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史跡探訪や展示会観覧の覚書

本多忠朝[3]-大坂冬の陣出陣

慶長十九大坂冬陣之図 大坂冬御陣戦図

▲『大坂冬陣之図』に大坂城から猫間川・沼地・平野川を挟んだ東に忠朝の陣「本多出雲守 三百人」と記されている。『大坂冬御陣戦図』もほぼ同位置に本多出雲の名(一心寺南会所案内パネルより)

■本多忠朝の大坂出陣
慶長19年(1614)ついに豊臣家と徳川家の因縁の対決、大坂の役が開戦となる。
誘因は7月に京都方広寺梵鐘の銘が家康の怒りを買った等諸説ある。

出陣命令を受けた大多喜藩主本多忠朝は大多喜城を発った。
当時の江戸への往来であった睦沢(むつざわ。千葉県長生郡)方面へ向かう筋の途中、道を鼬が横切ったことを不吉な兆しと看做して馬を引き返し、長南(ちょうなん。睦沢の西)境の小土呂坂(おどろざか。大多喜町小土呂)の藪を切り開いて進んだという駒返坂の民話が伝わっている。
これは忠朝が藪から道へ東から西へ真横に通り抜けた鼬を見て江戸への短縮できる道筋を思いつき、西側に新道(本来の行程より3分の2省く)を切開いたのであろう。今の県道150号線に「駒返」の地名が残っている。

10月23日(24日とも)に忠朝は将軍徳川秀忠の江戸出発の二番備の先登となり江戸を出発。
11月には駿河に在り忠朝は東海道の藤枝宿(ふじえだしゅく。静岡県藤枝市)に滞陣。
鞠子宿(まりこ。駿河区丸子)の老中土井利勝から大坂攻めについての書状を受け取り、16日付けで秋田実季(さねすえ。常陸宍戸藩主)ら3人に写しを送っている。
秀忠は関ヶ原遅参の二の舞を踏まぬよう強行軍で11月10日に伏見着き二条城へ登城し、大坂に至り秀忠は大御所家康の陣所茶臼山の前へ陣した。忠朝は上方衆の後備えに布陣する。
大阪城に篭城する豊臣方約10万の兵を、約徳川方の20万の兵が包囲する形となる。

白山神社鳥居 白山神社の銀杏

▲冬の陣本多忠朝陣所跡と伝わる白山神社と物見伝承のある公孫樹(イチョウ)
中濱村白山権現では貞観7年(865)以降端午の日に馬場にて甲冑を着て流鏑馬式を行われることから、射馬に縁故があるとして忠朝は神社前の馬場を陣所とし、この大銀杏に登り豊臣方の動きを偵察したと伝わっている。概ね中濱村辺の布陣図の範囲にあたる。
菊理媛神を奉り明治5年までは白山権現と称し、古来平野川堤防上の境内に榎松などが共に茂っていたが、境内は織田信長の石山本願寺攻や大坂冬の陣で戦火に見舞われ、今はこの銀杏のみが市内の名木(大阪府指定天然記念物「白山神社のいちょう」)として残存する。幹周り約5m、高さ約23m。

 

■今福・鴫野合戦
大坂城の北東10余町、大和川北側の今福(城東区今福)の堤防は今福堤(その西は蒲生村)、今福から南に大和川を隔て2丁余りの鴫野(しぎの。大阪市城東区)の堤防は鴫野堤と呼ばれた。
両地は水田が広がり兵や馬を進めみくく、大坂勢(豊臣方)は今福堤を三箇所堀切り、今福は四重・鴫野は三重に防衛柵を構えて護りを固めていた。

鴫野今福古戦場碑 鴫野今福古戦場案内板

鴫野古戦場碑(大阪市顕彰史蹟)

