上総・安房の歴史」カテゴリーアーカイブ

上総・安房(千葉県の中~南部)地域の歴史

本多忠朝[2]新スペイン漂着船とドン・ロドリゴ

御宿岩和田田尻海岸のドンロドリゴ上陸地 ガレオン船サンフランシスコ号

岩和田の上陸地サンフランシスコ号(絵は日西墨国交通発祥記念碑案内板より)
サンフランシスコ号が約400年前の9月30日に漂着した海岸を、10月フィリピン沖・北西太平洋に台風が発生し日本近海北太平洋まで低気圧が覆う日に撮影。雲ひとつない快晴だが南から海岸めがけて激しく波が打ち付けていた。

ロドリゴ・デ・ビベロ・イ・アベルーサ(Rodrigo de Vivero y Aberrucia)
通称ドン・ロドリゴ(Don Rodrigo)はヌエバ・エスパーニャ(新スペイン。江戸での呼称はノビスパン。現メキシコ)第2代副王ルイス・デ・ベラスコの甥にあたり、1564年にヌエバ・エスパーニャ、現在のメキシコのプエブラ州テカマチャルコ市に生まれる。母は前夫の広大な領地を引き継いだメルチョーラ・デ・アルベーサ。
12歳になるとスペイン貴族の父ロドリゴ・デ・ビベロ・イ・ベラスコはロドリゴを当時のスペイン国王フィリペ2世の第4夫人アナ王妃付の小姓としてスペイン本国へ送り出した。
1584年にロドリゴはヌエバ・エスパーニャに戻り1595年6月にサン・フアン・デ・ウルア要塞の城番、1599年3月にヌエバ・ビスカヤ(フィリピン北部。16世紀の頃よりフィリピンはスペインの植民地となりヌエバ・エスパーニャ副王領として1571年マニラに総督府が置かれた)総督、1600年3月にタスコ鉱山町長官に任じられた。

■サン・フランシスコ号の日本漂着
1608年に未着任の総督府長官ドン・フアン・デ・シルバに代わり、44歳のドン・ロドリゴが臨時総督府長官となった。ヌエバ・エスパーニャのアカプルコを出発(1608.3/15)し、三ヵ月後にマニラの南にあるカピテに入港。(6/15着任)
前年マニラで暴動を起こして捕縛されていた日本人達の処罰について、ロドリゴは調査の上で200人の処刑を取下げて追放処分、明らかに海賊行為を行っていた犯人は投獄した。徳川家康宛に暴動者の日本への強制送還と暴動再発防止のための渡航制限(日本から年4艘)を通達をすると返事に異議申立は無かった。

翌年ロドリゴは任地での勤めを終え(1609.4)カピテ港から約千tの大型ガレオン船「サン・フランシスコ号」で随伴船の「サン・アントニオ号」「サンタ・アナ号」と共に帰途につくが、出発が遅れて(7/25)航海中に台風の季節となりフィリピン海から東の北西太平洋上で嵐に逢って難航してしまう(8/10)
サンタアナ号は豊後(大分県)白杵港に避難(9/20)、サンアントニオ号は無事にアカプルコへ帰国できた。

慶長14年9月5日(ロドリゴの記述は1609.9/30)夜10時、サンフランシスコ号は33度の計測地(実際は35度。彼らの海図では浦賀にあたる)で座礁。
寒い海上で身動きが取れないまま帆船は破損していき、ロドリゴ達は命からがら陸地に泳ぎ着いた。
カトリック教徒の日本人同行者に、海辺にいた者との通訳を頼み、漂着地がオンダキ(大多喜/おおたき)藩領のユバンダ(岩和田/いわわだ。現御宿町)であると教わり、海図が間違っていたことに気付かされた。
日本漂着は……13年前(慶長元年8月、1596.10)豊臣政権下のに同じように長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)の治める土佐国浦戸(高知県高知市浦戸)に漂着したスペイン船サン・フェリペ号は元親に一度は保護されたものの、日本を害するようなキリシタンの弾圧を推し進めていた秀吉が派遣した奉行に積荷を没収され、残留した宣教師が翌年処刑された不幸な事件があり一行は不安であったが、ロドリゴは今の最高権力者がマニラから公式書簡を交わした徳川家にあることを頼み思っていた。

海岸から粗末な道を通り1レグア(4~6Km。古いスペインでは約4.19m)先の集落を訪れると、乗船員と同じ数程しか住民が居ない小さな村であったが、村民達は遭難者達に心から同情して惜しみなく食物を差し出し綿入りの着物を貸し与えた。
乗船者373名のうち56名は溺死し、生存者は317名であった。

御宿駅海女像 御宿岩和田の大波月海岸

▲御宿駅の海女像と岩和田の大波月(おおはづき)海岸
村人に救出され、凍死寸前の者は──火に当て急に体温を上げると心臓への負担で死にかねないという海辺の村人の知恵で──村の女達が人肌で温めたという話も伝わっている。
上陸地の田尻海岸をはじめ岩和田の浜は殆どが崖のような岩肌の下にあり「岩和田の村人達の食事は主食の米の他は殆ど大根や茄子等の野菜で、魚は時々だった。この海岸では漁獲は用意ではない」旨をロドリゴは記している。

 

■大多喜城主本多忠朝の厚遇
岩和田を領する大多喜城に異国船漂着の知らせが届くと、城主本多忠朝は、外国人の無断入国が許されない時世において一行の処遇を慎重に扱うためにまずは岩和田の浜に家来を視察に出した。
豊臣政権時に比べればキリスト教の弾圧は緩められたものの、徳川も寛容とは言えない。江戸幕府に睨まれればお家取り潰しも有り得るため城内での会議では、一行を全て切り捨てる意見が強かった。しかし忠朝は視察が戻るまでは首を縦には振らなかった。
そしてロドリゴ達は礼儀正しく、財宝一式流され苦境にあるとの報告を受けた忠朝は、速やかに一行を付近の寺に預けさせ、厚遇するようはからう一方、異国人が無闇に他所へは行かないように命じた。心から温情をよせつつも拙速な行動に出ず適切な処置をとったのだった。

御宿大宮神社参道 御宿大宮神社

▲大宮神社の参道と拝殿
ロドリゴ達が滞在した三嶽山普賢院大宮寺の場所は不明だが、大宮神社付近と推測されている。大宮寺は文永6年(1269)創建といわれ、修験道聖護院の配下であった。
大宮神社は日本武尊の東征の折に大物主命を勧請したものと伝わっている。元禄12年(1699)に火災により大宮神社は白髪台に移され、その後も度々類焼し嘉永元年(1848)4月7日に現在の東山に遷座した。現社殿は昭和24年に新築された。

数日後に忠朝は威儀堂々と300人余りの武装した家臣を率いて大宮寺を訪れた。
(この時の南蛮船検使は柳田平兵衛、小鹿主馬、山本忠右衛門、大原惣右衛門)
領主の忠朝を村人達は深い土下座で迎えたが、西洋人のロドリゴは立って敬礼した。
忠朝は馬から降りて、自らロドリゴへと近づく。
そして、ロドリコの手をとり、接吻をした
村々を領する城主としてはうら若い28歳の忠朝は、ロドリコも「マドリッド市で最も宮中の礼に慣れた者がするような返答」と感嘆するほど完璧に洋式の作法を心得ていたのだ。
着席する際も信頼の証にロドリコを左(刀で切りかかりにくい上座)に座らせ細やかな心配りにを見せた。

