上総・安房の歴史」カテゴリーアーカイブ

上総・安房(千葉県の中~南部)地域の歴史

伏見奉行所と伏見奉行

江戸伏見地図伏見奉行所

北方に奉行屋敷。道路を隔てた西方(京町裏)と奉行所南方に与力・同心等の組屋敷があった。
北門は大阪町通りの突き当たり、南門は平戸橋北方弾正町の入口に設かれた。
立石門の北に御囲米倉、立石通突当りは庭口にあたり南矢倉を置く。
本郭は中央は役所玄関口、役所の後方に火見櫓があった。

伏見奉行所跡の碑 伏見奉行所址の古写真
伏見奉行所跡
歴史のある土地に合わせたデザインを取入れた桃陵団地の入口に碑が佇む。
伏見奉行所址の古写真を見ると立派な石垣の塀で囲まれていたことが分かる。

伏見奉行所跡の石垣 伏見奉行所と兵営舎の石垣パネル
付近に石垣が残る。案内掲示板の上写真は江戸時代の石垣、下は明治期に陸軍が奉行所前の道路部分を西へ広げて建設した石垣。

 

■伏見奉行の役目
伏見奉行は伏見及び八ヶ村の政務を行った。
訴訟に関しては京都町奉行・奈良奉行・大津代官と共に京都所司代の監督下に属す。

城下町の伏見は廃城後も宿場町として栄え、西国から京に入る伏見街道・竹田街道が通り、また山科盆地から東海道に合流する地点でもある交通・経済の重要な地であった。
※西国大名が朝廷との接触を避けるため、参勤交代の大名行列は京都ではなく伏見宿を経た経路を使わせたという
港町でもあり、石川備中守時代(1714~1720)からは宇治・木津・伏見の各川筋の船舶も伏見奉行が管轄する。

伏見奉行は大名(1万石以上)が多く、万石以下の者も他の奉行と待遇が異なり役料は三千俵を給され芙蓉間詰従五位に叙される。
与力(よりき。町奉行を補佐。現米80石)10騎、同心(どうしん。与力の下で見廻り等警備に就く。現米10石3人扶持)50人、牢番1人が属す。
伏見奉行から町民に公布する幕府の法令は高札に掲げ、幕府の触書や奉行所の掟触書は奉行所詰合町村役人総代与頭に必要な分を写して更に各組で一通ずつ回達させた。常時掲げる重要な御高札場は京橋北詰西側に設けられた。

伏見奉行所の古図

■歴代伏見奉行
慶長5年(1600)9月の関ヶ原の役後、伏見は松平下野守忠吉(ただよし。家康4男)の支配下となり、忠吉の舎人の源太郎左衛門が新たに開いたとされる。伏見には伏見城の城代と奉行二人が置かれた。
慶長7年(1602)~元和元年(1615)の両奉行:柴山小兵衛定好長田喜兵衛義正
元和元~5年(1619)の両奉行:門奈左衛門宗勝山田清太夫重次
元和5年8月に伏見城が廃されて城代が無くなる。奉行に任じられた山口駿河守直友以降は1人(寛文5~8年までは3人か)となる。

元和9年(1623)12月に小堀遠江守政一(こぼりまさかず。小堀遠州/えんしゅう。松山藩第2代・近江小室藩初代藩主。遠州流茶道の租)が伏見奉行となる。
それまで奉行所は清水谷(しみずだに。旧堀内村。御陵石段下あたり)に在った。
寛永2年(1625)7月に豊後橋(現観月橋)の北の富田信濃守邸跡に伏見奉行所を築き移転。9年に緑と水が豊かな伏見の景観に合う風雅な館舎が完成した。
11年(1634)7月の将軍徳川家光上洛の折に家光は新築の奉行所屋敷に入り小堀遠州に茶を所望し、立派な庭園を賞賛した。
正保4年(1647)2月6日に69歳で亡くなる。

正保4年3月1日~寛文9年(1669)4月10日までの伏見奉行:水野石見守惟忠貞
この間の寛文5年(1665)7月6日~8年(1668)7月13日に宮崎若狭守政泰・雨宮対馬守正胤も名目上の奉行に任じられるが京の役宅に在り、両者は京の司法を任され京町奉行の初代(宮崎は東町、雨宮は西町)となる。

寛文9年7月3日に千石因幡守久邦が伏見奉行に任じられ、天和元年(1681)10月21日伏見で死去。
天和2年(1682)正月11日~貞享3年(1686)11月11日までの伏見奉行:戸田長門守忠利
貞享3年11月11日岡田豊前守善次が伏見奉行に任じられ、元禄7年(1694)2月13日に死去。
元禄7年3月28日~9年(1696)正月15日までの伏見奉行:青山信濃守幸豊
元禄9年~11年(1698)まで京都町奉行が分任。

元禄11年11月15日に再び伏見奉行を置き、建部内匠頭間政宇に任じる。
在任中に土地開拓を進め、中書島を開拓し蓬莱橋・今福橋(現在は埋立)が架かる。

正徳4年(1714)7月11日に石川備中守總乗が伏見奉行に任じられ、享保5年(1720)5月24日に病没。
享保5年6月~19年(1734)10月15日の伏見奉行:北條遠江守氏朝
享保19年10月20日~延享3年(1746)3月1日までの伏見奉行:小堀和泉守政峯(まさみね。小室藩第5代藩主)
延享3年3月1日~宝暦元年(1751)10月15日までの伏見奉行:管沼織部正定用
宝暦元年10月15日~8年(1758)11月18日までの伏見奉行:堀長門守直寛
宝暦8年11月18日に久留島信濃守光通が伏見奉行に任じられ、明和元年(1764)9月4日に死去。
明和元年10月15日に本多対馬守忠栄が伏見奉行に任じられ、安永7年(1778)9月20日に死去。