11月23日に上杉景勝(かげかつ。上の布陣図で米沢中納言)5千の兵が鴫野口に到着し、掘尾山城守忠晴(ほりおただはる。松江藩主)800の兵の南に陣を置く。
24日に佐竹右京大夫義宣(出羽国久保田藩主)千五百の兵が清水村から鯰江村に移動し今福口から東の村に陣した。
本多忠朝は、兄忠政の木津への陣替で、それまで忠政が滞在していた陣に真田信吉ら7名の武将と共に入るよう命じられる。

25日家康は天満川に流れる大和川を堰き止め城への攻め口を得ようと、上杉・佐竹らに侵攻命令を出す。
更に後詰めが必要とみた徳川秀忠は、本多忠朝・掘尾忠晴・松平丹波守康長(常陸笠間藩主)・丹羽五郎左衛門長重(にわながしげ。常陸古渡藩主)・成田左馬助氏宗(うじむね。下野烏山藩主)の兵らを大和川の上に控えさせる。

新鴫野橋から臨む大阪城天守閣 上杉景勝陣八劔神社

▲現在の新鴫野橋から見た大阪城と鴫野の伝上杉景勝本陣跡
新鴫野橋は江戸時代に大坂城から鴫野方面へかかる鴫野橋のあった地に新設された。
現在の鴫野古戦場跡傍の八剱神社は上杉景勝の陣地跡とされている。

26日早朝、鴫野の上杉は予め偵察を出して鼓に銃隊伏せておき、大坂勢に向け撃ちかかり開戦。
今福の佐竹も今福堤に進み、第1柵を守る矢野和泉守正倫(大野治長の将)・第2柵を守る飯田左馬介家貞を撃破。3柵を守る大谷大学吉胤も片原町の柵まで退いた。
しかし京口から豊臣家の重臣木村長門守重成(しげなり)が加勢し一進一退となる。
正午、大坂城の豊臣秀頼は激戦の今福へ出陣を願う後藤基次(もとつぐ、又兵衛)を、鴫野には速水甲斐守守久ら諸将を援軍に出した。

天満から援軍に出た渡辺内蔵介糺は途中で本多忠朝・浅野采女正の陣の前に出て激しい銃撃を受け引き揚げるが、再び鴫野へ進軍する。
敵の増援を予期していた上杉軍は第一の柵に鉄砲隊を並べて撃ちかけて防いだ。そこへ今福鼓の後藤軍が側面から上杉軍を射撃して鴫野の大坂勢の進軍を援け激戦となる。
今福の佐竹軍は片原町から堤上に引いて第二の柵内に入るも、次第に大坂勢に押されて柵を捨て退いた。
木村重成は大阪勢に各柵を厳重に守らせ、後藤基次と共に大坂城へと戻った。

上杉景勝は乱戦の末に大坂勢を撤退させ、佐竹軍へ援兵を出し大和川を渡らせた。
東西両軍疲弊し大坂勢は退却、東軍も追撃は行わなかった。

若宮八幡大神宮 若宮八幡大神宮佐竹義宣陣跡碑

▲蒲生若宮八幡大神宮の大坂冬の陣佐竹義宣本陣跡由緒之碑

その夜、疲弊した佐竹軍に代えて忠朝が今福に配備される。
忠朝には浅野采女正長重(浅野長政の三男)、仙石兵部大輔忠政(仙石秀久の3男)、秋田城介実季(宍戸藩主)、新庄越前守直定(麻生藩主)、真田河内守信吉(真田信之の長男)とその弟の内記信政等を援助につけた。
鴫野の守りは掘尾忠晴に代わらせようとしたが上杉軍は交代を拒んだ。

 

■忠朝は名誉挽回を決意する
膠着状態の末12月20日に和睦が成立し、豊臣方は大坂城の外堀を埋める条件を飲んだ。
さて、開戦前に忠朝が家康の機嫌を損ねため「本多家代々の武名を汚したからには、今度は討死してでも武名の汚辱を洗おうと心に固く決めた」と『本多系譜』をはじめ様々な家伝や軍記に描かれている。

