▲『大坂冬陣之図』に大坂城から猫間川・沼地・平野川を挟んだ東に忠朝の陣「本多出雲守 三百人」と記されている。『大坂冬御陣戦図』もほぼ同位置に本多出雲の名(一心寺南会所案内パネルより)
■本多忠朝の大坂出陣
慶長19年(1614)ついに豊臣家と徳川家の因縁の対決、大坂の役が開戦となる。
誘因は7月に京都方広寺梵鐘の銘が家康の怒りを買った等諸説ある。
出陣命令を受けた大多喜藩主本多忠朝は大多喜城を発った。
当時の江戸への往来であった睦沢(むつざわ。千葉県長生郡)方面へ向かう筋の途中、道を鼬が横切ったことを不吉な兆しと看做して馬を引き返し、長南(ちょうなん。睦沢の西)境の小土呂坂(おどろざか。大多喜町小土呂)の藪を切り開いて進んだという駒返坂の民話が伝わっている。
これは忠朝が藪から道へ東から西へ真横に通り抜けた鼬を見て江戸への短縮できる道筋を思いつき、西側に新道(本来の行程より3分の2省く)を切開いたのであろう。今の県道150号線に「駒返」の地名が残っている。
10月23日(24日とも)に忠朝は将軍徳川秀忠の江戸出発の二番備の先登となり江戸を出発。
11月には駿河に在り忠朝は東海道の藤枝宿(ふじえだしゅく。静岡県藤枝市)に滞陣。
鞠子宿(まりこ。駿河区丸子)の老中土井利勝から大坂攻めについての書状を受け取り、16日付けで秋田実季(さねすえ。常陸宍戸藩主)ら3人に写しを送っている。
秀忠は関ヶ原遅参の二の舞を踏まぬよう強行軍で11月10日に伏見着き二条城へ登城し、大坂に至り秀忠は大御所家康の陣所茶臼山の前へ陣した。忠朝は上方衆の後備えに布陣する。
大阪城に篭城する豊臣方約10万の兵を、約徳川方の20万の兵が包囲する形となる。
▲冬の陣本多忠朝陣所跡と伝わる白山神社と物見伝承のある公孫樹(イチョウ)
中濱村白山権現では貞観7年(865)以降端午の日に馬場にて甲冑を着て流鏑馬式を行われることから、射馬に縁故があるとして忠朝は神社前の馬場を陣所とし、この大銀杏に登り豊臣方の動きを偵察したと伝わっている。概ね中濱村辺の布陣図の範囲にあたる。
菊理媛神を奉り明治5年までは白山権現と称し、古来平野川堤防上の境内に榎松などが共に茂っていたが、境内は織田信長の石山本願寺攻や大坂冬の陣で戦火に見舞われ、今はこの銀杏のみが市内の名木(大阪府指定天然記念物「白山神社のいちょう」)として残存する。幹周り約5m、高さ約23m。
■今福・鴫野合戦
大坂城の北東10余町、大和川北側の今福(城東区今福)の堤防は今福堤(その西は蒲生村)、今福から南に大和川を隔て2丁余りの鴫野(しぎの。大阪市城東区)の堤防は鴫野堤と呼ばれた。
両地は水田が広がり兵や馬を進めみくく、大坂勢(豊臣方)は今福堤を三箇所堀切り、今福は四重・鴫野は三重に防衛柵を構えて護りを固めていた。
▲鴫野古戦場碑(大阪市顕彰史蹟)
11月23日に上杉景勝(かげかつ。上の布陣図で米沢中納言)5千の兵が鴫野口に到着し、掘尾山城守忠晴(ほりおただはる。松江藩主)800の兵の南に陣を置く。
24日に佐竹右京大夫義宣(出羽国久保田藩主)千五百の兵が清水村から鯰江村に移動し今福口から東の村に陣した。
本多忠朝は、兄忠政の木津への陣替で、それまで忠政が滞在していた陣に真田信吉ら7名の武将と共に入るよう命じられる。
25日家康は天満川に流れる大和川を堰き止め城への攻め口を得ようと、上杉・佐竹らに侵攻命令を出す。
更に後詰めが必要とみた徳川秀忠は、本多忠朝・掘尾忠晴・松平丹波守康長(常陸笠間藩主)・丹羽五郎左衛門長重(にわながしげ。常陸古渡藩主)・成田左馬助氏宗(うじむね。下野烏山藩主)の兵らを大和川の上に控えさせる。
▲現在の新鴫野橋から見た大阪城と鴫野の伝上杉景勝本陣跡
新鴫野橋は江戸時代に大坂城から鴫野方面へかかる鴫野橋のあった地に新設された。
現在の鴫野古戦場跡傍の八剱神社は上杉景勝の陣地跡とされている。
26日早朝、鴫野の上杉は予め偵察を出して鼓に銃隊伏せておき、大坂勢に向け撃ちかかり開戦。
今福の佐竹も今福堤に進み、第1柵を守る矢野和泉守正倫(大野治長の将)・第2柵を守る飯田左馬介家貞を撃破。3柵を守る大谷大学吉胤も片原町の柵まで退いた。
しかし京口から豊臣家の重臣木村長門守重成(しげなり)が加勢し一進一退となる。
正午、大坂城の豊臣秀頼は激戦の今福へ出陣を願う後藤基次(もとつぐ、又兵衛)を、鴫野には速水甲斐守守久ら諸将を援軍に出した。