安永7年11月8日に小堀和泉守政方(まさみち。政峯7男。小室藩第6代藩主)が伏見奉行に任じられる。過去に奉行を務めた小堀家として期待されながら翌年2月27日に伏見に着任。
天明5年(1785)9月16日に後に伏見義民と称される町民達が政方の悪政を直訴し12月27日に罷免となる。      
政方は田沼意次に協力的であったため松平定信の粛清を受けたとみられ、その後親子で改易となった。

天明6年(1786)1月21日に久留島信濃守通祐(光通の子)が伏見奉行に着任し、京の東町奉行所で京町奉行丸毛和泉守政良と共に直々に、前任の奉行側と入牢中の九助ら多くの取調べをした。
寛政3年(1791)5月13日に死去。

寛政3年5月24日~7年(1795)12月8日までの伏見奉行:本荘甲斐守道利
寛政7年12月12日~12年(1800)12月28日までの伏見奉行:松平但馬守昌睦

寛政12年12月28日に加納遠江守久周が伏見奉行となる。
この頃の伏見奉行邸宅内には藤花があり、仙洞(せんとう。退位した天皇)の御覧に供す。文化4年(1807)12月20日解任。

文化5年(1806)3月~7年(1810)まで京都町奉行が分任。
文化7年10月24日に本多大隅守政房が伏見奉行に任じられ、11年(1814)10月30日に死去。
文化12年(1815)正月11日~文政2年(1819)8月8日までの伏見奉行:丹羽長門守氏昭
文政2年8月24日に仙石大和守久功が伏見奉行に任じられ、6年(1823)3月4日に死去。
文政6年3月24日~10年(1827)9月12日までの伏見奉行:堀田加賀守正民
文政10年10月12日~天保4年(1833)6月までの伏見奉行:本庄伊勢守道貫

天保4年6月24日に加納遠江守久儔(ひさとも。上総一宮藩初代藩主)が伏見奉行となり10月1日に着任。7年(1876)天保の大飢饉の被害を受けて大坂から伏見に毎日40石の給米。
天保8年(1837)2月の大坂町奉行所の元与力大塩平八郎の乱の際は与力・同心達を率いて東町奉行役宅に入り応援した。

天保9年(1838)9月24日より内藤豊後守正縄(まさつな。信濃岩村田藩第6代藩主)が伏見奉行となり12月23日着任。荒地を利用した利益を諸費用に宛てがい、桑栽培の奨励等の産業促進や、疫病の流行時は自らの資財で薬を施する等の善政を行った。安政5年(1858)に城代格に昇格し京都御所取締兼務を命じられる。安政6年(1859)8月11日に解任。

安政6年8月28日に林肥後守忠交が伏見奉行となり、寺田屋での坂本龍馬の捕縛の指揮等を執るが、慶應3年(1867)6月24日に死去(京の激動期の急死のため5月24日から一ヶ月黙されていた説あり)
※奉行時代は「請西藩第2代藩主林忠交-最後の伏見奉行」記事参照
以降伏見奉行所を廃し、維新後に奉行所が廃止となるまで京都町奉行の支配となる。

 

■明治以降
慶應4/明治元年(1868)正月3日の鳥羽伏見の役で、伏見方面の戦いでは薩摩軍が御香宮神社に陣を布き、会津藩兵と新撰組隊士ら幕府側が入った奉行所に官軍の砲火が浴びせられ、奉行所は焼け崩れた。
明治4年(1871)に親兵(後に近衛兵に改称)が置かれ、10月の東幸と共に東に移り、以降荒廃した。
明治5年(1872)兵制改革で第四師団大津歩兵第九連隊の分営の鎮台(陸軍屯所)となる。
明治19年(1886)5月20日に第四師団工兵第四大隊の兵営となり、第十六師団の深草に設置となると共に明治43年(1910)3月22日に第四大隊は攝津高槻に移り、新たに工兵第十六大隊の兵営地となった。
第二次世界大戦後は米軍に接収され米軍キャンプ場となり、後に日本に変換されると市営住宅が建ち今の桃陵(とうりょう)団地となった。
伏見奉行所跡周辺 伏見工兵第十六大隊跡の碑
伏見工兵第十六大隊跡の碑
左手にある桃陵団地の歴史解説掲示板の上の笠石は陸軍時代の門に使用されていた石。
※地図はクリックで拡大。古絵図との比較なので誤差あり

常盤就捕處の碑 大正時代の伏見桃山地図
常盤就捕處の碑
『頭角藏懐未嶄然 龍門母子此迍遭 老椎獨在興亡外 雪辱風餐八百年
 従四位勲二等岩崎奇一題』
この地の東の常磐町は源義朝の妻常盤御前ゆかりの井戸が由来とされ、牛若丸ら3人の子を携えた常盤御前が平清盛の捜索者にここで捕われたとして明治44年に建立。
平治物語には常磐は伏見の伯母を訪ね、伏見から大和宇多郡龍門へと伯父を頼って行く話がある。