開戦前の失態を合戦後になって悔やむのは不自然であり、陣地や他武将との混同や後の忠朝の顛末に合わせた創作色が強いが──逸話が正しいのであれば、忠朝は関ヶ原では勇敢な初陣を飾り、ロドリゴの一件で慎重さと他者の気配り、そして新しいことを知識のみでなく実践できる武将であることが窺える。その性格が、長年戦場で家康を大いに援けた父の忠勝の剛直さに比べ頼りなく思ったのか。
尚、冬の陣で家康に叱咤されたのは忠朝だけでなく、秀忠をはじめ諸武将に伝承が残っている。それが最大の強敵に臨む将達への家康流の活の入れ方だったのかもしれない。

※『駿府記』では開戦前の黄昏に天満表(兄の忠政が陣している)に陣した本多出雲守「忠將(将)」が徳川本陣に参じて、川や藪が深い難所のため陣地替えを申し出て、大御所家康の不興を買ってしまう。
玉造口とする史料もあるが、玉造口と天満口両方の沼地の足場作りの様子のある『當代記』では布陣時の大御所の指示に応答したのは兄の忠政であり、忠朝ではない。

軍記物や講談の題材にも仙波舟の様子、築造や堀の件で異議を唱えたりと様々。
家康に京口の水を調べるよう命じられた忠朝は水の勢いがとても強いと報告するも、井伊直考に調べさせると水は浅くて渡り易い状態であると判明し、家康は「出雲(忠朝)は父忠勝より劣っている。川の水のことは女子供でも分かるのに、どうして出雲守が働かないでいられようか。出雲守を行かせたのは心あってのことと思わなかったのか」と機嫌を損ねた等。
戦の他にも『関根織部物語』等で忠朝が間に合わせの蝋燭を献じてしまう逸話もあるが、根古屋城下を継いでいわゆる職人町の一角がある大多喜から年々家康に献じていた経緯を考えると信憑性は薄い。

ともあれ、戦が始まってみれば忠朝は渡辺軍を一度撤退に追いやり、配備の面でも家康から信頼されていたことは確かであろう。
そして早くも翌年には忠朝が武将として立て直した決意が奮起することとなる……

新喜多新田会所 新喜田新田会所跡大和川地図

▲後世かつて大和川の流れていた土地を開墾した新喜多新田会所跡
忠朝は大和川沿いにも布陣している。
大和川は宝永元年(1704)の付け替え工事で柏原あたりから真っ直ぐ西に流れ込むようになった。案内板地図は明治18~19年頃の地図に新喜多新田(しぎたしんでん)の場所を書き加えたもの

本多忠朝[1]本多忠勝の次男・大多喜藩主として
本多忠朝[2]新スペイン漂着船とドン・ロドリゴ
○本多忠朝[3]大坂冬の陣出陣
本多忠朝[4]大坂夏の陣天王寺の戦い
本多忠朝[5]大阪墓所「一心寺」
本多忠朝[6]大多喜墓所「良玄寺」

▼参考図書
・『東成郡誌
他、大坂役関連古地図・合戦図、記事中に明記の史料や忠朝[1]参考図書等に同じ
▼関連サイト
・城東区:http://www.city.osaka.lg.jp/joto/
・大阪城天守閣:http://www.osakacastle.net/

請西藩林家祖先7代目林吉忠と大坂夏の陣

一心寺の林籐四郎墓 林籐四郎吉忠墓の碑文

▲大阪一心寺の林籐四郎墓
玄明院殿光山舊露大居士」「元和元乙卯年」「五月七日
俗名林籐四郎吉忠 元和元年五月七日戰死
 今歳文化十一甲戌年相當二百年之遠忌因而為追福新造立石碑者也
 文化十一年甲戌年五月

文化11年(1814)5月に三百遠忌追福のため林家14代林忠英が建立。
忠英は2年後の文化13年8月にも大樹寺に4代忠満・5代忠時の供養墓を建立している。

 

