現在、木更津市の太田山公園(恋の森)にある郷土博物館金のすずで企画展「請西藩林家が遺したモノ」が開催中です。
新資料の公開もあり、林忠英の時代から幕末動乱期、そして明治以降の男爵林家の歩みの軌跡を辿ることが出来ます。
前期は4月26日まで、写真の展示が変わる予定の後期は4月28日~6月15日(県民の日は無料)までとのこと。
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以下自分用の備忘メモ。
—–江戸時代・林家の隆盛——-
◆家紋付き革製書箱
◆林日記[文政9年(1826)・林忠英]
…林肥後守忠英(ただふさ。貝淵藩主)の記。林家中祖林藤助の、有親・親氏親子への兎の吸物の由等
◆兎御献上之儀留[文政9年・林忠英]11月18日の直筆
◆林氏系譜[寛延3年(1750)・林忠久]
…序、寛延3年2月従五位大守大学頭林信充(のぶみつ。榴岡。儒学者林羅山の家系の林家4代)撰文
◆林氏系譜[弘化3年(1846)9月・林忠旭]
—–伏見奉行・林忠交———–
◆拝領物留記[嘉永7年(1854)・林忠交]
…林家4代忠満~15代忠旭までの当主が拝領した品々の記録
◆老中奉書[安政6年・林忠交宛]11月1日朝8時に西の丸の参上を命じられる
…老中の脇坂安宅(わきさかやすおり。播磨龍野藩主)・松平兼全(まつだいらのりやす。三河西尾藩主)・間部詮勝(まなべあきかつ。越前鯖江藩主)より
◆褒美書付[慶応2年頃・林忠交宛]
…元治元年、林肥後守忠交(ただかた。忠英の四男。請西藩2代藩主)が伏見奉行の時に長州藩士が伏見に滞在中に取締った与力見習い15人に銀5枚、同心52人へ金300疋の褒美
—–大奥の老女・万里小路局—–
2代目万里小路局は、池尻(いけがみ。藤原四家北家の出とする)氏の寿賀姫は大奥に仕え、徳川11代将軍家斉の寵臣林忠英が義舅となる縁もあり、天保7年に24歳で上臈の局となり万里小路(までのこうじ)と称した。
元治元年に大奥を辞し、林忠交の江戸浜町請西藩邸のもとに移り、忠交の急死後はその後を継いだ忠崇の請西を隠棲地とした。
◆長樂寺の欄間・釘隠し
…長楽寺(木更津市請西)は万里小路局を本堂脇の離れ(真武根陣屋の部材を解体・移築したとも)に迎える。昭和40年本堂改築のため解体しこの請西藩に因む兎が描かれた欄間等が保存された。(伊八か)
◆徳川4代の「戒名」「位牌・葵紋付厨子」
…11代将軍徳川家斉(いえなり)・12代家慶(いえよし)・13代家定(いえさだ)・14代家茂(いえもち)の4代。万里小路所持とされる。厨子の台座部に、萬里小路大姉墓誌を写した状。
—–林忠崇と戊辰戦争出陣——-
◆戊辰出陣記[林忠崇]
…慶応4年(1868)戊辰閏4月5日の万萬小路局より長楽寺万丈を使いとして護摩札・供物等を贈られた件。万里局は徳川への忠義のため挙兵した忠崇(ただたか。万里局と縁深い忠英の孫にあたる)に軍用金等を送るなど支援した。
◆林忠崇の短歌「降伏待刑」
真心の有か無きかは屠りいたす
はらの血しほの色にこそ知れ 昌之助
—–家督再興——————-
◆家臣から弁事役所に宛てた嘆願書[慶応4年~明治2年(1869)]
…鵜殿伝右衛門・田中兵左衛門ら家臣
◆御家名御再立一件[明治2年]
…小笠原長国(ながくに。肥前唐津藩知事)の願出先の太政官や東京府の書状
◆小笠原家から宮内大臣子爵土方久元への林家華族編入嘆願書[明治26年(1893)6月]
…伯爵小笠原忠忱(ただのぶ。宗家11代。豊前国小倉藩藩主)、子爵長育(ながなり。東宮侍従)・貞孚(さだざね。播磨安志藩藩主)
◆家名相続に付嘆書類 写し[明治2年]
◆忠弘(ただひろ。忠交の子、忠崇の弟)の花押[明治2年10月]
◆士族編入指令書受取書 写し[明治32年(1899)] 千葉県知事阿部浩 東京都四ツ谷区左門町廿七番地 林忠崇殿
◆旧藩士復籍願参考書[明治5年(1872)]必要書類
…伊能・北條・北爪ら家臣復族について
◆林忠弘 華族に列す[明治26年10月30日・宮内省特旨]
◆爵位慶与