維新戦跡碑 現代の伏見との重ね

京都市立桃陵中学校に維新戦跡と伏見奉行所跡の碑があり(見学許可必須)この校舎辺りに与力・同心の組屋敷があった。
伏見公園運動施設辺りが庭口、中学校グラウンド辺りが役所の敷地の南にあたる。
また市営団地建設の際に小堀遠州が手がけた奉行所の庭園の一部が見つかり、昭和32年御香宮神社に庭園の石を移して庭園が再現されさた。境内には伏見奉行が献納した燈篭もある。

「伏見奉行所跡の碑」所在地:京都市伏見区奉行町の市営桃陵団地内

享保の打ちこわしに遭った高間伝兵衛

高間橋西向き 高間屋敷方面

▲周淮郡常代村(君津市常代)に屋敷を構えた高間傳兵衛(伝兵衛)に因む高間橋
高間橋がかかる宮下川の西、右写真方面に12町歩(発掘調査では屋敷全体は1586坪)もある高間屋敷があった。
俗謡「あんば常代高間どんすぎなりお笠で紙鳶揚げるお雪さんに見せよと紙鳶揚げる」は敷地内の4反歩もの大きな池に屋根船を浮かべて愛妻(もしくは妾)を乗せ、舟から紙鳶(たこ)を揚げて喜ばせたという豪勢な様子を歌ったものと伝わる。
※上総国(かずさ、千葉県)周淮(すえ)郡周南(すなみ)村は明治22年の町村制施行で常代(とこしろ)村等周辺の村々が合併。その後周淮郡は君津(きみつ)郡となる

 

高間伝兵衛は、米将軍と呼ばれ享保の改革を行った第8代将軍徳川吉宗、将軍を支え江戸の町から米価引下げの懇願を引受ける町奉行大岡越前守忠相らのもとで米方役に任命され米価調整を担った豪商である。
※米方は御蔵渡り米を領査し、札旦那御入米拂米を定め、請取方賈方に取り扱わせ指図し、米代金を領収する。
米価が上がれば手持ちの米を安く売り、米価が下がれば大量に買い入れることで相場を安定させた。
武士の役人だけでは捌けず、伝兵衛のような商才ある町人を抜擢したのだろう

元禄16年(1703)6月付けで周淮郡(君津市)の猪原村と市場村の名主が伝兵衛に宛てた請求書が残されていることから、初代から数代の間の伝兵衛(代々「伝兵衛」を名乗っていた)は周淮で米穀を扱い、年貢・俸禄米を担保にした貸付やを行っていたと推測されている。
享保(1716~)初期には江戸に出店し、日本橋伊勢町(東京都中央区日本橋本町1丁目。橋の日本橋の東)に24棟の米蔵(出入口が1棟に2つ有り、いろはの48組の符号がついていたためか48棟の記述も多い)を持ち、側の本船町に「高間河岸」を設け、て大いに繁盛した。

江戸橋 木更津河岸と高間河岸

高間河岸の位置と現在の江戸橋
日本橋と下手の本船町にかかる江戸橋との間の南岸の土手倉(防火のため東西二町半に、石を畳揚げて屋根で覆った封疆蔵が置かれていた)が並ぶ四日市の西側に幕府に認められた木更津河岸があり、廻船の五大力船(ごだいりき。木更津船)が行き交っていた。上総との運送が盛んな所である。
※現在の江戸橋は昭和2年の昭和通り開設で90m程上流に移っている

 

享保15年(1730)9月12日、豊年が続き米価の下落を止めるため幕府は伝兵衛他8人の米殻商に上方米(かみがたまい)の独占取引権を与え買入れされる。

享保16年(1731)に幕府は米殻商へ安売りを禁じる。
7月に幕府は米方役の伝兵衛を大坂に派遣し買米(かいまい。幕府の買い上げ)、二付銀子を被下。

享保17年(1732)享保の大飢饉。夏に西日本が冷害に見舞われ蝗が大発生し、翌年まで餓死者が相次ぐ。
幕府が昨年買入れた米や東国産の米を西国に送り救援したため江戸でも米不足となって米価が上がり、庶民が困窮した。

享保18年(1733)1月23日、伝兵衛は高騰した米価を下げるため幕府に安価で備蓄米二万石を府下に売りに出すことを願い出て、許される。

しかし江戸市人は「米価が昂騰したのは、幕府と癒着した米商の高間傳兵衛が府内の米を大量に買占めて蓄えているせいだ」と噂を立てた。

世相を伝兵衛と大岡越前にかけた狂歌

「米高間 壱升貮合で粥にたき
 大岡食はぬ たった越前」

米が高く(高間)て銭百文では一升二合しか買えないのでお粥にしたが
多く(大岡)食べられず、たった一膳(越前)だけだ

実際は伝兵衛の備蓄は米価調整のためであり、23日の行動からすると私欲で溜め込んでいたわけではなかったが、米方役として米価を左右し江戸吉原を3日間貸切るという豪遊も伝わる富んだ伝兵衛に対して庶民は「私欲で米穀を買占め高値で売っている」と疑っていたようだ。

そして26日の夜、町民達が1700人あまり(4千人と記すものもある)集まり党を結び、伝兵衛の本船町の店(たな)を襲撃して打ちこわしを決行。家財は砕かれて前の川へ捨てられた。

町奉行が属吏等を出動させてようやく騒動を鎮め、打ちこわしを先導した首魁を捕らえた。
首魁4人のうち1人を重遠島、3人を重追放とした。

この日、高間一家は母の住む上総周南の高間屋敷に居たため暴動に直面するのを免れた。
伝兵衛は打ち壊しに遭いながらも翌月には、米二万石を五升安で売却することを上申している。