林吉忠(はやしよしただ)藤四郎。初めは吉正(よしまさ)。妻は河村善七郎重信の娘。

天正15年(1587)三州で家康の家臣上林越前政重(竹庵。又市、良清)の長男として生まれる。林家6代目忠政の弟忠定の妻(上林政重の娘)の弟にあたる。
慶長16年(1611)に忠政の長子藤蔵が病没したため、林家の養子となった。
吉忠は林家7代目当主となり徳川秀忠に仕え扶持米200俵を賜わる。

元和元年(1615)4月9日、300俵加増し番組に入る。
4月下旬に徳川勢が大坂へ進軍を開始。
5月5日、徳川家康・秀忠が伏見を出発、一番組の水野勝成らが国分に至る。
吉忠は大番頭高木主水正次(まさつぐ。河内丹南藩初代藩主。家紋は高木鷹)隊に属して出陣する。
6日に家康は岡山口の先鋒を七番手前田利常、天王寺口の先鋒を五番手本多忠朝に命じる。この日、水野勝成ら大和口の諸将の道明寺の戦い。

7日午前2時、秀忠は千塚を出発。大番六隊の左は阿部正次・内藤大和守・松平定綱ら、右に高木正次・青山忠俊・水野正忠。
10時頃に平野の家康と来会した秀忠は岡山への出向を命じられる。

岡山こと御勝山古墳 岡山から見た天王寺方面

岡山(御勝山)と岡山から見た天王寺方面

岡山方面の布陣は秀忠の前備えに藤堂高虎、井伊直孝、前田利常らが平野道を挟み中間に細川忠興。
秀忠の麾下は、前に高木正次、阿部正次らが大番組を率いた。
二番として書院番組は書院番頭青山忠俊、次に水野忠清、内藤清次、松平定綱。
左に旗本組頭酒井忠世、土井利勝の両隊が並び、その後ろに本多正信、高力忠房、鳥居成次、日根野吉明、前田利考、立花宗茂ら諸隊。前田隊の後ろに黒田長政、加藤嘉明。
秀忠は岡山の南方に位置する平野道(ひらのみち。大坂道。中高野街道)の西に在り、安藤重信隊が後拒となった。
※平野道…大阪天王寺から奈良街道(明治以降の名称で現国道25号線相当)と分岐し高野山へ向かう道。

正午に天王寺口で豊臣方先鋒が逸り発砲し、開戦。
秀忠には家康に指示を待つよう軍令があったが、天王寺口で徳川方の本多・小笠原等の諸隊が破れて西軍が突入すると、先手の松平利常らが進軍し大野治長の銃隊(治長本隊より東に布陣)を攻撃した。
阿部野側に陣していた水野隊は、前田利常隊へ続き青山隊と先駆けを争いながら書院番組を率いて北上する。
第二の左備えの藤堂・井伊隊、旗本組も平野道沿いの桑津村から進軍し先頭は天王寺の側面を狙うが、毘沙門地辺りで毛利勝永隊に阻止され、岡山口の大野治房の兵らが呼応して秀忠麾下を狙い護衛隊も防戦となる。

高木隊も大番組を率いて天王寺表で戦功をあげた。
茶臼山の南に布陣する福島正鎮(まさしげ)・福島正之(まさもり)を松平忠直(越前北ノ庄藩主。結城秀康の長男)の兵が撃破。
高木勢も真田信繁(幸村)らと戦い、忠直隊が信繁を討ち取る。

豊臣勢は10町ほど退き玉造稲荷社(真田山の北)前で踏留まり、これを追う高木隊は目前の沼を避けて迂回し、青山隊は沼を直進し突撃した。

茶臼山・天王寺口の豊臣勢が敗れると徳川本陣に決死の突撃をかけるため南下する明石守重(あかしもりしげ。掃部。関ヶ原では宇喜多勢の先鋒であったが大坂の役では豊臣方)と高木勢が生玉宮の坂で交戦し、林吉忠が討死
吉忠、この時29歳。