金糸と絹糸で刺繍を施された見事な緞子(どんす。別色の経糸と緯糸で模様を織った高級織物)の着物4着、刀一口り、地産果物、日本酒、彼らが好む乳を出す牛一頭や鶏数羽までもを贈り、そして江戸幕府への報告を約束し、村に滞在中の乗船員一同の食事も支給された。
幕府へは、アントン・ペケニョ(Anton Pequeno)少将とファン・セビコス(Juan Sevicos)船長に書簡を持たせて派遣し、20日以内で迅速に手続きを済ませ秀忠の使者と共に戻った。

 

■大多喜城での歓待
10月13日に江戸へ向かうロドリゴ一行が大多喜の町(『日本見聞録』に人口1万~1万2千人と記している)の宿に着くと城主忠朝の使者が訪れ、町よりも高い所にある大多喜城へ招かれた。
城は堅固な構えで、城兵は礼儀正しくロドリゴを屋敷に案内し、忠朝も20人程の家来と共に屋敷の入口で出迎えた。城主の屋敷の金銀と美しい装飾の部屋の数々を見学し、暖かい歓待を受ける。
夕食の時間になると、忠朝は日本で親しい客人にする風習通りにロドリゴのための初めの一皿を持参した。肉、魚、果物他様々な美味が供される。
そして忠朝は旅立つロドリゴのために、立派な馬を一頭与えた。

忠朝の温情は自分の領地に居る間だけではなく、この先ロドリゴと再会するまでの六ヶ月間、忠朝は絶えずロドリゴに書簡を送って親しみ続けた。

大多喜に逗留して10日目に、家康の外交顧問である英国人航海士ウィリアム・アダムス(後の三浦按針/みうらあんじん。慶長5年リーフデ号漂着時より家康に召抱えられた)から通行証と朱印状を受け取る。
家康と秀吉名義の朱印状は以下のことが命じられていた。
・海岸に漂着した積荷は全てロドリゴのものとする。
・ロドリコは将軍徳川秀忠の江戸城と、大御所家康の住む駿府城へ行き謁見すること。
・城への道中の領主は歓待し旅程に必要な物資を提供すること。

慣例通りに漂着物を将軍のものとする所を、その貯蔵庫の鍵をロドリコ達に渡して事実上保管物を受取るというはからいとなった。
当初の忠朝の指示が家康の意に適っていた明断であったと知らされたロドリゴは、両者に今後の日本とスペインの友好的な外交の可能性を見出した。
一方、鍵を渡されたセビコス船長は難破で失った積荷の盗難を疑い、長時間かけての返却により後のマニラでの売却値が半減したことで、損害を日本側の責任としてスペイン王に訴えることになる……

上総国大多喜城 大多喜城大手門跡

▲現在の上総大多喜城本丸跡地の模擬城郭と大手門跡地

 

■江戸にてロドリゴは将軍徳川秀忠に謁見する
忠朝から馬が送られ、江戸への道中はスペイン国王の使者として歓迎され快適であった。
江戸に着くと地位の高い武士達に招きを受けたが、将軍が宿を用意していたので断った。
夕方5時に宿につくまで交通整理の人員が必要になるほど人だかりができて休めず、将軍の側近に頼んで宿の門に衛兵を立たせて無断進入不可の禁令の札を掲げて貰う。
江戸は人口15万、物価が低く小額で愉快な生活が得られ、市街は美しく清潔で家は木造、二階建ても多く、欧州に比べて外部より内装に美点をおいている等、詳細に江戸風俗や豪華絢爛な江戸城の様子が記されている。

江戸に到着して2日後に将軍は海軍司令官(船手方向井兵庫頭正綱)を通して部下が2度訪れる。午後4時頃に江戸城へ向かい、将軍秀忠に謁見した。ロドリゴが秀忠の手に接吻する間は同行者は控えさせ、ロゴリゴ一人が部屋に通された。
秀忠は色黒だが容姿は良く、微笑してロドリゴを励まし、日本に居る間の面倒を見るとして安心させ、また航海と帆船について尋ねた。
ロドリゴが駿河行きの許可を願うと、大御所(家康)や道中各所への連絡のため、出発は4日後とした。
駿河までは西洋と同じく村々があり、街道は両側に植えられた松並木が心地よい日陰をつくり、2本の樹を植えた小山(一里塚)が正確な距離を示し、絶えず人が行き交っていた。
5日後に駿河に着くまでの道中は将軍の連絡が行き届き行く先々で手厚いもてなしを受けた。

 

■駿河にてロドリゴは大御所徳川家康に謁見する
駿河は人口12万で街は江戸並に美しいとは言えなくても気候はとても良い。ここでも見物人に囲まれ難儀したが、宿に着くと家康の家臣が12枚の着物を贈り物として携えて来て、宿泊中も菓子や果物を提供した。
6日間滞在し、翌日2時にようやくお目通りとなった。(1609.10/29)
上座を勧められ、家臣から謁見についての長い説明を受け、家臣は大御所に伺いに行く。
江戸城ので将軍に謁見した時と違いロドリゴは大御所に触れることは許されず、同行者も大御所の見える場所でひざまずくよう命じられた。
家康は60歳程に見え秀忠のように色黒でなく、中背で肥えていて温雅であった。励ましの言葉をかけ帽子を脱ぐよう勧め、感激したロドリゴは家康の手にキスをし感謝の意を示した。
翌日ロドリゴはコウセクンドノ(上野介殿。本多正純)の屋敷を訪れ、日本語に訳した嘆願書を進上した。
1.日本国内の耶蘇教徒を保護し教会堂の自由使用を妨げないこと
2.日本はスペイン国王ドン・フェリペ(フェリペ3世)との親和を保続すべきこと
3.オランダ人は海賊まがいなことをしフェリペ王の敵なので日本から追放すべきこと

翌日10時に上野介殿が贈り物を携え宿に訪れ、嘆願書に対して大御所は宣教師の迫害はせずスペインとの友好も続けるが、オランダ人には渡来免許を既に与えてあるので変更はし難いとの返答を伝えた。
そしてアダムスに作らせた西洋船の一艘をロドリゴ達を乗せてヌエバ・エスパーニャに渡航させるので、帰国後にフェリペ王に折り返し銀山技師50人を日本へ派遣して貰えるよう、ロドリゴに仲介を求めた。
ロドリゴ自身はサン・フランシスコ号と共に遭難し豊後(大分県)に停泊中の随伴船サンタ・アナ号が乗船出来ない状態なら日本船を利用するとし、西へ向かった。

 

■ロドリゴは京都・大坂を経て九州へ
大御所の保護のもとで快適な旅をしミアコ(都。京都)に立ち寄る。ロドリゴは馬で人口は34万人の大都市街を一周し、所司代の板倉伊賀守勝重の世話になり見聞する。京市中には5千の大きな寺社があり遊里の妓婦の類が5万人になると聞く。3日間かけて万広寺大仏殿や三十三間堂等の名所を見て歩く。太閤(豊臣秀吉)を祀る豊国神社では(生前にキリスト教を弾圧し)地獄に落ちている魂を祀ることに違和感を感じている。

11月24日(1609.12/20)付けで大御所からの鉱夫派遣依頼についての提案──
新スペイン副王に許可を伺うにあたり
・銀山を採掘し精錬した鉱石の半分を鉱夫に与え、残りの更に半分をフェリペ王のものとする。各鉱山で聖祭が出来るよう司祭を置く。大使にスペイン人の司法権を与える。
・オランダ人の日本追放の再検討及びフェリペ王の日本来航時の保護
・フェリペ王がマニラへ行く際の人員派遣と必要物資の現地価格(関税無し)での提供やそのための事務所や礼拝所の設置許可、関東にスペイン船用の港を開港、駐在者の日本国内での歓待──の協定案を書状にし、パードレのルイス・ソテロに伝達を託した。