…この高間騒動は江戸で初めての打ちこわしともいわれる。打ちこわしは幕府権力への反抗と悪徳商人の摘発を目的にしたため、現代の時代劇などでは伝兵衛が噂通りの悪い商人として描かれることが多い。
また講談「姐妃の於百」歌舞伎「善悪両面児手柏」等で毒婦として着色されたお百は『秋田杉直物語』で、お百=おりつは宝暦7年(1758)の秋田騒動で夫が仕置きとなった後に、高間伝兵衛の甥の高間磯右衛門の妾になったとする。

 

享保20年(1735)7月19に伝兵衛が病死。代替わり上申。
11月に新しい代の高間伝兵衛が米方役に任命される。※以降の記事は跡を継いだ伝兵衛の事

延享元年(1744)米価が下落し、米価引上げのため107人の米殻商に買米を10等級に分けて割り当てた。伝兵衛は最高等級の5万石である。

延享4年(1747)播磨明石藩蔵元となる。

この頃財政難の播磨姫路藩の松平家は「姫路藩の大坂廻米の売却を許す」条件で伝兵衛に融資させていたが、松平家が条件を一方的に破り、伝兵衛の姫路藩蔵元役を罷免し蔵元制度(専売制度)そのものを廃止するに至ったとされる。

寛延2年(1749)11月12日、伝兵衛は米方役辞任。

その後、天保3年(1832)から嘉永(1848~)頃、伝兵衛と分家の伝右衛門(江戸小網町一丁目に店を構えていた。小網町の河岸も房州への海運が盛んだった)は武州川越藩松平家の御用高として仕えた。伝兵衛は20人扶持があてがわれた。

 

しかし明治になって諸大名へ貸付けていた分が回収できなくなり経営不振に陥り、高間屋敷は親族の松本氏の名義となり母屋は青堀(富津市)方面の人に売却。
表の平治門は大正3年頃に周南村(君津市大山野)の渡辺由太郎氏に払い下げ、長屋門も改築となった。

 

高間家の菩提寺は貞元字八幡所の豊山派満隆寺(過去帳に伝右衛門等記載)
墓は常代の共同墓地。墓には丸に葉柏の家紋が刻まれている。

参考図書
・『享保撰要類集』
・『東京市史稿 産業篇第17
・『国史大辞典7』土肥鑑高「江戸の米屋」「正米商」
・『君津郡誌
・『コンサイス日本人名事典
・幸田成友『日本経済史研究
・『列侯深秘録
・『有徳院殿御実紀』
・古屋野正伍『都市居住における適応技術の展開』
・君津市文化協会『呦々4』
・西上総文化会『西上総文化会会報53』
・君津郡市文化財センター『年報11』
・『会報21』菱田忠義「豪商高間伝兵衛関係の文書」
・『房総文化18』『常代遺跡群』『すなみふるさと誌』
・『江戸名所図会』

士魂商才の小柳津要人

M35小柳津要人の写真 小柳津要人(おやいづ かなめ)
士魂商才」は、福澤諭吉が「元禄武士の魂を以って大阪商人の腕ある者、即ち西洋のマーチャント(商人)の風ある者は小柳津要人」と評している通り士魂商才の新語を創って小柳津にあてた、または丸善創業者の早矢仕が番頭の小柳津の人柄に対し表した言葉とも伝わる。
徳川の恩義のため戊辰戦争を戦いぬいた後、丸善と出版界の発展の大きな力となった小柳津に相応しい言葉である。

 

■岡崎藩の西洋流大砲方として江戸へ
弘化元年(1844)2月15日に三河国額田郡岡崎で岡崎藩士小柳津宗和の長男として出生。母は光子。
要人は小柳津家の九代目。

岡崎藩(5万石)は三河国額田郡岡崎(愛知県岡崎市康生町)の岡崎城(徳川家康の出生地)を居城とし、この時の岡崎藩の藩主は本多忠民(ほんだただもと。美濃守、中務大輔。万延元年/1860に老中)。
忠民の本多家は本多平八郎忠勝を租とし、徳川譜代の重鎮であったため、子弟教育は厳しく幼くして武士としての教養を身に付けさせていたという。
小柳津も本多忠勝の遺訓「惣まくり」を生涯の信条としていた(總捲、残らず論じる意味)

17歳で御料理の間詰として藩に出仕し、間もなく側役の御次詰となる。
この頃、先輩同輩と将来における洋学・漢学の是非を論じて小柳津は洋学を採る方針を固め、従来の武芸のほか洋式砲術も修練した。

文久3年(1863)3月、20歳でに岡崎藩西洋流大砲方として江戸詰を命じられ江戸に赴く。
江川英龍の「繩武館」に入り教授の大鳥圭介、箕作貞一郎(麟祥)に兵学・洋学の教えを受ける。
秋より幕府開成所に学び、英学得業士となって新しい知識を身につけた。

慶応2年(1866)4月に藩に呼び戻される。

 

■戊辰戦争では脱藩して箱根から箱館まで転戦する
慶応3年(1867)10月徳川慶喜上洛とともに岡崎藩本多家は伏見の豊後橋の警護を命ぜられる。14日に慶喜が大政奉還を上奏。
12月に小柳津は藩を脱して江戸に向かう。

