上総・安房の歴史」カテゴリーアーカイブ

上総・安房(千葉県の中~南部)地域の歴史

三条塚古墳

三条塚古墳三条塚古墳案内板

 三条塚古墳飯野神社の裏手に位置する前方後円墳で、墳丘長122m・後円部径57m・墳丘長122m・後円部径6.0m、前方部幅7.2mを測り、内裏塚古墳に次いで古墳群中第二位の大きさである。

 埴輪は出土せず六世紀末頃の築造と見られ、この時期に前方後円墳としては東日本最大の規模である。
 古墳の周囲には全長193mの盾形二重周溝がめぐり、外集溝は江戸時代に飯野陣屋の外濠に再利用されていたが、今も一部原型を留めている。
 後円部の東側は江戸時代末期に飯野藩の藩校(明新館)が建てられてコ字型に削られている。

三条塚古墳周溝三条塚古墳の案内板

 後円部の墳丘中腹に横穴式石室(長さ8.5m以上・幅1.5m前後)は平成元年に手前側部分の調査が行われ、人骨三体と副葬品の乳文鏡(にゅうもんきょう)・金銅製中空耳環(じかん)・馬具類(金銅製鞍金具・鞍・壺鐙金具。素環雲珠)・直刀(ちょくとう)・鉄釘・銀製算盤型空玉(うつろだま)・ガラス玉・土製漆塗小玉・須恵器(高杯蓋・高杯身・壺蓋)などが出土した。
 富津市指定史跡。

三条塚古墳の天井石 三条塚の天井石

▲現在一部露出している天井石

割見塚古墳

割見塚古墳

 割見塚(わりみづか)古墳は墳丘は七世前葉の構築と推定される一辺40m、高さ5m(3.5m)を測り、内周溝外辺63m・外溝外辺107.5mある大型二重周溝の内裏塚古墳群最大の方墳。

 砂岩切石積み複室構造の横穴式石室が在り、羨道(えんどう。墓室と外を結ぶ通路)・前室・後室・棺室に分かれ、全長は11.7m、石室手前側に八字形に構築された前庭部を含めた総全長は18.75mで、千葉県下最大の石室となっている。
 石室内はすでに盗掘されていたが、前庭部を中心に馬具(心葉系杏葉・方形鏡板・帯金具類)・鉄鏃(てつぞく)・弓飾鋲(ゆみかざりびょう)・金銅製弓弭(ゆみはず)・直刀・鎹(かすがい)・須恵器・土師器杯(はじきつき)などが出土している。

割見塚古墳の北割見塚の案内板

「みささぎ島」弟橘媛と「浮島」景行天皇

みささぎ島

▲みささぎ島
手前(写真の一番右)の島。傾城島とも。
日本武尊(やまとたけるのみこと)の東征時に海難に遭い、入水して鎮めた后弟橘媛(おとたちばなひめ)の亡骸が漂着したという。
ミサゴ島由来の操、天皇御陵の陵(みささぎ)、または身捧ぎから名付けられたか。

弟橘媛の伝説
 景行天皇(けいこうてんのう)40年7月16日、西国で熊襲(くまそ)討伐を成した第二皇子(古事記では第三皇子)、日本武尊に東国のまつろわぬもの(従わぬ者)・蝦夷の再遠征を命じた。
 10月2日に出発した日本武尊は伊勢神宮に立ち寄り倭媛命(やまとひめのみこと)から草薙の剣を授かり、相模(神奈川県)に至る。

 上総(千葉県)に渡航中、日本武尊が「こんな小さな海など跳んで渡れよう」と湾を軽視する発言をしたため海神に祟られ、后である弟橘媛が皇子の身代わりに自ら人身御供となり海に身を沈め、海神の怒りと嵐を鎮めた。
 この荒れた海は馳水の海(はしりみず。走水とも。現在の浦賀水道)と名付けられた。

 みささぎ島に遺体が流れ着いた言い伝えと同様、沿岸に弟橘媛の所持品が流れ着き、袖は「袖ヶ浦」、腰巻が飯野の地に流れ着き「富津(布流津)」の地名の由来の一つとなる。
 日本武尊が弟橘媛を偲んで「君去らず 袖しが浦に立つ波の その面影を見るぞ悲しき」と詠んだキミサラズ(君不去)が「木更津」「君津」となり、上総地区四市全て弟橘媛の伝説が語源に関わっている。
 また蝦夷の島津神・国津神を平らげた帰路、鳥居峠(長野県上田市と群馬県嬬恋村の境)から東国を望んで弟橘姫を思い出し「吾妻はや」(あずまはや。「我が妻よ、ああ」の意味)と三度嘆いたので、峠より東をアズマの国と呼ばれるようになったという。

