上総・安房の歴史」カテゴリーアーカイブ

上総・安房(千葉県の中~南部)地域の歴史

甲府に向け黒駒へ

慶応4年(1868)閏4月19日、伊庭八郎の進言で、甲府城にの奥平・真田・水野等の兵達への対策として、遊撃隊の精鋭20人が難所の三坂峠を押さえた。
真田家の兵が黒駒まで来たが、三坂峠に請西藩林忠崇と旧幕府遊撃隊らの兵が既に陣取っていることを知り退却。

20日朝、忠崇一行は川口を出発。三坂峠を経て藤ノ木に進行。黒駒で逗留する。

御坂峠 御坂みち上黒駒

御坂峠を経て黒駒へ至る

 

5月に入り甲府へ軍を進めようとしたが、徳川家からの説得が伝わり、沼津表で10日を期限として命を待つことに同意した。

甲府城址 甲府城の発掘された石垣

甲府城址と発掘された石垣。忠崇らは甲府城を脅かさずに引き返した。

一行は5月2日から黒駒から道を南へ遡り、5日に沼津城下近くの香貫村に入る。

三島から河口へ

慶応4年(1868)閏4月16日の午前、請西藩藩主林忠崇伊庭八郎人見勝太郎旧幕府遊撃隊ら一行は韮山(静岡県伊豆の国市市)を出発。
甲府を窺うため三島(静岡県三島市)を経て深夜に御殿場(ごてんば。静岡県御殿場市)に着いた。

 三島から富士山までの展望図

三島宿の三嶋大社
右画像、山中(静岡県)からの展望図だと左手の三島から、右手の富士山が見える方向へ向かうこととなる

2御殿場と富士山 御殿場駅

▲現在の御殿場駅富士山口周辺と、箱根側(乙女口方向)

 

17日に、田安侯の使いとして山岡鉄太郎が説得に来訪。翌日忠崇は上意を新政府軍の総督府に差出を依頼し、甲府(山梨県甲府市)で10日再命を待つと取り決めた。
19日に御殿場を出発。巣走(須走。静岡県駿東郡)、山中(山梨県南都留郡)吉田(山梨県富士吉田市)等を過ぎ川口(山梨県南都留郡)に宿陣する。
須走 吉田

▲一行は須走(写真左)から山中を経て吉田(写真右)まで北上する

河口湖駅 河口湖と富士山

河口湖駅と河口湖。「川口村」は、現在の現在の富士河口湖町

龍溪寺-請西藩林家祖先累代の墓所

龍溪寺山門と本堂 請西藩林家祖先の墓域

龍溪寺と林家の墓所
四間の墓域の周囲にはかつて柵が在った。
林家系譜や寛政重修諸家譜等では林光政から数えて林家6代目忠政親子、7代吉忠、8代忠勝の墓所とされるが、龍渓寺には吉忠のみ埋葬されたと伝わっている。
貝渕藩請西藩の藩主となった林家の菩提寺は東京都の青松寺で、6~8代目の他は供養墓とみられる。
※幕末の請西藩主林忠崇は17代目

林吉忠(はやしよしただ)
藤四郎。元和元年(1615)5月7日に大坂夏の陣で29歳で戦死し、領地の殿辺田村(とのべた。義父忠政の隠居地ともされる)の従者が吉忠の首を持ち帰り龍渓寺に葬る。
【8/27:吉忠の説明文移動】→『請西藩林家祖先7代目林吉忠と大坂夏の陣

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林家の墓所の正面向かって右から

▼林忠晟(ただあきら。9代目忠隆の長子)の供養墓
實相圓光院の墓 實相圓光院 實相圓光院意
『實相圓光院殿』『天和二年 了悟日静居子 七月廿日』
※忠晟が部屋住で病死したため、林家は養子に出た横田家を継いでいた弟の忠朗(後に忠和)を呼び戻して継がせた