慶応4年(1868)3月23日に藩主忠民は養嗣子の忠直(ただなお)を上京させ親子連盟の勤皇誓書を提出し恭順を示した。

徳川譜代の藩として恭順に対し反発も多く、小柳津は藩の上役で佐幕派である儒者の志賀熊太(重職。重昴の父)に血判状を提出し、脱藩する。
和多田貢ら岡崎藩士23名で林忠崇・遊撃隊らが宿陣する沼津香貫村に至り、5月6日に加盟。第三軍に編入される。
26日の箱根山崎の戦の撤退戦で小柳津は左の脛を負傷。
その後も奥州を転戦し、更に榎本武揚率いる旧幕府艦隊で10月22日に蝦夷鷲の木へ上陸。11月5日に松前を落とす。

明治2年(1869)正月の仏式改編で遊撃隊の差図役となる。新政府に対しての和解案は受け入れられず、掃討のため4月に官軍が来襲し11日札前村付近で戦闘後、木古内に引揚。
20日に木古内に官軍千人ばかり押し寄せ火を放つ。この戦いで伊庭八郎はじめ負傷者が多く出て泉沢まで撤退。立て直すも追撃はなく22日に五稜郭帰営。
その後も抗戦するも5月11日に総攻撃を受け遊撃隊は桔梗野口で戦い小柳津は負傷する。その後に遊撃隊は五稜郭の表門を守備につく。

18日に榎本らは謝罪を決め、箱館称名寺で謹慎。称名寺で一泊し、翌日病院へ。
7月3日に出院して弁天台場に謹慎。
9月1日土州蒸気船の夕顔丸に乗り翌日出航。風模様が悪く南部釜石港に翌朝まで錨泊。
5日に品川着。
その後岡崎脱藩士は岡崎に呼び戻されて郷里で謹慎となる。

 

■英学を修め慶応義塾を経て丸善商社に入社
明治3年(1870)3月に謹慎を赦され東京へ向かう。
その途次に静岡──駿府に移封となった徳川家が人材育成のため駿府の学問所(静岡学問所)や沼津兵学校など教育機関を設立認可し、かつての有能な幕臣達が教鞭を執っていた──で沼津兵学校で英学教授の乙骨太郎乙(おつこつたろうおつ)のもとで英学を修め、また外山正一(とやままさかず。後に文部大臣)の知遇を得る(金拾円の援助を受ける)

東京で大学南校(開成所跡に開校した洋学校)に学び、後に慶応義塾(福澤諭吉の築地鉄砲洲の中津藩中屋敷に開いた蘭学塾が英学塾となり芝新銭座に拡大移転後慶應義塾に改称)に入る。

明治4年(1871)小柳津は藩の貸賃生であったが7月の廃藩置県に際し藩費が途絶えたので筑後柳河(福岡県柳川市)英学校の教師となる。
後に郷里の岡崎へ戻って英語を教授。

明治6年(1873)1月に横浜の丸屋に入り、書籍部門を担当する。
※慶応義塾生の早矢仕有的(はやしゆうてき。医師。美濃武儀郡笹賀村出身、幼名左京)が福沢諭吉の提案に基き明治2年1月1日横浜新浜町に和洋書籍と西洋医品を商う「丸屋」を創業。名義人を仮名の丸屋善八にしたため「丸善」と呼ばれるようになった。
小柳津について諭吉伝にも明治6年頃入社し丸善の基礎を成す大きな力になったことはその歴史上忘れるべからずものであろうと記されている。

明治5年11月9日に明治政府は太陰太陽暦から太陽暦(西暦、グレゴリオ暦)への改暦の詔書を発表し、明治5年12月3日を明治6年1月1日と定めた。
布告からひと月も満たない急な改暦に混乱する状況を見かねた福澤諭吉は太陽暦を庶民に受け入れやすく解説した『改暦辨』を急編。
改暦辨に明治六年一月一日発兌(はつだ、発行すること)とあるように短期作業のため三田の印刷所から刷りたてのバラ丁を丸善に運び小柳津ら社員大勢で綴じたという逸話もある。

9月9日に長男の邦太が生まれる。

明治9年(1876)8月7日に長女とくが生まれる。

明治10年(1877)3月大阪支店(北久宝寺町の丸屋善蔵店)支配人となる。
この頃から大鳥圭介・外山正一・志賀重昂など小柳津と面識や係りのあった旧幕臣の学識者の著作もしばしば出版されるようになった。

明治11年(1878)8月14日に次女の銈(けい)が生まれる。

※明治13年3月30日、東京日本橋通の丸屋善七店を本店とし責任有限「丸善商社」に改称。

明治14年(1881)5月12日に三女の京が生まれる。

明治15年(1882)7月に東京本店支配人となる。
旧岐阜藩士林有適らと丸善の経営改革、洋書の輸入に先鞭をつけ文明開化に貢献する。

7月に外山正一等の『新體詩抄』を出版。出版の相談を受けると小柳津が独断で丸善での出版を承諾。これが早々に売り切れるほど好評で多く売れたので「士魂商才」の商才…商売の道に誠実巧みな様子が窺える。

明治17年(1884)3月7日に次男の脩二が生まれる(田中家養子)
※この年、大蔵省のデフレーション政策により丸善銀行をはじめ閉店する銀行が相次ぐ

明治18年(1885)1月20日に銀行破綻の整理のため退任した早矢仕に代わり松下鉄三郎が社長に就任し、小柳津は取締役に選任される。
小柳津はこの丸善の危機に社長松下と供に社業の回復につとめた。