◆御達并進達留[明治8年(1875)2月~明治10年12月]林忠弘宛証文
◆士族編入に関する許可証[明治32年] 東京府知事千家尊福(せんげたかとみ)
◆林忠弘宛書状・林家再興始末略[明治26年・広部精(くわし)]
◆特別縁故者姓名録[明治27年(1894)1月10日・林忠弘]
…北白川宮能久親王(よしひさ しんのう。輪王寺宮)、伯爵小笠原忠忱、勝海舟、榎本武揚等や、旧請西藩家臣の広部精・大野友弥等支援者の名簿
◆士族編入願[明治31年・北爪家]
◆士族編入につき辞令拝受[明治32年・加納佐太郎等12名]
—–華族として—————–
◆位記[明治36年(1903)11月30日]宮内大臣田中光顕(みつあき)
◆忠弘の長女の錬(れん)と曽我友兄の婚姻許可証[明治41年(1908)7月28日]
◆忠一の東京帝国大学卒業証書[明治43年(1910)7月11日]
…忠弘の長男(長男夭逝につき)の忠一(ただかず)は学習院高等科を経て、明治43年に東京帝国大学法律学科(ドイツ法)を卒業
◆華族戒飭令[明治44年(1911)12月27日]伯爵渡辺千秋(ちあき)
◆忠一宛の大礼記念章証書[大正4年(1915)11月10日・昭和3年(1928)11月16日]
◆辞令[大正元年(1912)10月2日]陸軍省から理事試補林忠一宛
…忠一は帝国大卒業後志願兵として近衛歩兵第二連隊に1年在籍後、近衛師団経理部を経て陸軍第二師団法官部付理事試補になる。
◆理事叙任状[大正4年5月7日]内閣大隈重信より
…忠一は第二師団法官部付きから第十師団法官部付きへ
◆家督関係資料[大正6年(1917)1月31日]前年忠弘死去につき爵位相続
◆大饗夜宴招待状[昭和3年(1928)11月1日]宮内大臣一木喜徳郎(いちききとくろう)
…天皇即位で折京都御苑内の夜宴
◆位記 叙従四位[昭和19年(1944)12月1日]宮内大臣松平恆雄(つねお)
◆当選証書[昭和21年(1946)]
…5月11日忠一は貴族院男爵議員に当選
◆第90回帝国議会貴族院議員氏名表[昭和21年]
—–林家の写真(前期展示)—–
◆明治8年・28歳の林忠崇
…芝三田通り(慶應義塾前)で撮影
◆慶応4年(西暦1868年5月)林忠崇出陣姿
…原版からの複写。お馴染みの20歳の出陣姿。
◆大正3年頃、66歳の剣道着姿の忠崇
…よく書籍等でみられる写真。
◆忠崇の剣道の構え
…横向きで竹刀の二刀流?
◆林一夢、大阪天王寺の寺内で撮影。
…忠崇は林一夢を号する。和装の写真。
◆68歳の忠崇
…洋装の写真。
◆紋付袴着用の90歳の忠崇
…銀杯恩賜につき紋付羽織着用。お馴染みの写真。
◆昭和12年1月5日の集合写真。
…90歳の忠崇を中心に、恩賜の祝賀に来訪した人々との撮影か
◆一ヶ月の長女と忠崇・明治19年8月頃撮影か
…生まれたばかりの娘を抱く忠崇の口元は微笑んで見える。
◆忠崇の娘光子と日雇女
…傘をさしている。女中せつ子との撮影。
◆明治36年5月10日・光子
…簪をさした若い光子の和装。細面な忠崇に比べ丸顔の可愛らしい美人。
◆大正9年頃・32歳の光子
…本の置かれた机で
◆光子と愛犬エス
…室内の座布団の上で光子と共に行儀よく写る愛犬
◆忠崇の実妹の小山田律子
…記載は明治42年4月に錬(忠弘の娘)が記した。忠崇と似た細面の美形。
◆林忠弘・明治24年5月8日
…東京湯島撮影、お馴染みの写真。
◆忠弘の妻30歳の鋠(しん)、3歳の娘、15歳の女中のコト
…椅子に座り幼い錬を抱いて、三人での撮影
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書籍に掲載されているお馴染みの光子の写真は後期展示か。
──近代の人物について部外者が勝手に調べることが、趣味の範囲として許されるかがいつも悩む所です。
(特に旧飯野藩関連が廃藩後でも話題があるので。古い歴史人物でも、墓参とその撮影等できるだけ許可は得ているものの墓域に踏み込むのは毎度申し訳ない気持ちです…)
こうして資料を企画展の形で一般公開して下さる好意が本当にありがたいですね。