生国魂神社鳥居 生国魂神社拝殿

生玉北門坂 真言坂 奥が生国玉神社表

▲生国魂神社への坂。千日前通りからの参道「生玉北門坂」と七坂の「真言坂」と神社表への坂
※林吉忠決戦地の生玉(いくたま)坂については、大坂城の大手の生玉門(生国魂神社は豊臣秀吉が大坂城の築城に際に現在地に移す前に難波宮や石山本願寺のそばにあった名残)付近や玉造宮等の可能性もあるが、戦況や地形から7日当時の生玉宮在所を採った

林家領地の殿辺田村(とのべた。義父忠政の隠居地ともされる)の従者が吉忠の首を持ち帰り、龍渓寺に葬る。玄明院殿光山旧露大居士。
『寛政重修諸家譜』では天王寺で火葬し遺骨を龍渓寺に葬った(法名久露)とする。

吉忠討死後、水野勝成らが明石掃部を敗走させ、玉造稲荷社の戦も徳川方が制する。
やがて周知の通り徳川方が取り囲み大坂城は陥落。
林家では吉忠の討死の直後、出陣中に腹の中に居た八代目となる林忠勝が出生した。

大阪一心寺の林籐四郎墓 林籐四郎墓の林家家紋

▲吉忠の墓正面と石扉の林家家紋「丸の内三頭左巴下に一文字」

* * *

合戦記や家伝は正確な史実とは言えませんが、林吉忠の戦いは各家に伝わるそれらを中心に推測しました。
また、一心寺には林家16代林忠交の墓、吉忠と同じく大坂の陣で戦死した本多忠朝の墓や徳川家康の臣松平助十郎正勝の墓等もあります。

法蔵寺[2]松平家と有親の墓

松平一族と家臣の墓 亀姫と松平泰親の墓

法蔵寺松平一族と合戦討死者の墓。右写真の右から

亀姫(加納御前。家康の長女)の墓
永禄3年生。母は築山御前。天正4年7月奥平信昌に嫁ぐ。寛永2年(1625)5月27日に夫の領地の美濃加納(岐阜県岐阜市)で逝去。誠徳院。加納の光國寺に墓。

松平泰親(松平家2代)の墓
良祥院の法号と逝去を永享二年とするのは高月院や『新田松平家譜』等と同じ。
寺伝では泰親は法蔵寺の僧房を建て、子(教然良頓)を教空上人の弟子としたとする。

松平広忠の墓と東照宮 松平十郎三郎康孝と右馬佐と左馬佐の墓

朱いお社は東照宮。出陣前の家康を模した軍装像、源義家奉納の甲冑、松平親氏が彫った八幡宮木像を奉納したと伝わる。左写真の大きな五輪塔が松平広忠の墓。

松平広忠(松平家8代。家康の父)の墓
寺伝では分骨を瓶内に納めて葬ったという。慈光院の法号は系譜等に見られる。天文十八年巳酉三月の逝去と「應政道幹大居士」は大樹寺等と同じ。

右写真の右から

松平重郎三郎康孝(十郎三郎。6代信忠の三男。鵜殿城、水城城主)の墓
法号は松聲院とするが、没した居住地の浅井郷(西尾市)にある源空院では寶林(琳)院とする。

松平右馬佐(家俊。3代信光の子。造岡城主)の墓
太岳院。

松平左馬助(算次。3代信光の子。家俊の兄。舟山城主)の墓
休徴院。

於比佐の方・於久の方と松平忠政・碓井姫・矢田姫の墓 中川忠保の墓

左写真右から

於比佐の方(お久の方。広忠の先妻、忠政の母)の墓
大給の松平乗正の娘。法名妙琳。家康生母の於大の方の輿入れ後は忠政と共に桑谷村へ移る。広忠寺に墓。寺伝では広忠の死後に教翁上人の弟子となっている。