明治20年(1887)東京書籍出版営業者組合(後の東京書籍商組合)の創立の発起人に加わる。

明治21年(1888)12月18日の出版条例で奥付に実名が必要となったため、丸善出版代表者に小柳津の名を記載するようになる(退任する大正まで続く)

明治22年(1889)東京書籍出版営業者組合副頭取となる。

明治23年(1890)大日本図書株式会社創立に際し取締役

4月26日に4女の駒が生まれる※上に二人の夭折の兄あり

明治25年(1892)東京書籍出版営業者組合頭取となる(人望のためか明治42年まで在任)

明治26年(1893)丸善商社から「丸善株式会社」と改称。小柳津は取締役に選任。
2月27日に五男の宗吾(昭和5年~丸善監査役・15年~取締役・22年~社長となる)が生まれる。

明治30年(1897)専務取締役。

 

■専務取締役として丸善二代目社長の後を引き継ぐ
明治33年(1900)1月16日に丸善社長の松下が急逝し20日の取締役会で小柳津が後任に当選。三代目社長にあたるが定款により専務取締役として統括した。
2月25日に六男の六蔵が生まれる。

※明治34年2月3日に福沢諭吉、18日に早矢仕が死去。

明治35年(1902)5月7日 駒込メリヤス工場の名義人となる。
※この頃学校教科書の採用時の賄賂が横行し12月17日に関連会社が一斉検挙された「教科書賄賂事件」でも無関係なうえ新聞でも専務取締役小柳津の名が一度も出なかった。

昭和37年(1904)1月に小柳津は正金銀行が信用状を謝絶した事を銀行側に問いただしている。対露戦争に向けた資金を海外支店の政府の預金から引き出され為替金支払いの準備金が欠乏したためであった。2月に日露戦争勃発。
日本の連勝に国民の生活全般が軍国調になったが、小柳津が軍隊への献金・国債応募・軍人遺族の救済等日露戦争には協力的であった一方で「書籍の武装は断じてせず」と丸善店舗は通常通り文学や美術の良書を取り揃えていたたことを感心する声もあった。

志賀重昂が従軍記者として乃木軍中に在った『旅順攻囲軍』9月4日の項に、岡崎出身である第十一師団長土屋光春中将を訪ね、参謀長石田大佐の案内で戦線をめぐるった折に、露兵の落とした軍隊手帳2帖を贈られた。
日本兵なら軍隊手帳を落とすことは恥辱として肌身離さないが、露兵は複数人落としている。日本側は書きだしに天皇陛下より下賜された御勅論、以降軍人の心得を揚げるが、露側は全く精神上の教育について触れられていない。この比較は教育家として面白い倫理研究題材になるのではと、手帳の1冊を小柳津に贈りたい旨と小柳津の功績や人柄について語り合ったことが記されている。
土屋・石田・志賀の三人ともに小柳津のよく知る間柄である。

※明治41年4月5日に第一回名士講演会開催。講師に江原素六・海老名弾正。

明治42年東京書籍監査役に就任し帝都書籍界に重きをなす。

明治45年(1912)1月24日総支配人

大正4年(1915)3月31日 特別議員に推薦される。

大正5年(1916)1月24日に総務取締役を辞任し、相談役に就任。

大正8年(1919)6月に軽度の脳溢血を病む。

大正11年(1922)6月21日東京で死去。79歳。菩提所は谷中の加納院、おくつきは青山墓地。

※明治5年までは旧暦表記です

▼青山霊園(東京都港区南青山二丁目)の小柳津家の墓と側面

小柳津家の墓 墓石側面

参考図書
・『丸善百年史
・『三百藩戊辰戦争事典上
・須藤隆仙『箱館戦争史料集
・『丸善外史
・『岡崎商工会議所五十年史』
・小柳津要『遊撃隊戦記』
・富沢淑子『小柳津要人追遠』
・『慶應義塾百年史』
・福沢諭吉『改暦弁』
・志賀重昂『旅順攻囲軍』
関連・参考サイト
・丸善株式会社Webサイト:http://www.maruzen.co.jp/top/
・慶應義塾:http://www.keio.ac.jp

山中城跡と山中新田[1]

山中城跡公園 山中新田

▲山中城跡(やまなかじょうあと)と山中新田の道標
慶応4年(1868)5月、沼津藩下の香貫村林忠崇・遊撃隊らは待機していたが、東西での連携を企てていた彰義隊が上野で破れ、西の遊撃隊への警戒も次第に強まる中、人見勝太郎が旗下の第一軍を率いて箱根関門へ出陣する。
残る本隊も先鋒を追い三島を経て19日に箱根間近で要路にあたる豆州山中村に本営を構えたという。
伊庭八郎は箱根湯本に陣を構え、林忠崇は山中本営で箱根方面を睨みながら、同時に背後の三島方面からの沼津兵の進軍を警戒した。

山中新田は元和年間(江戸時代の初め)に成立した新田集落の一つで、三島宿と箱根宿の間の宿として茶店や旅籠が営まれた。※それまでは現在の元山中(関所跡の碑がある)が「山中」と呼ばれていた。

