えます)、逐一連絡をするのは喋々しいかもしれませんし、私ができることは末梢的ながら1人でも多くに大事な祠であると知ってもらうことでしょうか。
取り急ぎ、貫義隊関連をまとめたいと思います。