28日(12/24)クリスマスイブに伏見のフランシスコ会(カトリックの修道会)のパードレ(司祭)ヌエストラ・セニョラ・デ・ロス・アンヘレスの住院に泊まり教徒達とミサに参加。
伏見を後にし、淀川を下って1日で人口20万の大坂に到着。ヌエストラ・セニョラ・デ・ラ・コンセプションの住院に寄宿。
大坂からフネア(船)で十数日かけて豊後へ向かう。

12月12日、ロドリゴが豊後滞在中に肥前島原(長崎)のキリシタン大名有馬晴信──2年前に晴信の朱印船の乗組員がポルトガル貿易船マードレ・デ・デウス号の船員と起こした騒動をマカオ総司令官アンドレ・ペソアが鎮圧し日本側に多数の死傷者を出した──が長崎に入港した因縁のデウス号を包囲した。乗船していたペソアは捕われる前にデウス号を爆沈させ自殺に至るという貿易上深刻な事件が起きた。
まだ日本での役目を終えていないと考えたロドリゴは、補修後にマニラへ出航するサンタアナ号には同乗を取止めた。日本に批判的なセビコス船長はマニラへ発った。(1610.5/17)

 

■ロドリゴは駿府へ戻り浦賀から帰国する
ロドリゴは再び駿府に戻り、家康の招きを受けて数ヶ月滞在した。ルイス・ソテロに託した協定案についてはオランダ人追放と銀の報酬以外は家康の承認を得られた。
フェリペ王と副王に贈り物と親書を携えて派遣する使者はロゴリゴがアロンソ・ムニョスを推薦し、彼に出航の許可証が渡された。

慶長15年6月13日(1610.8/1)ドン・ロドリゴ一行は、アダムスが建造した和製ガレオン船サン・ブエナ・ベントゥーラ号(按針丸。120t)で浦賀からヌエバ・エスパーニャへ向けて出航した。
家康からは金貨4千ドゥカドが貸与され、按針丸はアカプルコで売却し代金を日本人乗船者の帰国費用にあてるという厚遇を命じられた。
この船には京都の御用金匠後藤庄三郎の仲介で京商人田中勝助・朱屋隆成・山田助左衛門他21名の日本人も同乗し、これが日本とメキシコの交通発祥の契機となったと言われている。
一行はマタンチェル(現メキシコ西海岸のナヤリット州サンブラス)を経て(10/27)、アカプルコ港に着いた(11/13)。

 

◆余話◆セビコスの日本批判とビスカイノの来日
一方、サンフランシスコ号のセビコス船長は、マニラに着くと日本との友好批判を国王に訴える書簡を出している(1610.6/20)
難破船の漂着物の倉庫の鍵を預かったが、流された財貨は長期間受取れず(ゼビコスは日本人の盗難に遭ったとも主張)売った時には価格が下がってしまい50万ペソの損害で、日本人が難破したサンフランシスコ号の全ての財貨を略奪したものとして大御所に使者を送って訴え、将軍に財貨の返還要求を認められたものの、難破から35日も返されなかったのは日本人の道徳心の欠如である。日本人は宗教の信仰が薄く、宗派争いもしない。専制政治で領民は厳しい生活と立場を強いられること。日本人は勇敢だが両国で海戦になれば航海・造船技術に勝るスペインが勝つ予想。長崎でのポルトガル船焼討事件や、フィリピンでの暴動等日本人の異国に対する悪事等を書き連ねた。

慶長15年11月に使者ムニョスがマドリッドに着き、家康と秀忠の贈り物と書簡を王に捧げた。この時の会議では毎年一隻の商船アカプルコから浦賀へ渡航させることが決議れたがメキシコ総督府は日本貿易に反対し使者を拘留しスペイン本国に再考を求めた。
慶長16年2月上旬(1611.3)遭難者達の返礼としてセバスチャン・ビスカイノを大使とする一行がアカプルコを出航し4月29日(6/10)浦賀に入港。ラシャやビロード、葡萄酒等を買入れた日本商人たちも帰国した。ビスカイノは将軍と大御所の許可を得て貿易に先駆け海岸の測量を行い測量図を寄贈した。
慶長17年8月21日(1612.9/16)に帰航するも暴風雨に逢い浦賀に入港する。
しかし幕府は不信感をもち──オランダ人からビスカイノの日本近海の金銀島調査隠匿の密告や、カトリック教圏との取引を危険視する英国人アダムスの進言を受けたともされる──ビスカイノの新しい船の建造支援を断った。
※ポルトガル・スペインはカトリック、オランダやイングランドはプロテスタント
この年の3月21日、2年前のポルトガル船爆沈事件に関わる有馬晴信の監視役であったキシリタンの岡本大八(おかもとだいはち。本多正純の家臣)が朱印状の偽造の罪で処刑され、晴信の余罪も発覚した。大八は晴信のようなキリシタン大名と宣教師による領内寺社の抑圧について自白し、幕府はキリシタン大名に対しキリスト教の禁教令を発した。
翌年ビスカイノは仙台藩の藩主伊達政宗の新造船に応じサン・ファン・バウティスタ号で政宗の家臣支倉常長ら遣欧使節(けんおうしせつ。慶長18年派遣)と同乗して月ノ浦(現石巻市)を出航(1613.10/28)し、三ヵ月後アカプルコに到着(1614.1)した。
元和元年(1615)アカプリコから欧州へ向かう政宗の船に、ムニョスの件の使節も同乗したが、日本で強まるキリスト教排斥の影響で親書からは貿易の件は取り消されていた。その後も諸交渉は捗らないまま、日本は鎖国に至る。

 

1620年ロドリゴはパナマ総督に任命され、1627年3月29日にはバジェ・デ・オリサバ伯爵の称号を授かる。
1635年スペイン王により正式に日本との国交断絶が発せられた。
失意もあってかロドリゴはその翌年の1636年にベラクルス州オリサバにて72歳で亡くなり、遺書により故郷テカマチャルコの聖フランシスコ修道院に眠る。

日本との交易協定は叶わなかったが、ロドリゴは日本の様子を『日本見聞録(La Relación Japón)』として詳らかに書き残している。
明治時代になって欧米を歴訪した岩倉具視等がスペイン船遭難の話を聞き、それが日墨交流の契機となったことが日本でも知られるようになった。
明治21年(1888)11月30日、日本とメキシコは日墨修好通商条約を締結。メキシコにとってアジアの国との初めての条約であり、日本は欧米列強国(アメリカ、イギリス、ロシア、フランス、オランダ)と不平等条約を結んでいた中でアジア以外の国との初の平等条約となった。
明治30年(1897)3月24日元外務大臣榎本武揚はメキシコに36人の殖民団を送る。資金難で数ヵ月に解散となったが、残留した移民は苦心しながら後のメキシコ移住者の基礎を作った。

御宿日西墨国交通発祥記念碑 大多喜メキシコ通り墨西大統領来町記念

▲御宿の日西墨交通発祥記念碑と大多喜のメキシコ記念塔
昭和3年(1928)10月1日に、御宿に日西墨交通発祥記念碑が建立、平成21年(2009)にロドリゴ達の漂着した1609年から400年目の日墨交流記念にメキシコ政府から抱擁の像が贈られた。
昭和53年(1978)11月1日には大多喜町にメキシコ大統領が訪問したのを記念して大多喜城跡までの道を「メキシコ通り」と命名された。