箱根旧街道 箱根旧街道の解説

箱根旧街道
箱根旧街道は慶長9年(1604)江戸幕府が整備した五街道の中で、江戸と京都を結ぶ一番の主要街道である東海道のうち、小田原宿と三島宿を結ぶ、標高845mの箱根峠を越える箱根八里(約32km)区間である。
旧街道には通行する人馬の保護のため松や杉並木が作られ、正確に道のりを示す一里塚が築かれた。またローム層上の滑りやすい道なので竹が敷かれたが、延宝8年(1680)頃には石畳の道に改修された。
平成6年度に三島市がこの腰巻地区約350m区間を復元整備した。発掘調査で石畳は付近で採掘したと思われる安山石を用いて幅2間(約3.6m)を基本とし基礎を造らずローム層上に敷き並べられ、道の両側の縁石は比較的大きめの石がほぼ直線状に配置されていたとみられる。

遊撃隊らもこの街道を経て出兵、そして5月26日の山崎の戦の追撃を受けることとなる。

富士山に臨む山中城 三島市街と駿河湾方面

▲西ノ丸付近は標高580mで、富士山、愛宕山、そして三島市街と駿河湾を見渡せる。
戊辰戦争から時代は遡って戦国時代の山中城は箱根山の地形を利用し、北条の出城の徳倉城・獅子浜城・泉城、そして豊臣軍の北条征伐に耐えた韮山城を俯瞰できる位置に築城した。

 

史蹟山中城
山中城は小田原に本城を置いた後北条氏により戦国時代末期の永禄年間(1560年代)小田原防備のために創築された。
天正17年(1589)10月に北條氏直により修築が行われ、豊臣秀吉の小田原征伐に備えて西の丸や岱崎出丸等の増築が始まった。
しかし翌年天正18年(1590)3月29日に増築が未完成のまま、豊臣軍4万の総攻撃を受けた。
羽柴秀次が中村一氏、田中吉政、堀尾吉直(吉晴、)山内一豊、一柳直末等を率いて包囲し、家康を小田原口の先鋒として元山中の間道より進軍させた。
必死の防戦も約17倍の人数には適わず、北條氏勝は相模玉縄城に逃れ、山中城はわずか半日で落城したと伝えられる。
この時の北条方の守将松田康長(まつだやすなが)・副将間宮康俊(まみややすとし)の、豊臣方の一柳直末等の武将の墓は今も三の丸跡の宗閑寺に苔むしている。

三島市が公園化を企画し、昭和48年から全面発掘に踏み切り山城の規模・遺構が明らかになった。特に掘や土塁の構築法、尾根を区切る曲輪(くるわ)の造成法、架橋や土橋の配置、曲輪相互間の連絡道等の自然の地形を巧みに取り入れた縄張りの妙味と、空堀(からぼり)・水掘(みずぼり)・用水池・井戸等、山城の宿命である飲料水の確保に意を注いだことや、石を使わない山城の最期の姿を留めている点等、学術的にも貴重な資料を提供している。

 

載せきれないのでまず山中城の特徴の畝掘(うねぼり)・障子掘(しょうじぼり)を中心に…

西櫓掘 西ノ丸畝掘から曲輪

▲西櫓掘(にしやぐらぼり)と、西ノ丸畝掘から曲輪の様子
西ノ丸の畝掘は五本の畝により区画され、畝の高さは堀底から約2m、更に西ノ丸の曲輪に入るには9m近くもよじ登らなければならない。
ローム層を台形に掘り残しほぼ9m間隔に8本の畝が堀の方向に直角に作られている。畝の傾斜度は50~60度と非常に急峻で平均した掘底の幅は2.4m、中央の長狭9.4m、頂部の幅は約0.6mで丸みを帯びている。
西ノ丸掘は「北条流掘障子」の変形でより複雑に谷に連なっている。
現在は遺構保護の為に芝や樹木を植林しているが、当時は滑りやすいローム層が露出しており、人が落ちれば脱出不可能であったと推測される。

西ノ丸畝掘 西ノ丸掘

後北條の城独自の特徴「障子掘」は、障子のように堀の中を区画して畝を掘り残されている。中央区画には水が湧き出て南北の堀へ排出され、水掘と用水池を兼ねた珍しい構造である。

元西櫓下の堀 三の丸掘 山中城跡案内板

▲元西櫓下の堀、三ノ丸掘
三ノ丸掘は、自然地形を加工して作る他の曲輪掘とは異なり自然の谷を利用した二重掘で、長さ約180m、最大幅約30m、深さ約8m。中央の畝を境に西側の堀は空堀として活用していた。

掛橋のある二の丸虎 箱井戸跡 田尻の池

▲左写真の二ノ丸(北条丸)虎口から降りた湿地帯に在った箱井戸と田尻の池
三ノ丸掘東側の堀は水路として箱井戸・田尻の池からの排水を処理した。高地の箱井戸から広い田尻の池(約148m²、馬用の飲み水として使われたようだ)へ水を落すことにより水の腐敗や鉄分による変色を防いだと思われ、用水地として工夫がなされている。
箱井戸・本丸の間の下った場所が現在の山中新田の地域。

山中の芝切地蔵尊 山中城跡縄張りと案内図

▲かつての旧箱根街道沿いに在る芝切地蔵(しばきりじぞう)
山中新田の旅籠に泊まった巡礼姿の旅人が急な腹痛をおこして死に際に、この旅人の故郷の常陸が見えるように芝塚を積んで地蔵尊として祭れば村人の健康を守りましょうと遺言を残したという。村人はその通りに地蔵尊を祭り毎年7月1日を縁日として供養した。
縁日に出された腹掛けや参拝者の接待用の「小麦まんじゅう」が美味しいと評判になり、沼津方面からも参拝者が集まり山中村が潤ったといわれる。
山中城跡の案内図は右側が北。