 

勝山海岸の浮島

▲浮島
源頼朝上陸地から臨む右の大きな島が浮島。
周囲792m・高さ60m・面積6216坪の無人島。属島に大ボッケ島(穴のあいた島)、小ボッケ島があり、波上に浮かぶような様から浮島と名付けられたという。鵜来島と書かれることもあった。

浮島の伝説
 東国平定を成しとげた日本武尊が能褒野(三重県鈴鹿)で病没し、父の景行天皇は大いに嘆いた。
 景行天皇53年8月1日、天皇は小碓王(をうす。日本武尊)と同じ旅路の巡幸を決め、10月に上総国に入り、弟橘媛の供養も兼ねて上総から海路で淡水門(あわのみなと。安房)へ渡る。

 浮島が気に入った天皇はしばらく滞在したという。
 覚賀鳥(かくかのとり)の声が聞こえて姿を見ようと海に入った際、皇后の八坂入媛命(やさかのいりびめのみこと)が八尺(やさか)の白蛤(うむぎ。大きな白蛤)を得た。
 同行していた家来の磐鹿六鴈(いはかむつかり。磐鹿六雁)が蒲の葉をとって襷にかけ、この白蛤と、角で作った弓の先で釣り上げた堅魚(鰹)を膾(なます)にして天皇に差し上げたところ、たいそう喜ばれた。
 以来、磐鹿六鴈は膳大伴部(かしわでのおおともべ。宮中の料理番)役となり、後に料理の神様として祭られるようになった。

参考サイト
・鋸南町オフィシャルサイト http://www.town.kyonan.chiba.jp/

参考図書
・坂本太郎他『日本書紀(二)
・宇治谷孟『日本書紀(上)
・竹田恒泰『現代語古事記
・森浩一『記紀の考古学

弟橘媛は畳を敷いて言霊を発し祈りながら入水したといいます。かつて大国主命が天津神達への国譲りで身を引きお隠れになった様を思わせますね。

鋸南町竜島「頼朝上陸地」

頼朝上陸地

 平治の乱後に伊豆国(静岡県)の蛭ケ小島に遠流の身であった源頼朝は、治承4年(1180)8月17日34歳の時に平家打倒の兵を挙げ、8月23日相模国(神奈川県)石橋山の戦で大庭景親(おおばかげちか)軍と戦い、敗れた。

 8月28日に相模国土肥郷真名鶴崎(現真鶴岬)を小船で脱出、わずかな供を連れて安房国(千葉県の房総)へ渡航し翌29日に上陸した地は、安房郡鋸南町竜島(吾妻鏡に安房国平北郡猟島に着くとある。竜島は猟島とも呼ばれる)、源平成衰記と義経記が館山市洲崎(八幡社(洲崎明神)に参拝している等)が有力視されてきたが、文学博士大森金五郎氏の研究により現在の鋸南町竜島を上陸地点と認定し、千葉県指定史跡となった。

 頼朝上陸当時の安房の国情は、安西・神余・丸・東条・長狭の五氏が、ほぼ国を五分して領国支配をしていたが、長狭氏を除く四氏が頼朝を擁立した。
 同じく安房国に落ち延びた北条時政・三浦義澄らと合流し再起を図り、房総一の兵力を誇る上総介広常の居所へ向かうが、9月3日に長狭(鴨川市)で平家方の長狭六郎らの襲撃に遭う。

 ひとまず戻って源氏恩顧の豪族 安西景益(あんざいかげます)の館(南房総市池ノ内)に入り各地の豪族に使者を送り挙兵を促し、情勢を見極めた頼朝は、9月13日に300余騎を率いて再出発し上総に向かい、千葉介常胤に迎えられ北進していく。遅参した上総介広常や武蔵武士達を集結し10月6日に鎌倉へ到った。

源頼朝上陸地の碑頼朝上陸地案内板

▲源頼朝上陸地の碑

参考サイト
・鋸南町オフィシャルサイト http://www.town.kyonan.chiba.jp/
・鋸南町商工会 http://www.kyonan.gr.jp/

参考図書
・福田 豊彦, 服部 幸造 『源平闘諍録 下巻