松平忠政(家康の異母兄とされる)の墓
幼名は勘六。於大の方の輿入れ後は岩津に移され、その後母の於久の方と共に桑谷村に住む。広忠寺に墓。薇足院。※忠政については諸説あるがここでは寺伝に拠る

薄井姫(碓井姫。7代清康の娘。長沢松平政忠室→酒井忠次室)の墓
先求院(京都府)に墓。光樹院。初めに嫁いだ政忠は桶狭間で戦死。

矢田姫(家康の異母妹、長沢松平康忠室)の墓
母は平原助之丞正次の娘。『徳川実紀』に法蔵寺の記載がある。長康院。

井田野・安祥・三方ヶ原・長篠等の戦忠死者の墳墓
右写真の中川忠保等、忠臣達の墳墓が松平家の墓地を囲むように並んでいる。

 

有親の五輪塔
松平親氏の父・有親(ありちか。長阿弥/ちょうあみ)の墓は、没した地とされる大浜の称名寺(碧南市)が有名だが、ここ法蔵寺にも墓塔が存在する(薄れた案内用の墓標にも有親公と書かれている)

得川有親の墓 有親の墓標

寺伝では親氏が有親の二十七回忌に、その遺骨をここに葬り、位牌を講堂に納めたという。
法号は「晋修院殿 増光長阿大居士」と刻まれており、逝去は慶安元年四月廿日とする。
※徳川氏略系の法名は「松樹院長阿泰雲」

晋修院の刻銘 法蔵寺墓地

請西藩正月の献兎のルーツである有親。墓には来訪時は新しい花が供えられていた。
傍に並ぶ古い墓は誰のものか判断できない。法蔵寺には他に松樹院(泰親夫人)、玄能尼(清康夫人)、市場姫(矢田姫の姉)の墓もあるとされる。
 

旅の僧の有親・親氏の出自については新田源氏の流れの世羅田(せらだ )・得川(とくがわ)氏、加茂氏、松平太郎左衛門の在原家をそのまま汲む等の異説があり、それぞれ系図に疑問が持たれ、はっきりしない。

世羅田系の由来は源義重(よししげ。新田氏の祖)の子の世良田義季(よしすえ。得川を名乗ったともされる)の出とする。
加茂系の由来は、3代信光が岩津妙心寺を建立した際に仏像の腹に込めた記録に、信光の長男の親則(長沢松平家の祖)と、信光の弟の益親の名に「加茂朝臣」とあり、妙心寺にも信光が旗に「三河源氏加茂朝臣」と書いた伝承が伝わっている。
これは岩津に移る前の根拠地松平郷の加茂郡(かものこおり)の地名から名乗り、既存の加茂氏の出の意味ではないと推測されている。
7代清康(家康の祖父)が「世羅田次郎三郎」と称し、松平家の由緒として新田源氏系の系譜が作られ、徳川家康の死後に3代信光の頃は加茂朝臣を名乗っていた(真偽は不明)ことが分かり、初代親氏の実父有親を「加茂右京亮有親」とする系図や賀茂神社の氏子(葵紋の由来)という説が作られたのだろうか。

法蔵寺[1]家康修学の地・近藤勇の首塚伝承

法蔵寺山門 法蔵寺講寺本堂

二村山法蔵寺(にそんざん ほうぞうじ)山門と本堂
浄土宗西山深草派の三河三壇林のひとつ。本尊は阿弥陀如来。竹千代(徳川家康の幼名)がこの寺で手習いや漢籍(かんせき)を学んだとされ、家康の所持品や松平家ゆかりの宝物が多く残されている。境内に東照宮や松平家の墓がある。