▼【十三代】林肥後守忠篤の供養墓
樹徳院の墓 樹徳院
『寛政八丙辰年 樹徳院殿従五位下 前肥州大守務参元滋大居士 三月廿七日』
※木造釈迦如来坐像(市指定文化財)の龍溪寺本尊は忠篤の寄進といわれる

▼【九代】林信濃守忠隆の供養墓
大享院墓 大享院 大享院の刻銘入りの燈籠
『元禄十丁丑年 大享院殿従五位下前信刕太守觸照遇光大居士 四月初九日』
※中央の一番大きな墓の為か郷土誌では吉忠の墓と紹介されているが、刻まれている内容は忠隆のもの

 

▼七代目吉忠の墓(左写真)と、隣(右写真)の實相院の墓
玄明院の墓 玄明院の意 實相院殿永寿日相大姉
【七代】林吉忠の墓
『元和元乙卯年 玄明院殿光山旧露大居士 五月七日』
意 旹元和元乙卯 三州住林藤四良□ 於大坂□死 光山旧露大居士 五月七日敬白
光山旧露大居士──三州に住む林藤四良(郎)が元和元年5月7日大坂で戦死した意が刻まれている。
京都伏見奉行として病死した16代忠交と同様に一心寺にも墓がある。

・實相院殿永寿日相大姉 延宝八庚申年三月廿八日
※吉忠の室という推測もされている

 

▼六代目忠政の墓(左写真)と、隣(右写真)の八代目忠勝の墓
忠政の墓 青山宗春の墓 青山宗春
【六代】林忠政の墓
『元和八年』圓明院月照道恕大居士 元和八年壬戌年四月十四日
※忠政は17歳で眼病を患い、領地の茂原郷殿辺村に道斎の名で隠居したとされる。この時、徳川家と林家の献兎賜盃の伝統が中断したようだ。従士の杉田七郎左衛門の介抱を受け59歳で没。

【八代】林忠勝の墓
『寛永十五戌虎年 □青山宗春居士 二月中旬二日』
※忠勝は父吉忠の討死の直後に生まれた。京都二条城守衛中に急死。常運院。

 

右側の並び
▼【十一代】林備後守忠勝の供養墓
仰樹院の墓 仰樹院の丸の内三頭左巴下に一文字家紋
『享保十七年 仰樹院殿前備州刺吏高嶽義堅大居士 九月』
※忠和の妹が嫁いだ溝口重時の次男。養子に入り林家を継ぐ。

▼【十代】林土佐守忠和の供養墓
普門院の墓 普門院
『宝永二乙酉年 普門院殿 前土州刺吏理観禪入居士 三月十有二日』
※初め忠朗(ただあきら)。長崎奉行、江戸町奉行(南町奉行)等務めた。法名は禪定

 

左側の並び
▼【十二代】林忠久の供養墓
紹隆院の墓 紹隆院 紹隆院の墓と家紋
『宝暦十三癸末年 紹隆院殿本嶽浄智大居士 十月廿有八月』

和尚 倒壊した古い墓石 崩れた墓石
・『文化七庚午年 圓寂達道謙周和尚覚霊 十二月十四日』
その他、右の並びに崩れた墓石もある。
郷土誌には6代目忠政の子藤蔵(慶長16年4月に17歳で没・桃雲金林居子)の墓もあるとされるが…

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龍溪寺総門 龍溪寺本堂 龍溪寺鐘楼堂
▲龍溪寺の門、本堂、鐘楼堂
安寧山龍溪寺(りゅうけいじ)
曹洞宗。大永元年(1521)8月28日、益芝明周和尚が開山。
その後に池和田城(市原市池和田)城主の多賀蔵人(戦国時代里見義弘に属した)が開基。