ドンロドリゴ上陸地碑日本語 ドンロドリゴ上陸地碑スペイン語 ドンロドリゴ上陸地案内板

ドンロドリゴ上陸地碑と案内板

本多忠朝[1]本多忠勝の次男・大多喜藩主として
○本多忠朝[2]新スペイン漂着船とドン・ロドリゴ
本多忠朝[3]大坂冬の陣出陣
本多忠朝[4]大坂夏の陣天王寺の戦い
本多忠朝[5]大阪墓所「一心寺」
本多忠朝[6]大多喜墓所「良玄寺」

▼参考史料
・ドン・ロドリゴ『日本見聞録』
・『御宿町史』
・『上総国誌』
・『房総治乱記』
・『千葉県の歴史』
・『房総の郷土史』
・安藤操『ドン・ロドリゴの日本見聞録
・『日墨交易400年の夢』
・『御宿町の文学・歴史散歩』
・渡辺修二郎『外交通商史談』
・ビスカイノ『金銀島探検報告』
・松島駿二郎『異国船漂着物語
・占部賢志『歴史のいのち
他、資料館等案内、遺跡調査報告、史蹟案内板等
▼関連リンク
・御宿町:http://www.town.onjuku.chiba.jp/
▼小説・児童書
・金井英一郎『ドン・ロドリゴ物語
・小倉明『ドン・ロドリゴの幸運

本多忠朝[1]本多忠勝の次男・大多喜藩主として

大坂夏の陣図屏風本多忠朝

本多出雲守忠朝 (ほんだ いずものかみ ただとも。画像は『大坂の陣合戦図屏風』天王寺口で戦う忠朝)
通称は内記(ないき)。幼年より徳川家康の側近くに近侍し、後に大多喜藩5万石の藩主となる。正室は一柳直盛(ひとつやなぎなおもり。監物。伊勢神戸藩・伊予西条藩藩主)の娘。
子は長女の千代(本多政朝室)、二女は山口主水(本多家家臣)室、嫡男の政勝(播磨姫路新田藩・大和郡山藩藩主)、養女に有馬直純の娘(政勝の妻の妹。黒田隆政室)

天正10(1582)年、忠朝は遠江国(静岡県西部)で、徳川四天王こと本多忠勝(ただかつ)の二男として生まれる。幼少の頃は「大入道」と號す。
母は忠勝の正室於久の方(阿知和右衛門玄銕の娘。見星院)
姉は長女稲姫(小松姫。天正元年生、幼名は子亥/ねい。家康の養女として真田信之に嫁ぐ。母は側室乙女の方)と次女もり姫(奥平家昌室。法明院。母は乙女の方)、兄は嫡子忠政(天正3年生。伊勢桑名藩主)、妹に本多備中守信之室、松下三十郎重綱室(母は側室)、蒲生瀬兵衛室。

◆父・本多忠勝の大多喜入城
天正18年(1590)8月、徳川家康の関東転封に伴い、本多忠勝が43歳で上総国大多喜10万石(千葉県夷隅郡大多喜町)に入封。当初は万喜城に入城したとみられる文献や、根古屋城に入城した等諸説ある。
忠勝は商業政策として市を開かせ(元禄時代から始まる六斎市の原型か)、万喜城の旧城主土岐頼定の旧臣を召抱え土豪の掌握と軍役人員を補強したとされ、この時厚遇した藤平冶右衛門は大坂役で忠朝と共に戦死している。
この年、17歳の小松姫が真田信之に嫁ぎ上野へ行き、熊(ゆう。徳川家康の孫娘)姫が忠政に嫁いだ。
天正19年(1591)忠勝は陸奥国九戸(くのへ)一揆討伐のため岩手沢へ家康に供奉。翌年、豊臣秀吉の朝鮮出兵のため忠勝は家康に従軍し肥前国名護屋(なごや)へ向かい先駆。翌年は肥後国の梅北一揆(島津家の家臣梅北国兼が首謀者)鎮圧に出動。
文禄4年(1595)9月25日に忠勝は了学和尚を大多喜城下に招いて良信寺(現良玄寺)を建立。
慶長元年(1596)4月14日兄忠政の長男平八郎(後の忠刻/ただとき。忠為。播磨姫路新田藩初代藩主。母は熊姫)が生まれる。
慶長2年(1597)11月~12月に忠勝が領内を検地。
慶長4年(1599)兄忠政の次男の鍋之助(後に大多喜藩を継ぐ政朝。母は熊姫)が生まれる。

岡崎城の本多忠勝像 大多喜城主本多忠勝公

▲忠朝の実父・本多忠勝像(左は岡崎城、右は大多喜行徳橋)

■本多忠朝は初陣で賞され大多喜城主となる
慶長5年(1600)9月15日、19歳の忠朝は関ヶ原の戦いに父忠勝と共に従軍し、初陣となる。
本多本隊は兄忠政が率いて秀忠に従い上田城攻めに加わったため遅参し、忠勝隊の兵数は大軍とは言えなかった。
徳川本陣に向けて決死の敵中突破を決行した西軍の島津義弘の島津本隊・先陣の島津豊久率いる佐土原衆により徳川方の井伊直政が負傷し、忠勝も家康から貰った名馬三国黒(みくにぐろ)を撃たれた。本多家与力梶金平勝忠が自分の馬を差し出す間、忠朝は島津軍中に進撃し大声で名乗りを上げて敵を引き付け果敢に戦った。忠勝も戦線復帰すると島津軍を追い立て戦功を得る。
忠朝は島津兵を討ち取り首二級をあげ、忠勝のもとに戻ろうとした時には血にまみれた太刀が反り曲がって鞘に納まらないという勇ましさは家康に「今日のはたらき、ゆくすえ父にも劣るまじき」と賞賛された。

慶長6年(1601)正月一日、忠朝は20歳で従五位下出雲守に叙任され、忠勝の旧領のうち大多喜5万石を拝領し分家する。大多喜城の城主として城持ち大名となった。
共に関ヶ原で戦功をあげた父の忠勝は54歳で伊勢国桑名10万石移封となる。忠勝の側室乙女の方、嫡男忠政や忠政の子達と共に桑名へ移る。
この時、忠勝の正室である忠朝の母お久の方のみは大多喜に留まった。
慶長8年(1603)2月に家康が征夷大将軍になり江戸幕府を開く。10月に切支丹御条目の制令が平沢妙厳寺に建てられる。

関ヶ原古戦場 大多喜城

関ヶ原古戦場と現在の大多喜城

 

■大多喜城主としての忠朝
慶長10年(1605)忠朝、堀之内貴船大明神の社殿を建立。
慶長14年(1609)2月に忠朝は国吉原の新田開発に着手し9箇条の開発掟を発令。
4月に桑名で忠勝が隠居する。
9月5日にドン・ロドリゴ一行の新スペイン(現メキシコ)船サンフランシスコ号が大多喜藩領の岩和田(いわわだ。現御宿町)沖で座礁、田尻の浜に漂着し村人によって317名が救出される。
10月13日にロドリゴ一行を大多喜城下招き歓待した。
ロドリゴが江戸、駿府、京坂、豊後国へと西行し帰国するまでの間、忠朝は度々書状を送り親善を深めたという。