大宝元年(701)伝承では行脚中の法相宗の僧行基はこの地に輝く杉の大木を見つける。すると突然現れた童子に「ここは釈迦如来降臨度生の霊山で、この杉は日本武尊が諸神を勧請した際に一夜で生まれた霊木です。この木で観音像をつくりなさい」と啓示を授かり、行基は童子(実は救世菩薩の化身)と共に長さ三尺三寸の正観音(聖観世音)像を彫刻し、山上に六角堂を建てて(後に大風で倒壊し移転)安置したという。
寺伝では天武天皇の后の出産の際に行基に祈願させた所、王子を出産したため、天武天皇の勅願所となり出生寺(しゅっしょうじ)の号を賜ったとされる。
後に空海により真言宗になったとも伝わる。

至徳2年(1375)9月、説法に赴いていた教空龍芸(りゅうげい)に松平家初代親氏が深く帰依して講堂を建てて浄土宗に改宗し法蔵寺と名を変えた。(または京都円福寺から教譽上人が来て浄土壇林を開いたともされる)
松平2代泰親は、親氏の菩提として僧房を建て、子(後の教然良頓/きょうぜんりょうとん)を教空上人の弟子とした。3代信光も本堂を再建。
宝徳3年(1451)3月18日(4月とも)に後花園天皇の勅額を賜い、大神光二村山と称す。
大永元年(1521)松平6代信忠の寄進により本堂を修造。

天文18年(1549)正月に8歳の竹千代(家康)が岡崎城から入学し、住職の教翁上人に手習読書を学んだという。3月(6日に父の広忠が急死)まで滞在。
※竹千代は天文16年8月に人質として駿府へ送られる際に織田方に奪われ熱田に居り、天文18年11月に岡崎に10日程帰ることが出来たが、寺伝の時期とは異なる。
修学については竹千代が駿府宮ヶ崎に居た頃に手習いを受けた僧が、後に法蔵寺の住職になった経緯で生まれた伝承とみる異見もある。法蔵寺は他にも源義家や西行法師等、伝説が多い。

永禄3年(1560)家康により守護不入の特権を与えられ7月9日に松平氏の以前からの82石余の判物を寄付される(明治元年11月30日に朝廷へ奉還)
江戸時代には、東海道に接していることから参詣者も多く、幕府の庇護も厚かったため栄えた。

法蔵寺の御草紙掛松 法蔵寺の賀勝水

御草紙掛松(おんそうしかけのまつ)
竹千代の手植えで、手習いの草紙を掛けて乾かしたという。年が経ち繁殖した松は門前に移されて、成長した家康が参詣する際にこの松の下で休憩し茶を飲んだことから「御茶屋の松」「御腰掛の松」とも呼ばれた。
周囲の石柵は文化12年(1815)旗本木造清左衛門俊往(としゆき)の寄進。平成17年8月に虫害で枯れてしまい、翌年4代目の松が植樹された。

賀勝水
寺伝では日本武尊(やまとたけるのみこと)がこの地で天照大神ら諸神を勧請して東夷征伐を祈願し、その效験(霊験の徴)を見せ給えと念じて巌を突くと冷泉が湧き出したので勝利の祥瑞として日本武尊は「賀勝ゝ」と三度唱えたと伝わる。
竹千代が手習いに使う硯の水として使ったともされる。

法蔵寺の鐘楼 法蔵寺のイヌマキ

▲鐘楼と伝行基手植えのイヌマキ(岡崎市指定天然記念物)

 

近藤勇の首塚 近藤勇の首塚案内板

近藤勇の首塚
近藤勇の首を埋葬した場所とされ、首塚の台石には土方歳三らの名が刻まれている。

新撰組隊長の近藤勇は慶応4年(1868)4月25日、35歳で板橋刑場の馬捨場(東京都北区滝野川)で斬首された。首は塩漬にして京都に送られ、埋められた遺体は近親者が密かに人夫に掘り起こさせて、東京都三鷹の竜源寺に埋葬した。
京都の三条河原で晒された後の近藤の首の行方の諸説ある一つがこの三河法蔵寺の首塚である。
首が晒されて三晩目に、近藤が生前敬慕していた新京極裏寺町の称空義天大和尚に埋葬を依頼しようと同志が持出したが、和尚は法蔵寺の三十九代貫主として転任していたので三河国まで運んだという。
時が経ち昭和33年、戊辰の当時に世間を憚って石碑を土で覆い隠し無縁仏のように装っていた埋葬の由来が総本山の記録等から明らかとなり、石碑を覆っていた土砂を取り除き、新たに胸像を建てて供養した旨が案内板に書かれている。