龍溪寺縁起の碑 龍溪寺本尊の解説 龍溪寺参道
▲縁起と本尊白衣観音の解説、厳かな参道

所在地:千葉県市原市石川1121-1

林忠英寄進の石燈籠-日枝神社

日枝神社の従五位下林肥後守源朝臣忠英寄進の石燈籠 日枝神社の林忠英寄進の石燈籠

▲従五位下林肥後守源朝臣忠英寄進の石燈籠

 奉献 石燈籠 一座
 武州東叡山
最樹院殿 尊前
 文政十丁亥年二月廿日
  林肥後守源忠英

最樹院は第11代将軍徳川家斉(いえなり)の父、治済(はるさだ/はるなり。御三卿一橋家)の法諡。
文政10年(1827)2月20日に治済が亡くなり、3月5日に江戸東叡山(東京都台東区上野の寛永寺)に葬られた。
そして将軍家斉の寵臣であった林忠英(上総国貝淵藩1万石の祖)が、この石燈篭を最樹院殿の宝前に寄進したのである。

文政12年(1829)9月には忠英は最樹院の贈官宝塔内の銅位牌を鋳直させ、鋳物師椎名伊予に金十五両を与えた記録があり、その後も幕府の葬事や法会等の事務を管理している。

その後戊辰戦争を経て更に近年の開発で徳川家の墓域が潰された折に、その場に在った石燈籠は払下げられ、各地の寺院に譲渡されることとなった。
奇遇にも、富津市大堀の明澄寺の本堂新築の工事担当の鈴木工務店(東京都)が寄贈しようと運んでいたなかに、林忠英に因むこの石燈篭が見つかったという。

昭和25年(1950)8月30日、ここ忠英ゆかりの地の貝渕日枝神社(現木更津市文京)に献納された。

石燈篭西に三日月 04石燈篭東に丸 05石燈籠の解説

▲中央に火袋、前2面に徳川将軍家の三つ葉葵紋、西に三日月、東に円の浮彫り

貝渕日枝神社山王宮の鳥居 貝渕日枝神社

▲山王宮の鳥居と日枝神社拝殿

所在地:千葉県木更津市文京六丁目10番16号 日枝神社境内

請西藩林家と献兎乃記念碑

献兎乃記念碑と道祖神 献兎乃記念碑

献兎乃記念碑(木更津市上根岸の八坂神社)
徳川家の代々御嘉例(めでたい吉例)として林家が兎を献上し、年始の儀式で兎の吸物を共に祝った。
江戸時代の儀礼では正月元旦、白書院(儀式時の将軍出御の間)の上段に将軍が着座し、土器(からわけ)に盛った汁無しの兎の吸物と御酒を三方に載せて下され、吸物は足打膳に載せて御三家及び大廊下詰の諸侯に下された。礼者は、三献又は一献頂戴し、吸物の兎肉を各々白紙に包み、懐中にして退下する。
また老中、若年寄も登城して、政所に出づる以前に兎の吸物にて御酒三献を厨を掌る者が勤め、大目付の者が相伴する。

 

■献兎賜盃の発祥
家康より9代の祖先の得川有親(ありちか。世良田とも)は足利持氏(第4代鎌倉公方)の近臣であったが、永享10年(1438)6月の乱で持氏が敗北してしまう。有親は二郎三郎親氏(ちかうじ)と供に鎌倉を逃れ、故郷の上野国新田(群馬県の旧新田郡)世良田村得川へ帰る。しかし国許も安穏とは言えなかった。
永享11年(1439)3月上旬に有親父子は上州を去り、相模国(神奈川県)藤沢の清浄寺で剃髪し、有親は長阿弥(ちょうあみ)、親氏は徳阿弥(とくあみ)の名で出家する。
10月に藤沢を発ち、12月に信濃国に至る。
そしてかつては同じように持氏に取り立てられていたが讒言に遭って林郷に隠れ住んでいた小笠原長門守光政を頼って身を寄せた。