慶長15年(1610年)10月18日、忠勝が63歳で桑名にて病没。大多喜の菩提寺良信寺にも分骨して葬る。
忠勝は生前に家老の松下河内に、忠政は嫡子なので遺跡を継がせ武具馬具茶具等の貴重品を悉く譲り、次男忠朝には小身(地位が低い)だからこそ蓄えの黄金1万5千両を与えよと命じる遺書を渡していた。
それを河内に告げられた忠政は「嫡子なので親の遺跡や遺物を所有するのは当然でたとえ遺言でも弟に貯蓄を渡すという非道には従えない」と怒り、黄金を忠朝に与えなかった。
河内は仕方なく忠朝に経緯を告げると、忠朝は機嫌を損ねずに「私は小身だから金銀は多く使わないが、父の跡を継いで濃州の主となった兄は多くの家臣を持ち変乱時に軍用もかかる。父は私を愛して遺言を残したが、義において金は受け取れません」と潔く言った。
これを伝えられた忠政は驚き恥じて黄金を惜しむ心も無くなり忠朝に贈り、しかし忠朝は次男の身であると言って受け取ろうとしなかった。
一門一族は兄弟の意志を察して黄金を兄弟で半分ずつ分配するよう取成した。
忠朝は急用時に受取るとして忠政の蔵に預けたままにし、生涯一金も手に取らなかった。(『古老雑話』)

慶長16年(1611)忠朝は万喜原の新田開発(現いすみ市)に着手し6箇条の開発掟を発令。新田開発を行った者に3年の諸役と年貢免許という手厚い免除を定めた。
この年、領地の泉水寺郷内で良信寺に100石を寺領を寄進する。
慶長18年(1613)9月14日に母お久の方が大多喜城内で没し、良信寺に葬る。
慶長19年(1614)安房国館山藩(千葉県館山市)の里見忠義(さとみただよし。11万2千石)が改易となり、9月に忠朝は佐貫城主内藤左馬助政長と共に、忠義の館山城を破却し没収された所領の守衛を命じられる。9日に館山城を受取り、里見家の者を下旬までに退去させ、20日に取壊し終えた。
この年、忠朝の次男、入道丸(政勝)が生まれる。

大多喜地之絵図 上総大多喜城絵図

大多喜地之絵図と上総大多喜城絵図
ドン・ロドリゴの『日本見聞録』に忠朝が城主時代の大多喜城の様子が記されている。
城は町より高い天然要害といえる場所に建ち、第一の門を入ると深い濠が一つあり上げ下げのできる防衛を備えたつり橋が架かっている。
巨大な城門は鉄製で、濠に面した城壁は縦横6バーラ余(約5m)に畳壁が盛られ、百人程の城兵が火縄銃を持って立っている。
城門の内側には壕と庭園、篭城時に賄える菜園や稲田までもがあった。
約100歩先の第二の門は、表門よりやや低い切り石の城壁が築かれ、槍兵が30人警護していた。
4、50歩先にある城主の宮殿(屋敷)は地震にそなえて木造で土台の基礎工事も優れている。数々の部屋は金銀細工が施され、彩色も美しく床から上方まで目を見張るものがある。
武器庫は将軍の管理するものと思えるほどに立派なものだった。

大多喜城薬医門 大多喜城大井戸

▲古い面影が残された大多喜城二の丸跡の薬医門大井戸
本多忠勝・忠朝が城主時の慶長年間(1598~1614)に掘られたとされるニ十数個の井戸の一つ、周囲約17m・深さ20mの大井戸は、地山の泥岩を加工して切石積の井戸側とする構造。当時は8個の滑車と16個のるつべ桶があり、水がつきることなく湧き出ることから「霧吹ノ井戸」「底知らずの井戸」と呼ばれてていた。
前城主正木大膳が八幡宮の託宣により掘られ破棄した「大膳井(たいぜんいど)」跡や不動院(圓照寺)の尽きない水を引いた等の伝承がある。井戸は大東亜戦争時に半ば埋立られたが昭和21年に復元されている。
薬医門は天保13年(1842)の火災後に建築された二の丸御殿の門。現在の大多喜城建造物唯一の遺構。
明治4年の廃藩の際に払下げられたが大正15年に県立大多喜中学校の校門として寄贈され、後の大多喜高等学校校舎建築の際に一旦解体保存されたものを昭和48年に修理が成された。

○本多忠朝[1]本多忠勝の次男・大多喜藩主として
本多忠朝[2]新スペイン漂着船とドン・ロドリゴ
本多忠朝[3]大坂冬の陣出陣
本多忠朝[4]大坂夏の陣天王寺の戦い
本多忠朝[5]大阪墓所「一心寺」
本多忠朝[6]大多喜墓所「良玄寺」

丸に立葵

▼参考資料(講談・軍記物含む)
・『大多喜町史』
・『夷隅郡誌
・『岡崎市史
・『房総叢書
・戸川残花『徳川武士銘々伝』『三百諸侯
・湯浅常山『常山紀談
・『系図綜覧』『本多系図』
・『系図纂要
・『寛政重修諸家譜』
・『本多忠勝家譜』
・『徳川実記』『當代記』『駿府記』
・『房総の郷土史』
・『千葉文化』
・『探訪ふるさとの歴史』
・『本多忠勝・忠朝ものがたり』
・小和田哲男『戦国武将の合戦図
・市原允『わがふるさと城下町』『大多喜城物語』
・藤沢衛彦『日本伝説叢書・上総
・『千葉県史料』
・岡島成邦『房総里見誌』
・安川惟礼『上総国誌』
・『大多喜社寺書上』
・徳富猪一郎『近世日本国民史』
・『日本の戦史
・熊田葦城『日本史蹟
・岡谷繁実『名将言行録
・岡田溪志『攝陽群談・河内名所鑑
・黒川真道『新東鑑
・新井白石『藩翰譜』
・北条氏長『慶元記』
・『武将感状記』
・『校合雑記』
・『難波戦記』『大坂記』『大坂軍記』『真田三代記
・企画展図録『本多忠朝の時代』
他、資料館等案内、遺跡調査報告、史蹟案内板等
▼関連リンク
・大多喜町:http://www.town.otaki.chiba.jp/
・千葉県立中央博物館 大多喜城分館:http://www2.chiba-muse.or.jp/?page_id=59

請西藩林家祖先7代目林吉忠と大坂夏の陣

一心寺の林籐四郎墓 林籐四郎吉忠墓の碑文

▲大阪一心寺の林籐四郎墓
玄明院殿光山舊露大居士」「元和元乙卯年」「五月七日
俗名林籐四郎吉忠 元和元年五月七日戰死
 今歳文化十一甲戌年相當二百年之遠忌因而為追福新造立石碑者也
 文化十一年甲戌年五月

文化11年(1814)5月に三百遠忌追福のため林家14代林忠英が建立。
忠英は2年後の文化13年8月にも大樹寺に4代忠満・5代忠時の供養墓を建立している。

 

林吉忠(はやしよしただ)藤四郎。初めは吉正(よしまさ)。妻は河村善七郎重信の娘。

天正15年(1587)三州で家康の家臣上林越前政重(竹庵。又市、良清)の長男として生まれる。林家6代目忠政の弟忠定の妻(上林政重の娘)の弟にあたる。
慶長16年(1611)に忠政の長子藤蔵が病没したため、林家の養子となった。
吉忠は林家7代目当主となり徳川秀忠に仕え扶持米200俵を賜わる。

元和元年(1615)4月9日、300俵加増し番組に入る。
4月下旬に徳川勢が大坂へ進軍を開始。
5月5日、徳川家康・秀忠が伏見を出発、一番組の水野勝成らが国分に至る。
吉忠は大番頭高木主水正次(まさつぐ。河内丹南藩初代藩主。家紋は高木鷹)隊に属して出陣する。
6日に家康は岡山口の先鋒を七番手前田利常、天王寺口の先鋒を五番手本多忠朝に命じる。この日、水野勝成ら大和口の諸将の道明寺の戦い。

7日午前2時、秀忠は千塚を出発。大番六隊の左は阿部正次・内藤大和守・松平定綱ら、右に高木正次・青山忠俊・水野正忠。
10時頃に平野の家康と来会した秀忠は岡山への出向を命じられる。