天満から援軍に出た渡辺内蔵介糺は途中で本多忠朝・浅野采女正の陣の前に出て激しい銃撃を受け引き揚げるが、再び鴫野へ進軍する。
敵の増援を予期していた上杉軍は第一の柵に鉄砲隊を並べて撃ちかけて防いだ。そこへ今福鼓の後藤軍が側面から上杉軍を射撃して鴫野の大坂勢の進軍を援け激戦となる。
今福の佐竹軍は片原町から堤上に引いて第二の柵内に入るも、次第に大坂勢に押されて柵を捨て退いた。
木村重成は大阪勢に各柵を厳重に守らせ、後藤基次と共に大坂城へと戻った。
上杉景勝は乱戦の末に大坂勢を撤退させ、佐竹軍へ援兵を出し大和川を渡らせた。
東西両軍疲弊し大坂勢は退却、東軍も追撃は行わなかった。
▲蒲生若宮八幡大神宮の大坂冬の陣佐竹義宣本陣跡由緒之碑
その夜、疲弊した佐竹軍に代えて忠朝が今福に配備される。
忠朝には浅野采女正長重(浅野長政の三男)、仙石兵部大輔忠政(仙石秀久の3男)、秋田城介実季(宍戸藩主)、新庄越前守直定(麻生藩主)、真田河内守信吉(真田信之の長男)とその弟の内記信政等を援助につけた。
鴫野の守りは掘尾忠晴に代わらせようとしたが上杉軍は交代を拒んだ。
■忠朝は名誉挽回を決意する
膠着状態の末12月20日に和睦が成立し、豊臣方は大坂城の外堀を埋める条件を飲んだ。
さて、開戦前に忠朝が家康の機嫌を損ねため「本多家代々の武名を汚したからには、今度は討死してでも武名の汚辱を洗おうと心に固く決めた」と『本多系譜』をはじめ様々な家伝や軍記に描かれている。※
開戦前の失態を合戦後になって悔やむのは不自然であり、陣地や他武将との混同や後の忠朝の顛末に合わせた創作色が強いが──逸話が正しいのであれば、忠朝は関ヶ原では勇敢な初陣を飾り、ロドリゴの一件で慎重さと他者の気配り、そして新しいことを知識のみでなく実践できる武将であることが窺える。その性格が、長年戦場で家康を大いに援けた父の忠勝の剛直さに比べ頼りなく思ったのか。
尚、冬の陣で家康に叱咤されたのは忠朝だけでなく、秀忠をはじめ諸武将に伝承が残っている。それが最大の強敵に臨む将達への家康流の活の入れ方だったのかもしれない。
※『駿府記』では開戦前の黄昏に天満表(兄の忠政が陣している)に陣した本多出雲守「忠將(将)」が徳川本陣に参じて、川や藪が深い難所のため陣地替えを申し出て、大御所家康の不興を買ってしまう。
玉造口とする史料もあるが、玉造口と天満口両方の沼地の足場作りの様子のある『當代記』では布陣時の大御所の指示に応答したのは兄の忠政であり、忠朝ではない。
軍記物や講談の題材にも仙波舟の様子、築造や堀の件で異議を唱えたりと様々。
家康に京口の水を調べるよう命じられた忠朝は水の勢いがとても強いと報告するも、井伊直考に調べさせると水は浅くて渡り易い状態であると判明し、家康は「出雲(忠朝)は父忠勝より劣っている。川の水のことは女子供でも分かるのに、どうして出雲守が働かないでいられようか。出雲守を行かせたのは心あってのことと思わなかったのか」と機嫌を損ねた等。
戦の他にも『関根織部物語』等で忠朝が間に合わせの蝋燭を献じてしまう逸話もあるが、根古屋城下を継いでいわゆる職人町の一角がある大多喜から年々家康に献じていた経緯を考えると信憑性は薄い。
ともあれ、戦が始まってみれば忠朝は渡辺軍を一度撤退に追いやり、配備の面でも家康から信頼されていたことは確かであろう。
そして早くも翌年には忠朝が武将として立て直した決意が奮起することとなる……
▲後世かつて大和川の流れていた土地を開墾した新喜多新田会所跡
忠朝は大和川沿いにも布陣している。
大和川は宝永元年(1704)の付け替え工事で柏原あたりから真っ直ぐ西に流れ込むようになった。案内板地図は明治18~19年頃の地図に新喜多新田(しぎたしんでん)の場所を書き加えたもの
●本多忠朝[1]本多忠勝の次男・大多喜藩主として
●本多忠朝[2]新スペイン漂着船とドン・ロドリゴ
○本多忠朝[3]大坂冬の陣出陣
●本多忠朝[4]大坂夏の陣天王寺の戦い
●本多忠朝[5]大阪墓所「一心寺」
●本多忠朝[6]大多喜墓所「良玄寺」
▼参考図書
・『東成郡誌』
他、大坂役関連古地図・合戦図、記事中に明記の史料や忠朝[1]参考図書等に同じ
▼関連サイト
・城東区:http://www.city.osaka.lg.jp/joto/
・大阪城天守閣:http://www.osakacastle.net/