歳の暮れの29日、隠遁中で大したもてなしもできないがせめて正月の膳は豊かにしようと光政は、有親父子のために雪深い山に入る。冬場で得物の姿は無かったが、奇跡的に一疋の兎が現れ、持ち前の弓の腕で見事に狩ることができた。
翌正月元日朝、麦飯に田作の膾と兎の吸物を供した。

4月下旬に有親父子は三河国に渡り坂井郷に寓居する。この地で有親は亡くなった。
親氏は還俗して加茂郡松平村の豪族に婿入りして家を継ぎ、松平太郎左衛門と名乗り松平家の祖となる。
家を興した親氏は光政を召抱えた。
光政は親氏から林姓と丸の内三頭左巴の家紋を授かり、東三河の野田郡に居住した。

三河では長篠の菅沼の郷侍土岐大膳が親氏の敵となり、光政と協力して攻め落とす。土岐大膳は菅沼小大膳と改名して味方となる。
その後親氏は隆盛し、林郷で兎を供されたことが松平家の開運の基として代々年始の祝宴の儀となる。兎を狩った地も「兎田」として免租を許された。
一番に盃を頂戴し、御盃を一番下に置かれる儀が、林家家紋の丸の内三頭左巴の下に、一文字を加えた由来とされる。
※松平家・林家の開祖は伝承の域で、他の系譜史料との年代の違いがあります
 

■献兎賜盃の中断と再開
光政の子光友以降も林家は松平家古参の譜代としてよく仕え──三州の五本槍(岩津、安祥譜代衆者の一つとする説もあり)、光政から4代目の忠満岡崎五人衆とされ──戦功をあげた。
永禄9年(1567)家康は松平から徳川に改める。
天正18年(1590)8月から家康が関東に移封となっても翌年の正月には献兎賜盃の御祝は行われ、林家は白銀三十枚と呉服を拝領している。
                            
光政から6代目の林藤五郎忠政は17歳で眼病を患って勤めが困難になり、毎年行われていた御盃頂戴と兎献上の儀を辞して、領地に籠居したため嘉例は一時中断された。

文政8年(1825)第11代将軍徳川家斉に重用され林肥後守忠英(光政から14代目)が1万石に加増されて大名となる。
文政9年(1826)11月18日、忠英は嘉例再開を願い「兎御献上之儀留」を差し出しだ。
これを許されて、以降は領地の上総国望陀郡上根岸村(現千葉県木更津市上根岸)で兎を用意した。

●上根岸村の兎捕り
上根岸村では毎年12月初旬から30戸の村人達は藩から拝受した狩猟網を使い、公儀の「御兎御用」の旗を立てて貢物の兎の捕獲をしてた。
毎日二三里の山野で探し、あるいは小高い丘の山岸に罠を張って兎を追い立てて、5疋を得ると生きたまま御用かごに入れて担がせ、江戸藩邸の林侯に貢いだ。
運搬中は帯刀を許されて士分となった村役人が付き添い、上根岸から姉ヶ崎までは村人が担ぐが、姉ヶ崎からは宿場ごとに人足を継立てて、市川の御番所では番所役人はひざまずいて敬礼し、江戸川・中川を渡る時は特別仕立ての船を一艘用意して一般の乗客は許されなかった。
林侯は12月29日までに官府に献上する。
上根岸村には林侯から褒賞として毎年米一石を下賜される。