岡山こと御勝山古墳 岡山から見た天王寺方面

岡山(御勝山)と岡山から見た天王寺方面

岡山方面の布陣は秀忠の前備えに藤堂高虎、井伊直孝、前田利常らが平野道を挟み中間に細川忠興。
秀忠の麾下は、前に高木正次、阿部正次らが大番組を率いた。
二番として書院番組は書院番頭青山忠俊、次に水野忠清、内藤清次、松平定綱。
左に旗本組頭酒井忠世、土井利勝の両隊が並び、その後ろに本多正信、高力忠房、鳥居成次、日根野吉明、前田利考、立花宗茂ら諸隊。前田隊の後ろに黒田長政、加藤嘉明。
秀忠は岡山の南方に位置する平野道(ひらのみち。大坂道。中高野街道)の西に在り、安藤重信隊が後拒となった。
※平野道…大阪天王寺から奈良街道(明治以降の名称で現国道25号線相当)と分岐し高野山へ向かう道。

正午に天王寺口で豊臣方先鋒が逸り発砲し、開戦。
秀忠には家康に指示を待つよう軍令があったが、天王寺口で徳川方の本多・小笠原等の諸隊が破れて西軍が突入すると、先手の松平利常らが進軍し大野治長の銃隊(治長本隊より東に布陣)を攻撃した。
阿部野側に陣していた水野隊は、前田利常隊へ続き青山隊と先駆けを争いながら書院番組を率いて北上する。
第二の左備えの藤堂・井伊隊、旗本組も平野道沿いの桑津村から進軍し先頭は天王寺の側面を狙うが、毘沙門地辺りで毛利勝永隊に阻止され、岡山口の大野治房の兵らが呼応して秀忠麾下を狙い護衛隊も防戦となる。

高木隊も大番組を率いて天王寺表で戦功をあげた。
茶臼山の南に布陣する福島正鎮(まさしげ)・福島正之(まさもり)を松平忠直(越前北ノ庄藩主。結城秀康の長男)の兵が撃破。
高木勢も真田信繁(幸村)らと戦い、忠直隊が信繁を討ち取る。

豊臣勢は10町ほど退き玉造稲荷社(真田山の北)前で踏留まり、これを追う高木隊は目前の沼を避けて迂回し、青山隊は沼を直進し突撃した。

茶臼山・天王寺口の豊臣勢が敗れると徳川本陣に決死の突撃をかけるため南下する明石守重(あかしもりしげ。掃部。関ヶ原では宇喜多勢の先鋒であったが大坂の役では豊臣方)と高木勢が生玉宮の坂で交戦し、林吉忠が討死
吉忠、この時29歳。

生国魂神社鳥居 生国魂神社拝殿

生玉北門坂 真言坂 奥が生国玉神社表

▲生国魂神社への坂。千日前通りからの参道「生玉北門坂」と七坂の「真言坂」と神社表への坂
※林吉忠決戦地の生玉(いくたま)坂については、大坂城の大手の生玉門(生国魂神社は豊臣秀吉が大坂城の築城に際に現在地に移す前に難波宮や石山本願寺のそばにあった名残)付近や玉造宮等の可能性もあるが、戦況や地形から7日当時の生玉宮在所を採った

林家領地の殿辺田村(とのべた。義父忠政の隠居地ともされる)の従者が吉忠の首を持ち帰り、龍渓寺に葬る。玄明院殿光山旧露大居士。
『寛政重修諸家譜』では天王寺で火葬し遺骨を龍渓寺に葬った(法名久露)とする。

吉忠討死後、水野勝成らが明石掃部を敗走させ、玉造稲荷社の戦も徳川方が制する。
やがて周知の通り徳川方が取り囲み大坂城は陥落。
林家では吉忠の討死の直後、出陣中に腹の中に居た八代目となる林忠勝が出生した。

大阪一心寺の林籐四郎墓 林籐四郎墓の林家家紋

▲吉忠の墓正面と石扉の林家家紋「丸の内三頭左巴下に一文字」

* * *

合戦記や家伝は正確な史実とは言えませんが、林吉忠の戦いは各家に伝わるそれらを中心に推測しました。
また、一心寺には林家16代林忠交の墓、吉忠と同じく大坂の陣で戦死した本多忠朝の墓や徳川家康の臣松平助十郎正勝の墓等もあります。

小久保陣屋・藩校・藩主邸跡-田沼意尊と意斉

小久保藩図 小久保藩陣屋跡の碑

小久保藩陣屋跡の碑小久保藩図(案内板より)
県指定史跡弁天山古墳南西山麓、富津市中央公民館敷地に小久保(こくぼ)藩の陣屋が置かれた。小久保藩図の東の空白は士族の宅地。

 

大政奉還後の明治元年(1868)5月24日徳川宗家当主徳川家達(いえさと)が静岡藩として駿河(するが)・遠江(とおとうみ。共に静岡県)70万石での駿府(すんぷ)入封に伴い、その地にあった7藩は廃藩し安房(あわ)・上総(かずさ。共に千葉県)へ移封となった。
9月23日に遠江国相良藩(さがら。榛原/はいばら郡)の田沼意尊は上総国の周准(すえ、すす)・天羽(あまは)郡の内へ移封が下知される。
意尊は天羽郡の小久保村弁天(富津市)に陣屋を置いて小久保藩と称した。
二代目の意斉は、意尊が創立した漢学校盈進(えいしん)館に逸早く洋学を取り入れた。
明治4年(1871)7月14日に廃藩置県で小久保藩は廃藩となる。

明治元年に移封し明治4年まで存続した藩(石高は約)
駿河国
沼津藩5万石/水野出羽守忠敬→菊間藩(上総国市原郡)
小島藩1万石/滝脇丹波守信敏→金ヶ崎藩(上総国市原郡・周准郡)※翌月~桜井藩
田中藩4万石/本多正訥→長尾藩(安房国平・朝夷・長狭郡)
遠江国
相良藩1万石/田沼隠岐守意尊→小久保藩(上総国周准・天羽郡)
浜松藩6万石/井上河内守正直→鶴舞藩(上総国市原・埴生・長柄郡)
掛川藩5万石/太田備中守資美→芝山藩(上総国武射・山辺郡)※明治4年~松尾藩
横須賀藩3万5千石/西尾隠岐守忠篤→花房藩(安房国平・朝夷・長狭郡、上総国望陀郡)

小久保藩主邸の庭園跡 小久保藩庁・藩主邸跡の井戸

藩庁・藩主邸跡の庭園と井戸。藩校盈進館の南に藩(県)庁と知事の邸宅があった。

 

小久保藩初代藩主 田沼意尊(たぬまおきたか)

文政元年(1818)相良(さがら)藩主田沼意留(おきひさ)の嫡子として生まれる。
幼名は金弥。江戸時代中期の10代将軍徳川家治(いえはる)の時の老中田沼意次(おきつぐ。相良藩初代藩主)の8世の子孫にあたる。
天保11年(1840)7月20日意留が隠居し意尊が9代目相良藩主となる。
12月16日従五位下玄蕃頭(げんばのかみ)に叙任される。
天保14年(1843)6月15日久留島通嘉(くるしまみちひろ。豊後国森藩藩主)の娘を妻とする。
嘉永5年(1852)閏2月28日大番頭となる。
嘉永6年(1853)2月15日大坂玉造口定番に任じられ、大坂に赴任。9月米国国書に対する所見を上陳。
文久元年(1861)9月14日若年寄に昇進。
文久2年(1862)に外国御用掛、11月11日には将軍上洛用掛に命じられる。
文久3年(1863)2月13日徳川家茂の上洛に随従。11日の賀茂下上社御幸に供奉。
10月26日横浜港に停泊中の軍艦へ赴き、フランス全権公使ドゥ・ベルクールと横浜鎖港に関して商議する。