所在地:愛知県岡崎市本宿町寺山1

松平郷[3]高月院-松平氏祖先の廟所

高月院山門 高月院

本松山高月院(こうげついん)
浄土宗鎮西派白旗流。境内の「松平氏遺跡」は国指定文化財で、収蔵展示室には市指定文化財の高月院文書、弁財天の図、野風呂等が展示されている。

貞治6年(1367)7月に松平郷主在原信重が亡父信盛のために、足助次郎重宗の次男、見誉寛立上人(重政)を開山として「寂静寺」を号して創建、
永和3年(1377)信重の婿養子の松平親氏(ちかうじ)が寛立に帰依して本尊の阿弥陀如来像(安阿弥定朝の作という)や山門堂塔全て寄進し「高月院」と改め、菩提寺としたとされる。

天文年間に松平4代親忠(ちかただ)の5男(4子とも)超誉存牛上人(ちょうよぞんぎゅうしょうにん。京都の知恩院25代住職をつとめた)が隠居の形で7代住職となり、3男の長親(松平5代)が土地を寄付して廟を改装した。

慶長7年(1602)寺領100石を松平9代徳川家康より下賜され、以後幕末まで厚遇された。
寛永3年(1626)12月廟所・本堂修復料として1500両下賜され石垣等が新規積立られる。
寛永18年(1641)に江戸幕府3代将軍徳川家光により山門や本堂が建てられたという。

松平氏墓所 松平氏墓廟

松平氏祖先の墓所
歴代住職の墓地の一段高い石垣上にあり、墓域は50㎡。室町時末期の形式を備える。
墓塔は花崗岩製の宝篋印塔で、いずれも塔身や屋蓋の突起等が欠損している。

文政元年(1818)に11代将軍徳川家斉(いえなり)が修繕。
明治21年(1888)に元大和郡山藩主柳沢保申の500余円の寄進で石門と石塀を築造、木柵の玉垣を花崗岩の塀に改築した。
明治23年(1890)3月にも保申は墓地永久保存のための土地を寄付した。

松平太郎左衛門尉源親氏公墓(中央の墓塔、松平氏の始祖)
芳樹院殿俊山徳翁大禅定門 應永元申戌年四月二十四日逝去 年六十三

従五位下三河目代三河守松平太郎左衛門尉源泰親(右、松平2代泰親/やすちか)
良祥院殿秀岸祐金大禅定門 永享二庚戌年九月二十日逝去 年七十五

蔵人源親忠公室(向かって左、松平5代長親の母)
閑照院殿皎月珠光大禅尼 出雲守長親公母堂 永正三丙寅年八月二十二日逝去
……松平親忠の子が住職になった関係で、母の親忠夫人を祖先の陵墓に葬ったと思われる。

松平氏墓所の門 松平太郎左衛門尚栄の墓所

▲現在扉は新しく付け替えられ、柳沢保申寄進の葵紋の石扉は脇に置かれている。
松平氏の墓の下段には歴代住職の墓地と、松平太郎左衛門尚栄・重和二代と尚栄夫人等一族の墓地がある。
松平太郎左衛門9代尚栄(なおよし。松平太郎左衛門家中興の祖)
  観誉晴暗 承応3年(1654)2月24日没 84歳
松平太郎左衛門10代重和(しげふさ)
  善誉祐源 寛文4年(1664)正月15日没 58歳

所在地:愛知県豊田市松平町寒ヶ入44