饅頭ではないが、現在は観光案内所売店の「寒ざらし団子」が名物になっている。
上新粉を冬場の寒気にさらして作ったことによるネーミングだ。
表面はシャクシャクと歯ごたえがあり、蓬の風味と合っている。じっくり温めたタレをかけた焼団子を寒空の下食べると殊更美味だった。

山中城跡公園(国指定史跡・日本100名城選定)
所在地:静岡県三島市山中新田、田方郡函南町字城山

日金山東光寺[1]戊辰戦役請西藩士戦死の地

日金山地蔵堂 広部正邦と秋山荘蔵の墓

東光寺地蔵堂と請西藩廣部与惣治正邦(新字体で広部)・秋山荘蔵の墓

慶応4年(1868)幕府は解体するが、徳川家再興を望む旧幕府親衛隊の遊撃隊脱走兵が、上総国望陀郡の請西藩(千葉県中部の木更津市)に赴き、藩主林昌之助(忠崇)は自ら脱藩して請西兵と共に出陣した。
上野の彰義隊と東西で呼応する目的で諸藩脱走兵を加えながら箱根方面を目指し、榎本武揚率いる旧幕府艦隊の協力を得て館山(千葉県南部)から真鶴港に渡った
しかし箱根関門攻めで和解した小田原藩が寝返り、5月26日山崎の戦いで総督府軍(新政府の軍)に後押しされた小田原藩の大軍が、圧倒的に数で劣る遊撃隊・諸藩脱走兵先鋒を破り、更に追撃戦となった。

本営で指揮をとっていた忠崇は再起を図るため深夜に箱根撤退を決議。本隊と関門まで辿り着いた兵達は鞍掛山から日金(ひがね)山を超え熱海へ到り網代から旧幕府艦隊に拠って27日夜に館山へ脱出した。

敗走兵回収や、三島方面から背後を突かれる恐れのある沼津藩兵の警戒のため各所に配されていた請西兵は、散り散りになった敗走兵と同じく追撃を受けることとなる。
小田原兵は東海道と温泉路(今の国道1号線)に分かれて徹底的な掃討体勢をとった。27日には芦ノ湖で更に兵を分け、一隊は山中三島方面に向かい、もう一隊は脱走兵本隊と同じルートで日金山に向かう。

十国峠を越えた捜索隊は、夜8時頃に峠を少し降りた所に在る日金地蔵堂(東光寺。巨大な地蔵仏が安置されている)に到着した。
潜伏者2名が居るとのことで地蔵堂を射撃するが無人であり、隣の坊に潜んでいるとみて熱海坊を三十数人で囲んで撃ちこんだ。
反撃が止んだ所で踏込むと、潜んでいた2名とも重傷で、一人は足首を斬られている状態であったため抵抗もなく斬られた。
もう一人は布団を被って竦んでおり、布団をはぎ取ると「待ってくれ、一言申したいことがある」と訴えたが藩兵数人で刺し殺したと、小田原兵が証言している。

討たれたのは請西藩士で一人は西森与助ともされるが、戦後、地蔵堂裏手に「廣遍正邦居士」「秋山宗義居士」と刻まれた篤志家建立の墓が残されており、廣部(広部)正邦と秋山荘蔵の2名ということになる。
この墓は平成20年に修復され、請西藩士廣部周助(※)の玄孫である廣部雅昭(薬学者、静県大学長、東大名誉教授。熱海市伊豆山在)氏による追善の卒塔婆と碑文が建つ。
※戊辰戦役に従軍し生き延びた廣部周助上根岸の豪家で忠旭の代から林家に仕え士分待遇を得、戦時・戦後ともに忠崇の為に奔走した。
周助の次男の廣部精(中国語教育者。陸軍省。大隈重信や渋沢栄一らと「孔子教会」を設立)が父の林家復興の志を継ぐ。明治26年に林忠弘が授爵となる。

廣部与惣治・秋山宗藏は浜寺の請西藩士供養碑にも箱根宿端で討たれたと思われる西森与助達と共に名を刻むまれている。

日金山東光寺地蔵堂 請西藩士終焉の地解説

日金山は海抜774m、山頂に火牟須比命(ほむすびのみこと)を祀る神社が有ったことや火山であるためか、古くは火が峯とも書かれる。中世から「死者の霊の集まる山」として地蔵信仰の本場として栄えた。

日金山最高峰の丸山の頂は樹木がなく平やかで、快晴時には北~東まで相模・武蔵・下総・上総・安房の5国、東南~南西まで遠江国と伊豆五島(伊豆諸島)、西~北西まで駿河・甲斐・信濃の4国、合わせて十国(十州)が見渡せるため十国峠(じっこくとうげ )・十州峯などと呼ばれる。
北に箱根峠、南に熱海峠。

ケーブルカーを登り十国峠から見た真鶴半島 熱海峠から見た風景
▲十国峠から請西の方向を望む。晴れた日にはもっとはっきり真鶴半島が見える。右は熱海峠で撮影
今でも房総の鋸南(勝山藩が在った)辺りから伊豆・箱根の山々が見えるが、十国峠からもコンデションが良ければ真鶴の更に向こうの上総まで十国の名前の由来通り見える(見えた)のだろうか?

所在地:静岡県熱海市伊豆山968
東光寺サイト:http://higanesan.com/