元治元年(1864)6月19日徳川家康250回忌の勅会用掛を命じられる。7月8日外国掛を免じられる。
この頃水戸の天狗党の乱が起こり、10日に意尊が常野追討使(追討軍総督)に任じられた。23日に野州へ。
8月5日意尊は古河陣中で宇都宮藩、9日に福島・宇都宮・壬生・下館・土浦・二本松・笠間諸藩に筑波出兵を命じる。23日に下妻藩に糧食・夫役、戦火災の補償金を支給。25日常陸笠間に宿陣。
9月1日笠間陣中から、幕府兵と共に二本松・壬生両藩兵を那珂湊へ、宇都宮・棚倉・佐倉三藩兵を磯浜に進軍させ両地域の天狗党を討たせる。3日に水戸藩へ手綱、6日烏山藩・7日棚倉藩へ助川の防備を固めるよう命じて敵の退路を絶った。9日佐倉藩に潮来へ12日高崎藩に鉾田への出兵を命じる。18日磐城平藩に手綱附近に兵を出させ、助川脱出の天狗党浪士を捕らえさせる。
25日笠間から水戸に幕府軍本隊を進め、弘道館に本営を置く。
27日意尊は水戸藩主名代松平頼徳(よりのり。宍戸藩主)や元家老鳥居瀬兵衛(せべえ)・大久保甚五左衛門(じんござえもん)らに水戸城入城の失敗や諸生党市川三左衛門と対立した責任を問い下市町会所に投じる。28日頼徳を水戸藩縁故の松平万次郎頼遵の邸宅に、家来達を水戸城中に禁固した。頼徳の家臣小幡友七郎(おばたともしちろう)ら7人が憤慨し自刃。
10月3日忍藩へ那珂湊の佐倉藩兵の救援を命じる。9日柳沢・塩ケ崎の諸陣を巡視する。
11月6日京へ向かった武田耕運斎ら天狗党追討のため、意尊は水戸を出発。9日に川越藩へ出兵要請。12日上野・武蔵に侵入する天狗党の討伐を伊勢崎・前橋・矢田・高崎・館林・安中・小幡・七日市・麻生・忍諸藩に命じる。26日壬生藩へ太平山の警備を固めさせる。
27日水戸藩へ、投降者のうち懺悔した者の処置を緩めるよう命じる。
12月27日美濃関ケ原に至る。

慶応元年(1865)1月30日に入京。一橋慶喜に天狗党の処分の事を委ねられ敦賀へ向かう。
2月17日京都賀茂社の鳥居に意尊を弾劾する落書が貼られた。
25日敦賀から江戸へ向かう。3月11日江戸に着き幕府に出仕。
11月4日京へと海路で江戸を出発。9日大坂に着く。この時、意尊の上洛は将軍が江戸へ帰ることを促すためと噂が流れ、薩摩藩士西郷吉之助(隆盛)は大坂に居る薩摩藩士黒田清綱に情勢を探らせた。

慶応2年(1866)2月5・6日に老中松井康直(やすなお。後の康英)邸でフランス全権公使ロッシュと会議。
3月5日康直邸でプロイセン王国領事フォン・ブラントと、13日に英国特派全権公使パークスと税則改正ついて商議する。
10月24日若年寄を罷免。
慶応3年(1867)11月15日朝廷の召命を辞退する。

慶応4年(1868)1月14日幕府から駿府城の警守を命じられる。
2月13日家臣に勤王証書を持たせ提出させる。3月2日徳川慶喜の嘆願書に連署。
閏4月2日信濃出兵の命で帰藩。その後箱根に侵入した林忠崇軍を相良の地でも警戒している。
9月4日相良を出発し12日京に入り15日参内する。
23日に相良1万3243石から西上総の周准・天羽郡1万1270余石(現石4400石)への移封が下知される。他、3年間現米200石と、金3千両を受給。

明治2年(1869)1月19日相良を出発し24日に東京に着く。
3月16日上総領内の巡検に出発し24日に東京へ帰る。
6月24日版籍奉還により小久保藩知事に任命。家禄440石。
7月27日に東京から上総の任地へ入る。
小久保弁天に藩庁と住所を置き、藩庁は643坪、県知事邸は440坪。北側に役所地800坪。
儒学を尊ぶ意尊は、藩士に漢学を教える藩校盈進館(えいしんかん)を創立する。
12月に病にかかり床に伏し、跡継ぎの男子が居なかったため、岩槻藩知事大岡忠貫の弟で15歳の金弥(意斉)を養子に入れた。
※意尊の娘は後に田沼家を継ぐ長女智恵(ちえ)、小笠原長育の妻の次女路子(みちこ)
20日に病状が悪化し、22日に意斉に家督を相続させる。
24日に死去。52歳。寛隆院殿曜徳自照大居士。領地貞元(君津市新御堂)の護国山最勝福寺に葬られた。

明治22年(1889)7月6日に田沼家菩提寺の勝林寺(東京都豊島区駒込。田沼意次が再建)に改葬。

 

2代藩主 田沼意斉(たぬまおきなり)

安政2年(1855)7月に武蔵国岩槻藩(いわつき。埼玉県岩槻市。2万3千石)7代藩主大岡忠恕(ただゆき、ただのり)の五男として生まれる。幼名は金弥。
※館山藩最後の藩主稲葉正善(まさよし)は意斉の兄(大岡忠恕次男)で、館山藩4代藩主稲葉正巳の養子となった

明治2年(1869)12月に小久保藩主田沼意尊の養子となる。22日に家督を相続。
24日意尊が死去。
明治3年(1870)2月25日小久保藩知事に叙任。
10月に建坪58坪余の藩校盈進館の校舎を新築。14日支配地村替。
11月に盈進館の学問に新たに洋学も取り入れた。洋学教師は間宮濤之助(福地源一郎の門下)が就任。英語に加え算術・地理・歴史も教え、藩士だけでなく庶民とも共学とした。

明治4年(1871)2月14日藩政を大参事に任せ、東京遊学の許可を得る。旧藩邸に寓居し文学修業に励む。
23日東京府移住を命じられ、東京府貫属華族となる。
25日本所徳右衛門町(東京都墨田区)に住む。※後に松井町へ転居
7月14日に廃藩置県で小久保藩は廃藩し、藩知事を罷免。

明治6年(1873年)11月に隠居し、田沼家は意尊の長女の智恵が継ぐ。

 

■その後の田沼家

明治5年(1872)学問頒布(はんぷ)により盈進館は小久保小学校の校舎となる。(尋常小学校等を経て現在の大貫小学校に至る)

明治6年(1873年)11月に意斉が隠居し、田沼家は意尊の長女の智恵が継ぐ。
明治7年(1874)智恵は伊予国宇和島藩(愛媛県宇和島市)8代藩主伊達宗城(むねなり)の六男の忠千代(後の瀧脇信廣/たきわきのぶひろ)を婿に入れ、忠千代が田沼家当主となる。

明治11年(1878)忠千代と離婚し、再び智恵が当主となる。
明治13年(1890)智恵が伏原望(伏原宣諭の次男)を婿に入れ、望が当主となり田沼家は現在まで続く。

