そんなわけで美味しい鮎(和菓子)が食べたくなって、ぶらりと行った佐原。
残っていたファイルを見たら2006年4月24日でした。
▲寛政12年創業「正上」いかだ焼本舗
江戸時代からの醤油さん。戦後からは主に佃煮・漬物屋として営んでるそうです。
佐原のロケ写真コレクションを「さわらシネマチック博物館」として展示も。
町並み[1]の対岸です。かかる柳が美しい。
懐かしい赤い円柱型の郵便ポストだよー
(2013年1月14日up)
重要伝統的建造物群保存地区に選定された佐原は今でも昔ながらの商家が営まれ、小野川沿いや香取街道に江戸時代に栄えた水運の町並みを残している。
▲水郷佐原観光協会 http://www15.ocn.ne.jp/~skk/
▲元は船宿だった旅籠「木の下」
▲明治34年創業の雑貨屋「並木仲之助商店」
屋号そのままの店名なのが古きよき面影。
町の景観に合わせて造られただろう消火栓。いや、撮るよねこれ
厠ですよ厠。撮らねばならんですよね、これは
(2013年1月14日up)
日帰りにつき、この時は御祭神が移っている秋宮のみの参拝でした。
▲賣神祝ノ印が発見されたという千尋池。
▲巨大な注連縄の神楽殿
御柱をく為の一之宮御用縄が、茅の輪か、諏訪湖の主の龍神を模すものか蛇のように巻かれている。
▲重要文化財の幣拝殿
▲下社秋宮の御柱
下社の大祝は金刺氏。片倉小十郎景綱の白石片倉氏もこの金刺氏の出という家系図がありますね。
15年前くらいに古代史に没頭していて古の神々や氏族ゆかりの西国まで出てお社や古墳を巡ったものですが、残念ながら過去のフィルムはまとめてお焚き上げしてしまいました。
(古戦場や塚は私達にとっては史蹟でも世間では心霊スポットですからね…寺社でメモリーカードもお焚き上げをお願いできるんですよ!)
この記事の時も小さい携帯写メが多くてサルベージ断念。まさか老いてからこうして歴史サイトを開くことになるとは……
(2013年1月14日up)
神様につかう言葉ではないでしょうけども、建御名方神が好きです。
いずれこのサイトでも扱う予定の中臣鎌足ら藤原氏の氏神と対立した経緯はありますが、好きなものは仕方がない。
対立といえばミシャグチ様。好きです、はい。日本人なので八百万の神々をお慕い申し上げまする。
守矢資料館の奥に広がる守矢家の敷地内に緑に囲まれたミシャグチ神社が鎮座しておりました。
神長官守矢史料館 http://www.city.chino.lg.jp/ctg/07190000/07190000.html
さてこのハイセンスな資料館は藤森照信氏の建築とのことで、若い学生さんがよく訪れるそうです。
私も建築デザインを見に来たのかと思われていましたが、寺と神社と地侍や一国の城主の関係についてこそこそ話しているうちにこちらの目的が分かって、現代の守矢家についてお話を色々と聞かせてもらえました。
それに前調べしたネットソースでここから見える裏山のことが腑に落ちなかったのですが、該当情報が間違ってることが確認できてすっきり。実際に地元を知る人に聞くのが一番。
入館スタンプの日付は平成十七年ですね。
▲諏訪の祭祀の発祥地とされる諏訪大社上社前宮の御柱
▲守屋山麓に鎮座する諏訪大社上社本宮の御柱。
上社の大祝は諏訪氏。
土屋つながりで諏訪四郎勝頼周辺も好き、そしてこのサイトでまず高遠藩にも触れるので、雪が解けたらまた信州に訪れたいです。
(2013年1月14日up)
御嶽(うたき)は琉球王国が制定した聖地の総称。拝所。
▲園比屋武御嶽石門(そのひゃんうたきいしもん)
世界遺産。国王が出御の時、道中の安泰をこの石門前で祈願した。
▲首里森御嶽(すいむいうたき)
琉球開闢神話によると、この御嶽は神によって造られた聖地であるとされる。
玉陵(たまうどぅん)は琉球国王達の陵墓。
▲玉陵前門
玉陵の全体の造りは当時の板葺屋根を宮殿を表した石造建造物になっている。
▲玉陵 中室
洗骨前の遺骸を安置する部屋。
▲玉陵 東室
創建当初は洗骨後の王と王妃が葬られた。
▲玉陵 西室
墓前の庭の玉陵碑に記されている限られた家族が葬られた。
(※首里城管理センター案内より説明文を引用)
沖縄でよく見られる家のような亀甲墓の王族版といったところかそれとも大陸の影響を受けてこちらが先か。
(2013年1月14日up)