兎の彫刻 兎瑞兎奇談の兎
▲献兎乃記念碑に刻まれた兎と元の画

碑文※原文は註釈等無し
昔、徳川将軍家にて元旦の吸物に兎を用ひたる慣例は三河後風土記・瑞兎奇談等の文献に徴すべく、普く人口に膾炙したる(人々の話題にのぼって持てはやされ広く知れ渡る)事実也。
而して眇たる(そして小さな)我上根岸の里は、幾百年の久しき此兎を献納したる歴史を有する処、由来は遠く家康公九代の祖有親と其子親氏とが、故あって信州林郷なる林藤助光政の家に客たりし、其歳も尽きんとし光政雪中に兎を狩り、之を翌永享十二年元旦の吸物として供せしが、不思議にも有親父子開運の基と成り、終[つい]に家康に至って覇業を遂げたる故、徳川家に在りては無上の吉例として永世絶つことなかりし者也。
扨[さて]家康大将軍と為り、林氏も恩賞に預り、後年一万石諸侯の班に列したれど、乱夷ぎて先づ授與されたる采地三百石の旧此村は林家の宗領地とて、啻(ただ。強調)に献兎の命を蒙りたるのみならず、新年の賜宴には領内の首坐[座]を占め、御倉開の式は我村人の手にて行ひ、又名主は世襲ならで公選なりし等、治者被治者の間に隔なく、師走に入れば公儀への御用として、葵の旗に給附の網にて、遠近兎狩に何憚[はばか]る処なく、五口を揃へ駕籠に乗せ、附添の名主は両刀を佩し、供一人を具し、姉崎迄[まで]は村人夫に、同所より沿道人夫に舁[か]かせ(運ばせ)、道中威儀正しく、其月廿日に江戸九段の林侯邸へ送り附くるが恒例にて、為めに年米一石を給せられ、幕末迄踏襲したる美談なるも、星移り物換り、今は當[当]時を記憶する村の老人も残り少なに成り、可惜(あたら。惜しいことに)郷土誌も後世忘れらるべきを憂ひ、今歳卯年に因み、一は青年子弟の為め、一は世道人心の為め、我等識る処を録し、痩碑を樹つること如此[かくのごとし]  昭和二年丁卯三月 米崖松﨑九郎平撰

※献兎の永享12年に光政との関係は確証できず、別の代の逸話である可能性も示唆されている。

毛詩の国風 裏には『粛ヽ兎罝 施于中林 赳ヽ武夫 公侯腹心
粛粛たる(しゅくしゅく/引き締めた)兎罝(としゃ/罝は網)、中林(ちゅうりん/林の中)に施す。
赳赳たる(きゅうきゅう/勇ましい)武夫(武人)は、公侯(周の文王)の腹心(心と徳を同くすること)。

毛詩(詩経)の国風(諸国民謡編)の文王の徳化の盛んな様子を詠んだ詩が、徳川と林家の古事と重なるとして引用している。
粛粛兎罝は雪中に兎を得たこと、施于中林は信州林郷に住居すること
赳ヽ武夫は光政の武勇が優れていたこと、公侯腹心は互いに忍び暮す境遇の時に力を合わせ、そして徳川家が戦乱を収束し太平をもたらし、ついに林氏の武名を世に輝かせたことに比べているという。

上根岸八坂神社 三頭左巴紋
▲八坂神社
祭神:須佐之男命、奇稲田姫命、八柱御子神
地元では天王さま(牛頭天王・須佐之男命)と呼ばれていたようだ。
手洗い石の大きな三つ巴紋は、林家の家紋(丸の内三頭左巴下に一文字。請西藩ページに画像あり)が初めは盃に因んだ一文字が無かったともされるのを思わせるが、これは八坂神社の神紋の三つ巴紋であろう。

富士塚 立像庚申塔
富士山を模して石を積みあげた富士塚。富士大神の石は明治期のもの。
石像が彫られているのは庚申塔。

児守神社等摂社 上根岸橋と小櫃川
お社の裏手の左右に児守神社等の摂社。献兎乃記念碑の傍らにある石祠は道祖神。
神社の傍らに流れるのは上根岸橋の架かる小櫃川。

八坂神社所在地:千葉県木更津市上根岸171

参考図書
・井原頼明『禁苑史話
・『木更津市史
・『君津郡誌
・大畑春国『瑞兎奇談』
・『三河古書全集』
・小野清『史料徳川幕府の制度
※他、郷土史料として別途まとめます