富津市大貫の弁天山古墳 大貫の富津市中央公民館

▲東に弁天山古墳。現在の公民館と駐車場は小久保藩の役所や藩校にあたる。

所在地:千葉県富津市小久保字弁天2955 富津市中央公民館敷地

参考史料・図書
『田沼意斉家記』
『田沼家譜』
富津市史
君津郡誌』他古地図・案内板等

妙勝寺-水戸天狗党の乱と天狗党四士の墓

花香谷明谷山妙勝寺 妙勝寺の水戸浪士天狗党四士の墓所

妙勝寺水戸天狗党四士の墓
佐貫藩に預けられ処刑された天狗党の4人の墓。平成16年10月改修。
古い墓石の表には「南無妙法蓮華経」が刻まれている。文字は殆ど見えなくなっているが『富津市史』に右から「黒沢氏」「荒井氏 元治二丑年四月三日」(なし)「木村氏」とある。

 

■天狗党の乱

常陸国水戸藩(茨城県水戸市)の後継者争いで藩主の座に着いた徳川斉昭(なりあき)を擁立した派閥は頭勝で鼻高々な様子から天狗党と呼ばれた。
嘉永6年(1853)の黒船来航により海防をに関わる斉昭は国防の必要性を主張し、水戸藩は尊王攘夷派が台頭していく。
天狗党の中でも攘夷に意欲的な改革派は激派と呼ばれ(激派に反する派閥は鎮派)日米修好通商条約に調印した井伊直弼を襲う桜田門外の変にも加わった。その約半年後に斉昭が急死した後も攘夷運動は続けられた。

元治元年(1864)3月27日、横浜港の閉鎖を求めて天狗党激派の藤田小四郎(こしろう。藤田東湖の4男)は、町奉行田丸稲之衛門直允(いなのえもんなおあき)を大将に据え、自らは総裁として監察府として筑波山に旗揚げした。※以降「筑波勢」と記述
これに攘夷派の藩士や浪士達が呼応し、4月に正義党(水戸・江戸・京在勤の武田耕運斎ら水戸藩執行部が指導)と合わさり田丸を首領のまま遊軍監察府総轄と称して小栗村に集結した。
徳川家康を祀る日光東照宮を占拠するため、田丸は水戸藩前藩主烈公(斉昭)の位牌を背負い、天狗党一団は下野国(栃木県)日光山へ向かう。
日光奉行から知らせを受けた幕府は下野近隣の藩と水戸藩へ天狗党の警戒を命じる。筑波勢は戦闘を避けて太平山(栃木市)へ移動。

その頃朝廷では孝明天皇と禁裏御守衛総督の一橋慶喜(よしのぶ。後の15代将軍徳川慶喜。水戸藩前藩主徳川斉昭の7男)らが幕府に横浜鎖港を求め、20日に将軍徳川家茂は、水戸藩主徳川慶篤(よしあつ)と、幕府政事総裁職の川越藩主松平直克(なおかつ。慶喜と親しい)に鎖港を推し進めるよう命じた。

一方水戸では、天狗党鎮派の一部が保守派と組んで諸生組(水戸藩の学問所弘道館の書生が中心だったため書生・諸生党と呼ばれた)を結成し、激派の排除に乗り出した。
6月6月に筑波勢は水戸の情勢を案じて筑波山へ引揚げ大御堂(おおみどう)を本営とする。

天狗党激派を中心とする攘夷集団は膨れ上がり、別隊浪士の略奪等横行狼藉が目立った。
10日に幕府は関東の近隣諸藩に討伐を命じ、11日には高崎・笠間藩へ追討命令が出される。
水戸藩は藩主慶篤の居る江戸藩邸へ諸生組が詰めかけ、慶篤は改革派支援から一転して幕府の意向に従うことに応じた。
慶篤は佐幕派の幕僚を退けようとする松平直克を非難し、結果として直克は政事総裁職を罷免。横浜鎖港が頓挫して大義名分を失った筑波勢の排除に幕府が動くこととなる。

7月8日に幕府若年寄の田沼意尊(おきたか。玄蕃頭/げんばのかみ)が浪人追討総督に任命され、幕府は諸藩に筑波勢の追討を命じた。
水戸藩内では諸生組と筑波勢以外の天狗党が争っていたが、筑波勢の挙兵に直接参加していなかった耕運斎も諸生組に対抗するため筑波勢と合流する。
8月10日に筑波勢と水戸城の兵が交戦開始、14日に筑波山から天狗党が一斉に押寄せ連日激戦となる。

9月2日に幕府軍が水戸書生組と連携して攻撃を開始。水戸・棚倉・高崎・二本松・佐倉・宇都宮・新発田・館林・川越・安中・岡部藩と他幕府歩兵隊の大軍が筑波勢の各拠点を包囲した。

10月には筑波勢は追い詰められ、大子村に集い耕雲斎を主将とし田丸と藤田は副将として一軍七隊に再編成し、軍規を整え粗暴な行いを禁じた。
11月1日に天狗党一軍七隊は、一橋公を頼り(かつて烈公が望んでいたように一橋公を盟主にする目的もあったとされる)京へ向けて中山道を行軍する。

中山道付近の小藩では天狗党に対抗できず見過ごされたが、上州高崎藩(群馬県高崎市)は攻撃体勢に入った。
天狗党は16日に下仁田で高崎藩兵を破り、信州(長野県)で小諸・上田藩兵と対峙し高島(諏訪藩)・松本藩兵と交戦。20日に和田峠で諏訪勢を破り、東山道を進む。
27日美濃大垣藩(岐阜県大垣市)を避けて迂回するために木曽街道から北へ進路を変えて12月11日に越前国の敦賀(つるが。福井県敦賀市)に到着した。

対する幕府軍は加賀・小田原・桑名・大垣・会津・水戸・海津(一橋慶喜本営)・大野・鯖江・福井・彦根藩兵が各要所に布陣した。
頼りの一橋公が幕府軍側に付き、命運尽きた天狗党は15日に遂に加賀藩へ投降する。
元治2年(慶応元年/1865)2月4日に来迎寺境内で耕運斎・田丸らを斬首し300余人を処刑。日を改め幹部を中心に次々に処刑し、23日には藤田らを斬首。水戸では諸生党らが、賊徒となった天狗党の家族を処刑した。

耕運斎らより先に降伏した天狗党のうち、士分116名の身柄を諸藩に……例えば請西藩に13人、飯野藩に25人といった具合に分けて預けることとなった。

 

■佐貫藩が処刑した天狗党四士

佐貫藩では銚子藩から23人の引渡しが決まり、12月2日に相場助右衛門ら100余名が武装して銚子へ向かっている。
4日に銚子に着き身柄を引取るが、天狗党の9名は大怪我をしていた。
12日に佐貫城外の長屋に拘留。天狗党藩士は佐貫藩主にも敬意を示し、長屋で学問をや弁論をしたため、佐貫藩士も刺激を受けて藩校誠道館の名を選秀館と改め学問に打ち込んだという。禁固中に新井(荒井)源八郎と村田理介は騒動の記録「国難顛末」を書き残した。

4月3日、幕府から新井と村田に切腹を申し付けられる。
木村三保之介(三穂介)と黒沢覚介(学介)にも斬首の処罰が下る。

▼切腹
新井源八郎直敬…龍雲院義直日周居士。42歳。郡奉行。
村田理介政興…随順院量意日相居士。58歳。郡奉行。

▼斬首
黒沢覚介成憲…直成院学純信士。47歳。小住人組。
木村三保之介善道…得法院淨円信士。55歳。高田村の名主の長男。弟の善雄は館山藩で斬首された。

処刑された4士の遺体は妙勝寺に託され、住職のはからいで水戸に縁が深い梅の木の下に葬ったと伝わっている。
残りの19人は5月26日に江戸の監獄へ護送された。

大正4年11月に木村を除く3名に贈従五位。

 

日蓮宗明谷山妙勝寺
寛正6年(1465)5月、僧日通の開山。
所在地:千葉県富津市花香谷137